☆☆甦れ美しい日本☆☆
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2.奥山篤信
マルタ島帝国海軍の墓碑を参拝して
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僕は最近この地を訪問し、かねてから自衛隊海自の友人から聞いていたマルタ島カラーラの丘にあるコモンウエルスの海軍墓地にある「大日本帝国第二特務艦隊戦死者之墓」を参拝した。第一次大戦の中にまさに海外派兵で勇気ある戦いを示した帝国海軍の戦死者には、今の日本の現状と重なりあうところが多く、感慨無量の心境である。
戦後日本はアメリカにより去勢され、日米同盟はあるものの、まさに片努協定であり、しかも悪いことには日本を軍事的に守ってくれるアメリカに妾のようにぶら下がった形である。海外に派遣されたPKOの自衛隊の皆様のご努力・活躍やご苦労を誰にも負けず大変評価・尊敬する気持ちがあることを誤解されては困るが、イラクでオランダ軍に軍事的に守ってもらいながら平和活動をする自衛隊の皆様には忸怩たる思いがあると同情してきた。戦士(武士)は国のために武器でもって戦ってこそ戦士であり、武器を使った戦いはできない、正当防衛であっても、どうのこうのと「神学論争」的に制約されるなど、派遣された自衛隊の身になって考えれば、まことに不憫に思ってきたのものである。
さらに同盟関係とは双務関係でなければ基地貸しの属国でしかないなりえない。ともに闘って血を流してこそ同盟関係である。片務でしかもおんぶにだっこの体制では、いかなる国からも尊敬を得るわけがない。日本が侵略された場合、まず自らの手で祖国を守る力と気概がない限り、アメリカの若者が日本のために血を流すなどと期待できるわけもない。
さて、この日英同盟による帝国海軍の活躍は高く評価され、嬉しいことに墓地に入り堂々たるアプローチの特等の場所に墓が建立されているのである。英国連邦の海軍基地にこのように堂々と輝く墓標があることこそ、英国が日本との同盟関係による派兵を如何に恩義に考えたからであろう。下記参考までにマルタの戦いがいかなるものであったか、殆どの日本人はこの事実さえ知らないし知ろうとしない現状でぜひ読んでもらいたい。
大正6(1917)年2月18日午後1時、片岡覚太郎・中主計の乗った駆逐艦「松」は3隻の僚艦とともに佐世保港を出発した。駆逐艦4隻からなる第11駆逐隊は、シンガポールにて 南シナ海からインド洋方面を警備
している巡洋艦「明石」と合流スエズ運河経由で地中海に進出し、ドイツ軍の潜水艇からイ ギリス・フランスの輸送船を護衛する為であった。1914年に始まった第一次世
界大戦はすでに4年目、膠着状態が続く中で、日英同盟に基づくイギリス政府の支援に応えるためであった。実戦のためこの海域に派遣されるのは海軍創設以来初めてのことである。
4月13日、2ヶ月近くの航海の後に、艦隊は地中海のマルタ島に入港した。マルタ島はシシリー島の南部、そしてリビア・トリポリ、チュニジア・チュニスも遠くない。まさに地中海の要所であり、第二次大戦ではイギリスとドイツ・イタリアとがこの島を巡って激しく攻防戦を繰り広げたこと、そしてイギリスのシュピット・ファイアーの活躍による逆転勝利が南アフリカのロンメル将軍の敗退を齎した第二次大戦のターニング・ポイントであった。英国はこの島を1814年にフランスから獲得し、それ以来、英国海軍の地中海における一大 基地としていた。日本艦
隊はここを基地として英国海軍とともに英仏運送船の護送にあたる事となった。ドイツの潜水艇がイギリスの輸送船を片っ端から撃沈していたからである。
この戦いで「榊」に対して敵の魚雷が左舷艦橋下に命中・爆発した。艦橋は吹き飛び、船体は少し前方に傾いて、煙に包まれたまま停止した。クレタ島スダ港に曳航された負傷者は病院に収容された。夜を徹して榊の破損箇所を片づけていくと、屍体が次々と出てきたという。翌日昼から始めた59名もの殉職者の火葬は夜になっても続き、「松」の艦上からも遠目に凄惨な炎が見えたといわれる。イギリス軍は8月8日、ソンムの戦いでドイツ軍の優勢を逆転した。この後、9月から11月にかけて 同盟国側はブルガリア、トルコ、オースト
