頂門の一針
日米は選挙を延期せよ
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平井 修一
米議会下院は9月29日、金融危機対策でブッシュ政権が創設を求めていた不良資産の買い取り制度の法案を否決した。
ウォールストリート紙は「衝撃的な敗北、株式市場は気絶」とこう報じた。
<歴史的な緊急援助法案、僅差で下院が拒否。工業株指数は幅広い株式市場気絶の中、780ポイント下落迷走する金融システムを救う法案は下院で衝撃的な敗北をした。
国内外で信頼の「強い信号を送る」ブッシュからの市場への呼びかけを一蹴した。ダウ工業株指数は、過去最悪の780ポイント下げ、S&P 500指数は8.7%下落し た。>9月29日
ワシントンポスト紙は「大恐慌以来の最大の政府介入を拒絶」と報じている。
<下院が緊急援助法案を僅差で拒否財務長官は「あまりにも重要であり、見送ることはできない」と努力を
続けると誓う
下院は今日、大恐慌以来の金融市場への最大の政府介入を拒絶した。財務省に米国の財政危機の中心にある不良資産を最高7000億ドル購入する力を与えることを拒否したのだ。>9月29日
「ウォール街は死んだ」「投資家はどうしたらいいのか」といった記事もあり、法案成立を楽観視していただけに関係者は大きなショックを受けたろう。身内の共和党からの反対票も予想以上に多く、ブッシュ政権にとって大きなダメージだ。
<下院指導部は法案を見直して30日以降の再審議に持ち込む考えだが、国民負担増への反発が強く、見通しは極めて不透明になっている。>アサヒコム9月30日
<米金融安定化法案否決で世界の株価急落、ダウ過去最大の下げ
[ワシントン/ニューヨーク 29日 ロイター]
下院本会議は29日、金融安定化法案を反対228票・賛成205票で否決した。特に共和党議員が11月4日に迫った大統領選を前に巨額の公的資金の投入に難色を示した。
スタンダード・ライフの上席株式トレーダー、スティーブン・バーティ氏は「解決策にたどり着けなかったとは信じ難い。法案が成立しない場合に極めて悲惨な状態になることは予想されていた」と述べた。
投資家は、安全な資金の逃避先とみなされている資産に殺到した。
国債や金の価格が急伸する一方、原油価格は下落。金融危機が経済活動を抑制して世界的に需要が減少するとの見方から、原油先物は1バレル=99ドルを割り込んだ。> 9月30日9時16分配信 ロイター
日米は選挙を延期せよ
米国と世界は未曾有の危機にある。「党派を越えて難局に当たろう」と米国の共和党と民主党は大統領候補を含めて基本的に合意しているようだが、11月の大統領本選挙は延期したほうがいいだろう。
というのも、米国は政権が代わると、「政治任用」(politicalappointee)という制度のために、役所のキーマンが総入れ替えになるのである。小生はそれでひどい目にあったことを記憶している。共和党に代わったら、米国大使館のそれまでの約束ががらっと変わったのである。
ウィキで調べたら「政治任用」とはこういうことだ。
「大統領の交代・前政権党の下野に伴い、新大統領に指名された各省の長官以下約3000名が行政府に送り込まれる。そのうち長官(閣僚)・次官・次官補など特に重要な人事は上院の承認が必要となる。すべての承認が終わるまで数ヶ月かかる」
今は金融危機の真っ最中である。このまま大統領選挙をやって、現場の幹部の人事に数ヶ月もかかったら、かなりまずいだろう。大統領選挙は、今回の危機をある程度脱出してからやったほうがいいのではないか。
日本の総選挙も同様に延期すべきだろう。GDPの1位と2位が選挙にうつつを抜かしている場合ではないのだから。
余震でかなりやばい状況で、しかも米国から緊急地震速報が発信されている。そんな危急存亡の折に総選挙というのは「バカ」としか言いようがない。「党派を越えて難局に当たろう」というのが良識、常識ではないか。
