「文系理系の生涯賃金格差は5000万円」 | 日本のお姉さん

「文系理系の生涯賃金格差は5000万円」

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「文系理系の生涯賃金格差は5000万円」 ~さらば工学部(6)
理系よりも文系の方が5000万円高い--。これは広く認知されるようになった理系出身者と文系出身者との間の生涯賃金の格差である。 日経ビジネス誌8月18日号特集「さらば工学部6・3・3・4年制を突き破れ」の連動インタビューシリーズの第6回では、賃金格差を試算するための原データをまとめた大阪大学大学院国際公共政策研究科・松繁寿和教授に、経済学の立場から工学離れの問題について聞いた。
理系学科の卒業生と、文系学科の卒業生との間の生涯賃金の格差はおよそ5000万円――。これは私が1998年に行った調査のデータに基づいて、毎日新聞の記者の方が試算したものでした。ある国立大学の卒業生を対象として、名簿に基づくアンケートを行ったのです。回答者は理系約2200人、文系約 1200人となり、かなり大規模な調査でした。 日亜化学工業の元研究者で、青色LED(発光ダイオード)開発の対価に報酬を受け取った中村修二氏に代表されるように、優秀な技術者に高額の報酬を支払う動きは出ています。しかし、最近、公開情報などを基に調べてみたところ、98年の調査から10年が経っても、金融に身を置く人と製造業にある人との間の賃金格差は大きくは改善していませんでした。 バブル崩壊の後に、銀行が不良債権の処理に追われ、金融会社の業績が低迷する時期が続いていました。金融不況といっても、金融業界の人々は自らの身を削っていたかというと、そうでもないのかもしれません。やはり理系出身者の方が、文系出身者よりも賃金が低くなる傾向はあるようです。 「日本は文化国家なのだから、理系、理系と言わなくてもいい」という意見も耳にします。そうはいっても、私は理系が処遇されづらい現状に対して問題意識を持っています。

・賃金格差はボディーブローとして効く
理系と文系の間に格差が出てくる理由は主に2つあります。 1つは、就職先の違いです。文系出身者は金融業や商社に就職するケースが多いのに対して、理系出身者は製造業に就職する場合が多い。産業間の賃金格差が、そのまま文系、理系の間の賃金格差として出てくるのです。 もう1つは、昇進スピードに差があることです。理系出身者の方が課長になるのが遅い傾向があります。技術者などは上級職のポストが限られていることが関係しています。 理系出身者の処遇が低くなる状態を放置していいかといえば、やはり、そうではないと考えています。 高度経済成長期は理系に進学すると、経済発展に寄与し、科学者として大成する夢が持てました。年功序列制の下で、所得上昇も保証されていました。理系人材が新製品を作れば、日本からの輸出高は伸びて、国が発展していくというビジョンも持てました。それが、社会が成熟していくにつれて、新しい生活、新しい産業を生み出していくことは難しくなりました。 日本の経済成長を考えれば、新たな製品を出してくれる、理系人材の価値はむしろ高まっています。理系出身者の処遇が悪いことは、社会で付加価値を作り出す、あるいは、消費者にとって今までとは違う価値あるものを作るといったことが、あまり評価されないことに近い。これは、長期的には日本の経済成長にとってボクシングのボディーブローのようにじわりと悪影響を及ぼしてくるに違いありません。 日本の製造業の力が削がれていってしまいます。日本よりもむしろ海外から「iPod(アイポッド)」「レーザー・レーサー」といった革新的な商品が出ています。それらが目立っていて、日本は水をあけられている印象さえあります。 今は、賃金面で製造業の従事者よりも金融の従事者が優遇される傾向が強いですが、日本にとって好ましいとは言いきれません。金融というのは、あるところに余っている資金を、必要なところに投資していくもので、これは大切ではありますが、金融だけで価値を生むわけではありません。経済成長に寄与する、付加価値を生んでいるのは、むしろ製造業でしょう。 今のままでは、優秀な人材がモノ作りの道へ進んでいかなくなるでしょう。 経済学の立場から言えば、次の時代に食べていける新しい産業が日本で生まれなくなったとしたら、それこそが問題です。日本が従来強みとした技術が衰えたり、旧来強かった産業が低迷したりしたとしても、それ自体はいいのです。別の技術のタネが誕生していれば問題はない。ただし、新しい技術が出てこなくなったら、それこそ日本の危機なのです。 日本発の新技術が発明され、そうした新技術の開発に携わっている研究者なり技術者なりが業績に見合った処遇を受ける。本来であれば、そうでなければならない。しかも、若い人たちがそのことを認識できるようにしなければならない。

