【本気が作る「やる気」人間】 第2講 手を差し伸べれば、挫折から成長に(日経) | 日本のお姉さん

【本気が作る「やる気」人間】 第2講 手を差し伸べれば、挫折から成長に(日経)

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*【本気が作る「やる気」人間】 第2講 手を差し伸べれば、挫折から成長に(日経)
早稲田大学国際教養学部に通う4年生の岡原光希は今夏、迷いのないすがすがしい笑顔でロンドンへと飛び立った。「将来は、自分の会社を起業したい」。入学当初、抱いていた夢である外交官ではないが、新たな目標が彼女の中に生まれていた。数年前までは故郷の宮崎を離れ東京での1人暮らしに戸惑っていた岡原を、異国の地に行く勇気を与えたのは同学部教授のカワン・スタントだ。 2年前、岡原は真剣に悩んでいた。「自分は落ちこぼれ。周りの優秀な人たちに比べて自分は何のスキルもない。親の期待に背くけれど、学校を辞めたい・・・」と。 宮崎県の公立高校を優秀な成績で卒業し、晴れて早稲田大学に合格したのは3年半前のこと。新しい環境で自分を高めていき、将来は得意の英語を生かせる外交官になりたいという夢を抱いていた。自信と希望に満ち溢れたキャンパスライフ。だが、岡原は出鼻をくじかれてしまった。高校時代は、周囲も自分自身も、英語はできる方だと思っていた。しかし早稲田の国際教養学部、通称、国教は、学部の方針から帰国子女を積極的に入学させている。同級生にはネイティブのように英語を話せるものがたくさんいる。帰国子女の同級生に比べれば、自分の英語力などは、大したレベルではない。そう痛感させられた。それでも気心の知れる仲間ができれば、悩みも吹き飛ぶこともあるだろう。もちろん岡原も、普通の新入生のようにサークルや部活に入る。しかし、うまくなじめない。地方から出てきたばかりで、心を許せる友達もなかなかできなかった。高校まではお母さんがそばにいて、ずっと相談に乗ってくれた。でも、東京で一人暮らしをする立派なオトナになった今、悩みは自分一人で解決しなければいけないと思い込んだ。親や地元の高い期待と、それに応えられない自分――。岡原の足は次第に大学から遠のくようになった。

・放棄した海外留学
岡原の通う国際教養学部では、2年生時に海外への留学が義務づけられている。しかし、岡原はそれをしなかった。学校生活になじめず、大学の授業もろくに出なくなってしまった自分が、外交官なんかになれるはずもない。そう思い始めると、「留学しよう!」という意欲は、なくなってしまった。「いっそ、大学を辞めてしまおうか」。悩みで挫けそうになった時、岡原はスタントに出会った。何気なく読んだ講義案内から、スタントのゼミのタイトルが彼女の目を引いた。「潜在能力をどう見い出し、モチベーションをどう高めるか」 これは今の自分に最も必要なテーマだと感じ、受講を決めた。ゼミに通い始めた岡原は、次第にスタントの情熱を持った教育に感化されていく。スタントは学生一人ひとりに興味を持ち、接してくる。「学生とコミュニケーションを取りたがる先生に、大学で初めて出会った」と岡原は当時の感動を振り返る。スタントの授業に出てから、岡原は、「なぜ今、自分がこの大学に通っているのか」「大学で何を学び、将来何をしたいのか」「今の行動が将来なりたい自分の姿に結びついているのか」を真剣に考えるようになった。そこで改めて気づいた。大学に進学したのは自分の考えというより、どちらかと言えば高校の教師など周囲の勧めに従ったものだったということに。 大学進学に際して持っていた希望が、確固たるものではなかった岡原には、初めて経験する東京での一人暮らしがもたらす不安を乗り越えるだけの強い心は芽生えていなかった。だから、小さな変化や不安が、彼女にとっては大きな悩みになり、その重みに耐えられずに挫折感に苛まれた。しかし、スタントとの出会いによって岡原は自分が大学に通う意味を見つけ出したのだ。自信を失った岡原が、新たな目標を見つけて異国の地へと旅立ったように、人は小さなきっかけで挫折を成長に変えることができる。 「こんなはずではなかった」「思っていた姿と違う」。新入社員や若手社員の多くにそびえ立つ、誤解という名の高い壁。ビジネスの現場で、よく見らける光景だ。上司や先輩は、かつて自分が悩んだその事実を忘れ、新入りたちに厳しく対応する。「考えが甘い」「社会をなめるな」。誤解の壁を乗り越えられない者は必然的に退職、転職を迫られてしまう。だが、その挫折経験を成長に変えられるのであれば、上に立つ者は一概にそれを甘えと切り捨ててしまうのは、得策とは言いづらい。上司の接し方によって、人は考え方だけでなく、人生そのものも変えることができるのだ。

