「バビロンに帰る」春 具  (はる えれ) | 日本のお姉さん

「バビロンに帰る」春 具  (はる えれ)

オランダ・ハーグより』  第201回
   「バビロンに帰る」
□ 春 具 :ハーグ在住・化学兵器禁止機関(OPCW)勤務
■ 『オランダ・ハーグより』 春 具               第201回

「バビロンに帰る」

 投資銀行のリーマン・ブラザースやメリル・リンチの崩壊とか保険会社AIGの混乱をうけて、アメリカ政府は7000億ドルの救済資金投入を議会へ提案しているというニュースを聞きました。計画は7000億ドルの政府資金を投入して、崩壊した証券会社を債券共々買い取り、その勢いでアメリカの金融システムを総合的に立て直しを行う。7000億ドルとはアメリカ国民ひとりあたり2300ドルの負担になる
ということらしいです。

 テレビで、議会に呼び出されたポールソン財務長官がおこなっている支援説明を眺めながら思うのですが、アメリカから遠くはなれたオランダの、そのまた田舎の寒村にいて、彼の国の金融市場の混乱はわたくしにはどのような影響があるのだろう。わたくしたちの平穏な日常が脅かされるとすればどのように脅かされるのだろう。このような非日常感は、「海の向こうで戦争が始まる」ような奇妙ないらつきを感じさせ
ますね。そんな実感のないまま、議会での攻防を眺めておりました。

 バブルに例えられるアメリカ経済の衰退を、「これはプロテスタントとカトリックの違いなのさ」と論じたオランダ論壇の説明があって、わたくしはちょっとおもろしく思いましたが、そこから本日のお話を始めましょう。

 そもそも資本主義の精神は、キリスト教におけるプロテスタントとピューリタニズムの精神にバックアップされているのだという社会学者マックス・ウェーバーの議論がありますが、新約聖書のマタイ伝だったかな、イエスが行った説教の中にタラントの喩えという話がありますな。タラントは当時の貨幣単位であるが、あるとき主人が僕(しもべ)たちにお金を預けて旅に出るのです。

 5タラントを預かった僕はさっそくそれを商売・投資にまわし、5タラントの収益を上げる。だが、1タラントを預かった僕は、危険を避けてオカネを壷の中にしまったままにしておく。しばらくして主人が旅から戻るのですが、最初の僕は「ご覧下さい。わたしはお預かりしたお金を投資して二倍にしました」と報告し、主人によくやったと褒められる。そして二番目の僕も自慢げに「ご覧下さい、ご主人様。わたしはあなたのオカネを無事そのままに管理してきました」と告げるのです。

 だが、主人は2番目の僕に向かって「怠惰な僕よ。そんなことならわたしはお金を銀行に預けておくべきだった。帰ってきてわたしは利子とともに元金が受け取れただろうに」と言い、彼を追放してしまうのです。

 つまり、資本主義とはオカネを寝かせていてはダメで、オカネは働かせ続けなければいけない、それがプロテスタントの精神だと言うのです。

 反対に、とこのオランダ評論家は続けるのですが、カトリックはそんな厄介なことは考えない。オカネは銀行に預けっぱなしにして利子で満足するか、消費に精を出す。だから、カトリックの国(フランス、スペイン、イタリア・・・)ではバブル経済が破綻するなどということは起きないのだと言うのです。

 随分雑駁な議論だが、わたくしはおもしろく聞いた。

 思い出してみても、17世紀に欧州でおきたチューリップ・バブルという経済学史上の大事件はプロテスタント国のオランダが発端だったですね。チューリップ・バブルは不思議な事件で、あのちいさな球根があまりに高価だというので、当時の労働者の賃金10年分の値段がついたという。それはあたかも持っているお金は働かせなければいけないというプロテスタント的な強迫観念にとりつかれて、オランダの市民は
すべてが持てる財産をつぎ込んでチューリップの球根を買い込んだというわけであります。

 その反面、フランスやイタリアでルネサンスやロココ文化が花開いたのは、貴族の消費のおかげとも言えましょう。リオンの経済史が物語っておりますが、裕福な階層に支えられて、リオンの絹の織物経済やグルメの文化は、発展したのであります(つまり消費による経済の発展だ)。

 だが、そこでさらに思うのですが、マタイ伝で5タラントを預かった僕が、もし投資に失敗したらどうなっていただろう。運用に失敗し、大穴をあけたなら主人にこっぴどく怒られたのではないか。その怒りは1タラントを壷にしまっていた僕など比較にならないほどおおきな怒りだったのではないか。

