ソ連は本当に対日戦勝国なのか?(竹下義朗さん )重要です。 | 日本のお姉さん

ソ連は本当に対日戦勝国なのか?(竹下義朗さん )重要です。

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≪ WEB 熱線 第1065号 ≫2008/08/29
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☆ ソ連は本当に対日戦勝国なのか? ――竹下義朗さん
                    原著:1999/09/07
昭和20(1945)年8月15日、大東亜戦争は日本の敗北で終結しました。その際、日本はナチスドイツ同様、米(アメリカ)・英(イギリス)・中(中華民国)・ソ(ソ連)の4ヶ国によって国土を分割支配される予定でした。結果的に日本は、事実上のアメリカ単独支配によって、国土の分割という最悪の事態は免れました。ーーーさて、ここで先述した「幻の日本分割」に関わる筈だった当事国を、今一度眺めてみましょう。アメリカは、開戦から終戦まで、常に日本と戦火を交えたので当然でしょう。イギリスも、緒戦において日本に東洋艦隊を撃滅され、香港・シンガポール・マラヤ(マレーシア)・ビルマ(ミャンマー)を次々と攻略されたので納得できます。シナも支那事変(日中戦争)で日本と交戦していましたから理解できます。しかし、ソ連が日本に宣戦布告したのは、昭和20年8月8日。なんと終戦の僅か1週間前なのです。これで本当に「対日戦勝国」といえるのでしょうか?というわけで、今回は「対日戦勝国・ソ連」の欺瞞について書いてみたいと思います。昭和20年8月8日、ソ連は、翌9日から戦闘状態に入る事を通告してきました。これは日本に対する事実上の「宣戦布告」でした。その後、反撃能力が殆ど残されていない日本軍に対して、ソ連軍は終戦までの短時日に大規模な攻勢をかけ、千島列島・南樺太・北朝鮮全域・満州国を次々と制圧していったのです。

そして先述の「日本分割」案では、なんと北海道の占領支配まで描かれていたのです。――――こうして見てみると、一応日本に対して「宣戦布告」をしており、短時日とはいえ交戦しているので「対日戦勝国」というのも当然と思えます。しかし、その裏でソ連は重大なペナルティを犯していたのです。日ソ中立条約。この条約は、昭和16(1941)年4月13日、ソ連の首都モスクワにおいて調印されたもので、日ソ両国の相互不可侵、及び一方が第三国と軍事行動の対象となった場合の他方の中立等がを謳われていました。この条約は、ソ連にとっては反共のナチスドイツと、その同盟国日本----1936年、日独両国は「日独防共協定」を締結していた----による、ソ連に対しての東西両面からの攻撃を回避する目的で、また日本にとっては、南方進出の際、北方の安全保障を盤石にする目的で共に必要だったのです。さて、日ソ両国の思惑が交錯した条約ですが、僅か調印2ヶ月にして「最大の危機」が訪れます。6月22日、日本と同盟関係にあったナチスドイツが、ソ連に対して奇襲攻撃をかけ独ソ戦が開始されたのです。7月2日、日本は御前会議において「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」=対ソ戦準備・南部仏印=ベトナム南部進駐)を決定。続いて大本営が「関東軍特別演習=関特演」を発動、ソ満国境に70万の大兵力を集結させ、ソ連攻撃の時機を窺ったのです。しかし、ソ連の極東防備態勢が弱体化しなかった事もあって、日本は対ソ開戦を踏みとどまり、こうして「最大の危機」は回避されたのです。

ーーーしかし再び「危機」は訪れました。そして、その危機は、今度は現実のものとなったのです。昭和20年2月4日、米・ローズヴェルト大統領、英・チャーチル首相、ソ・スターリン首相、三国の首脳がヤルタにおいて会談し=ヤルタ会談)、対独戦後処理とソ連の対日参戦についての密約----いわゆる「ヤルタ秘密協定」を結んだのです。そしてソ連はヤルタ秘密協定に従って8月8日、対日宣戦布告をし、翌日から攻撃を開始したのです。しかし、これこそソ連の犯した重大なペナルティだったのです。日ソ中立条約は、「条約の有効期間を5年間とし、廃棄の為には満期1年前の不延長通告を必要とする」と謳っており、条約の「満期」は昭和21(1946)年4月でした。