中華人民共和国の成立
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渡部亮次郎
1949(昭和24)年10月1日、毛沢東主席、北京天安門広場で、中華人民共和国と中央人民政府の成立を宣言。翌2日、ソ連が中国政府を承認(岩波書店『近代日本総合年表』)。
それまで中国を支配していたのは蒋介石。1928年、政府主席となる(南京国民政府)。基本政策は反共、対日、対英米善隣外交だった。
1945年、抗日戦争(日中戦争)に勝利。実際は日本がアメリカなど連合国軍に無条件降伏したため中国に対しても敗戦したことになった。
蒋介石と毛沢東は1946年、国共内戦に突入する。蒋介石は反共産主義を掲げるアメリカから全面的な軍事支援を受ける。
毛沢東軍は日本軍が捨てて行った近代的な武器を入手、俄然、優勢になったと後に毛沢東が述懐している。
蒋介石は1948年、中華民国の初代総統に就任(ただし反発を受け翌年辞任)、1949年、国共内戦で毛の「八路軍」に遂に敗北。首都南京を脱出し、重慶などを経て12月に事実上台北へ逃れた。
一方の毛沢東は、日本軍の撤退後は、ソ連からの軍事援助を受けつつ、アメリカ政府からの軍事支援を削減された蒋介石の国民党軍を駆逐し、徐州を中心とする大規模な准海戦役に勝利、1949年1月には北平(北京)
に平和入城。
同年4月23日国民政府の根拠地首都・南京を制圧。10月1日に天安門で中華人民共和国の建国を宣言したのであった。この頃、日本では映画「青い山脈」が上映されていたらしいが、秋田の片田舎に着いたのは2年後1951年。
テレビのない時代、中学生の私は中華人民共和国の成立など知る由もなかった。まして将来、記者となって国交正常化に行く総理大臣に同行するなど夢にも思わなかった。
建国直後には、引き続き軍事援助を続けていたソビエト連邦を訪れ、ヨシフ・スターリンと会見。その後に勃発した朝鮮戦争では、ソビエトとともに北朝鮮を支持して中国人民志願軍を派遣。この戦争で、毛は長男・毛岸英をアメリカ空軍の爆撃で失っている。
1956年の「百花斉放百家争鳴」運動で、多くの知識人から硬直した政策を批判されたため、これを弾圧すべく1957年6月に反右派闘争を開始し、少なくとも全国で50万人以上を失脚させ投獄した。
さらに「イギリスを15年以内に追い越す」ことを目標とし、1958年に大躍進政策を発動。大量の鉄増産のため、農村での人海戦術に頼る「土法高炉」と呼ばれる原始的な製造法による小規模分散生産を採用。
量のみを重視し質は全く度外視したため、使い物にならない鉄くずが大量に生産された。農村では「人民公社」が組織されたが、かえって農民の生産意欲を奪い、結果的に無謀な生産目標に対し実際よりも水増しさ
れた報告書が中央に回るだけの結果になった。
こういったことから大躍進は大失敗し、発動されてから数年で2000万人から5000万人以上の餓死者を出した。
このことで「世界3大大量殺戮者」として、ドイツのヒトラーやソ連のスターリンと共に揶揄されることとなった。この失敗以降毛沢東の政策は次第に現実離れしていき、批判を受け付けない独裁的な傾向が強くなっていく。
しかもスターリン批判や対米政策をめぐり、ソ連のニキータ・フルシチョフ首相とも不仲となった。1950年代中旬からは中ソ対立が深刻化した。
1960年には中華人民共和国に派遣されていたソ連の技術者全員が引揚げたほか、キューバ危機におけるソビエト政府の対応を公式に非難するなど、かつて蜜月であった中ソ関係は一気に冷え込むこととなった。
こうした大躍進の失敗は主席である毛沢東の権威を傷つけ、1959年に国家主席の地位を劉少奇に譲ることとなり、さらには1962年1月に開催された七千人大会において大躍進政策に対する自己批判をせざるを得ない状
況にまで追い込まれた。