・技術者の力を引き出せない文系人に問題あり
理系の問題にとどまらず、文系の問題でもあるのです。 米国を見てみると、技術的な基盤を持った人々がマイクロソフト、アップル、グーグルなどを積極的に起業してきました。ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズなど「スタープレーヤー」が生まれています。日本では、同じように理系人材が活躍する土壌が十分に整っていない。背景には、文系的な仕事をしている人々の問題があります。 政治家や官僚など、政策ビジョンを作る人々の能力を問うべきだと考えています。資本市場の規制緩和を進めて、金融商品の売買で巨利を稼ぐマネーゲームを促進した半面で、技術者の業績に報いるための資金が流れづらい側面がある。日本において、文系的な仕事をしている人は、研究者や技術者の力を引き出す能力を備えていたとは言えません。 日本に優秀な技術者が生まれるためのお膳立てをするのは文系的な仕事です。理系の人材を育てるのと並行して、文系の人材育成にも課題はあるでしょう。果たして、理系と文系の分け方も正しいのでしょうか。新しい技術を生み出す人材を育てるためには何をすべきか。まずは教育改革から着手していくことが大切なのではないでしょうか。(談)
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「京大工学生はゆとり世代から学力低下」 ~さらば工学部(7)
福井謙一氏、野依良治氏という2人のノーベル化学賞受賞者を輩出した西の名門、京都大学工学部。東大と共に日本の工学教育の双璧をなすこの工学部でさえも、教授らは教育と研究のバランスをどう取るかという難問に頭を抱える。 日経ビジネス誌8月18日号特集「さらば工学部 6・3・3・4年制を突き破れ」の連動インタビューシリーズの第7回では、京都大学の大嶌幸一郎工学部長に、エリート教育の危機と解決の道を聞いた。 ここ数年で、京都大学の工学部学生の学力が極端に落ちてきています。これまでは思いもしなかったことが進行しているようです。

・試験不合格の割合が1年で4倍に
工業化学科の1学年は235人。従来、私の授業では1割程度が単位を落としていました。ところが、現在の3年生から急に4割ほどの学生が単位を落とすようになりました。 有機化学の授業で工学生にとって特別に難しいことを教えているわけではありません。2つの薬品を混ぜ合わせたらどうなるかといったことです。同じように授業をし、同じように試験をしていたのに、明らかに従来と違っている。 思い当たる理由は「ゆとり教育」です。2006年度に入学した学生は、ゆとり教育が本格導入された第1世代なのです。噂には聞いていたけれども、授業で学生を見ていても分からなかった。出席率は従来と変わっていなかった。学生が授業内容を十分に理解できていなかったということなのです。試験で半分弱も落ちるのは明らかにおかしい。 学生の課題に対する応用がほとんど利かなくなっているのです。考える能力が落ちていることを懸念します。それが、今では、学校の先生が手取り足取り教える。例題をいっぱいこなして、暗記していく。自分なりの勉強の仕方が確立できない。 1970年頃は、医学部に入学する学生の入試の最高点よりも、工学部の学生の最高点の方が高いこともあった。その頃から比べると学生の数は半分になりました。かつて京大に入れなかったレベルの学生が入れるようになったのかもしれません。
長期的に見ると、京大工学生の学力は低下傾向ではあったのですが、ここに来て急に下がってきている印象があります。 どの先生も実感されているのではないかと思います。もしかすると、研究室に学生を迎えて、初めて気がつく方もいるかもしれない。全国で進んでいるのではないでしょうか。学力低下の勢いたるや大きいはずです。 本来、勉強にゆとりは必要ないのです。「鉄は熱いうちに打て」。スポンジのように知識をどんどん吸収する時期があるのです。後からでは間に合わない。日本の教育の間違いはかなり長い期間、尾を引くと思いますよ。