日本の敗色が濃くなった昭和20年4月5日、ソ連は条約不延長を日本に対して通告してきました。ーーーつまり、条約が満期を迎える翌21年4月で廃棄すると通告してきた訳です。そして迎えたのが8月8日の対日宣戦布告。たしかに、「条約不延長の通告」はしてきましたが、条約が満期するのはまだ8ヶ月も先の事。つまり、ソ連は、いまだ効力のある条約を一方的に破棄、対日戦を開始した訳で、これは重大な「条約違反」ということになります。
そして昭和20年8月15日、日本は敗戦しました。日ソ中立条約を一方的に破棄して、千島列島・南樺太・北朝鮮全域・満州国を占領したソ連は、その勢いに乗じて北海道の占領支配まで要求。ーーーその後北朝鮮は、ソ連の息のかかった金日成・金正日父子を絶対指導者に仰ぐ独裁国家に、満州は中華帝国再興を夢見るシナに併合されました。そして千島列島は、日本が今なお領有権を主張する「北方領土=択捉島以南の南千島」を含めて、全てソ連及びその後継国家であるロシアに占領されたままとなっています。以上のように見てくるとお分かり頂けると思いますが、ソ連は、終戦直前の、日本の反撃能力が殆ど失われた絶妙のタイミングを選んで、期間が満了していない条約を一方的に破棄し無視し、対日戦を開始した訳で、「対日戦勝国」といえるかどうか、甚だ疑問が残ります。言い方を変えれば、アメリカとの殴り合いの喧嘩でピヨピヨ状態=最早、殴り返す力も残っていない日本に喧嘩を仕掛け、「日本との喧嘩に勝った」と喧伝しているというか・・・「終戦直前のドサクサ」に紛れて、火事場泥棒よろしく「北方領土を盗んだ」というか・・・ーーーそう思えてならないのです。= この稿おわり =
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▼▽ インド徒然 ▽▼

