◎クライン孝子の日記 ・ 海を渡った自衛官─異文化との出会い
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■2008/08/27 (水) それもこれもロシアの思う壺ではありませんか
■2008/08/27 (水) 米ロのシーソ^ゲーム?
ウィンダー久美子さんお久しぶりです。米国在住のあなたとドイツ在住の私。お互いに日本をこよなく愛しながら、自分が今住んでいる貴方は米国、私はドイツが大好きみたい。私は、心情的にロシアは好きではありません。「ベルリンの壁」があった頃、なども取材で旧東独へ足を運び、危険な目に遭い、「壁」をすり抜け帰ってくるたびに、ああ自由って何と素晴らしいものか、西ドイツが米国によって、守られている事に心から感謝したものです。ただし、それがこと国際社会の外交駆け引きとなると、アメリカにはアメリカの国益があり、その国益を維持するために、時には実に冷酷な計算をして牙をむき出すことがある。これは、アメリカがアメリカを守るための当然の権利であり行動です。ドイツもそうで、ドイツはアメリカやロシアのような大国ではない。そういう国が彼らに翻弄されつつも、自分の足で生きていくにはどう対応するか。今回のグルジア紛争でもこのドラマをドイツから観察し、米ロと異なった立場で、分析しようというのが私の狙いです。今回アメリカの立場での貴重なご助言、有難う!今後ともよろしくお願いいたします。
<<久しぶりにお便りさせて頂きます。米国在住のウィンダー久美子です。いつも精力的にご活躍で、同じ女性としてとても頼もしく思っております。アメリカに住んで30年、オリンピックのような国と国との競い合いを見ていると、いつの間にか必死でアメリカを応援している自分に気づかされます。私は人生の丁度前半分を日本で、後半分をアメリカで過ごしています。そこで8月19日のクラインさんの日記を読んで、これはアメリカの名誉のためにも誤解を解かねばと思っていました。20日の読者氏の投稿を読んで、まったく私と同意見、胸の痞えが取れました。アメリカ国民は誰もロシアとの対立を望んでいません。南オセチアの砲撃はむしろロシアに促されたのではないかと思います。ロシア軍が南オセチアの国境付近に演習で注軍していたというのも何だか話が出来すぎているような気がします。今回の戦争ではアメリカがグルジアに自制を促したにもかかわらず、グルジアがそれを振り切ったことは今さらながらアメリカの弱さを世界に見せたようにも思います。それもロシアの思う壺ではありませんか。ますますお元気でご活躍されますよう応援しております>>
■2008/08/27 (水) 米ロのシーソ^ゲーム?
露大統領「新冷戦は望まないが、西欧のパートナー次第だ」
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080827-OYT1T00343.htm?from=main1
独立承認、ロシアに非難続々 南オセチア・アブハジア
http://www.asahi.com/international/update/0827/TKY200808270131.html
もっかEUではドイツ首相メルケルがスエーデンからバルト三国のエストニアとラトビアを訪問し、ロシアのメドヴェージェフの措置に関し、「全く受け入れられない」と非難した。冷戦中、バルト3国はソ連に占領され、実に悲惨な目に遭った国々。そのためソ連崩壊においては真っ先に、ソ連に反旗を挙げ、人間の鎖で独立を勝ち取っっている。。スエーデンも歴史的にロシアの脅威を身をもって経験した国。メルケルはこうした国を早速訪問して、彼らとロシアを強く非難している。これをきっかけに第三次大戦に発展すれば、欧州はたちどころに戦場になってしまうからです。これはEUにとって一大事です。アメリカは自分の国が戦場にさらされた経験のない国。それだけにEUにすれば、欧州でこうした紛争にアメリカがちょっかいを出すことには抵抗がある。だからといってEUだけで解決できない弱い面がある。というわけで、メルケルはロシアとの関係はなるべく穏便でありたいと思っているので、ロシアにはしきりに協力の継続を呼びかけている。しかも、ドイツはオイルと天然ガスではロシアに依存している、その代わりとして、ロシアはドイツの技術ノウハウの恩恵を受けている。