この大会を機に政治の実権は劉少奇-!)(トウ)小平ラインに移ることとなり、毛沢東の実権は大きく低下した。そこで大衆に対する毛沢東への神格化は着実に進められ、毛沢東はひそかに奪権の機会をうかがっていた。
1966年5月北京大学に反革命批判の壁新聞が貼り出され、事実上文化大革命が始まった。毛沢東は過激派青年たちの暴力行為を「造反有理(謀反には理由がある)」として積極的に支持。
自ら天安門広場に赴き、百万名の紅衛兵を煽動し「四旧打破」のスローガンを打ちたて、運動は全国の学生ら、青年層に拡大した。
この頃、個人崇拝の対象に祭り上げられた毛は「偉大的導師、偉大的領袖、偉大的統帥、偉大的舵手、万歳、万歳、万万歳」と称えられていた。
文化大革命では、紅衛兵による大量の殺戮が行われ、その範囲は劉少奇(1968年に失脚)ら中央指導部にまでおよび、教師ら「知識人」や、中国国民党と少しでも関わりのあったものを徹底的に迫害、文化財を破壊する等の極端な「左」傾偏向主義運動に発展し、その犠牲者の合計数は数百万数千万とも言われている。
この流れの中、毛沢東の奪権目標であった劉少奇・!)(トウ)小平らの「実権派」は次々と打倒されたが、紅衛兵組織は互いに抗争を始め、毛沢東ですら統制不可能な状況に陥った。
これを受け1968年毛沢東は学生たちの農村への下放を指示した。1971年の林彪事件以後、人材難から!)(トウ)小平らかつて失脚した者を政権内に呼び戻しポストを与えた。
ニクソン米大統領と毛沢東毛沢東が世界に注目された最後の事件は1972年2月18日、北京における毛沢東=ニクソン会談である。
この日、すでに椅子から立つのにも苦労するほど健康状態が悪化していたにも拘らず、毛沢東はニクソンと握手し、同盟各国の頭越しに首脳会談による関係改善を成し遂げた。
これに先立つニクソンの訪中予告は全世界の驚愕を呼び起こし、金ドル交換停止とともにニクソン・ショックとも呼ばれる。ただし、米中が国交を樹立するのは毛沢東の死後、日本より7年も遅い1979年になってからである。
その後、1972年アメリカの同盟国である日本の田中角栄首相もニクソンの後を追うように訪中して首脳会談を行い、国交を樹立(「正常化」)する。
毛沢東が田中と面会したのはわずかな時間であったが、毛沢東は単に訪中しただけでなく、一気に国交を結ぶまでに進めた田中の決断力を「ニクソン以上のもの」と評価していた、といわれる。
なお中華人民共和国も中華民国も二重承認を認めないため、日本はこれまで国交を結んでいた中華民国との国交を断絶した。
ニクソンとの会見後に毛沢東が筋萎縮性側索硬化症に罹患していることが発見された。医師らが懸命の治療を行ったが、長年の喫煙による慢性的な気管支炎等が毛の体力を奪っていった。
その後も医師らによる懸命な治療は続けられたものの、1976年9月9日0時10分、北京の自宅で側近と主治医に見守られる中、毛沢東は82歳で死去した。
毛沢東の死の直後に腹心の張春橋、江青、姚文元、王洪文の四人組は逮捕・投獄され、文化大革命は事実上終結した。遺体は現在、北京市内の天安門広場にある毛主席紀念堂内に安置され、永久保存、一般公開され
ている。
その後!)(トウ)小平が党と軍を掌握。華国鋒は失脚して実権を失い毛沢東の言葉が絶対化された時代は終わった。
毛沢東の存命中は、国歌義勇軍進行曲の歌詞が毛沢東の偉大さを讃えるものに改変された時期もあったが、死後間もなくもともとの歌詞に回復され、国歌での毛沢東への言及はなくなった。一般に、直接「文革」を
経験していない若い世代はそれほど警戒的ではないとされる。
それにしても共産党幹部による汚職事件の多いこと、資本主義国に優るとは、中国はもはや共産主義国とは言えなくなったのでは無いか。出典:『ウィキペディア』 2008・09・30
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「中山発言」は本当に失言か?