リアが次々と脱落し最後のドイツも11月11日に休戦条約に調印し,ここに4年3ヵ月にわたる第一次世界大戦が終結した。日本帝国海軍の駆逐艦隊は陰ながら日英同盟の役割を立派に果たしたのである。
戦死した「榊」乗員と、任務行動中に、異国の地で任務に倒れた全戦死者(墓碑には66名の氏名が刻印されているが、病死者等を含めると計78名が異国の地でなくなられた。)の栄誉と勇敢さを称え、その霊を慰めるため、大正7年6月、同艦隊の根拠地であったマルタ島バレッタ港を望む、カルカーラの丘の英国海軍墓地の一隅に、大理石の墓碑が建立された。
しかし、第二次世界大戦では、独伊の猛烈な攻撃にさらされ、この墓碑は、ドイツ空軍の爆撃で上部が破損してしまった。日本の敗戦とともに、訪れる日本人も少なく、およそ30年間、壊れたままであったが、国内関係者の修復運動が実を結び、昭和48年11月18日、元の大きさのものが復元され、イタリア大使館主催で除幕式が盛大に行われている。(現在、墓碑の管理は、日本政府(イタリア大使館)から在マルタ日本名誉総領事に委託されている。 皇太子時代、欧州訪問時 (大正10年4月)に、墓前をご参拝、花輪を供えて英霊を慰められた昭和天皇は、墓碑の再建をお知りになり、大変、お喜びになられたとのことである。
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3.藤岡知夫
メルヘンの中で過ごした至福の2日間
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蝶を愛好する人物は、日本人の格から言うと上は天皇陛下、下は乞食まで普く分布している。そして音楽を職業としているグループの中にも、蝶愛好者がいるにはいるが極めて少ない。その極めて少ない一人が小山昭雄で、現在ファゴットのプレイヤーとしては世界ナンバーワンと言ってよく、ミュンヘンの音楽大学の教授としてドイツに居住しているが、毎年最低一回、小澤征爾に招聘されてサイトウキネンオーケストラでファゴットを吹くために松本に来ていた。小山氏の性格は天衣無縫、何事もずばずばと大きな声で喋る実に楽しい男であるが、モーツアルトのファゴット協奏曲など吹かせると、自由にテンポを変え、カデンツァにはフィガロやドン・ジョバンニのアリアのメロディを借用して誠に自由自在で、モーツアルト自身も小山氏のような男ではなかったかと思うほどである。
私もミュンヘンに行ったときは必ず彼と会い、ドライブに行ったり、メシを一緒に食ったり、楽しい時を過ごすのであるが、運転は女房で、彼は自動車の運転免許を持っていない。
その理由には二つの説があって、一つは彼が若い頃「サソリ」という横浜を中心とした暴走族に属していて、彼の名前は日本の警察から世界中の警察に手が廻り、絶対に免許証を発行してはならない人物として登録されているからであるというのが、まず第一の説。もう一つは彼は極端に筆記試験に弱く、免許証を取ろうとすると、大抵は試験があって、試験に必ず落ちるので、取れないという説が第二である。実際彼は日本で高校を卒業し、東京芸大にも実技では1番で受かったのであるが、その当時、東京芸大にも学科試験があって、これは全部0点で、落ちたということは事実のようである。彼の自由奔放な言動から察しても、筆記試験に弱いという点は理解出来る。私は蝶に次いで、音楽が大好きな人間であるが、サイトウキネン音楽祭が開催される松本は蝶の名産地で、8月は未だ蝶のシーズンなので、蝶と音楽の両方、それに酒を加え、小山氏と楽しんでいた。小山氏は4年前まではサイトウキネンオーケストラの低音管楽器の中心人物であったのであるが、つまらないことで小澤と喧嘩をしたそうで、最近来なくなってしまった。誠に残念に思っていたところ、丁度彼と入れ違いにドイツから蝶好きのティンパニーのプレイヤーが毎年松本に来るようになった。ライナー・ゼーガースというハンブルグ近くの生まれのドイツ人で、カラヤンの全盛期、ベルリンフィルハーモニーの総監督をしていた頃、首席に抜擢されて以来、現在もベルリンフィルハーモニーの首席として世界ナンバーワンのディンパニー奏者である。彼は蝶だけではなく蛾も集めているが、ヨーロッパの北の方では夏は1日中日が沈まないために、本来なら夜飛ぶ蛾も蝶と一緒に昼間飛んで、蝶と蛾が区別出来ず、蝶だけであると種類数も少ないので、両方集めているというコレクターが多い。