従って、独露ともに今回の一件では微妙なコミュニケをだして、お茶を濁しつつ、外交戦争を行なっている。核戦争に発展したら、万事休すですからね。そんなわけで、こちらではこれも米大統領選の結果が出る11月までの米共和党による選挙戦の一環ではないのと、皮肉ったり、同時にコソボ紛争に対する、ロシアの報復が今回の対抗措置としての行動として現れたのではないのという見かたが出ております。しばらく、様子を見るしかないのですが、何だか、米ロ両国でオイルを介した力のシーソーゲームをやっている、そんな感じがしてならないのは私だけではなさそうです。さて日本はこうした国際社会の熾烈なせめぎあいでは全く、勝負下手です。ドイツを狡猾だ、搾取の国だと愚痴っている前に、日本がそうした国に変わる事が大事なのに。
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◆「海を渡った自衛官─異文化との出会い─」vol.17 荒木肇
第17回 一衣帯水の大きなはざま
在大韓民国ソウル大使館防衛駐在官
A1佐
派遣期間:1996年6月~1999年6月
▼有事と平時の境目
防衛駐在官は家族帯同で派遣国に出かけるのが決まりである。だから、人事は二転三転することも多い。じっさい、A1佐も、思いもしなかった電話がかかってきたのも、突然のことだった。本来、選ばれるはずだった人が、どうにもならない事情で、急に都合がつかなくなったのだ。
家内はすぐに、私はいいよ。あなたさえ、良かったらと言ってくれましたとA将補は穏やかに笑った。マイクロバス一杯の荷物を詰め、家族みんなで成田日航ホテルに集合した。一泊して、翌日の便でソウルに飛ぶつもりだった。チェックインが済み、ロビーでくつろぎ、昼食をとろうとしていた時のことだ。ニュースがテレビに映し出された。北朝鮮空軍のミグ19がソウル南方の軍の飛行場に強行着陸、搭乗員は亡命を申し入れたのだ。ソウルでは空襲警報が出されていた。 「少なくとも、子ども3人を連れて、いったい大丈夫なのか。これは、北朝鮮が機体を奪還にくるのではないだろうか。たいへん心配致しました」せめて孫は成田に残していった方がいいのではと、退役した自衛官である義理のご両親も心配した。でも、駐在官の前任者からは、まず、そんな心配もないだろうと電話で連絡があった。予定どおり翌日、家族5人でソウルに到着した。在任中に、ミグ事件もふくめて3回の危機があった。
第2回目は、韓国東海岸に、北朝鮮の小型潜水艇が座礁。乗組員が逃亡し、捜索した韓国軍と交戦した。乗員は全滅したが、韓国軍にも死傷者が出た。赴任した日の前日がミグ事件で、これは9月1日、海自練習艦隊の韓国訪問をおえて、すぐのことだった。
第3回目は、帰国する直前、99年の6月のことだった。北朝鮮海軍と韓国海軍の警備艇が交戦した。ソウルの目の前の海での出来事だった。「当時、韓国は、政治的、軍事的、経済的にきわめて危機的な状態にありました。もしも、事件が拡大し、紛争にでもなったらと心配したところです」幸いなことに、それぞれの事件も、全面的な衝突にはならなくて済んだ。それにしても、一歩間違えば、平和な日本の状況も、かんたんに崩れてしまう。一つ間違えたら、戦争になる。それをきわどくも支えるものとは何か。真剣に考える機会を与えてもらった。在外公館に勤務することの意味の大きさをつくづく考えさせられたとA将補は静かに語ってくれた。
▼人に生かされてきた
うかがってみると、A将補は他人からは想像もつきにくい(こう言っては失礼だが)「挫折(ざせつ)」の人生だった。階級や経歴をかんたんに知っただけでは、とても想像もつかないような、曲がり道をたどって来られている。 東京都出身、ご父君は陸軍士官学校卒の将校で、当時は現役陸自幹部。都立高校から防衛大に進学する。ところが、1学年で腰を痛め、しかも、夏の遠泳の直前には盲腸炎にかかる。定期試験の最中に高熱を出し、2科目がほとんど白紙。再試験を受ければ良かったが、その気力がまるでなかった。もう、駄目かも。防大も辞めてしまおうかと考えた。「父は何も言いませんでした。すると、姉がそっと伝えてくれたのです。道を変えたっていいじゃないか。あいつの人生だから、好きにさせてやればいいと、父が言っていたというのですね」 そうか。