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毛馬 一三
麻生太郎首相は、29日臨時国会の所信表明演説の中で、就任5日目で辞任した中山成彬国土交通相の一連の発言を取り上げ、「閣僚としてははなはだ不適切。国民各位、関係している方々に心からお詫びを申し上げる」
と異例の陳謝を行った。
中山氏は成田空港の反対派住民を「ゴネ得」と批判。また、教育行政の正常化を手がけた元文部科学相の立場で「大分県教育委員会の体たらくなんて日教組(が原因)だ。日教組の子供なんて成績が悪くても先生になる。だから大分県の学力は低い」と発言した。
これを重大失言だとマスコミや野党が槍玉に上げ、中山氏は辞任に追い込まれた。中山氏は「(自分の発言で)国会に審議が滞ることには耐えられないという思いから、潔く身を引く決意をした」と記者会見で心境を語っている。
確かに中山氏の一連の発言は、国務現職大臣としての見解表明としては必ずしも適切だとは思えないという意見があることは事実だ。
だがほんとうに同氏の発言は「失言」なのだろうか。むしろ「失言」と決め付けるのは的外れで、声なき声の「代弁である」と評価同調する人たちが多数潜在しているのも紛れも無い事実である。
「頂門の一針」の常連寄稿者・阿比留瑠比氏が29日号の同欄に下記のような記述掲載されている。
<中山前国土交通相の一連の発言が波紋を広げています。私も、野党やマスコミに揚げ足をとられたり、追及されてレッテルを貼られたりすると分かっているようなことを、何も注目を集める公式の場で言うことはないと思いますし、この人は以前から言葉が軽いところがあるので、その意味では不適切だったと思っています。
ただ、中山氏の発言の中で、日教組に関する指摘には、強い共感を覚えます。「日教組は日本の教育の『がん』だ」という発言は、まさに事実そのものであると思っています>。
この阿比留氏が中山氏に寄せる共感に対し、これに共鳴する声が大阪の知人の間から筆者の下に寄せられている。加えて中山氏の「日教組の解体」の発言こそ、日頃から抱いている「日教組に対する不合理な思い」をよくぞ代弁してくれたという、謝意の意が目立つ。
中山氏は、地元宮崎市での自民党宮崎県連の会合で「日教組は過激な性教育を行い、国旗・国歌も教えず、道徳教育にも反対している。民主党の最大の支持母体である日教組を解体する。ぶっ壊す」と述べ、引き続き日教組と全面対決していく考えを強調している。
「頂門の一針29日号・反響欄に(なみお)さんは下記のように記述されている。
<そもそも教職員が自ら労働者として成り下がるようなこうした組織がある限り、日本の教育は立ち直れません。かって教職は聖職なりと言われていた時代にはこんなモラル崩壊や先生の不祥事などは考えられなか
ったものです。(中略)
戦前、戦中を通じての比較対照をもつ人間としては万死に値する無念さを感じざるを得ません。将来の健全な子どもたちを育成し、日本をもう一度世界に冠たる民族として認知させるためにも声を大にして「日教組は解体せよ!」と云いたいものです>。
前述のように、麻生首相が敢えて所信表明演説の冒頭で、中山氏の一連の発言に陳謝したが、これはあくまで国会審議や総選挙への影響を最小限に抑える必要からの判断と思われる。
だとすれば、そうした次元とは離れて、この中山氏の発言をきっかけに日教組の実態を改めて真剣に見直す必要があるのではないか。大阪府の橋下知事も中山氏にエールを送っている。
とりわけ週5日制の「ゆとり教育」の実施を文部科学省に迫り、小中学生の学習意欲と学力の低下要因をつくり上げる肩棒を担いだ日教組が、日常的には労働組合を隠れ蓑に地位保全のみに執着し、日本の教育を枉げ
ていると指摘される実態を検証する好機となるだろう。
中山氏が一国会議員の立場で「日教組解体」叫んでも、これほど問題にはなっていない。閣僚としての発言だったことが、「日教組」のあり方の再考に火をつけたものだと指摘する関係者は多い。中山氏の発言が本当に「失言」だったかどうか、明らかになる筈だ。
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日教組と組織率学力は無関係
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平井 修一
中山成彬・前国土交通相の「日教組をぶっ壊す」はまことに正しい宣言だが、「日教組が強いところは学力が低い」とも発言した。データがあるそうだが、ぜひとも公表してほしいものである。
日教組の組織率については、