ヘルマン・ヘッセは蝶好きとして有名で、私の若い頃、中学校の国語の教科書に「少年の日の思い出」という短編小説が出ていて、彼が少年時代友人の持っている大事な蝶のコレクションを盗んでしまう話であるが、その盗んでしまう蝶は実は蝶ではなく、日本にもエゾヨツメという名の近縁種がいるが、蛾である。そしてヘルマンヘッセが亡くなったときのベッドの枕元には、蝶の標本箱が一箱かけてあったが、その中には蝶だけでなく蛾も混じって入っていた。ライナー・ゼーガースは世界ナンバーワンのティンパニー奏者として小澤征爾を特に尊敬しているわけではないが、8月松本に来れば、蝶や蛾が採れるであろうとの期待の下に、小澤の招聘に応じて毎年8月に松本に来るようになったのだそうだ。そして日本に来たら、日本で蝶や蛾に詳しい人と知り合いたいということで、一昨年友人を通して私と知り合い、昨年から私が8月には何日か松本に出かけていって、昼間は蝶を採り、夜は音楽を楽しみ、演奏会の後は楽しく酒を飲むという幸せな日を持つようになった。
そして今年は8月31日夜から松本に入り、9月1日、2日の2日間、昼は山に行って蝶採り、夜は音楽と酒盛りという楽しい2日間を送ることが出来た。私の他に蝶好きで尚かつ音楽好きの友人、渡辺力、麻生紀章両氏を同行し、ゼーガース並びに日本のエージェントとして彼の面倒を見ている日本人の女性音楽家と4人で行動した。ある特定の珍しい蝶を採集に行く場合には、蝶の仲間を連れて行くと、1匹の蝶の取り合いとなり、自分が採集する蝶の数も減るし、気まずくなることもあるので、私は原則として採集は一人で行くことにしているが、9月の始めには、目の色を変えて追いかけるような種類は居らず、和気藹々と採集を楽しむことが出来た。9月1日は朝から松本の北方の三才山の辺りに出かけ、ヒョウモンチョウ類など夏の生き残りの蝶を追いかけ、昼は松本の町に戻って、ソバを食い、午後からは梓川の川縁に行って日本では比較的稀な種類に入るクロツバメシジミという小さな地味な蝶を皆で追いかけ、楽しい一日を過ごした。
但し蕎麦に付いて言えば、信州は日本一の蕎麦どころということになっているが、長野県には大した蕎麦屋はない。我々が行ったヨーロッパ軒という蕎麦屋も松本近辺ではベストの1軒と言われていて、「水蕎麦」など食わして自分では自信があるようであったが、大した蕎麦ではなかった。もっとも9月の始めは1年で一番蕎麦粉の不味い時期なので、その点は割り引かなければいけない。そして夜は室内楽の夕べである。ベートーベンの作品11というから、初期の作品で、クラリネット、ピアノ、チェロのための三重奏という珍しい曲と、モーツアルトのクラリネット五重奏曲である。クラリネットはモーツアルトの時代に初めて登場した楽器で、最初にオーケストラに使ったのだが、彼以上にクラリネットという楽器を理解し、上手く使った作曲家は、彼の後には出ていない。
特にこの五重奏曲では、クラリネットの音域が広く、低音から高音までの間の途中で音色が変わる、その音色の変化を実に上手く使っていて、諧ぎゃく的にまた時には叙情的にクラリネットの音色を弦楽器の四重奏と溶け込ませ、誠に素晴らしい名曲で、私は高校に入り初めてクラシック音楽の美しさに目覚めて以来現在に至るまで、最も好きな曲の一つである。
クラリネットの演奏はウィーンフィルの首席で、これも世界ナンバーワンのクラリネット奏者カール・ライスター。ヴァイオリンとヴィオラは日本人の奏者で、アンサンブルは完璧と言ってよいほど素晴らしいものであった。しかし第一ヴァイオリンの音色はベストというわけにはいかず、その点では完璧な演奏というわけにはいかなかったが、とにかく心から演奏を楽しむことが出来た。