 だが、それについて、聖書はなんの説明もしておりません。

 聖書に説明がないからでしょうかね、今度のリーマン・ブラザース、メリル・リンチの責任者たちも、解雇されただけである。さらに、大方は辞職する時にゴールデンパラシュートという制度によって恩給ももらっているらしい(彼らの恩給というのはミリオン・ドル単位である)。責任者たちの懐が痛んだという話はどこからも聞こえてきておりません。

 会社を崩壊させた責任は辞職だけですませ、金銭的にはなんの痛みもない。そして全然別の所(国民の税金)から資金を調達して、彼らの不手際を取り繕うという。そのために、アメリカ国民は2300ドルほどを持って行かれてしまうのである。そもそも、彼らは住宅ローンも払えなかったから、差し押さえを食ったのでしょう。それが連鎖してこの騒ぎになったというのに、ここでさらに2300ドルを出せというのですかね、彼らに。(国民の代弁者たる)議会がしぶるのもあたりまえですよね。

 いったい、組織に金銭的・物質的損害を与えたとき、スタッフ(社長も含む。彼らもお雇いなのだからね)はどのように責任を取ればいいのだろう。刑事責任、民事責任といろいろルールはあるけれど、適用の実態はというと、それはじつは灰色なのであります。

 わたくしたちの国際機関の職員規則にも、「過失および故意に組織に金銭的損害を与えた職員は、その生じた損害を返済しなければならない」という一項目があります。わたくしたちも見慣れない(つまり使われることのあまりなかった)規程ですが、だが、この規程が行政裁判所によって援用されたケースがありました。

 ブトロス・ガリ事務総長の時代のことですが、ガリ総長の機構改革を促進するために、デニス・ハリデイという辣腕家が人事担当事務次長補 Assistant Secretary General として国連開発計画UNDPから引き抜かれてきたことがあった。

 彼は改革をすすめるにあたり、まずじぶんのいる人事局を改造する。そのとき彼は古巣のUNDPからじぶんの部下を連れて人事局の幹部ポストに据えたのです。

 明らかに「人選は公平な競争を経なければならない」という既存の人事規則を無視した人選でしたが、そこで「わたしたちの正当な昇進の機会は阻まれれた」と言って、ピエール・ペランとジョーン・ゴードンというふたりの上級職員が行政訴訟を起こしたのであります。この訴訟で原告ふたりは勝訴し、国連行政司法裁判所は、国連側に合計36万ドルの賠償を支払いを命じたのであります。

 だがこのケースで興味深かったのは、裁判所は判決の中で「人事担当の事務次長補はまさに人事規則がきちんと守られることを監視する本人である。その本人が、みずから規則を無視した責任は重い」とし、上述の職員規則を援用してハリデイ氏に36万ドルの支払いを命じたという判断である。

 ハリデイ氏は人事をしたあと、国連のイラク担当となり、バグダットに勤務したときにアメリカの政策者と対立して辞任した。そのことは、当時のブッシュ政権に楯突く勇気を称賛されてニュースにもなりましたが、行政裁判所の判決はそのあと出たのであります。本人が国連を去ってしまっていたため、けっきょく、判決は実行されないままになってしまいましたが、この判決は改革とかなんとかの善意・緊急の名目であっても、組織に損害をかけた時(すなわち国連は36万ドルの債務を負った)は、個人の責任で処理されなければならないとした、管理者の責任を相当厳しく判断したケースでありました。

 ポールソン財務長官の救済計画は、実質的に崩壊した投資銀行の国有化だということで、「へっ、昨日まで自由化を標榜していたのはどこのだれだっけ。アメリカはいつから社会主義国になったんだ」というコメントが世界のあちこちから出ましたな。アメリカの大企業、議会、政府にやいのやいのとせっつかれて市場を開放したのに、自由主義の本山が手のひらを返したように、政府による国有化を言い出しすなんて、なんだ、という裏切られたような悔しさがにじむコメントであります。

 議会でも、こいつは社会主義だ、ゆえに非アメリカ的だ、キューバや中国に笑われるぞ、だから認められないという意見が噴出しているらしい。

 でも、ですね。自由市場というアメリカの神話がそもそも幻想だったのではないのかな。アメリカに住んでみれば気がつくことであるが、自由という割には社会主義政策があちこちにとられてきているのである。早い話が、わたくしが住んでいた頃(もう20年も前の話ではありますが)、電気は「コン・エディソン」、電話は「ベル」などという公企業を通さないと電気とか電話とかというあたりまえの生活が出来なかった。水の供給も市や州が独占的に供給しているのではなかったかな。いまは相当民営化しているのでしょうが、完全な「自由市場」などというのは、じつは世界にはないのではないか。

