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<ビザンツ帝国(その1)>

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1 始めに

東ローマ帝国ないしビザンツ帝国について、これまでコラムを書いたことがないのは我ながら意外ですが、このたび、ロンドン大学のキングス・カレッジの古典後期史及びビザンチン史担当教授のヘリン(Judith Herrin)が' Byzantium: The Surprising Life of a Medieval Empire’を上梓したので、その概要の紹介の形でビザンツ帝国を取り上げることにしました。


2 ビザンツ帝国について

(1)従来のビザンツ帝国観

ローマ皇帝コンスタンティヌス(Flavius Valerius Aurelius Constantinus。272?~337年)が312年に改宗したのか、死の床で337年に改宗したのかはともかくとして、それまで迫害されてきたキリスト教徒の庇護者として、キリスト教会への寄進者として、かつキリスト教義の裁定者として成人後の人生を送ったことは間違いない。このコンスタンティヌスが330年にコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)にローマの都を移してから、同市が陥落する1453年までビザンツ帝国は続いた。

この間の皇帝は90名、大主教(patriarch)は125名を数えた。1007年までにはビザンツ帝国は東はイスラム教徒、西はノルマン人らに対し頽勢がはっきりしてきていた。1204年には西からやってきた第4次十字軍によってコンスタンティノープルが掠奪される。同じキリスト教徒にして同盟者であった連中は、この凶行を正当化するため、裏切りと偽計のビザンツ帝国はその当然の報いを被ったという神話を創造した。この神話に惑わされ、爾後西側世界においては、ビザンツ帝国を侮蔑する考え方が主流を占めた。

近代に入っても、フランスのヴォルテール(Francois-Marie Arouet。1694~1778年) は同じようなことを記している。イギリスのギボン(Edward Gibbon。1737~94年)は、その『ローマ帝国の衰亡』の最後をコンスタンティノープルの陥落で締めくくったが、ビザンツ帝国は、西側世界をかろうじてギリシャ/ローマ時代と結びつけたという意義しかないと記している。1869年にアイルランドの歴史家レッキー(William Lecky。1838~1903年)はビザンツ帝国について、「僧侶、宦官、女性達による毒殺、陰謀、忘恩のはかりごとが続く単調な物語だ」と書き記した。こういうわけで、ビザンツ的(Byzantine)とは、肥大した官僚制、無意味な儀典、文化的不毛、退廃、失敗の含意を持つ言葉になってしまったし、コンスタンティノープルと言えば、僣主、暴君、臆病者、宦官、柔弱者の都というイメージで語られるようになってしまった。


 (2)ヘリンのビザンツ帝国観

しかし私は、欧州の今日あるのはビザンツ帝国のおかげだと思う。ビザンツ帝国は、7世紀にイスラム教勢力に対する防波堤となった(注1)。

(注1)書評子の一人は、コンスタンティヌス4世(Constantine 4 。652~685年)の678年、及びレオ3世(Leo 3 。680?~741年)の718年における、コンスタンティノープル陥落を目指したそれぞれイスラム・アラブ軍、及びイスラム・ウマイヤ王朝(Umayyad)軍に対する勝利は、シャルルマーニュ(Charlemagne。742~814年)大帝の祖父であるシャルル・マルテル(Charles Martel。688~741年)によるウマイヤ王朝軍に対する732年のトゥール-ポワティエ(Tours-Poitiers )の戦いにおける勝利に優るとも劣らないと指摘する。(続く)

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