あの厳格な父がそう言っていたのか。自衛官の道を継ぐことについても、自分の好きにすればいいと言ってくれているのか。考え、考えあぐねた末だった。もう一度、やってみよう。このままじゃ、負け犬になってしまう。誰のためでもない。自分のために、もう一度、チャレンジしてみよう。そうA少年は思った 防大生にとって、留年はともかく(2度までの留年は事情が正当なものなら許される。激しい訓練や、厳しい生活の結果、体調を崩して留年する学生は少なくはない)、最下級生の1学年を2度やるのはごめんだというのに、と問いかけてみた。すると、A将補は、おかげで「人を見ること」ができるようになったという。ふつう、1学年は環境に適応するためで精一杯になる。学業、訓練、クラブ活動(校友会という)、全寮制の学生舎生活、次から次への行事。人を見るどころか、自分さえ見つめる暇はなかなかない。それが、自分を含めて、人とはなにか、どういうモノなのか、じっくり見ることができたというのだ。入校同期より1年おくれて防大を卒業。幹部候補生学校のときに、父親が体調を崩した。いろいろあって、卒業まで序列は、どんどん下がっていましたねとA将補は笑う。まだ、続きます。今度はケガです。候補生として赴任したのは、東北の普通科連隊だった。スキー競技会である。ジャンプが最後になった。前の選手たちの着地がくり返されて、大きな穴があいていた。そこに落ちて、足を骨折した。富士学校の幹部初級課程(BOC)の入校直前のことでした。たんたんとA将補は語るが、ついていないとはこのようなことだ。しかも、松葉杖が取れた頃、尊敬していたご父君がとうとう亡くなった。でも、人は支えてくれている。必ず、見てくれている人がいる。それが陸上自衛隊という組織だという。普通英語課程、上級英語課程と、連隊は2回も研修に派遣してくれた。また、A将補にも心境に転機があった。AOC(幹部上級課程)のときだった。自分は、心底、懸命に、全力でやっていないのではないか。ここまでやってきて、一度も、力を出し切ったことはない。このままでは、いつも不完全燃焼のようなものだ。ようし、やってみるぞ、そんなふうに思い直したという。1983年11月に、アメリカ陸軍歩兵学校に留学。ジョージア州のフォート・ベニングに赴任する。その頃、結婚された。奥様はやはり、陸自幹部の令嬢だった。いや、決して、相思相愛なんてものじゃないです。あんな時代でしたから、アメリカに行けるならいいわっていうような調子でした。アメリカ生活に憧れて、一緒になったのでしょうねと、A将補は照れる。もっとも、そのままには受け取れない気はする。自分の身体にたいへんな事が起こった。陸上幕僚監部で仕事をしていた。無理な生活がたたったのだろう。内臓の病気だった。死線をさまよったと言ってもいい。仕事がおもしろくて、おもしろくてたまらなかったとA将補はふり返る。上司や同期の絆、お互いを思いやる気持ち、多くの人に世話になった。人に支えられて自分はある。それが痛いほど身にしみて入院生活を送った。なんとか仕事に復帰できた。そして、人事からの突然の電話。
▼いつでも高句麗(こうくり)の地図が頭にある韓国の人たち
もともと、韓国人と私たちは同質だという。でも、環境が違うと、ものごとの理解や表現が異なってしまう。だから、本音を語れば理解できる。
「ただし…」とA将補は続けてくれた。表だった場所になってしまうと、文化というより、韓国人がおかれている状況のなせるわざになってしまう。自分がどう振る舞い、何を発言したら、同国人の韓国民の期待に応えられるのかを考える。 日本の国内は、なんと言っても韓国と比べれば安定している。「(漢江)ハンガンの奇跡」といわれる復興、経済発展、たしかにめざましかったが、実は根っこはそれほどしっかりしていなかった。「日本は、GNP(国民総生産のこと、現在はGDPを使う)の1%しか防衛費を使わなくていい。それに比べて、わが国は38度線で北朝鮮と対峙している。それにかかるお金を振り向けられたら、もっと発展、安定もしているのに……という思いが誰にでもあります」竹島問題、それに中国に満洲のことでかみついた歴史認識。大陸と地続きですから、何かあれば、海に追い落とされてしまうという危機感、恐怖感があるとA将補はいう。