縄文塾通信◎多民族共生国家の幻想 その2 ( トラネコ ) 日本人必読!!
ようちゃん、おすすめ記事。↓縄文塾通信
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◎西洋史論の欺瞞性を衝く!(3)
──遊牧と農耕は同根か 中村 忠之
■□ 狩猟→遊牧文化と採集→農耕文化
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われわれの基層的生活文化である「狩猟と採集」については、いろいろな書籍を繙(ひもと)いてみても、「農業革命という全く新しい生活手段を獲得するまで、ヒトという種は狩猟採集という生活を営んできた」というふうに、もっぱら「狩猟採集」と一括して語られてきた経緯がある。
この「狩猟採集」という言葉が(農業革命以前の生活手段を指す)一種の慣用語として使用されているだけならばなんら問題はない。ただそれが、あたかも有史以前のヒトの共通した生活基盤であるかのように、安易に使用されてきたところに問題がある。たとえば、ある種族の棲む場所が豊かな森である場合と、広大なサヴァンナだった場合では,当然食料とする対象が違っていてもなんら不思議はない。それぞれ棲む環境に適応して生き延びてきたヒトにとっては、当然住む環境によって、獲得しやすい食料を選ぶことになるし、当然そうした環境=風土が、肉体構造だけでなく、行動原理・精神構造の違いを生むことになる。 ヒトがチンプから分かれて地上におずおずと降り立ち、サヴァンナで、ハイエナ・ジャッカル・リカオン、それにコンドルなどと一緒に、スカヴェンジャー(腐食漁り)の生活を送っていた原始のヒトが、狩猟という1段上のプレデター(捕食者)という地位を獲得した時期は、原始の時代から何百万年も経た時代、今よりわずか数万年前の新石器時代まで待つ必要があった。百歩下がって、もしヒトがその始原期から狩猟と言う行為を行っていたとしても、サバンナでの狩猟で得たものは、ごく弱い小動物であり、捕食者のおこぼれであり、駝鳥のタマゴやシロアリであったはずであり、一方森という生活環境での生活を行ってきた種族とは、まったく違った生活様式を取り、全く違ったものを食べてきたはずだ。森に棲むヒトでは、当然果実や若葉や木の芽、それにキノコや昆虫の幼虫であり蜂蜜であり、爬虫類や樹上の鳥のタマゴだったはずである。
■□ なぜ「狩猟採集」なのか?
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ではなぜ「狩猟と採集」を一括りして考えるようになったのだろうか。これはどうも西洋文明の発祥の地が、アナトリア高原からチグリス・ユーフラテス河流域を経て、エーゲ海に面するレバノン・シリアという*レヴァント回廊に到る、「乳と蜜の流れる肥沃の半月(三日月)弧地帯(ファータイル・クレセント=The Fertile Crescent)」であったことによるようだ。実は1万年ほど前、この地で狩猟採集から脱して遊牧・農耕という2つの農業様式が、ほぼ同時に発生している。そのためもあって西洋発の文明史論は、「農耕と牧畜といった二項対称の方法は、起源的にも社会構造的の視点からも、妥当なものとは考えられず、異質の2種類の構造類型として抽出することは不可能である」 (ブリタニカ・電子ブック版「農耕文化」の項より)という立場を取っている。言い換えると、遊牧と農耕が不可分のものだと謂う発想を遡上すれば、当然「狩猟採集」という一括生活様式に行き着くことになる。また当然のことながら、狩猟の民でも採集という作業、採集の民でもささやかであっても狩猟という行為は存在した。要は一方が主体的行動であって、他方は補助的なものだという事実を認めなければならない。ここに2つの「似て非なる」生活様式の存在を認識する必要がある。
ヒトによっては、「ごく些細なことだ」と思われる向きもあるだろうが、なぜ筆者がかくもこだわるのかといえば、狩猟という生活様式をほとんど採ることなく、採集という生活様式を続け、その後純粋な農耕活動に移行して、ほんの100年余りまで継続した日本という稀有な例が厳然と存在したからである。これこそ謂うまでもなく「日本」であり、そこには狩猟→遊牧(あるいは牧畜)に代わる「漁撈」が付随していたのだ。
■□ 狩猟と採集とは違った文化である
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考えてみればすぐにわかることだが、「遊牧という生活手段は、それまで草原で狩猟を行ってきた民の発明であり、農耕は森の中で採集を行ってきた民の発明」であって、もともとはそれぞれ別々に獲得してきた生活手段であり、たまたま中東においてこの2つの生活手段が並行して行われていたとしても、実際には異なった文化であったことは自明の理であり、それを一括に論じることこそ不自然というものではないかある。
