敗けたら、アカン! | 日本のお姉さん

敗けたら、アカン!

≪ WEB 熱線 第1069号 ≫2008/09/08_Mon 
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▼▽ わたしの主張 ▽▼
☆ 敗けたら、アカン! ――――――紋起さん(65歳男性)
┌──────────「JARAMUさん(53歳男性)」
戦後の日本がだらしなくなったと述べられる方達がおられるが、真実そうであるとしたら、その責任は一体誰にあるというのであろうか。ーーー年代的にいえば、今日七十代以上の人達にこそ最も責任がある筈である。勿論、年配者だけに責任を押し付けてお終いという事ではないが、しかしその事を弁えずに一体誰の責任と云っているのか。右翼や民族主義者達は、武力でもって拉致された人々を救えと云うが、しかしそのためには自衛隊の方達の消耗率というものを、一体どのように考えているのだろうか。拉致被害者数よりも大きくなる事は十分考えられる事であり、もし全面戦争という事になれば、日本そのものにも攻撃が加えられる場合もあり、場合によっては何万、何十万という死傷者が出る事が予想できる筈。それでも、拉致被害者を救出するためにはやむを得ないというのだろうか。真に日本という国家を考えるのであれば、そのような非合理的な考えができる訳がない。それでは過去の敗戦での反省が全くなされていないという事であり精神論だけでは戦う事はできない。「生きて虜囚の辱めを受けず」や「死中に活」は、勝ち戦であればそれなりの効果があったと云うが、負け戦では戦闘の辛さや戦線からの離脱に於いて、同胞から裏切りと思われたくない事もあり、死よりも辛い戦闘から逃げるための口実になってしまったと云う事である。死ななくてもいい人達が、軍部という役人達上層部の馬鹿げた精神論で犠牲になってしまったという事である。