しかも、自分たちには4000年の歴史がある。アメリカへの複雑な思いもある。彼らは、韓国人の歴史に裏付けされたアイデンティティーを理解しない。だから、むきになって、国全体の意識を高めてそれを高めたいと望んでいる。 韓国は日本と戦火も交えていない。独立したといっても戦って勝ったのではない。いつも、日本を意識せざるを得ない。日本人は、アメリカを見、中国をうかがい、ロシアを意識する。隣の俺たちを見ろ、俺たちがいるじゃないかといつも、日本にアピールしている。竹島でもなんでも、韓国には困ったものだという人は多いが、彼らの頭の中にはいつも古代の高句麗の地図がありますとA将補は教えてくれた。そのことを理解すれば、置かれた状況に共感すれば、韓国の人々はまた違った顔を見せてくれるという。
▼すばらしい韓国のトップ層
米中、日中、日米韓、どれ一つ崩れても破局がくる。平時と有事のすれすれを支えている人たちがいる。「韓国のトップ層の人たちは分かっています。日本の素晴らしさと、日本人の誠意を。ぎりぎりのところで、日韓の関係を危機的にはもっていかない努力をしてくれています」朝鮮戦争で、20代、30代の頃、中隊長や大隊長として戦った世代がいる。中には、旧日本陸軍の将校として教育を受けた人たちがいた。その人たちが中心になって、韓国を動かしてきたのである。もちろん、今も、その人たちの影響は世代をこえて受けつがれている。「私は、ほんとうに恵まれていたと思います。周りに支えられ、外国でも多くの尊敬する人を知りました。私たちは人によって生かされていると信じています」別れるとき、A将補は、夕暮れの街の中を何度もふり返りながら、手をあげて挨拶を送ってくれた。
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■2008/08/27 (水) それもこれもロシアの思う壺ではありませんか
■2008/08/27 (水) 米ロのシーソ^ゲーム?
ウィンダー久美子さんお久しぶりです。米国在住のあなたとドイツ在住の私。お互いに日本をこよなく愛しながら、自分が今住んでいる貴方は米国、私はドイツが大好きみたい。私は、心情的にロシアは好きではありません。「ベルリンの壁」があった頃、なども取材で旧東独へ足を運び、危険な目に遭い、「壁」をすり抜け帰ってくるたびに、ああ自由って何と素晴らしいものか、西ドイツが米国によって、守られている事に心から感謝したものです。ただし、それがこと国際社会の外交駆け引きとなると、アメリカにはアメリカの国益があり、その国益を維持するために、時には実に冷酷な計算をして牙をむき出すことがある。これは、アメリカがアメリカを守るための当然の権利であり行動です。ドイツもそうで、ドイツはアメリカやロシアのような大国ではない。そういう国が彼らに翻弄されつつも、自分の足で生きていくにはどう対応するか。今回のグルジア紛争でもこのドラマをドイツから観察し、米ロと異なった立場で、分析しようというのが私の狙いです。今回アメリカの立場での貴重なご助言、有難う!今後ともよろしくお願いいたします。
<<久しぶりにお便りさせて頂きます。米国在住のウィンダー久美子です。いつも精力的にご活躍で、同じ女性としてとても頼もしく思っております。アメリカに住んで30年、オリンピックのような国と国との競い合いを見ていると、いつの間にか必死でアメリカを応援している自分に気づかされます。私は人生の丁度前半分を日本で、後半分をアメリカで過ごしています。そこで8月19日のクラインさんの日記を読んで、これはアメリカの名誉のためにも誤解を解かねばと思っていました。20日の読者氏の投稿を読んで、まったく私と同意見、胸の痞えが取れました。アメリカ国民は誰もロシアとの対立を望んでいません。南オセチアの砲撃はむしろロシアに促されたのではないかと思います。ロシア軍が南オセチアの国境付近に演習で注軍していたというのも何だか話が出来すぎているような気がします。今回の戦争ではアメリカがグルジアに自制を促したにもかかわらず、グルジアがそれを振り切ったことは今さらながらアメリカの弱さを世界に見せたようにも思います。それもロシアの思う壺ではありませんか。ますますお元気でご活躍されますよう応援しております>>
■2008/08/27 (水) 米ロのシーソ^ゲーム?
