▼北の独裁者は死んでいる? 早大・重村智計教授 >新著「金正日の正体」で“発表” (ZAKZAK | 日本のお姉さん

▼北の独裁者は死んでいる? 早大・重村智計教授 >新著「金正日の正体」で“発表” (ZAKZAK

ようちゃん、おすすめ記事。↓

▼北の独裁者は死んでいる? 早大・重村智計教授 >新著「金正日の正体」で“発表” (ZAKZAK 2008/09/19)

北朝鮮の金正日総書記の重病が伝えられるなか、海外メディアの話題をさらった本がある。30年間北を見続けてきた早大教授の重村智計さんが著した『金正日の正体』(講談社現代新書、756円)だ。重村さんの取材の結論は「金正日は既に死亡し、影武者が代行している」という驚くべきものだった。

 --本書を出版したのは

「なかなか公表できなかった話をそろそろ書いていいだろうと。北の情報を全くうのみにする人やすぐ否定する人たちがいるが、30年付き合ってきて北の情報をどう扱うかを書きたかった。何でもあり得るという前提で事実をつぶしていくのが情報を扱う原則だ」

 --2004年の小泉純一郎元首相訪朝時はすでに影武者だった

「00年に車イス姿の金正日を見た人がいる。糖尿病の末期症状でやせ細り、ほおもこけていた。03年にはその人は金正日に近い人物から『亡くなられた』と知らされた。以前にも金正日は車イスと聞いた人は複数いたが、馬からでも落ちたんだと思っていた」

 --以前とは声が違う

「報道機関が04年の小泉訪朝後に以前の声との声紋比較を研究施設に依頼したが、全く声が違っていた。声紋の違いが影武者であることの決定打になった」

 --影武者の1人は女性

「何度か影武者を見た人によると、1人はすごく女性っぽく、顔もふくよか、手も柔らかかったという。腹を突き出した姿がよく出るのも胸(の膨らみ)を隠すためじゃないか」

 --金総書記は日本にもよく訪れていた

「1982-89年に日本に来ていたのは間違いない。喜び組の踊りも赤坂のダンスショーをパクッたもの。金正日の子供たちもしょっちゅう来日していて(長男の)正男が日本に来たのも事実上父親のマネをしたんだろう」

 --後継者は

「後継者を決めると影武者を殺さないといけなくなる。金正日に近い人物によると『影武者が死ぬまで後継者を決めないことになっている』という。後継者を決めると、いまの集団指導体制のパワーバランスが崩れることにもなる」

 --北の女スパイが韓国で逮捕され話題になったが

「日本はもっとすごい。以前は船で横浜に来ても誰もチェックしなかった。北朝鮮は工作国家だという認識がない。拉致問題はなぜ起きたか。日本の政治家は北の主権侵害に対する怒りを感じてこなかった。国家意識が非常に弱かったからいろんな問題が起きた」

 --今後の北朝鮮は

「米国は政権交代すると1年は朝鮮問題に手を付けない。南北関係は当面ダメ。日本との関係打開に動き出すだろうが、外務省は北の策略に引っかかっているか、意図的に協力しているといわれかねない状況。エサを投げたら向こうから下りてくるといった国会対策的手法で解決できると思い込んでいる。情報なしに外交はできない」 

---------------------------
▼金正日はすでに死んでいる…重村智計早大教授が決死の証言[08/15](週刊現代)

北朝鮮の金正日総書記は、すでに死亡している。 いま表に出てきている人物はダミー(影武者)にすぎない。 一件、荒唐無稽に思えるこの話を、 私は金正日ファミリーに近い複数の人物から聞きました。以後、検証を重ね、これは事実ではないかと思い至ったのです。 こう語るのは、テレビの朝鮮半島情勢の解説でおなじみ重村智計(としみつ) 早大教授(62歳)だ。 早大卒業後、毎日新聞ソウル特派員時代を含め、足かけ30年にわたって朝鮮半島を取材している半島ウォッチャーの第一人者だ。 そんな重村氏が、30年間の取材の集大成とも言うべき『金正日の正体』 (講談社現代新書)を、8月19日に上梓する。金正日死没説とダミーの実態という北朝鮮最大のタブーに挑んだ重村教授が、 同書の刊行直前に本誌だけに語った。

■金正日の消息が途絶えた空白の41日間
北朝鮮最大のタブーについて、私が複数の確かな筋から聞いているのは、 次のようなことです。 『金正日総書記は、持病の糖尿病が悪化して、'00年初頭頃から車いす生活を余儀なくされた。そして、ついに、'03年秋に死去した』 この間('00年から'03年頃まで)の金正日総書記は、北朝鮮の復興を目指して 必死の外交を展開していることが分かります。しかしその後は、ガクンとペースダウンします。 たとえば、'04年の小泉首相の2度目の訪朝では、会談時間はわずか90分。 '06年の訪中の目的は、マカオの銀行に凍結された2500万㌦を回収することでした。同年10月に国家の威信を賭けて断行した核実験も北朝鮮国内では“ベタ記事”の扱い。 '07年の盧武鉉大統領との南北首脳会談も、単に会っただけでした。 さらに興味深いことに、死去したと思われる'03年秋は、9月9日から10月20日までの 41日間、金総書記の動静が消えました。 10月21日になって「朝鮮人民軍534部隊傘下」の農場を現地指導したという 日時不明の報道が出ます。 その後、'04年1月19日まで、約3ヶ月も、日時不明の報道のみが流れ続けるのです。この時期、中国の呉邦国(ウーバングオ)全人代常務委員長(国会議長)の訪朝が 北朝鮮側の理由で突然「無期延期」になり、金総書記から直々の招待を受けていた ロシアのダリキン沿海州知事は、平壌で会見をドタキャンされます。金総書記から届いた釈明の書簡には「自分ではどうすることもできない理由により キャンセルする」と書かれていたそうです。 他にもこの時期に不可解なことが多々起こります。

