西 村 眞 悟 | 日本のお姉さん

西 村 眞 悟

民社党
       No.368 平成20年 8月30日(土)
                  西 村 眞 悟 (2回目の掲載です。)
本日(八月三〇日)の産経新聞「産経抄」に、民社党のことが書かれていた。この「産経抄」に触発されたので、次の通り述べておきたい。
私は、民社党の最後の公認候補として平成五年に始めて議席をいただいた。その後、平成六年十二月九日、第四十回臨時党大会で民社党は解党した。民社党は解党しても、私は民社党なき民社党路線を貫いてきたと自負している。それは、党歌にあるとおり、「今ぞ集う 勤労の同志、今ぞ集う愛国の同志」の路線である。従って具体的に拉致被害者の救出と尖閣諸島防衛に取り組むことは民社党路線としては当然のことである。勤労の同志も愛国の同志も、国民と領土を守る為に集うのである。何処かの組織で流行っているゴルフをするためではない。さらに、誇りある国家の防衛即ち国防は、国民が担うのであり、国家の国防体制の確立は当然のことである。春日一幸民社党委員長は、防衛大学校の卒業式に必ず出席していた。従って、全国各地の拉致被害者救出運動や歴史教科書を是正することを目指した運動の参加者に民社党出身者が多いのは当然のことである。政府認定の人達だけが拉致被害者ではない。政府認定の他にも被害者は大勢いる。政府が知ろうと努力していないだけだ。この政府に頼らずに、人知れず苦しんでいる拉致被害者発見のための調査に取り組んでいる特定失踪者問題調査会代表で拓殖大学教授の荒木和博氏は、民社党の書記局にいた。そして民社党解党の日に、ビルの屋上で最後まで民社党の旗を振っていた。

 さて、本日の「産経抄」に戻る。この度民主党を離党した議員に関して、「限りなく『何でも反対』の旧社会党に近づきつつある民主党に嫌気がさした面も強い」と述べられている。しかし、これは正確ではない。今の民主党は旧社会党に近づいているのではない。既に、それ以上にたちが悪い。旧社会党には、マルクス・レーニンもしくは毛沢東という左翼イデオロギーがあり理屈があり、この理屈に従って自由主義陣営に属する日本国の運営に対して「何でも反対」をしていたのだ。つまり、馬鹿は馬鹿なりに理屈が通っていたのである。 しかし、今の民主党には理屈がない。理屈がないのに反対する。しかも理屈がないから「大連立合意」もすぐできる。それが通らなければ泣いてまた戻る。戻ればまた「何でも反対」になる。また、旧社会党は馬鹿な理屈であれ理屈をもっていたから、そこにいる議員は、その理屈に納得してそこにいたのであろう。 しかし、今の民主党には理屈がないのであるから、そこにいる議員は何に納得してそこにいるのだろうか。
民主党内には「国連中心主義」とは馬鹿の言うこと、我が国のインド洋におけるプレゼンスは必要、日銀総裁は政府の人選でよい、こう思っている議員が多くいるのを知っている。何故彼らは、自分の考えと違う国益に反することに羊のように従っているのだろうか。つまり、民主党は政党ではなく、そこに住み着くと、賄いがあり、税金から補助があり、何かと便宜を図ってもらえる○○収容キャンプなのだ。
かつて、小渕総理の時の自・自連立解消後、衆議院本会議場に国旗日の丸を掲げる提案が為された。私がいた自由党は当然賛成するものと疑わなかった。しかし、責任者は「日の丸を掲げることに反対した」という。「えっ、何で」と驚く私に対して、「野党ですから」と言う答えが返ってきた。国旗掲揚に反対が当然と信じ込んでいる顔であった。この人達が今民主党の幹部である。彼らは、仮に自らの信念に反しても、野党になれば何でも反対するのが政治だと思いこんでいる。この病気を目の当たりに見てきたので、先の「大連立の合意」と、それを泣いてあきらめてまた「反対」に戻るいきさつは手に取るように解った。それにしても、この時、党首自身が「民主党には政権を担当する能力がない」と言ったのである。これが間違っているのならば、党首選挙が無いのがおかしい。正しいのなら、今回のように離党者が出るのは当然である。離党者が少なすぎる。よって、要するに、旧社会党より今の民主党の方が「たちが悪い」。
ともあれ、東アジアの状況と我が国の現状の中で、現在進行中の政界再編を促す底流については、これ以上触れずに、後に報告することにして、ここは、民社党のことに戻り、次のことでひとまず筆を擱いておきたい。民社党の口伝。民社党の先輩は次のことを教えてくれた。「世の中で、正しいことをみつけるための手間のかからない便利な方法がある。それは、社会党を見ていることだ。社会党が反対していたら賛成するのが正しい。賛成していたら反対するのが正しい」つまり、社会党にも存在意義があったのだ。今の民主党にもこの意味での存在意義があるのかも知れない。日本国家の将来のために必要なのは、民社党的集団である。民社党出身者として、本日の産経抄氏に感謝する。(了)
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 アフガンの大地に斃れた青年伊藤和也さんの帰国
             No.369 平成20年 8月31日(日)
                       西 村 眞 悟