露大統領「新冷戦は望まないが、西欧のパートナー次第だ」
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独立承認、ロシアに非難続々 南オセチア・アブハジア
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もっかEUではドイツ首相メルケルがスエーデンからバルト三国のエストニアとラトビアを訪問し、ロシアのメドヴェージェフの措置に関し、「全く受け入れられない」と非難した。冷戦中、バルト3国はソ連に占領され、実に悲惨な目に遭った国々。そのためソ連崩壊においては真っ先に、ソ連に反旗を挙げ、人間の鎖で独立を勝ち取っっている。。スエーデンも歴史的にロシアの脅威を身をもって経験した国。メルケルはこうした国を早速訪問して、彼らとロシアを強く非難している。これをきっかけに第三次大戦に発展すれば、欧州はたちどころに戦場になってしまうからです。これはEUにとって一大事です。アメリカは自分の国が戦場にさらされた経験のない国。それだけにEUにすれば、欧州でこうした紛争にアメリカがちょっかいを出すことには抵抗がある。だからといってEUだけで解決できない弱い面がある。というわけで、メルケルはロシアとの関係はなるべく穏便でありたいと思っているので、ロシアにはしきりに協力の継続を呼びかけている。しかも、ドイツはオイルと天然ガスではロシアに依存している、その代わりとして、ロシアはドイツの技術ノウハウの恩恵を受けている。従って、独露ともに今回の一件では微妙なコミュニケをだして、お茶を濁しつつ、外交戦争を行なっている。核戦争に発展したら、万事休すですからね。そんなわけで、こちらではこれも米大統領選の結果が出る11月までの米共和党による選挙戦の一環ではないのと、皮肉ったり、同時にコソボ紛争に対する、ロシアの報復が今回の対抗措置としての行動として現れたのではないのという見かたが出ております。しばらく、様子を見るしかないのですが、何だか、米ロ両国でオイルを介した力のシーソーゲームをやっている、そんな感じがしてならないのは私だけではなさそうです。さて日本はこうした国際社会の熾烈なせめぎあいでは全く、勝負下手です。ドイツを狡猾だ、搾取の国だと愚痴っている前に、日本がそうした国に変わる事が大事なのに。
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◆「海を渡った自衛官─異文化との出会い─」vol.17 荒木肇
第17回 一衣帯水の大きなはざま
在大韓民国ソウル大使館防衛駐在官
A1佐
派遣期間:1996年6月~1999年6月
▼有事と平時の境目
防衛駐在官は家族帯同で派遣国に出かけるのが決まりである。だから、人事は二転三転することも多い。じっさい、A1佐も、思いもしなかった電話がかかってきたのも、突然のことだった。本来、選ばれるはずだった人が、どうにもならない事情で、急に都合がつかなくなったのだ。
家内はすぐに、私はいいよ。あなたさえ、良かったらと言ってくれましたとA将補は穏やかに笑った。マイクロバス一杯の荷物を詰め、家族みんなで成田日航ホテルに集合した。一泊して、翌日の便でソウルに飛ぶつもりだった。チェックインが済み、ロビーでくつろぎ、昼食をとろうとしていた時のことだ。ニュースがテレビに映し出された。北朝鮮空軍のミグ19がソウル南方の軍の飛行場に強行着陸、搭乗員は亡命を申し入れたのだ。ソウルでは空襲警報が出されていた。 「少なくとも、子ども3人を連れて、いったい大丈夫なのか。これは、北朝鮮が機体を奪還にくるのではないだろうか。たいへん心配致しました」せめて孫は成田に残していった方がいいのではと、退役した自衛官である義理のご両親も心配した。でも、駐在官の前任者からは、まず、そんな心配もないだろうと電話で連絡があった。予定どおり翌日、家族5人でソウルに到着した。在任中に、ミグ事件もふくめて3回の危機があった。