遊牧民族の発祥だが、不安定な狩猟という生活手段から脱するために、オスを捕獲してそのハーレムをすんなりと入手した。子供から母乳を横取りする事を憶え、不要なオスを去勢して肉用に利用した。人的な交配によって次第に従順な家畜に変身させていった。狩猟→遊牧の民による荒っぽい洗礼を受けずにきた日本人は、ついに「去勢(宮刑・宦官)・割礼・纏足」など、遊牧民に発する(身体を傷つける)文化を許容できなかったし、食料調達の為の「家畜」という生活様式を、遂に持つことはなかったのである。たとえば、ウマは(軍事用も平時も)乗馬用としてのみ使用されたし、牛は農耕用や貴族の牛車(ぎっしゃ)としてだけ使用されたし、しかも去勢という手段さえ持たなかったのである。さて狩猟だが、「草原の狩り」と「森林での狩り」とに分類する事である。この場合、草原の狩りはプロト遊牧ということになり、日本と違って平坦地にある森林での狩りは、農耕そしてそれに付随する有畜農法の前駆だと見ることが出来る。すなわち、前者の狩りの対象から遊牧に移行したのはヒツジであり、ヤギ・ウシ、それに乗用としてのウマであり、後者の場合──遊牧ではなく有畜農業としての──イノシシ→ブタであり、次いでヤケイ(野鶏)→ニワトリとなる。同じ狩りでも、両者の間には大きな違いがある。しかも日本という一切遊牧民による侵略を受けなかった民族の場合、明治の世に至るまでついに「畜産」というシステムを知らぬままだったことを知るべきである。西洋史においては、遊牧の民が農耕の民を征服し、土地を争奪し支配していったことは紛れもない事実なのだが、どうも西洋の史家は、こうした事実を隠蔽(いんぺい)したいか、あるいは無視したいかのように思えてならない。加えて、「万物の霊長」であるヒトが、捕食される側の弱い種であったという出自を、キリスト教の教えからも、決して認められないという立場から、みずからを狩猟する種に押上げたのかも知れない。
もっとも今までも、「狩猟採集」という一括的視座はそのままにして、狩猟の民・農耕の民という2つの民の持つ文化や価値観の違いについては、数多く語られて来たのだが、そもそも「起源的に出自を一つにする」というあいまいな姿勢を続けたままでは、ヒトという種を一層わかりにくいものにしてきただけある。たとえば忘れてはならない生活手段としての前述の漁撈がある。これなど西洋史観ではまず登場しないが、地球規模で見てきた場合、遊牧を持たなかった代わりに漁撈を生業としてきた民の存在があり、しかもいまや牧畜・農耕を上回る巨大な食料産業として現存しているではないか。またわれわれ人類は、単一の種でありながら草原・森それに川辺・海辺などという、さまざまな風土環境の中で、それぞれの場所に見合った生活様式を採ることによって別々に築き上げてきた。それぞれの場所で醸成された余りに違う価値観や思想、そして感性や生き様(ざま)があることを考えた場合、太古はいざ知らず、農業革命前夜のヒトの生活様式を、従来の「狩猟採集」という一括的視座、包括的な考察で論ずることは決して適切ではない。
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◎多民族共生国家の幻想 その2 トラネコ
さて日本にこの多民族共生国家政策をいれるとどうなるか?もう既に答えは現実に出ているのだ。自民党の推進する移民1000万人受け入れ政策は、はっきりいって中国人を主として後は朝鮮半島人の受け入れである。朝鮮半島人は既に約60万人の在日半島人がおり、日本に帰化した者も多い。おそらく帰化した半島人と在日を合わせると100万人は軽く越えているだろう。そして近年は中国人の滞在者が半島人を上回っている。さて問題を朝鮮半島系の移民に絞ると、彼らの文化を尊重した受け入れ政策はすでに日本では実施されている。たとえば北朝鮮系の民族学校を日本の公立学校と同じ権利にして補助金も出している。
しかし民族学校ではキム・イルソン、ジョンイル親子の御真影を教室に掲げ、日本を悪し様に罵る教育が民族教育として実施されている。
拉致家族会の署名活動には公然と暴言や唾を吐き、しかも生徒や教師の中には「天皇を殺せ!」と公然と言う者までいる。また朝鮮総連の施設も近年やっと固定資産税がかけられるようになったが、ここは一種の治外法権を有する「大使館、公使館」の性格をもっている。無論そんな法律はないのが、習慣的に既成事実化している。こんな反日活動を公然とやっている危険な団体を、異文化尊重としていいのだろうか?