・「自分は落ちこぼれ」と決めつけるな
スタントは言う。「優秀な人ほど、想像していた自分の姿とかけ離れた新たな生活によって、挫折感を味わいやすい。挫折を経験したことが少ない若者にとって、再起に向けて自分から動き出すのは難しい」。一方で「その挫折がちっぽけなものと気づけば、どんな人でも希望に満ち溢れた将来を思い描くことができる」と自信を示す。その自信を裏づける実績がスタントにはあった。早稲田大学の教授になる前、桐蔭横浜大学で教鞭を執っていた時のことである。日本で初めて教えた学生たちは、ひどく後ろ向きな者ばかりだった。いわゆる有名大学にいない自分たちは、「負け組」と思い込み、明るい未来はやって来ない、と決めつけてしまっていたのだ。そんな自らを落ちこぼれと思い込む学生たちに、スタントは自分の過去を語りかけた。 故郷のインドネシアでの生活は貧しく、学校の閉鎖によって修学の機会も奪われた中、必死に独学で勉強に励んだ。留学の費用を稼ぐため、兄が経営する電気屋で働きながら、店の屋根裏部屋を改装して独学で電子工学を学んだこと。そして留学生として来日し、博士号を取得しても、働き口が一切見つからなかったことを。

・4つの博士号は、挫折の数
スタントは1974年末に来日し、アルバイトで留学のための学費を稼ぎつつ日本語を勉強した。2年半後の77年に、電子工学で有名な東京農工大学を受験。留学生で合格したのは工学部全体でたったの2人という狭き門だった。学生時代には「インドネシアのホープ」として、福田康夫首相の父である福田赳夫元首相が開く留学生の集いに招かれたこともあった。もっと勉強がしたいと考えたスタントは、東京工業大学の博士課程に進む。工学博士号を取得した時には、34歳になっていた。日本語も話せるし、知識もつけた。万全の態勢で就職活動に励むも、30代半ばのインドネシア人を欲しいという会社は、当時一つもなかった。外国人としてのハンディがあるなら、それを克服するだけの知識をさらにつければいい。そう考えたスタントは東北大学で医学博士を取得する。しかし、2つの博士号を持ってしても、仕事は見つからなかった。ある大学で講師の仕事を紹介してもらえる話が舞い込んだが、数日後には「なかったことにしてくれ」と言われたこともある。理由は「東南アジア人が日本人を教えるのはおかしいから」だった。声が出ないほど泣く経験は、スタントにとっても初めてのことだった。 どれだけ必死に学んで結果を残しても、外国人のスタントには厳しい日本社会に変わりはない。その後、薬学、教育学と合計4つの博士号を取得したスタントの才能を認めたのは日本ではなく、米国の大学だった。准教授として教壇に立つこと5年。日本の大学から誘いの声がかかる。それが桐蔭横浜大学だった。自分を裏切り続けた日本社会。普通なら「即お断り」の返事をするだろう。しかし、スタントは誘いを引き受けた。「4つの博士号は、ボクが周りの学生よりも優れた学生だったから取ったのではない。それだけボクの挫折が、他人よりも多かったということ。日本での挫折は、ボクに多くの学びの機会を与えてくれた。日本の経験を抜きにして、自分の成長はなかった。そんな日本の社会に、ボクは本当に感謝している。だからこそ、自分が感じた幸せ以上の恩返しをしたかった」厳しい挫折体験で、人生を狂わせてしまう人もいる。しかし、スタントはその体験と正面から向き合い、全力で戦い、それを乗り越えてきた。だからこそ、「恩返し」という言葉が自然と出てくるのだろう。挫折から逃げようとする若い人たちにも、同じ感情を味わってほしい、スタントは心から願っている。

