高麗襲来~元寇に隠された側面
歴史再考 ▽▼
☆ 高麗襲来~元寇に隠された側面――――― 竹下義朗さん
原著:2000/02/07
文永11(1274)年10月5日、突如として元(モンゴル)の艦隊が対馬に軍事侵攻してきました。いわゆる「文永の役」の始まりです。
そして20日には元軍は筑前国(現・福岡県)に上陸、集団戦法や回々砲(大砲)・震天雷(ロケット砲)などの新型兵器を駆使して、鎌倉武士を翻弄しました。
しかし、夜来に襲った「神風=暴風雨」によって元の艦隊は壊滅。日本は辛くも危機を脱したのです。
その後、元軍は弘安4(1281)年5月21日、再び対馬へ侵攻、志賀島(筑前国)・長門国(現・山口県)にも来襲しました。=弘安の役)この二度目の侵攻も、前回同様、神風による元軍の壊滅によって終結、さしもの大帝国モンゴル(以下、蒙古と略)も、日本征服を断念せざるを得ませんでした。
----もっとも、フビライ自身は第三次・第四次侵攻を考えていた----
この、二度に及んだ元寇=「蒙古襲来」とも言い「文永の役」と「弘安の役」の総称)は、通常、蒙古による軍事侵攻──「日本征服」作戦と解されていますが、実はその計画・実行には高麗=コリアが深く関与していたのです。
というわけで今回は「高麗襲来」ともいえる「元寇」について書いてみたいと思います。
「高麗襲来」ーーー私は「元寇」の事をこう書きました。それは、何故か?
実は、元の大汗(ハーン)フビライ(以下、忽必烈と略)に、壮大な「日本征服」計画を吹き込み、その気にさせた一人の高麗人がいたのです。
彼の名は趙彝(チョー・イ)。朝鮮半島南部出身のインテリである彼は、蒙古の高麗侵攻の際に祖国を裏切り、蒙古の首都・燕京=後に中都、さらに大都と改称。現在の北京)に赴き、進士試験(科挙)に合格、遂にはあの忽必烈の知遇を得るまでにのし上がったのです。
その彼が忽必烈に吹き込んだ事、それが、「黄金の国・ジパング」の征服計画だったのです。
この日本征服計画に乗った忽必烈は、文永4(1267)年を皮切りに、以後14回(蒙古が8回、高麗が6回)にわたって招諭使=使節)を日本へ派遣してきました。
招諭使──彼らの目的は、忽必烈の国書を鎌倉幕府へ渡す事、そしてその国書には「蒙古の冊封を受ける」こと、つまり高麗同様、蒙古の属国となるようにといった内容が書かれていたのです。
勿論、鎌倉幕府が拒絶したのはいうまでもありません。しかし、鎌倉幕府の対応=招諭使を問答無用に斬首し国交拒絶の返書も送らない、つまり全くの「無視」)のまずさが災いし、遂には「大帝国の皇帝」の面子を賭けて忽必烈に武力解決の道を選ばせてしまったのです。
もし、ここで鎌倉幕府が蒙古の正式使節である招諭使を斬り捨てることなく、曲がりなりにも国交拒絶、あるいは対等での貿易関係締結の返書を送り、事態を穏便に済ませる方向に持っていったなら、ひょっとしたら二度に及ぶ元寇もなかったのかも知れません。
何故なら蒙古は生粋の「陸軍国」であり、それまで渡海作戦の経験はなかったからです。つまり、「日本征服」作戦は、蒙古にとってもかつて経験したことのない「未知の戦争」だったのです。
さて、話を元寇に戻しましょう。