その翌9月2日は朝から入笠山に車を走らせたが、上の方は霧に覆われていて、蝶は全く姿を見せなかったが、頂上直下のマナスル山荘で食べた山菜蕎麦が予想に反して美味く気分を良くし、午後はゼーガースの希望でオオヒカゲという大型のジャノメチョウの産地に回り、皆そこそこに採り満足して、浅間温泉の宿に早めに引きあげ、温泉に入った。この浅間温泉は塩分も硫黄分もなく、単なる風呂みたいな温泉で、温泉好きの私のランクは高くはないが、いつでも露天風呂に入れるのは気持ちがよく、滞在中、朝、昼、晩の他に、夜遅くにも楽しむことが出来た。そしてその日の夜は、20世紀前半に活躍したチェコの作曲家、ヤナチェックのオペラ「利口な女狐の物語」である。小澤征爾指揮のサイトウキネンオーケストラに、キャストは主役の女狐や森番以下12人の出演者のうち8人までは外国から連れてきて居り、名の通った著名な歌手は一人もいないが、流石小澤のオペラではいつも、未だ無名だけれども、実力者揃いである。
合唱も約50人でオーケストラは100人の大編成で、バレリーナも12人出ていたから、このオペラのために裏方まで入れると200人以上が松本まで集まって来たのだそうだ。オペラ自体は特に筋があるわけではなく、森の中で緑に包まれ、ハエやトンボに扮したダンサーが踊り、女狐がアナグマを巣から追い出して家を乗っ取り、雄ギツネを呼び込んで恋を語り、森番の人間をからかうという、文字通りメルヘンそのものである。音楽も大編成のオーケストラでありながら、簡潔で歯切れが良く、観ていて自分達が森の中で自然に囲まれて、昆虫や動物たちと遊んでいるような気分になってくる。オペラが終わってからは前夜と同様、宿に戻って風呂に入り、ゼーガースの泊まっているホテルに行き、バーで美味い酒を飲みながら、蝶と音楽についてとことん語り合った。ゼーガースは蝶だけではなく蛾まで集めていて、昆虫学にも非常に詳しいし、その上太鼓たたきとは言え、専門の音楽家であって、音楽について実に深く広い知識を持っている。
渡辺君や私が好きなオペラについて質問を発すると、全てにゼーガースから的確な答えが返って来たし、フィガロはジュセッペ・タッディが最高であったとか、50年前に日本に来たイタリアオペラ団のテノール、マリオ・デル・モナコが歌ったパリアッチやジョルダーノのアンドレア・シェニエは、あれを越えるオペラはその後日本ではないとか、酒の勢いで我々自身でアリアを歌いながら、誠に楽しい一時を過ごした。
今思い出してみると、メルヘンそのもののオペラを観たためか、私自身2日間をメルヘンの中で過ごしたような記憶として残っている。
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◎関西零細企業経営のオッサン 悔し涙を流すの記 (24)
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浪速はロシア人力士を応援するのや 12.09.’08
残暑の日照りが背中を直撃し、汗がシャツを透して滲み出す。9月に入って浪速の此の時期の暑さは独特の不快さである。こんな時は怒りも歓びも感動も全て鳴りを潜め、僕の精神はダラーと弛緩しっぱなしである。
然しその中で、自民五人囃し報道に鎮められたかの観はあるが、なんだか怒りを憶え、でももう一つよく解からないのが、日本の国技大相撲協会がロシア人力士三名を馘にした大麻騒動である。
僕が不愉快なのはこの三力士に対してではなく、馘に追い込んだマスコミ、協会、それとマスコミを焚きつけた大衆の無責任な野次馬振りである。
かくしてハタチ前後で遠い異国の故郷を離れ、全く異文化のその又異文化に身を投じ名と財を成そうとした三名の若者は土俵を追放され、これまでの全てを棒に振ったのである。