ーーー戦争は勝つ事もあれば負ける事もある。
であれば、玉砕という精神論はやはり間違いであったという事であり、もっと合理的な考えができたのであれば、無用な死者を出す事もなかった筈である。一体英霊達は何のために死地に赴いたのか。日本という国の未来のために、死を覚悟したのではなかったのか。それが一億玉砕というのであれば英霊達もうかばれない。また、目の前で拉致されたのと同人数が同じく北に連れ去られたというのであれば、また違った反応があるものと考える。しかし、何十年にも渡って政治家や役人達の不作為で発生した事なため、国民全体が拉致解決のために戦争を容認する事はないものと考える。それが当たり前であり、その事は誰も非難する事はできない。大切な事は、同じような悲惨な拉致を繰り返さない事にある筈。また、過去の戦争は今日とはまるで違った状況にあり、もし同様の状況というのであれば、戦争という選択肢もあるとは考えるが、しかし、その事を今日求める事こそが無謀であり、あり得ない選択である。また、日本人でありながら自身というものを全く理解していないと思われるのは、日本人は決して戦闘的な民族ではなく、寧ろ死というものを極端な程恐れる民族である。この事について、もっと深い理解を求めなくてはならないが、しかし何を勘違いしているのか、日本人の多くは百姓であり、百姓は「家」や「田畑」を守るために一生懸命であり、そのため死を何よりも恐れていた。ーーーにも関わらず、いつの間にか日本人全員が「サムライ」になったというのか。戦争ゴッコという茶番は止めるべきである。愚にもつかぬ事を述べているようであっては、拉致被害者家族の立場を悪くしてしまいかねない。ーーー残念ながら拉致解決にはまだまだ時間が掛かる。また、そのための手段は決して武力ではないものと考える。
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ーーーJARAMU氏へ、
貴兄の言われるような面もたしかにあるかも知れませんが、根本的には「負ける」戦争を開始したことにあります。古来、戦争に負けた国は、国民は奴隷として他国に売却されることを含めて、勝った国の思い通りに処理されました。比較的寛容な処置を取り続けたのは、ローマ帝国ですが、この帝国とて、自分達に歯向かう意向が見えた時には、カルタゴのようにその国を消滅させ、皆殺しか奴隷として何処かに売り飛ばしています。峻烈を極めるのはモンゴル帝国で、負けた国の軍隊を先頭にして次の国の都市攻撃をさせる方式で捕虜の活用をやっています。戦争とはそのようなものであることは、みな理解しておかねばならないことなのですが、それを理解しないから、倒錯した主張が出てきます。すなわち「敗戦後の国民がだらしないからこうなったとか、吉田茂が再軍備を断ったからこうなった」とかの主張です。日本がアメリカを「無条件降伏」させたと仮想すれば直ぐ分ることです。まずなによりも、彼らが敗戦の敵討ちができなくなるようにコントロールすることです。その為には、武装解除を行い、米国内に日本軍を駐留させ続けるでしょうし、広大な地域を守るのは日本軍だけではできませんので、米国人に守備隊的なことは認めても、日本に歯向かう能力は徹底的に持たさぬように日本が管理するでしょう。これは、当たり前の敗戦国の管理方法であり、再び立ち上がれないようにすることが、勝利国の安全のために必須のことであります。したがって、武装解除に至るまでの敗戦をしたことが、日本がこのような無様になった根本的な原因であり、常々「日本人は醜い」と叫ぶ人は、帝国陸海軍に陶酔している為に真の原因を見ないようにしているのでしょう。しかし、朝鮮戦争のときに、米国は秘密裏に日本政府に再軍備を打診するのですが、なぜ米国は日本に再軍備を迫ったのでしょうか。それはモンゴル帝国のやり方と同じで、共産国の軍隊に日本軍をぶつけて米国の若者の流血を少なくしようという魂胆だったのだろうと思います。吉田がその再軍備を断り、警察予備隊に留めたのは賢明でありますが、冷戦が終わって時代が変わっても軍備を認めない今の国民の思考は、世界情勢に適合していないので変えないといけないことは確かです。開戦か避戦かで議論沸騰していた昭和16年9月に、強く開戦を唱えた永野修身軍令部総長は、「戦ってよしんば勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残れば、我等の子孫は再三再起するであろう」と、開戦を前提にした「帝国国策遂行要領」を決めた時に述べたという。根本的な誤りは、武装解除をされるような敗北をしたときには、「日本精神」を抜き去るコントロールを勝利国が行なう歴史を知らなかったのでしょう。

----軍人教育はこういうことを教えない----
戦いを避けて臥薪嘗胆で行なえば「日本精神」はより強く残ったはずだから、今の日本のような無様な状態には絶対にならなかったでしょう。
帝国陸海軍に陶酔している人は、米国との戦争をあの時避けていたら、もっと情けない日本になっているといいますが、それは誤りであると史実が証明しています。日清戦争後に、我々日本はロシア・フランス・ドイツからいわゆる三国干渉を受けそれに屈した。それで、日本は情けない国になったでしょうか。我々は切磋琢磨し、日露戦争にも勝つ国となった。もっと昔では、家康は信長の圧力に屈して、妻と長男を殺さざるをえなかったが、それで家康の国は情けないものとなったであろうか。家康は秀吉の圧力にも屈して、秀吉の前に頭を垂れ平伏した。しかし、天下を取ったのである。状況不利となった時に、果断に引き下がる勇気が、真の勇気である。その勇気のなさが、今日の日本を作ったといっても過言ではない。= おわり =
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▼▽ 心が元気になる話 ▽▼
☆ ほてい葵に込めた独立 ――――― hideおじさん