第2回目は、韓国東海岸に、北朝鮮の小型潜水艇が座礁。乗組員が逃亡し、捜索した韓国軍と交戦した。乗員は全滅したが、韓国軍にも死傷者が出た。赴任した日の前日がミグ事件で、これは9月1日、海自練習艦隊の韓国訪問をおえて、すぐのことだった。
第3回目は、帰国する直前、99年の6月のことだった。北朝鮮海軍と韓国海軍の警備艇が交戦した。ソウルの目の前の海での出来事だった。「当時、韓国は、政治的、軍事的、経済的にきわめて危機的な状態にありました。もしも、事件が拡大し、紛争にでもなったらと心配したところです」幸いなことに、それぞれの事件も、全面的な衝突にはならなくて済んだ。それにしても、一歩間違えば、平和な日本の状況も、かんたんに崩れてしまう。一つ間違えたら、戦争になる。それをきわどくも支えるものとは何か。真剣に考える機会を与えてもらった。在外公館に勤務することの意味の大きさをつくづく考えさせられたとA将補は静かに語ってくれた。
▼人に生かされてきた
うかがってみると、A将補は他人からは想像もつきにくい(こう言っては失礼だが)「挫折(ざせつ)」の人生だった。階級や経歴をかんたんに知っただけでは、とても想像もつかないような、曲がり道をたどって来られている。 東京都出身、ご父君は陸軍士官学校卒の将校で、当時は現役陸自幹部。都立高校から防衛大に進学する。ところが、1学年で腰を痛め、しかも、夏の遠泳の直前には盲腸炎にかかる。定期試験の最中に高熱を出し、2科目がほとんど白紙。再試験を受ければ良かったが、その気力がまるでなかった。もう、駄目かも。防大も辞めてしまおうかと考えた。「父は何も言いませんでした。すると、姉がそっと伝えてくれたのです。道を変えたっていいじゃないか。あいつの人生だから、好きにさせてやればいいと、父が言っていたというのですね」 そうか。あの厳格な父がそう言っていたのか。自衛官の道を継ぐことについても、自分の好きにすればいいと言ってくれているのか。考え、考えあぐねた末だった。もう一度、やってみよう。このままじゃ、負け犬になってしまう。誰のためでもない。自分のために、もう一度、チャレンジしてみよう。そうA少年は思った 防大生にとって、留年はともかく(2度までの留年は事情が正当なものなら許される。激しい訓練や、厳しい生活の結果、体調を崩して留年する学生は少なくはない)、最下級生の1学年を2度やるのはごめんだというのに、と問いかけてみた。すると、A将補は、おかげで「人を見ること」ができるようになったという。ふつう、1学年は環境に適応するためで精一杯になる。学業、訓練、クラブ活動(校友会という)、全寮制の学生舎生活、次から次への行事。人を見るどころか、自分さえ見つめる暇はなかなかない。それが、自分を含めて、人とはなにか、どういうモノなのか、じっくり見ることができたというのだ。入校同期より1年おくれて防大を卒業。幹部候補生学校のときに、父親が体調を崩した。いろいろあって、卒業まで序列は、どんどん下がっていましたねとA将補は笑う。まだ、続きます。今度はケガです。候補生として赴任したのは、東北の普通科連隊だった。スキー競技会である。ジャンプが最後になった。前の選手たちの着地がくり返されて、大きな穴があいていた。そこに落ちて、足を骨折した。富士学校の幹部初級課程(BOC)の入校直前のことでした。たんたんとA将補は語るが、ついていないとはこのようなことだ。しかも、松葉杖が取れた頃、尊敬していたご父君がとうとう亡くなった。でも、人は支えてくれている。必ず、見てくれている人がいる。それが陸上自衛隊という組織だという。普通英語課程、上級英語課程と、連隊は2回も研修に派遣してくれた。また、A将補にも心境に転機があった。AOC(幹部上級課程)のときだった。自分は、心底、懸命に、全力でやっていないのではないか。ここまでやってきて、一度も、力を出し切ったことはない。このままでは、いつも不完全燃焼のようなものだ。