<都道府県で組織率に格差があり、山梨県、静岡県、愛知県、新潟県、福井県、三重県、兵庫県、大分県などで比較的高い組織率を保つ一方、和歌山県、愛媛県など、ほぼゼロのところ、栃木県、京都府のように、100人前後を組織するにとどまるところもある>(ウィキ)そうだ。
小学6年生と中学3年生の全員を対象として、算数(数学)と国語で行う今年の全国学力テストの結果からワースト10県を拾ってみると以下のようになった。ちなみにこのテストは2004年当時の中山成彬文部科学相が学力低下の対策として導入を打ち出したものである。
●小学校
47位:沖縄、46位:北海道、45位:山口、44位:長崎、43位:三重、42位:滋賀、42位:大阪、40位:岡山、39位:福岡、38位:島根
●中学校
47位:沖縄、46位:高知、45位:大阪、44位:北海道、43位:岩手、42位:鹿児島、41位:大阪、41位:岡山、40位:和歌山、39位:佐賀
小中学校の両方でワースト入りしているのは沖縄、大阪、北海道、岡山である。
日教組の組織率が高いとされる県の順位はどうかといえば、山梨県(小31位、中19位)、静岡県(小18位、中6位)、愛知県(小28位、中10位)、新潟県(小20位、中26位)、福井県(小2位、中1位)、三重県(小43位、中33位)、兵庫県(小17位、中21位)、大分県(小37位、中37位)。
三重と「教員偽装」の大分は芳しくはないが、福井はトップクラスだし、それ以外は中位だから、「日教組が強いところは学力が低い」は、学力テストの結果からはまったく推論できない。
中山先生には釈迦に説法だろうが、喧嘩をする時にはそれなりの理論武装が必要である。相手の弱み、鎧のスキマを探して、そこにナイフを入れて、それでもひるまなければ、ぐりっと回すのである。即死する。
小泉純ちゃんは、民主党の永田議員が追及した偽メール事件(2006年2月)のとき、永田議員をさんざいたぶり「ガセネタ」と断定してぐりっと回した。永田は即死、野田国対委員長は重傷、前原代表は重態となって一
線を退いた。理論武装した言葉は敵を殺す力がある。
スピーチライターのご用命はぜひ平井商店へ。
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「教育勅語」に文法の誤り?
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池田 一貴
教育勅語(正確には「教育に関する勅語」)の文語体の文章は、じつに格調の高い大文章である。これを音読すると、身の引き締まる思いがする。今では、そらで唱えることもできるようになった。
かく言う私は、いわゆる団塊の世代の生まれで、元極左である。大学卒業後、長い時間をかけて左翼思想の誤りから抜け出し、やっと日本の正しい道に立ち返ることができた(と思っている)。
さて、教育勅語だが、その文章の中には文法的な誤りがあるのではないかとの声を聞くことがある。
教育勅語中、もっとも枢要な文言「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」の部分である。この部分は文法的に誤りだという。文語体の文法においては、本来「一旦緩急あらば」とするのが正しい、というのだ。
大宅壮一も戦前、中学生のときにこのことを教師に指摘して叱られたという話が残っている。
たしかに「もしも国家社会に危急の事態が発生したならば」という仮定条件を意味するのであれば、未然形の「あらば」が正しい。古典的な文語では、已然形の「あれば」は通常【~なので】という確定条件を意味することが多いからである。
例えば、伊勢物語「京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず」(京の都では見られない鳥なので、誰もその鳥を知らない)のように、已然形は【~なので】という確定条件を表す。だから、【~ならば】という仮定条件を示すためには未然形にすべきだ、という意見は正しいようにも見える。
しかし、已然形の「あれば」の「ば」には、もう一つの用法がある。それは【~するといつも、~するときは必ず】という恒常条件を意味する場合である。
例えば、「瓜食めば子ども思ほゆ」(万葉集)や、「鳴く蝉の声をし聞けば都し思ほゆ」(万葉集)などがそうである。
前者は「瓜を食べたので」ではなく「瓜を食べるといつも子供のことが思われる」という意味であり、後者は「蝉の声を聞いたので」ではなく「鳴く蝉の声を聞くと決まって都が思い出される」という意味である。
仮定条件ではないから「瓜食まば」とも「鳴く蝉の声をし聞かば」ともされていない。