「ほてい葵」といってもピンと来ない方が多いだろうか。別名をウォーターヒヤシンスといい、薄紫の美しい花を開かせる。日本のどこでも目にすることのある水草だが、葉っぱの下の部分がぷっくりと膨らんでいるところが布袋さまのお腹に似ている。よく金魚鉢に入っている水草と言ったほうが判りやすいかもしれない。ーーーこの水草、ベトナムでは「日本の花」と呼ばれていた。
ベトナムは、ご存知の通り中国の圧力にさらされ、朝貢で命脈を保ってきた。清が英国とのアヘン戦争に破れ衰退してホッとしたのもつかの間、今度は清戦争で清の代わりにフランスが乗り込んできた。人頭税、結婚税、葬儀税等々、思いつく限りの税金をベトナムに掛け、挙句にアヘン専売公社を作りアヘンを売りまくった。余談だが、イギリス、フランスなどは、しこたま麻薬で儲けたところで日本が関わり始めると、人道的に問題と売買禁止を世界に訴えた。戦後「日本は中国で阿片を売って戦費を稼いだ。汚い、国際信義にもとる」と非難した。自分たちのことは何事も無かったかのように振舞っているが、目くそ鼻くそとはこのことだ。清にも太刀打ちできないベトナムは、清をも打ち負かす白人のフランスに楯突けるわけもなく、自らの不幸を嘆いていた。ところが、フランスよりも強大な大国ロシアが、自分たちと同じ肌の色をしたアジアの日本に負けたともたらされる。その武勇伝は歌謡師によってベトナム中に広められ、民衆は興奮し、その熱情が民族運動に繋がっていく。
ベトナム維新会の代表ファン・ボイ・チャウは武力蜂起を考え武器援助を日本に依頼するも「まず人材の育成を」と諭され、一気に日本への留学が進んだ。大隈重信、犬養毅などから大いに影響され、ベトナム民衆と日本の意識格差に驚愕し「ベトナム亡国史」「遊学を勧る文」などを執筆、これを読んだベトナム青年が続々と日本留学に渡ってきたのだった。ーーーその中にはベトナム王朝の王子も含まれていた。これを「東遊運動(トンズー運動)」といい、ベトナム独立の礎になったと言われている。しかし、1909年、日仏協約によりベトナム留学生は日本を追われることになるのだが、残った留学生の、生活から活動資金まで援助していたのが「浅羽佐喜太郎」である。
苦しい生活に困り果てたファン・ボイ・チャウは恥を忍んで浅羽に無心した。「今まで、学校の入学から何から何まで世話になって、満足に礼もできていないのに、更に援助のお願いは申し訳ない」との手紙に、「今はこれだけしか無く申し訳ない」としながらも、浅羽は1700円という大金で応えた。(当時、小学校の校長の月給が、だいたい18円)浅羽の援助はお金だけではない。日本を逐われることになったベトナム留学生を匿ったり、密かに脱出する手立てにも協力した。浅羽は、ファン・ボイ・チャウが離日した次の年に43歳でこの世を去る。亡命先で訃報を聞いたベトナム独立運動家たちは大いに悲嘆にくれたという。大正7年、ファンらは浅羽の報恩碑を建てたいと日本に渡ってくる。少ない資金しかなく全く足りなかったのだが、浅羽の地元の協力を得、念願の報恩碑が建てられた。
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我らは国難(=ベトナム独立運動)のため扶桑(日本)に亡命した。公は我らの志を憐れんで無償で援助して下さった。思うに古今に類なき義侠のお方である。ああ、今や公はいない。蒼茫たる天を仰ぎ海をみつめて、われらの気持ちを、どのように、誰に、訴えたらいいのか。ここにその情を石に刻む。蒙空タリ古今、義ハ中外ヲ蓋ウ。公ハ施スコト天ノ如ク、我ハ受クルコト海ノ如シ。我ハ志イマダ成ラズ、公ハ我ヲ待タズ。悠々タル哉公ノ心ハ、ソレ、億万年。越南光復会同人
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日本に留学した多くのベトナム人の目に留まったのが「ほてい葵」である。汚い池でもしっかりと根を張り、増えていく。そして慎ましやかに薄紫の花を結ぶ。いつしかベトナムに持ち込まれ、人々が気づいた頃にはハノイのグラン・ラックの水辺には「ほてい葵」が咲き乱れていたという。その花に、ベトナム人は自らを照らし合わせ、いつしか「日本の花」と呼び夢と期待を寄せたのだった――――。ベトナムの地に根を張った「日本の花」は、戦後、数々の試練を乗り越え「独立」という花を咲かせている。ーーーここにも歴史に埋もれた日本人がいた。
   おわ