 だがこのことで考えるのですが、いまのアメリカの資本家・経営者たちは、どこまで本気で自由主義経済を堅持・啓蒙しようと考えているのだろう。わたくしはいま、1909年におこったウォール街の恐慌を思い出しながら、そんなことを考えるのであり ます。

 1909年にニューヨークでは経済恐慌がおこりましたが、それはバブルがはじけたかのように、株価が前年度を半分も割り込み、アメリカ金融界は騒然となってはじまった。そしてニッカーボッカー信託銀行というニューヨークで三番目に大きかった銀行が破産寸前に至る。

 そのとき、銀行家J・P・モルガンは旧知の資産家仲間を集め、資金の投入を要請するのです。ロックフェラーやカーネギーらが個人資産から当時の価格で億単位の債券をモルガン氏に預けるのであります。

 この話は、ウォールストリーターたちが自己資産で危機を回避し、政府の介入をふせいで資本主義の精神をまもったエピソードとしてJ・P・モルガン、ロックフェラー、ネルソン・アルドリッチ、デール・カーネギーたちの名をたからしめたのであります。

 もちろん、今回のパニックは当時の規模と同様には論じられない。話はもっと複雑だし、インパクトも多岐にわたっているようです。それらを合計して7000億ドルという天文学的な(とわたくしには思える。いまのアメリカのどこにそんなオカネがあるのだろう)数字が出ているのだろうけれど。それでも、だれかが個人資産を投じて経済を支えようとしたという話は聞かない。ただひとり、ウォーレン・バフェット氏が50億ドルを”カンパ”したという話が聞こえてきただけであります。

 アメリカはここ10年ほどの好景気でお金持ちが急増し、ミリオネアとよばれるお金持ちの数は800万人を超えるという。そしてさらにその上をいくビリオネアは、「フォーブス」という経済誌が数年前に調べたところでは、400人を越しているというのです。

 それだけお金持ちの数があるのなら、彼らが集まって資産の中からミリオン、あるいはビリオンを投じれば、7000億ドルという金額はすぐ達成できるのではないか。そういう気概はないのか。だれかが音頭をとればよいだけの話ではないか。そうすればウォールストリートは救われ、政府介入のないまま、「自由経済」は堅持され、なによりも投じた資産は銀行の立ち直りによってそんなに遠くない将来に回収できるではないか。モルガン翁だって、ニッカーボッカー信託の立ち直りによって多額の収益を上げたのである。わたくしにいまバフェット氏ほどの資産があれば、さっそくアメリカ資本主義救済に動いてもいいと思うのですが、いかんせん、我が家はこないだ買った自動車のローンの支払いが終わっておりません。

 スコット・フィッツジェラルドの書いた「バビロンに帰る」という短編小説がありますね。この小粋な短編は、金融恐慌があけた1930年代、主人公のアメリカ人チャーリー・ウェルズがパリを訪れて、ヴァンドーム広場にあるリッツ・ホテルのバーに寄り、止り木に座って飲み物を頼むところから始まります。

 彼をよく知るバーテンダーが寄ってきて「あなたは今度の恐慌で財産を相当失われたと聞きましたが・・・」と話しかける。
 チャールスは「そうだね。ずいぶんなくしたな。でも失ったものは、ぼくが昔から欲しいと思っていたものだけだったよ」と答えるのです。

 チャールスが失ったものは、ほんとうはそれ以上に大きなものだったのですが、このセリフはフィッツジェラルドらしく、当時のお金持ちのありようをうまく説明している。オカネというのは、寄ってくることもあれば離れていくこともある。ただ、それだけなのであります。だが今風のバブルの経営者たちは、会社のオカネでリスクを遊び、利益がでたら自分たちがごっそりご褒美をもらい、損益が出たら(会社の崩壊も損益ですよね)懐はいためることなく(部下たちも放り出して)、どっかへ行ってしまう・・・リーマン・ブラザースがひっくり返ったとき、会社の玄関に会長の似顔絵が描かれた看板がおかれ、社員がそれぞれメッセージを書き付けておりました。
メッセージには、「別荘は大丈夫だよな」、「ファルド(リーマンの会長)だけがルンルンだ」、「財産はベッドの下にしまっておくよ」などと書かれておりました。
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春(はる)具(えれ)
1948年東京生まれ。国際基督教大学院、ニューヨーク大学ロースクール出身。行政学
修士、法学修士。78年より国際連合事務局(ニューヨーク、ジュネーブ)勤務。2000
年1月より化学兵器禁止機関(OPCW)にて訓練人材開発部長。現在オランダのハ
ーグに在住。共訳書に『大統領のゴルフ』(NHK出版)、編書に『Chemical Weapons
Convention: implementation, challenges and opportunities』(国際連合大学)が
ある。(
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/9280811231/jmm05-22 )
JMM[JapanMailMedia]                  No.498 Friday Edition