こういう例もある。竹取物語「翁、心地あしく苦しき時も、この子を見れば苦しきこともやみぬ」(翁は気分が悪くつらい時も、この子を見るといつも、つらさが収まってしまう)。徒然草「疑ひながらも念仏すれば往生す」(疑いながらでも念仏を唱えれば必ず往生する)。
この恒常条件【~するといつも、~すれば必ず】を意味する「活用語の已然形+ば」は、後世、徐々に仮定条件【~ならば】と同じように使われるようになった。中世以降のことである。
さらに近世の室町・江戸時代からは、未然形による仮定表現が減ってきて、この「已然形+ば」で仮定条件【~ならば】を意味することが多くなった。それが現代語の仮定表現につながっているわけである。
ただし、教育勅語のこの部分を現代語表現とみなす必要はない。古典的な文語表現として読めば、「一旦緩急あれば」は恒常条件【~するといつも】を意味していることがわかるだろう。
こうして、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」は「国家社会に危急の事態が生じた時はいつも正義心と勇気をもって公に奉仕し」という意味に解することができる。
要するに、教育勅語の文言に文法的な誤りはないのである。むしろ仮定条件文とするより恒常条件文としたほうが、教育勅語の趣旨にふさわしいはずだ。だから、そうなっている。
当代一流の知識人であった起草者・井上毅(こわし)と、その井上との間で二十数回も草稿の修正をやりとりした漢学(儒学)の大家で明治天皇の侍講だった元田永孚(ながざね)の二人が、そんな基礎的なことも知らなかったとは、とても思えない。
そこで、調べてみた。
実際に修正の朱筆が入った教育勅語草稿を写真版で見ると、井上の第十回草案に「アラハ」とあったのを、元田が「ラ→レ」に訂正している。
訂正箇所は多数にのぼるので、「ラ」を「レ」に直した部分は一瞥しただけでは見落としがちだが、「緩急事あらば」をわざわざ「緩急事あれば」に直したことが確認できる(事はのちに省かれた)。つまり、元田は意識的に、仮定条件から恒常条件へと表現を訂正したのである。
それ以前の草案を見ると、じつは井上自身も「緩急事あれば」としていた。それをなぜか第十回草案では「緩急事あらば」と書いたので、元田が再度、井上の前案に戻したものである。
わずか、カナ一字でも意味が変わる。二人は神経を張りつめて、何度も何度も語句の表現を差し替えた。そこには暗黙のうちに思想表現と言語表現に関する蘊蓄を、全人格を傾けて戦わせる二人の碩学の密かな火花とドラマがあったはずだ。井上は病気をおして草案執筆に心血を注いだといわれる。
後輩の井上毅に草案執筆の主導権を譲っていた元田は、それでも勅語が完成した時には、非常に喜んだそうである。元田永孚は教育勅語渙発の翌年に死去した。
このように、文字どおり一字一句をゆるがせにせず練り上げられたのが教育勅語の文章だった。この大文章の格調の高さは、こうした多くの苦心と推敲に裏づけられている。暗唱するに足る名文である。
参考までに、以下に全文を掲げておく。本文わずか315文字。(原文はカタカナで、しかも濁音表示がないが、読みやすいようにひらがなにして濁音を付け、さらに句読点まで追加した。原文と読み方は Wikipediaなどで確認していただきたい)
教育に関する勅語
朕惟ふに、我が皇祖皇宗、国を肇むること宏遠に、徳を樹つること深厚なり。我が臣民、克く忠に克く孝に億兆心を一にして、世々厥の美を済せるは、此れ我が国体の精華にして、教育の淵源亦実に此に存す。
爾臣民、父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、恭倹己れを持し、博愛衆に及ぼし、学を修め、業を習ひ、以て智能を啓発し、徳器を成就し、進んで公益を広め、世務を開き、常に国憲を重んじ、国法に遵ひ、一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壤無窮の皇運を扶翼すべし。是の如きは、独り朕が忠良の臣民たるのみならず、又以て爾祖先の遺風を顕彰するに足らん。
斯の道は実に我が皇祖皇宗の遺訓にして、子孫臣民の倶に遵守すべき所。
之を古今に通じて謬らず、之を中外に施して悖らず。朕、爾臣民と倶に拳々服膺して、咸其徳を一にせんことを庶幾ふ。
明治二十三年十月三十日
御名御璽
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話 の 福 袋
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◎「わが闘争」注釈本、是か非か 著作権切れ控え独で論争