・教育が手につかない大学の台所事情
教員が忙しすぎるという別の問題も深刻です。このままでは、京大の教育と研究のレベルが落ちかねないと危機感を持っています。 先生が燃えるように面白い研究をしているか。学生から惚れ込んでもらえるような先生がいるのか。今は、先生方が忙しすぎて、学生に背中を見せようにも、見せられなくなっています。 「先生方に学生とのコミュニケーション不足を自覚していただいて、大学の研究所に顔を出してほしい」。今年4月に工学研究科長・工学部長に就いてすぐに学内の「工学広報」にこう書きました。 実は、化学系の先生方の2007年1月1日から12月31日までの勤務状況を調べてみました。私の出張日数は36日で、「自分自身が教室の外に出過ぎや」と思っていたのです。ところが、ほかの先生方はそれ以上に教室にいなかった。教授、准教授、助教がそれぞれ約50人います。平均の出張日数は、教授は年間65日、准教授は41日、助教は28日に達していました。教授は1年間のうち丸2カ月も研究室を留守にしているわけです。 「これだけ忙しいのはなぜ?」と思いました。私たちが助手だった時代、教員が教室の外に出た覚えがほとんどなかったわけです。1980年前後のこと、私が学んだ野崎一先生(有機化学)は1年間のうちほとんど教室を出ていませんでした。公費として支給される出張費用を使うことがほとんどなかった。 それに対して、最近では、先生方は競争的資金を獲得しないとなりませんから、会合への出席が増えています。国立大学法人に支給される運営交付金だけでは研究には不十分です。先生方が名前を売って、顔を売ってこないと、科学研究費などを取得することが難しい。資金獲得のために外に出ざるを得ないのです。 そのうえ教員数が減っています。従来、教授1人、准教授1人、助教2人という「1・1・2」の体制が一般的でした。それが今は「1・1・1」が増えています。さらに言えば、「1・1・0」「1・0・1」の場合も珍しくありません。従来4人でやっていたのを、2人でやることになる。それでは、教育の密度が半分になるのは当然です。

・優秀な学生を輩出するカギは「魅力ある教授」
私はまずは先生方が学生と接してくれるよう求めています。実態はどの大学も同じだと思います。「工学に魅力があるか」以前の問題でしょう。教員にとっては言い訳したい気持ちも分かりますが、学生とは意識的に顔を合わせてほしい。顔を合わせず、パソコンのメールで「ああせえ、こうせえ」では教育ではないと思うんですよ。 極端なことを言えば、研究と教育は両立しないのかもしれません。 国際的に最先端の業績を出そうとしている研究室で教育ができるかというと、できません。世界と競争し、新たな特許を出願できるかを競っていく、そうしたところでは、既に育った人材が猛然と働いて、結果を出していかないとならない。 研究と教育のバランスは非常に難しい。お互いに相容れないところがあるんです。研究結果を求めれば、先生方は学生に対して「朝から晩まで働け」と言いかねません。半面、教育を考えると、教員はじっと待って、学生に考えさせないといけないのです。両者の違いを理解して、教育に取り組まなければ、学生はいつまで経っても自立しません。 博士課程への進学希望者が徐々に落ちていますが、今のままでは、学生は博士課程に進んでくれません。定員は200人ですが、120人くらいしか埋まっていない。留学生を入れて何とか埋めている状態です。 私の研究室には博士課程の学生が9人います。1学年当たり3人います。工学研究科には教授が約150人いるのです。普通に考えれば、定員の200人は埋まらないとおかしい。 背景には、経済的な保障の問題はあります。米国は博士課程を修了すると、修士課程よりも1.7倍高い報酬を得られる。日本では経済的なプラスアルファはほとんどありません。鶏が先か、卵が先かという議論になりがちで、企業にとっては、まずはいい学生を出してくれと言う。大学にとっては、給与を上げてくれれば、いい学生が出てくるという。 しかし、究極的には、先生が魅力的かどうかなのです。それから研究内容が面白いかどうか。学生は先生のことを見て、博士課程に進むかどうかを決めるのです。原点は教授らが学生と向き合うことでしょう。 現在は、やはり魅力ある先生、魅力があるテーマが少ないのだと思う。そこを、大学が真摯に考えないといけません。 大学としては、一番早く手をつけるべき大切なことは、魅力的な教授を選ぶことに尽きます。魅力的な教授が就任すれば、およそ20年は教室を持ちます。その間、学生が約100人通っていく。優秀な学生を輩出できるか否かはそこにかかっているのでしょう。(談)
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