同じことが半島の両国で日本人がやって許されるのだろうか?つぎに中国系の移民の場合だが、中国は中国共産党一党独裁の軍国主義で非民主主義の国家である。これは北朝鮮もまったく同じ国家体制である。日本が受け入れるのは中国人の亡命者ではないのだ。そのような日本の相容れない正反対の国家体制の国から正式に移民を受け入れるとはどういうことか?
しかも中国は日本を潜在敵に支配強化しつつあり、工作員を堂々と移民として送り込む危険性はないのか?
しかも中国移民を積極的に受け入れるなどと、戯言ほざくキチガイ政治家が多いのに呆れる。中国のハニートラップやマネートラップで篭絡された政治家は山ほどいると推測する。 常に中国の立場で発言する政治家はほぼ間違いなく、篭絡されたクズ野朗である。日本に移民する外国人とくに中国・朝鮮半島人には厳しいテストと審査を課すことを提案する。とくに日本国家に忠誠を誓わし、君が代を完全に斉唱できること。しかも共産主義思想を礼賛しないこと、日本語を一定レベル以上に話せることなどを盛り込む。
オランダではすでにモロッコ系、トルコ系移民には移民審査テストを実施すると政府が発表した。06年3月8日;オランダは十五日から同国への移住希望者に対し、オランダ語と同国文化についてのテスト受験を義務化する。移民受け入れに関し年齢や学歴、資格等を点数で換算し、一定水準に達した人を受け入れるポイント制を設けた国はあるが、テストを導入するのは世界で初めて。テストは世界の百三十八のオランダ大使館・領事館が実施。三十分間、語学のほか「オランダの国会の所在地はどこか」など、同国への順応能力を試す質問に電話で答える。受験料は三百五十ユーロ(約四万九千円)。準備用テキストやCDもあり有料。また、同国に長期在住している外国人で学歴八年以下の人には「同化のための授業」を受けることも義務付けた。ちなみに、オランダのモロッコ・トルコ系移民の70万人はオランダ語を話せない。100万人のうち70万人がオランダ語を話せないし、覚えようともしない。わたしは個人的には多国籍の各国、各人種・民族がある程度の均等な数が、日本に移民することは、日本人の国際感覚や異文化を知る上でもいいことだと思う。しかし中国一国の大量移民の受け入れは断固反対する。
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◎厚生労働省の非生産性的構造を衝く! おおなだ
日本の生産性問題を追っていくと、”生産性的”の対極にある官の仕事の代表例として厚生労働省に触れざるを得なくなった。
★ 分散化した収集システム
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官公庁の仕事のあり方には腹立たしいものがあるがその代表例は、税金、厚生年金保険料、政府管掌健康保険料、雇用・労働保険料、国民年金保険料、国民健康保険料などの公金徴収システムである。国民健康保険の扱いを厚労省保険局の出先とすれば、税金以外は全て厚生労働省の管轄でそれぞれ独立した特別会計をもつ。但し、国民健康保険特会は各自治体に所属する。それぞれが独立したシステムをもつということは、それぞれに別個の総務や会計が付属するわけで存在自体に重複した費用がかかる。
★ 厚生労働省の実態
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厚労省の外郭団体である国立社会保障・人口問題研究所の資料を参考にすると、平成17年度の年金や医療など社会保障給付に費やした金は88兆円で、内、高齢者関連費61兆円(内年金46兆円)と全体の70%を占めるから、確かに高齢者はお金を食うのである。他方、関連収入総額は118兆円もある。収入と支出の差額30兆円について同研究所は管理費及び給付以外の財源も含まれると簡潔に記している。
30兆円の3/4の22兆円は国税で(他は地方自治体分)、丸ごと厚生労働省の年度一般会計予算である。これは2位国土交通省の5兆9千億円を大きく上回る最大省庁である。そして、社会保障給付を差配する関連組織が多数ぶらさがる。所轄する独立行政法人は14で職員数は7万人と他省庁を圧倒する。さらに厚労省関連の公益法人はダントツの7500もある。”厚生”の 美名の下にいかに自己増殖し続けたかが分かる。かくして、厚労省およびその傘下を含めて総勢12万人の大所帯で、橋本行革により旧厚生省と旧労働省をとりあえず足したまま何一つ効率化を果たせず今日に至っている。おまけに、旧厚生官僚と旧労働官僚は未だに他人同士だという。効率化どころか、社保庁のデタラメ振りや彼らが徴収した保険料を保険給付以外にも数々の無駄使いをしてマスコミを通じて何回か伝わってきた。ここではその一例を紹介する。