■時期尚早?/ネオナチ恣意的解釈の恐れ
【ベルリン=黒沢潤】ナチス・ドイツの独裁者、ヒトラーが著した「わが闘争」の出版が禁じられているドイツで、同書の注釈本に限って発行を認めるよう求める声が歴史家らの間で強まっている。
「わが闘争」は、ヒトラーが1933年に政権を取ると、ドイツで一躍、ベストセラーとなった。終戦後、日本をはじめ、世界中で翻訳が出回ったが、ドイツでは、ナチスの宣伝になるとして、出版が禁じられた。
ただ、教育・研究目的なら例外扱いとされ、注釈本発行の余地はあった。
だが、発行には著作権が最大の障害となっていた。
著作権は現在、大戦後の連合軍の指示に基づいて、ヒトラーが住所登録をしたバイエルン州が持ち、ヒトラーの死去から70年後にあたる2015年に切れることになっている。
最近、注釈本発行の要求が急速に高まってきたのは、著作権の期限切れに合わせて、ネオナチが自分たちに都合のいい解釈をした注釈本を出す懸念があるためだ。また、厳正な注釈本を出そうとした場合、その作業に3年以上かかる。
バイエルン州は慎重な姿勢を崩していないが、独ユダヤ人中央評議会のシュテファン・クラマー事務局長(40)は「歴史的、科学的に厳格な注釈本なら、出版に賛成だ」と、注釈作業に加わる意向も表明している。
ドイツでは、厳正な注釈本を出版したとしても、ネオナチの新たな“バイブル”になりかねないと懸念する声がある。
だが、ナチス文書館のハンスクリスティアン・トイブリヒ所長(59)は「『わが闘争』に関心を持つ極右勢力はすでに、同書を闇市場で入手している。(注釈本を)合法的に入手できれば、ナチスへの関心はむしろ、低下するだろう」と指摘している。9月30日8時1分配信 産経新聞
◎こんなお箸でご飯が食べたい!=江戸木箸職人・竹田勝彦さんに聞く
【大紀元日本9月30日】英語名はチョップ・スティックで一括りにされてしまう東洋人の箸であるが、使われる民族によってずいぶん形状が異なっているようだ。
朝鮮半島では金属製の細長い箸。長い棒状で先太の中国箸は、物干竿のように丸テーブルの向こうの皿までとどく。
一方、日本の箸はというと、やや短めで先細の木箸が主である。
日本の箸はなんといっても魚を食するときにその威力を発揮する。使いやすいばかりでなく、食べ終わりがきれいなのである。今が旬のサンマの塩焼きは、バットのような中国箸ではなく、やはり日本の木箸でいただくに限る。
そのような日本の木箸の美と機能性を追及して止まない、江戸木箸職人の竹田勝彦さんにお話を伺った。
竹田さんのお店・大黒屋は、東京の下町・東向島にある。店内には、縞黒檀や鉄木などの硬質材を削って作った見事な木箸の数々が並び、江戸箸らしい渋い色を放って「粋」を競っていた。
「お箸というものをどう考えるかが大切なんですよ。つまめれば箸、ではなくて命の橋渡しをする専門の道具なんですから。誰でも使いまわすスプーンは食器ですが、お箸は自分専用のがあるでしょ。だから大切な道具だと私は思ってるんです。それに、人の手の感覚はそれぞれ違うので、靴を買うときと同様、きちんと手に合ったマイ箸を選んでほしいですね」
二十数年前から箸専門店を営んでいる竹田さんは、それ以前には食器のセールスをしていた。ところが、お客様が使いやすいお箸をどうしても自分で作りたいという一念から、箸職人になったという。それだけに、竹田さんの箸に対する思い入れは相当なものだ。
「当店では折れた箸も修理しています。木を継ぎ足して、削り直しをするんですよ。お客さんが、最後まで長く使えるようにです。何年か前に欠陥マンションが社会問題になりましたが、あれはそこに住む人のことを全く考えていないからです。私は、使う人のために本当に良いものを作りたいんです」
すぐれた技能者に贈られる東京マイスターの称号をもつ江戸木箸職人・竹田勝彦さんの、箸にかける職人魂はますます盛んのようだ。
竹田勝彦さんの店 (有)大黒屋
所在地: 東京都墨田区東向島2-3-6
電話: 03-3611-0163
FAX: 03-3611-0180
◎<白神山地>ブナ20本に刃物で文字刻む 環境省など調査へ
青森、秋田両県にまたがるブナの原生林の一部が世界自然遺産に登録されている白神山地で、ブナ約20本に刃物を使って文字が刻まれ傷を付けられる被害が出ていることが30日、明らかになった。環境省や林野庁は1日、現地に入り詳しく調べる。
環境省東北地方環境事務所(仙台市)によると、傷つけられたのは、青森県西目屋(にしめや)村川原平の大川国有林のブナ林。
国から委嘱された巡視員が9月上旬、半径約2キロの範囲内にある直径約50センチのブナの幹に、カタカナや漢数字などで「オ」や「八八三」などの文字が刻まれているのを確認した。