・努力すれば、結果は必ずついて来る
「ボクと同じ体験はできないかもしれないけれど、貧しく厳しい環境で生まれ育ったボクがこうして日本の大学の教壇に立っている。環境が悪い、自分は落ちこぼれと決めつけないでほしい。本当に努力してみれば、結果は必ずついてくるんだから」桐蔭横浜大学の教授時代、スタントは厳しい講義で臨み、その分クリアできれば学生たちを存分に褒めた。すると、彼ら彼女らの目の色が変わってきたのだ。講義はほとんど英語で、時には学生にプレゼンを要求する。プレゼンは当然英語でしなければいけないし、時間もきちんと計る。聞く側の学生には、そのプレゼンを聞いたうえでの質問を課す。最初はうまく英語を話せず、緊張から下を向きながら話す学生や、的を射ない質問をする聞き手の学生たちばかり。しかし、回を重ねるごとにその顔は自信に満ち溢れるようになった。学会など有名大学の学生たちと一緒にプレゼンをしなければいけない場面で、スタントの教え子たちの成長が際立った。有名大学の学生たちは下を向いたまま用意した原稿を読む中で、スタントの教え子は原稿を見ず、聞き手に視線を送りながら時間をフルに活用してプレゼンをした。誰よりも堂々と自分の主張を伝えられるようになった。この経験を基に、自信を持って就職活動に臨めるようになり、スタントの下で鍛えられた「自称落ちこぼれ」の学生たちは、企業から「求められる」存在になった。長年、「求められない」存在であったスタントが、日本で恩返しをした瞬間である。

・上に立つ者こそ、本気になれ
教壇の場所を早稲田大学に替えてからも、スタントの授業風景に変わりはない。冒頭の岡原はスタントに「夢破れてやる気を失い、どうしていいのか分からない」と悩みを打ち明けた。「1つの夢がなくなったからと言って、すべてが終わったわけではない。ボクは何度も日本で働く夢を打ち砕かれたけれど、今はこうしてみなさんの前で授業をできるまでになった。あなたにだって、必ず社会に貢献できる能力があるでしょう。それは何ですか。一緒に考えていきましょう」
落ちこぼれに厳しい現実社会の中で、スタントはどんな学生にも期待を持って接してくれる。そして学生たちに問う。今この瞬間の行動は、自分が目指す将来とどう結びついていくのかを。「将来について、特に考えたことはない」そんな多くの学生は、スタントに尋ねられると必ず最初は躊躇するが、初めて今の自分を見つめ直し、そして将来を考えるようになる。挫折は人を苦しめる。だがその分、人を成長させる。だからこそ、スタントは苦しむ学生たちに手を差し伸べる必要性を説く。「どんな人にだって、やる気を起こさせるスイッチがある。大多数の人は、それを自分一人で見つけることができない。それを探すには、上に立つ人間がホンキになってコミュニケーションを取らなければいけない」ただ優しくするのが良いというわけではない。時には厳しく、時には包み込むような優しさを示す必要がある。何が最適なのかは、その人と本気のコミュニケーションを取らなければ分からない。相手からの声を待つだけでなく、気づけば自分から声をかけ、悩みを打ち明ける背中を押してあげる。それでこそ、若手の挫折を強みに変えることができるとスタントは語る。
(文中敬称略、以下次号)