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クリスチャンの日本のお姉さんの意見。↓

聖書の考えが資本主義なんじゃないと思うよ。

イエス・キリストは、人間は神さまから

与えられた能力、力、時間を神さまのために

有効に使いなさいと言われている。たとえ話の中の

使用人は当時の奴隷。でも、留守を任されている奴隷で、

かなり、主人に信頼されている執事たちです。

留守中に金を任され、運用をするように命じられる。

執事のあるものは、10タラントを任されて、商売を

始めて二倍に増やして主人に褒められ褒美をもらった。

5タラント任された執事も、二倍に増やして

主人に褒められて、褒美をもらった。

1タラント任された執事は、「あなたは、蒔かなかったところ

から収穫しようとする厳しい方だと分かっていたので、

地面に穴を掘って、埋めておきました。ほら。これが

あなたの1タラントです。」と言って主人に1タラントを

返したのです。主人は怒って、「1タラントをなぜ、銀行に

預けておかなかったのだ。そうしたら、わたしは利子と

ともに、その1タラントを受け取れたのに。怠け者の

悪いしもべだ。おまえは暗い所で歯ぎしりするのだ。」と

言って、1タラントを取り上げて、他のちゃんと

儲けてきたしもべにあげたのです。

これは、主人(神さま)に対する気持ちによって、生きている間の

行動が変わるし、神さまはちゃんと評価しますという意味で、

神さまからもらった才能、力、時間を神さまのために

使わないで自分の欲のために生きた人は、神さまに対する

信仰も愛も忠実さもないし、持っていると思ったものまでも

取り上げられて暗闇で歯ぎしりするということです。

神さまの評価を得ることができず、主人である神さまとは

遠い場所で永遠に歯ぎしりするということです。

信者と不信者のことを指している。

一般の人が、資本主義になれという教えではない。

神さまのために生きない人は、無駄に人生を使った人で

神さまの評価を受けることはできない。

金持ちが悪いのではない。神さまを信じないで神さまに

与えられた命や才能や力や時間を無駄に使った人が悪いのだ。

金儲けの才能がある人は、それで、神さまに喜ばれることの

ために金を使えばいいし、奉仕するのが得意な人はそれで

神さまを喜ばせる仕事をすればいいし、絵や音楽の才能のある

人は、与えられた才能を生かして神さまの栄光を表せばいいし、

人を教える才能のある人は、教師や牧師になればいい。

普通に働く才能があれば、普通に働けばいい。

「あなたは、蒔かないところから刈り取る恐い方だと知って

いましたから、お金を土の中に埋めておきました。ほら。」と

言う人が悪い人なのです。

5タラント与えられた執事、10タラント与えられた執事は

商売に失敗するはずがない。それだけ才能があるから

それだけの金を主人は任せたのだから。たとえ、失敗しても

罰せられるわけがない。一生懸命やるだけやったことが、主人に

伝わればいいのだと思う。1タラントを地中に隠しておいた執事は

明らかに主人を愛していない。

主人に対して皮肉まで言っている。才能に従って、1タラント

任せられたのに何もしないで、主人が旅に出ている間、

遊んでいたのだ。

その態度が、主人の怒りを招いたのだ。どういう気持ちで

生きているのかが大事なのであって、才能がどれぐらいか

は、関係ないということです。ちなみに聖書には執事たちは

商売をしたと書いてあるのであって、執事たちが主人に預けられた

金で投資をしたとは書いていない。

執事たちに投資をしたのは、旅に出かけた主人です。

投資をしたのに、信頼を裏切って、働かなかった悪い執事には

罰がありました。この悪い執事は、もともとは、主人の奴隷なの

です。本当は、お金をもらって、主人の留守を任せられるような

身分でも無いのです。主人の恵みで自由にやらせて

もらっているのに、主人のために何もしなかった。その愛のない

態度を主人は怒っているのです。神さまを愛さないで、自分に

与えられた才能を自分の欲のためだけに使って、神さまを

喜ばせない人は、神さまの目には悪い人なのです。

そういうことをイエス・キリストは言っておられるのです。

聖書は、「働かざる者食うべからず」と言っているので、怠けるのは

よくないというのは、最初から分かりきったことです。

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