数字は山の標高とほぼ同じで、傷の状況などから6月中旬~下旬に刻まれたとみられる。
白神山地は広さ約13万ヘクタールで世界最大級のブナ林が広がっている。このうち約1万7000ヘクタールは世界自然遺産の「核心地域」になっている。
今回、傷を付けられた現場は核心地域を保全する「緩衝地域」だった。一般の地図には山道が載っていないため、環境省などは山に詳しい人物が傷付けたとみている。 9月30日11時9分配信 毎日新聞
◎中国人の27%が「コカコーラは自国ブランド」
外国ブランドの日用品を国内ブランドだと勘違いしている中国人消費者が多い、という興味深い統計が出ている。コンサルティング企業のボストン・コンサルティング・グループ(BCG)が、「中国人の愛国心」と「購買傾向」の関連性について13都市、4000人あまりの中国人を対象に調べた結果だ。
調査結果によると、パンテーンやコルゲートなどは8割の人が、ペプシやラックスなど有名企業のものでも4割以上が中国製品であると回答した。
北京や上海などの大都市住民でも傾向は同じだった。中国で外国ブランドの製品が販売される際、商品名は漢字に置き換え、広告には中国人タレントを使うなど、外国色が薄められる傾向が強い。企業側が「中国人は愛国心が強いから自国ブランドを好むだろう」と考えるからだ。
しかし実際には、その考えが必ずしも正しいわけではないようだ。なぜなら、国内製品と勘違いしていた消費者に「今まで使っていた外国ブランドを止めて中国ものに替えるか」という質問を行ったところ、ほとんどの人が「NO」と答えたからだ。
BCGは「中国内の多くの消費者たちは表向きには自国ブランドがよいと言いつつも、価格と品質によって合理的な選択をしている」と分析している。
東亜日報(韓国)より。
COURRiER Japon + hitomedia9月30日(火) 13時57分配信
◎与党内で衆院選先送り論浮上 金融不安への対応優先
麻生太郎首相は30日午前、米下院の緊急経済安定化法案否決で国際的に金融不安が拡大している事態を受け、総合経済対策を盛り込んだ2008年度補正予算案の早期成立に向け、週明けから予算委員会審議に入るよ
う自民党の大島理森国対委員長に指示した。
与党内では政治空白を避けるため、11月2日投開票の日程で行う方向だった次期衆院選は大幅に先送りされるとの見方も広がっている。
自民党の細田博之幹事長は記者会見で「解散して議会に誰もいない、選挙運動ばかりしている状態が今すぐにあっていいのかと言われれば、首相は『まあ待て』と言うだろう」と先送りの可能性に言及。
同時に「補正予算が通ればめどが見える感じがあったが、悪い方の目が出た。前向きに対応して混乱を早期に収拾しなければならない」と述べ、補正予算成立後に追加的措置を検討する考えを示した。
早期解散を求めていた公明党幹部も「想定していた11月2日は多少ずれ込むかもしれない」と指摘。河村建夫官房長官は、首相は景気対策を優先する考えだと説明し「(選挙時期は)総合的に慎重に判断することに
なっていくと思う」と述べた。 2008/09/30 13:19 【共同通信】
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反 響
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1)「悪巧み」と辞書にはあるが、たくらむ=企む、ですから、本来
は「悪企み」でしょうね。
国語審議会とかいう組織が戦後の日本語を壊してきました。
「富士の高嶺」が今や「富士の高根」です。「傍目八目」が「岡目八目」です。情けない。なんなんでしょうか。
「日本語を壊す人々」という特集を「企み」、読者から事例を募ったら
面白いかと思います。平井
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身 辺 雑 記
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平井さんの選挙延期論は正論だが、世の中には選挙でメシを繰っている選挙屋もいる。日本では都会議員選挙とのインターバルをなるべく長くするためとかで解散を1日も早くしろと麻生さんをせっついている「与党」もある。紆余曲折があるだろう。
政界を取材したり、政府に加わってみたりしたことがある。正論の通らない世界に厭気がさして逃げ出した小生。そういう経歴の人間が内外の政界を見る目は斜めであり、心は冷えている。読者:3737。