ようし、やってみるぞ、そんなふうに思い直したという。1983年11月に、アメリカ陸軍歩兵学校に留学。ジョージア州のフォート・ベニングに赴任する。その頃、結婚された。奥様はやはり、陸自幹部の令嬢だった。いや、決して、相思相愛なんてものじゃないです。あんな時代でしたから、アメリカに行けるならいいわっていうような調子でした。アメリカ生活に憧れて、一緒になったのでしょうねと、A将補は照れる。もっとも、そのままには受け取れない気はする。自分の身体にたいへんな事が起こった。陸上幕僚監部で仕事をしていた。無理な生活がたたったのだろう。内臓の病気だった。死線をさまよったと言ってもいい。仕事がおもしろくて、おもしろくてたまらなかったとA将補はふり返る。上司や同期の絆、お互いを思いやる気持ち、多くの人に世話になった。人に支えられて自分はある。それが痛いほど身にしみて入院生活を送った。なんとか仕事に復帰できた。そして、人事からの突然の電話。
▼いつでも高句麗(こうくり)の地図が頭にある韓国の人たち
もともと、韓国人と私たちは同質だという。でも、環境が違うと、ものごとの理解や表現が異なってしまう。だから、本音を語れば理解できる。
「ただし…」とA将補は続けてくれた。表だった場所になってしまうと、文化というより、韓国人がおかれている状況のなせるわざになってしまう。自分がどう振る舞い、何を発言したら、同国人の韓国民の期待に応えられるのかを考える。 日本の国内は、なんと言っても韓国と比べれば安定している。「(漢江)ハンガンの奇跡」といわれる復興、経済発展、たしかにめざましかったが、実は根っこはそれほどしっかりしていなかった。「日本は、GNP(国民総生産のこと、現在はGDPを使う)の1%しか防衛費を使わなくていい。それに比べて、わが国は38度線で北朝鮮と対峙している。それにかかるお金を振り向けられたら、もっと発展、安定もしているのに……という思いが誰にでもあります」竹島問題、それに中国に満洲のことでかみついた歴史認識。大陸と地続きですから、何かあれば、海に追い落とされてしまうという危機感、恐怖感があるとA将補はいう。しかも、自分たちには4000年の歴史がある。アメリカへの複雑な思いもある。彼らは、韓国人の歴史に裏付けされたアイデンティティーを理解しない。だから、むきになって、国全体の意識を高めてそれを高めたいと望んでいる。 韓国は日本と戦火も交えていない。独立したといっても戦って勝ったのではない。いつも、日本を意識せざるを得ない。日本人は、アメリカを見、中国をうかがい、ロシアを意識する。隣の俺たちを見ろ、俺たちがいるじゃないかといつも、日本にアピールしている。竹島でもなんでも、韓国には困ったものだという人は多いが、彼らの頭の中にはいつも古代の高句麗の地図がありますとA将補は教えてくれた。そのことを理解すれば、置かれた状況に共感すれば、韓国の人々はまた違った顔を見せてくれるという。
▼すばらしい韓国のトップ層
米中、日中、日米韓、どれ一つ崩れても破局がくる。平時と有事のすれすれを支えている人たちがいる。「韓国のトップ層の人たちは分かっています。日本の素晴らしさと、日本人の誠意を。ぎりぎりのところで、日韓の関係を危機的にはもっていかない努力をしてくれています」朝鮮戦争で、20代、30代の頃、中隊長や大隊長として戦った世代がいる。中には、旧日本陸軍の将校として教育を受けた人たちがいた。その人たちが中心になって、韓国を動かしてきたのである。もちろん、今も、その人たちの影響は世代をこえて受けつがれている。「私は、ほんとうに恵まれていたと思います。周りに支えられ、外国でも多くの尊敬する人を知りました。私たちは人によって生かされていると信じています」別れるとき、A将補は、夕暮れの街の中を何度もふり返りながら、手をあげて挨拶を送ってくれた。
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