☆ インド人の頭脳の歴史的背景~インド古代史 ―――― はぐれ雲さん

NHKの「インドの衝撃」が話題となり、「インド人はそんなに頭が良いのか?」「どうして頭が良いのか?」とよく訊かれる。長年インド人と付き合っているが、それほど「頭が良い」とは感じなかった。ただ、一生懸命考え、理論武装し、自己表現し、自己主張する。その方法が独特であり執拗なので、多くの人は打ち負かされてしまう。加えて記憶力・暗記力が高い。それが「インド人は頭が良い」と思われる所以だろう。人口が多いので、確率的に同じでも「頭の良い人」の絶対数は多い。多くの「頭の良いインド人」はグルーバル世界・英語圏で活躍している事や、IT関連や医学などの先端技術分野で活躍している人が多いので目立つ事もある。専門職はカースト制の延長だろう。専門分野に深化し易い土壌がある。専門分野には卓越しているが他分野に関しては無知なインド人も多い。今までそう思ってきたが、若干違う事に気が付いた。文化と宗教観・人生観・宇宙観などの違いによる「頭の良さ」である。インド人の性格や能力には数千年の長い歴史の積み重ねがある。約4500年ぐらい前に発祥したインダス・ガンジス文明、文明の全体像はあまり研究されていないが、発見された史跡からかなり高度の頭脳と技術を持った文明であったと推定されている。基本的には農耕民族、肥沃なインダス・ガンジス流域は多量の穀物が収穫できる。穀物収穫量が多ければ、生活に余裕ができる。時間的余裕は十分あっただろう。この地域、昼間は滅茶苦茶暑いので、涼しい夜間、天空を眺めながら色々議論していたに違いない。一年中殆ど晴天である。毎年繰り返される大洪水や酷暑過酷な自然条件の下、様々な土着・自然宗教や、天文学・自然現象に関する研究が為されたに違いない。今から約3500年ぐらい前から、コーカサスから中央アジアにかけて半農半牧の牧歌的のどかな生活を送っていたアーリア人がインドに南下して来る。アーリア人の生活哲学は、今現在でもヒンズー教の心である「ヴェーダ」で判る。アーリア人は元来、自然現象の深奥に潜む‘絶大なる威力’を神格化し崇めていた。その為、宗教生活は多岐に亘り、多くの「神」が存在していた。「ヴェーダ」は「聖典」というより、神々に捧げられた美しい讃歌を集めた叙事詩である。文字ではなく親から子へ口承で伝えられていた。記憶力がつくわけである。南下したアーリア人は、インダス・ガンジス文明の先住民族を征服し奴隷にする。主産業は農業である。北インドがアーリア人に完全支配されるまでの、今から3500年から2500年前の約1000年間は「ヴェーダ時代」といわれる。自然現象が極めて厳しく、変化に富むインドに移り住んだアーリア人は、インダス・ガンジス文明で蓄積された知識を吸収しつつ、「ヴェーダ」に基づく自然神格化傾向を益々強める。農耕民族の宿命だろう。但し「ヴェーダ」に基づくので、素朴で明るいものであった。その間、都市文化が発展し、農業以外の専門職業・手工業者が増加する。アーリア人はアーリア文化の保持と、支配した都市・農村地域民衆の政治的統治、精神的民衆支配方法を考案する。「ヴェーダ」を基礎としたバラモン教、バラモン教に基づくカースト制度である。バラモン階級を最上位とする階級制度が成立し、宗教が儀礼化・形式化して行く中で、それに疑問を抱く宗教家・哲学者が出てくる。今から約2650年前、紀元前650年頃に新興思想「ウパニシャッド哲学」が出現する。梵我一元、輪廻・解脱思想…、この「ウパニシャッド哲学」の出現でインド哲学は盛んになる。固定概念で凝り固まったバラモン教に対する、反バラモン教・反カースト制度が根本にある。唯物論、快楽論、懐疑論など多彩な学派が生まれる。哲学者・思想家・学術者を保護・援助したのはクシャトリア階級であった。クシャトリアは政治力・経済力があり、伝統因習に捉われず、自由な発想で新思想、特に改革的な新思想を受け入れた。同時期、仏教やジャイナ教が興る。約2300年前、北インドを統一したマウリヤ王朝、秦の始皇帝に並び称される第3代アショカ王は仏教に帰依し、仏教思想をベースにインドの国体の基礎を造った人物である。マウリヤ王朝が崩壊し約500年、インドは藩王群雄割拠の時代となる。紀元4世紀に、インドはグプタ朝により再統一される。創始者はチャンドラグプタ1世である。この間、仏教が発展し続けてはいたが、「ヴェーダ」は根深く民衆に信仰され、ヴェーダの神々は崇拝され続け、真のバラモン教の探求も行われていた。インドは基本的に信仰・宗教に関しては寛容であり、迫害はあまりしない。仏教は、当初迫害されたという‘言い伝え’があるが…、新興宗教には‘つきもの’だろう。
グプタ朝時代はインド文化の黄金期、古典的思想・学術の復古傾向が強くなり正統派バラモン教が復興した。グプタ朝諸王は、統一国家維持の為に伝統的な階層的社会秩序=カースト制度を回復することを狙い、そうした社会秩序を正当化する理論的基礎としてバラモン教を保護し国教化した。バラモン教諸学派が理論体系を整備し、バラモン教の体系化を完成させる。一方、バラモン教の復興と並行して、ヒンズー教が急速かつ強力に発展してくる。ヒンズー教は、民衆の間に早くから広まった信仰宗教、ヴェーダの‘教え’と‘権威’を承諾する民衆が、各自の俗信や神観をヴェーダに結びつけ、徐々に大衆の生活に即した新宗教として成立した。従い、ヒンズー教は難解なバラモン教と並行して、一般庶民の宗教として広まり、その中身はアーリア人の古典文化の要素と各地の土俗信仰とが融和集成されたものである。ヒンズー教は、復興したバラモン教の教学や神話・信仰・習俗を摂取・吸収していき、社会の上層部にも信徒を得て洗練された宗教として発展していった。ヒンズー教は長い歴史を経て生活に深く根付いた大衆宗教である。言い換えれば、様々な大衆宗教を集大成した宗教、インド教である。それ故に時代と地域によって教義の体系が混然としており、包括的な整理が困難な宗教でもある。統一された聖典はない。あるのは「ヴェーダ」、聖典というより叙事詩でありギーター(歌)であり、ヴェーダ的人生観である。グプタ朝時代、様々な芸術・学術が発展した。サンスクリット文学、ゲーテやラフォンテーヌ、シェイクスピアに多大な影響を与えたといわれる。美術工芸に関してもグプタ式は歴史的評価が高い。学術に関しては、天文学、数学・物理学、自然現象の解釈、正確な計算測定、医学に関しては、解剖や手術、その他の医療技術が発展、薬剤開発の過程で植物学や化学の分野も発達した。注目すべき点は、固定的な師弟の継承を重視する結果、流派・系統・学派が成立し、知識の体系化と教典の作成・注釈が盛んに行われた事である。カースト的社会現象でもある。不殺生・非暴力を精神的機軸とするので、武器は頭脳と話術とならざるを得ない。現世は、宿命として定められた職種の世界で精一杯生きるしかない。相手に勝つためには理論武装する必要がある。体系化された理論は強力である。それを学ぶ事から学問が始まる。他方、体系化された理論を打破するためには、新理論体系を形作らなければならない。1600年前のインドである。インド人の頭脳DNAは、数千年に及ぶ歴史の過程で形成され、今でも生き続けているようだ。昨今は、貧困からの脱出、カーストからの解放に、頭脳は武器となっている。長いインドの歴史、生活習慣、宗教観、人生観、文化の伝承、古い文化と新しい世界の融合、この辺に、「インド人の頭脳」の背景があるのだろう。ーーー叙事詩の世界である。= この稿おわり =