高麗人官吏・趙彝の提案が発端となった「日本征服」作戦は、忽必烈の命令によって戦費全額を高麗が負担、軍船900余隻の建造をしたのです。更に艦隊の発進基地(港)・兵士約6000人・水夫(軍艦の漕ぎ手)約6700人・兵糧(食糧)を提供しました。(文永の役)
つまり元の「征日本国軍」の主力は、事実上、高麗だったという事なのです。
また、第二次日本侵攻(弘安の役)の際にも、軍船900隻・兵士1万人・水夫1万5千人・兵糧を提供し、高麗人・金方慶を将とする「東路軍」4万の兵を編成、
元によって征服された南宋の残存艦隊によって編成された「江南軍」10万の兵と共に、再び日本へと軍事侵攻しました。これは裏を返せば、
高麗人官吏・趙彝が忽必烈に「日本征服」を吹き込まず、高麗が陰に日向に元軍を支援しなかったとしたら、ひょっとしたら、元寇は起こらなかったかもしれない訳です。そういう意味では、蒙古襲来=元寇とは、正に「高麗襲来」とでも呼べる事件だったとはいえないでしょうか。
~~~余談つれづれ
コリア人は、日本によるコリア侵略に、日帝三十六年=朝鮮総督府統治時代)と共に、太閤豊臣秀吉の「朝鮮征伐」をよく引き合いに出します。
しかし、当時、豊臣家を滅ぼし江戸幕府を開いた将軍徳川家康に対して、李氏朝鮮は「朝鮮征伐」における何らの戦時賠償や謝罪要求もしていません。それどころか、江戸時代を通じて「朝鮮通信使」なる使節を日本に派遣し、新将軍就任の際には慶賀している程なのです。
ーーー当時、何らの賠償・謝罪を要求しなかったコリアが、四百年も経ってから蒸し返しているわけです。
それならば、元寇の際に事実上の主力軍として日本に侵攻した高麗の事を、彼らコリア人は一体どう考えているのでしょうか?
日本人は、そんな昔の事で蒙古やコリアに対して「恨=ハン:怨恨」など抱いてはいません。それを考える時、コリア人もいつまでもやれ「日帝」だの「壬申倭乱」「丁酉倭乱」←「朝鮮征伐」のコリア側呼称)だのと言っていずに、
ーーー本当の意味での「未来志向の日韓(日朝)関係」を模索すべきではないの
でしょうか?
☆ 高麗襲来~元寇に隠された側面――――― 竹下義朗さん
原著:2000/02/07
文永11(1274)年10月5日、突如として元(モンゴル)の艦隊が対馬に軍事侵攻してきました。いわゆる「文永の役」の始まりです。
そして20日には元軍は筑前国(現・福岡県)に上陸、集団戦法や回々砲(大砲)・震天雷(ロケット砲)などの新型兵器を駆使して、鎌倉武士を翻弄しました。
しかし、夜来に襲った「神風=暴風雨」によって元の艦隊は壊滅。日本は辛くも危機を脱したのです。
その後、元軍は弘安4(1281)年5月21日、再び対馬へ侵攻、志賀島(筑前国)・長門国(現・山口県)にも来襲しました。=弘安の役)この二度目の侵攻も、前回同様、神風による元軍の壊滅によって終結、さしもの大帝国モンゴル(以下、蒙古と略)も、日本征服を断念せざるを得ませんでした。
----もっとも、フビライ自身は第三次・第四次侵攻を考えていた----
この、二度に及んだ元寇=「蒙古襲来」とも言い「文永の役」と「弘安の役」の総称)は、通常、蒙古による軍事侵攻──「日本征服」作戦と解されていますが、実はその計画・実行には高麗=コリアが深く関与していたのです。
というわけで今回は「高麗襲来」ともいえる「元寇」について書いてみたいと思います。
「高麗襲来」ーーー私は「元寇」の事をこう書きました。それは、何故か?