★ 独立行政法人 雇用・能力開発機構にみる非生産性
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厚労省傘下の独立行政法人に雇用・能力開発機構というのがある。労働保険特別会計で運営されている。この機構が京都に580億円もかけて子供向け「私のしごと館」なるものを作った。交通のアクセスの悪い所に巨額を投じ、たちまちにして毎年20億円もの赤字を続け、開館わずか5年で廃止がきまった。結局、赤字を含め約700億円もの金を保険給付以外に無駄に費やした。小泉・竹中構造改革の懐刀であった高橋洋一氏によると、この特別会計は平成20年度予算で約5兆円の積立金を抱えている。しかも昨年度8千億円余らしたという。保険料率をもっと下げるべきと思うが下げないし、増大する医療費に回せばよかろうに各特別会計は独立しており無理だという。彼らの論理では、積立金とは「まさかの場合の備え」だそうだ。しかし、備えといえば限がない。この限りの無い部分を霞ヶ関埋蔵金と言う。この特別会計に毎年2千億円も税投入をしていたが、流石に財務省主計局は今年からストップした。ところで、蓄えれば何らかの形で運用しなければならない。かくして自己増殖した。この雇用・能力開発機構自体が職業能力開発センター、職業能力開発総合大学、・・・・協会など多くの公益法人を抱えている。当然のごとく厚生官僚の天下り先である。厚労省の7500にも上る公益法人も裸にすると各特別会計以外にも埋蔵金はもっと増えるはずだ。猪瀬正樹氏が解析した旧道路公団の構図である。他の先進国では、前述した税および各社会保険料の徴収システムは総背番号制で一元化されている。その方が効率的なことは皆解っているができない。一元化されているスエーデンでは社会保険の住所変更がネットで可能で、連動して税他の住所変更が同時になされる。できない理由は、上述したように養うべき子、孫や曾孫組織が多数ぶらさがり強固な政・官の既得権を形成しているからでもあるが、そればかりではない。
★ 厚労省の非生産性を許す土壌
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国民総背番号制にして徴収の合理化を図ろうとしたこともあるが、当時の社会党の反対は国民皆兵制に繋がるという信じがたい理由だった。
後に、それではと提案されたのが住民基本台帳ネットワーク構想である。これも今や殆ど潰れ状態である。現在の主たる反対論拠は個人情報保護である。住基台帳ネットワークの反対はもっともらしく聞こえるが、官公労の合理化反対闘争に他ならない。我々は住基ネットと聞いただけで様々な可能性を見出すが、彼らは職を守るため「できない理由」を必死で探す。そして見つけたのが個人情報保護法である。情報セキュリティーの技術進歩は著しいにも拘らず、この住基ネットの推進役が総務省の天下り先 財団法人地方自治情報センターだから一向に進展しないはずである。経済財政諮問会議の重要課題の一つが電子政府の推進だが、最大省庁の厚労省が前述の有様だから遅々として進まない。こうして所謂「公務員の一生安心システム」は守られ続けている。住基ネットはマスコミもこぞってその非を煽った。結果、マスコミは官の非効率を助けたのである。マスコミが一斉に声を大にするときは、必ず裏に大きく潜むものがいるから気をつけたい。
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クリスチャンの日本のお姉さんの意見。↓
「加えて、「万物の霊長」であるヒトが、捕食される側の弱い種であったという出自を、キリスト教の教えからも、決して認められないという立場から、みずからを狩猟する種に押上げたのかも知れない。 」
という部分は、なんのことやらよくわかりません。
聖書では神さまははじめの人、アダムに「あなたは動物たちを管理しなさい。」という言葉を
かけておられる。アダムは、動物たちに名前をつけて管理したのだけど、人間は神さまの命令を積極的に聞かずに、自分が神になろうとした。それで、地はのろわれ、動物たちもお互いに食い合うようになったし、
人間も動物に食われるようになったし、土地はイバラやアザミを生えさせて人間は苦労して食物を栽培して食べ物を手に入れ、女性は苦痛を伴いながら子供を生まないといけなくなった。
そう聖書には書いてある。しかも、女性は男性を恋こがれるが、男性は女性を支配すると書いてある。
たしかに、女性は恋をするし、男性がいないと何をしてもつまらないと思う人が多いような気がする。
支配されているかもよ。他人から見てどんなに変な男性でも、女性は恋をしたら、何もかも捨ててついていく。すごいことだと思う。そんな弱いところがある女性を男性は大事にしてあげてほしいです。