昨三十日、アフガンで殺害された伊藤和也さんが遺体で帰国した。享年三十一歳。出迎えたご両親は、父正之さん(六十歳)、母順子さん(五十五歳)。父正之さんは、「和也が死に場所を見つけたことがうれしい。和也は幸せだった」と語り、息子に「お帰り」と声をかけられ、
母順子さんも、「お帰りなさい」と語りかけられたという。そして、父親は、和也さんがアフガンの人々のために取り組んでいた仕事について、「事業がすべてストップすると、和也が持っていた志が頓挫する。安全を第一にし、二度と起きないように取り組んで欲しい。」と述べ、さらに、アフガンから遺体に付き添って来たNGOの中村代表には、「和也を無事に連れ帰っていただいたことに感謝の言葉を述べたい」と語られた。この伊藤和也さんの帰国とご両親の出迎えに、深い感動をうけ、ここに謹んで心よりご冥福をお祈り申し上げます。テレビでアフガンにおける伊藤和也さんの写真を見たとき、嗚呼、我らは、このすばらしい青年を失うのかとの痛恨の思いに駆られた。
 そこには、厳しい環境の中で、日々人の役に立つ手応えをつかんだ無欲無私の青年の笑顔があった。髭を生やしたその風貌と姿は、和也青年の活動が現地に溶け込みアフガンの人々と共にあることを示していた。なにより、荒々しくも充実した青春を過ごす青年の姿であった。従って、自分を迎えたご両親の言葉に、彼は心の底から感謝したであろう。深い安堵と共に両親の元に帰れたであろう。そして、このご両親の言葉こそ、誠に奮闘するすべての青年に送る言葉である。この言葉は、息子である和也さんのみならず、人知れず、悩みそして戦い、人々の為になる実践の人生を目指す全ての青年に送られる言葉である。 さらに振り返れば、六十数年前には、戦地で斃れ靖国神社に祀られた多くの息子に送られた多くの親の言葉でもある。「和也が死に場所を見つけたことがうれしい。和也は幸せだった。お帰り。」時代が如何に変遷しても、親が遺体で帰った息子に語りかけた言葉は変わらない。これが我が国の歴史を貫く心情そして情緒である。その心情と情緒に根ざした真の意味の信仰である。
 私と同じ歳の父正之さんが、息子の和也さんに語りかけた言葉に、無限の共感を覚える。父の正之さんは、遺体で帰った息子を「無事に連れて帰ってくれた」と感謝したのである。従って、親にとって息子は死亡してはいない。もちろん、息子も確かに親と共に生きている。青年の充実した人生を祝福し、永遠の安らぎを祈る。以上、慰霊の月、八月の末日に当たり、記す・・・。(了)