■声や身長が以前と変わった!
アメリカも“異変”に気づき始めています。 アメリカは北朝鮮の上空に毎日2機の偵察衛星を飛ばして金正日総書記の 一挙手一投足を追っていますが、'06年春に撮影に成功した金総書記の写真を分析したところ、仰天する結果が出ました。何と身長が2.5㎝も伸びていたのです。 実は日本でも、あるテレビ局が、北朝鮮に拉致された韓国人映画監督の 申相玉(シンサンオク)氏夫妻が、'83年に極秘で録った金正日総書記の肉声と '02年の日朝首脳会談冒頭の金総書記の肉声を声紋鑑定にかけました。 すると「別人の声である」という結論が出たのです。

さらに私は、金正日ファミリーをめぐる重大な話を二つ聞きました。 一つは最近、ファミリーの一人に会った人物から聞いたのですが、 このファミリーの一人は 「“いまの”将軍様が死ぬまでは、後継者を決めない約束になっている」と語ったというのです。 金総書記が生きているなら、ただ「将軍様」(金総書記の愛称)と言うはずです。 それをわざわざ「いまの」と付けて強調したということは、金総書記とは別人だと言いたかったのでしょう。 二つ目は数年前に、北京在住の長男・正男(ジョンナム)氏と 平壌に住む金総書記の妹・敬姫氏が、互いに酔っぱらって交わした会話が 某国の諜報機関に盗聴されました。「“あいつ”は将軍様の指示を守っていない」 「そうだ。あいつは私達家族を蔑(ないがしろ)にしている」 「あいつ」とは、金総書記のダミーを指すものと推測できます。独裁者が自分のダミーを置くことは、古今東西あることです。

■3度の暗殺未遂を経てダミー登用へ
金総書記がなぜダミーを作ったかと言えば、ひとえに暗殺を恐れたからです。 私が取材した限り、金総書記はこれまで、3度も暗殺未遂に遭っています。 1度目が、生誕50歳を祝う'92年2月の朝鮮人民軍のパレードで、安鐘鎬(アンジョンホ)副総参謀長らソ連留学組の将校たちが決起したクーデター未遂です。 2度目は、翌'93年7月の朝鮮戦争戦勝40周年式典で、前列の兵士たちが 金総書記暗殺を狙った一件です。 3度目は'90年代末頃に金総書記が軍部隊の視察に出向いた際、 近距離から兵士が銃を発砲し、身を挺して庇った朴松鳳(パクソンボン)組織指導部 副部長が殉職しています。こうしたことが立て続けに起こった為、時に応じてダミー活用してきた金総書記ですが、 自身の糖尿病の悪化に伴い、'00年初め頃から車いす生活を余儀なくされ、 '02年後半から'03年にかけては、ほとんど寝たきりになります。 同時に、ダミーに頼りっぱなしになっていったのでしょう。
'03年秋に金正日総書記が死去したと仮定して、なぜいまだに北朝鮮は その事実を隠し続けるのでしょうか。 それは、独裁者の死と共に北朝鮮崩壊の危機に陥るからではないでしょうか。そもそも北朝鮮の国民は、将軍様(金総書記)の姿など見たことがありません。 将軍様は年に数度、海外の首脳とわずかな時間、握手を交わし、数年に一度、 パレードに顔を見せて手を振ればよいのです

そこで、最高幹部とファミリーたち計10人くらいの秘密にして、当面の間、 ダミーに代行させることにした。 おそらく、死に際して金総書記は、詳細な遺言を作ったはずです。そこには、当分は息子に継承せずにダミーを“推戴”するように、 そして反逆者は誰であろうと容赦なく排除するようにと書かれてあるはずです。 だから妻・高英姫氏、妹・金敬姫氏、妹婿・張成沢氏の3人が揃って排除されたのです。いまの北朝鮮は、金英南委員長、朝鮮人民軍代表の呉克烈(オグンリヨル)作戦部長、 長年にわたり金総書記の秘書を務めた李済鋼(リジエガン)組織指導部第一副部長、 そして復活を果たした張成沢行政部長の“4人組”による集団指導体制と思われます。

■真実を明かさない引田天功
以上が、重村教授の証言である。 本誌はこの「重村証言」の信憑性を確かめるべく、生(なま)の金総書記に接してきた 数少ない二人の日本人に話を聞いた。 まずは、'01年4月まで13年間、「金正日の料理人」を務めた藤本健二氏。氏は死亡説を否定した。 「私が最後に金総書記に会ったのは、'01年4月22日のことですが、元気でした。 たしかに金総書記は、糖尿病、腎臓病、肝臓病、便秘症を患い、食後に5種類の薬を服用していましたが、日常生活に支障はありませんでした」。

これに対し、'98年と'00年にそれぞれ約1ヶ月間訪朝し、 金総書記ファミリーと生活をともにしたイリュージョニストの引田天功氏は、 死亡説やダミー説を持ち出すと顔を引きつらせた。「たしかに私は、数々の衝撃的な真実を知りました。 しかし今、私が口を開けば、今後の日朝交渉に多大な影響が出るでしょう。 国交正常化を果たしたのちに、真実を申し上げます」 “重村説”の真偽は、歴史が証明することになる。
---------------------------