実は、元の大汗(ハーン)フビライ(以下、忽必烈と略)に、壮大な「日本征服」計画を吹き込み、その気にさせた一人の高麗人がいたのです。
彼の名は趙彝(チョー・イ)。朝鮮半島南部出身のインテリである彼は、蒙古の高麗侵攻の際に祖国を裏切り、蒙古の首都・燕京=後に中都、さらに大都と改称。現在の北京)に赴き、進士試験(科挙)に合格、遂にはあの忽必烈の知遇を得るまでにのし上がったのです。
その彼が忽必烈に吹き込んだ事、それが、「黄金の国・ジパング」の征服計画だったのです。
この日本征服計画に乗った忽必烈は、文永4(1267)年を皮切りに、以後14回(蒙古が8回、高麗が6回)にわたって招諭使=使節)を日本へ派遣してきました。
招諭使──彼らの目的は、忽必烈の国書を鎌倉幕府へ渡す事、そしてその国書には「蒙古の冊封を受ける」こと、つまり高麗同様、蒙古の属国となるようにといった内容が書かれていたのです。
勿論、鎌倉幕府が拒絶したのはいうまでもありません。しかし、鎌倉幕府の対応=招諭使を問答無用に斬首し国交拒絶の返書も送らない、つまり全くの「無視」)のまずさが災いし、遂には「大帝国の皇帝」の面子を賭けて忽必烈に武力解決の道を選ばせてしまったのです。
もし、ここで鎌倉幕府が蒙古の正式使節である招諭使を斬り捨てることなく、曲がりなりにも国交拒絶、あるいは対等での貿易関係締結の返書を送り、事態を穏便に済ませる方向に持っていったなら、ひょっとしたら二度に及ぶ元寇もなかったのかも知れません。
何故なら蒙古は生粋の「陸軍国」であり、それまで渡海作戦の経験はなかったからです。つまり、「日本征服」作戦は、蒙古にとってもかつて経験したことのない「未知の戦争」だったのです。
さて、話を元寇に戻しましょう。
高麗人官吏・趙彝の提案が発端となった「日本征服」作戦は、忽必烈の命令によって戦費全額を高麗が負担、軍船900余隻の建造をしたのです。更に艦隊の発進基地(港)・兵士約6000人・水夫(軍艦の漕ぎ手)約6700人・兵糧(食糧)を提供しました。(文永の役)
つまり元の「征日本国軍」の主力は、事実上、高麗だったという事なのです。
また、第二次日本侵攻(弘安の役)の際にも、軍船900隻・兵士1万人・水夫1万5千人・兵糧を提供し、高麗人・金方慶を将とする「東路軍」4万の兵を編成、
元によって征服された南宋の残存艦隊によって編成された「江南軍」10万の兵と共に、再び日本へと軍事侵攻しました。これは裏を返せば、
高麗人官吏・趙彝が忽必烈に「日本征服」を吹き込まず、高麗が陰に日向に元軍を支援しなかったとしたら、ひょっとしたら、元寇は起こらなかったかもしれない訳です。そういう意味では、蒙古襲来=元寇とは、正に「高麗襲来」とでも呼べる事件だったとはいえないでしょうか。
~~~余談つれづれ
コリア人は、日本によるコリア侵略に、日帝三十六年=朝鮮総督府統治時代)と共に、太閤豊臣秀吉の「朝鮮征伐」をよく引き合いに出します。
しかし、当時、豊臣家を滅ぼし江戸幕府を開いた将軍徳川家康に対して、李氏朝鮮は「朝鮮征伐」における何らの戦時賠償や謝罪要求もしていません。それどころか、江戸時代を通じて「朝鮮通信使」なる使節を日本に派遣し、新将軍就任の際には慶賀している程なのです。
ーーー当時、何らの賠償・謝罪を要求しなかったコリアが、四百年も経ってから蒸し返しているわけです。
それならば、元寇の際に事実上の主力軍として日本に侵攻した高麗の事を、彼らコリア人は一体どう考えているのでしょうか?
日本人は、そんな昔の事で蒙古やコリアに対して「恨=ハン:怨恨」など抱いてはいません。それを考える時、コリア人もいつまでもやれ「日帝」だの「壬申倭乱」「丁酉倭乱」←「朝鮮征伐」のコリア側呼称)だのと言っていずに、
ーーー本当の意味での「未来志向の日韓(日朝)関係」を模索すべきではないの
でしょうか?