そもそも一人が繁華街で財布を落とし、その中に大麻を巻いたタバコが発見され、騒動が始まった。それだけの事である。たまたま誰かに貰ったと本人が言い張るそのタバコを所有していた事、本人の部屋に吸引パイプが有った事、これが犯罪なのかどうかを先ずハッキリさせて欲しい。それが犯罪なら然るべき相撲協会の処分が有ればよい。
処がその辺は報道も曖昧で、刑事起訴もされない所を見るとどうやら犯罪でもないらしい。
あとの二人は突然の検尿で、大麻のナントカ物質が通常体内にあるべき数十倍の数値で検出されたと言う事実だけによる馘である。これなど相撲取りと一般人とロシア人と日本人とまったく十羽一絡げの大雑把な基準に基づく判断であり、体質によると言えば兄弟そろっての高数値も有得る話だと、素人ながら思うのだ。
そもそも大麻に関し尿にナントカ数値が高ければ犯罪の確証かと言えばそうでも無いらしく、刑事起訴もされていない。
なのにマスコミはこの三力士を犯罪者同然に報道し、世間はそれに同調し、相撲協会は彼らを馘にしてしまった。彼らを支持し協会の処分を批判する世間の声は全く聞こえてこない。或いはマスコミはそんな声を完全に無視しているのだろうか。
他の例で言えば、たまたま落とした財布の中にお守り代わりのポルノ写真が見つかったなら、上場企業の社長は辞職せねばならんのか。上級公務員は、代議士は辞職せねばならんのか。マスコミのカマトト振りもいい加減にしてくれ。世間はもっと大人になれ。
因みに、財布を落として大麻がばれちゃった力士は、誰も悪いのでなく只自分が馬鹿だったと素直に認め、法律でなく力士として悪かった事を反省しマスコミの前でファンに向けて拙いながら謝罪し、もう一度土俵に戻らせてくれ、一生懸命やります、そう言っているではないか。せっかくロシアから来て今や日本人がやりたがらない相撲を盛り立ててくれている青年だ。もう一度チャンスをやったらどうなんだ。一方で、傲慢な振る舞いで相撲の仁義など歯牙にも掛けない力士をのさばらせているじゃないか。
相撲協会も親方衆もむっつり黙ってマスコミの言いなりにならないで、この際言うべきことをハッキリ言って力士を守ってやったらどうなんだ。至らないのは未成年に毛の生えた外国人力士じゃない、相撲道を軽視し体裁だけを維持しているお前たちだ、と言いたいのである。僕は大相撲に特に関心があり好きなわけでもない。ただ無責任な虐めと世間をなめきって増長するマスコミに腹が立つのだ。
実はもう一つよく判らん事がある。大麻、大麻と大騒ぎしているが本当のところ大麻のどこがイカンのか。麻なんて日常身の回りに一杯有るそれじゃないのか。 了。
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「蝶の仲間を連れて行くと、1匹の蝶の取り合いとなり、
自分が採集する蝶の数も減るし、気まずくなることもあるので」
という文章を読んでいて、父親を思い出した。
「コレクターは嫌いだ。趣味のことになると狂ったようになって、
やることが汚くなるからだ。」と言っていた。なんでも、いつも
冷静で尊敬していたある外国人の友人が切手のコレクション
をしていたので、日本の切手を見せたら、異常に興奮して、
目がギラギラして気持ち悪かったのだそうだ。
日本の切手は美しいから、そりゃ、外国人なら見たら
興奮するでしょう。
コレクターでなくても、自分の特定の欲のために、
他人の迷惑を顧みず、ひたすらわがままになる人間は
結構、醜いものがある。自制がきかないほど興奮していて
横で見ていても気持ち悪い。
奥さんが晩ごはんを一緒に食べようと誘っても、
ゲームをしたり、工具を磨いたりして、後で一人で冷えた
ごはんを食べる御主人が二人でてくるテレビ番組を観た
のだが、趣味のために、奥さんの気持ちを踏みにじって
いる。このままでは、奥さんに嫌われてしまいそうな二人
だった。食事ぐらい奥さんと一緒に食べて、おいしいな、
などと言いながら食べたらいいのに。
藤岡知夫 さんの 「メルヘンの中で過ごした至福の
2日間」 の記事は、芸術家たちの楽しい交際の様子が
書かれていた。
いっしょにアリアを歌いながら過ごしたんだね。
かわいい芸術家たちだなあ。by日本のお姉さん