頂門の一針 出るか「1兆円景気対策」 (花岡 信昭 )
ようちゃん、おすすめ記事。↓「頂門の一針」8月20日(水)
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出るか「1兆円景気対策」
━━━━━━━━━━━━花岡 信昭
世間は北京五輪のメダルラッシュで大騒ぎだが、福田康夫首相(72)はのんびり夏休みというわけにはいかない。お盆を終えて、週明けには再び「政治の季節」がやってくる。8月初旬の人事によって、自民党の麻生太郎幹事長(67)への「禅譲シナリオ」が浮上、公明党も福田政権と微妙な距離を置きはじめており、福田首相はその厄介な連立方程式に直面している。それをばさっと切る特効薬として出てきたのが、「1兆円景気対策」だ。原油高、消費低迷、大型倒産、格差問題、企業減益といった経済環境をいっぺんに引っくり返す迫力を持ち得るかどうか。
■臨時国会の召集は
これは臨時国会の召集時期と微妙に絡む。公明党は早期召集に反対している。インド洋の海上自衛隊給油支援活動の継続を断ち切るために新テロ対策特別措置法改正案の再可決に反対し、さらには民主党が企てている矢野絢也(じゅんや)・元公明党委員長(76)の国会招致を阻止するためにも、臨時国会は短いほうがいいということらしい。政府・自民党側は今月下旬の召集を求めていたが、公明党は9月下旬への先送りを要求、どうやら間を取って9月初旬から中旬ぐらいで決着しそうな気配だ。公明党を納得させる材料としても「1兆円景気対策」が打ち出せるのであれば、これは有効な策となる。そこで8月下旬に総合経済対策をまとめ、これに基づいた補正予算案を編成、臨時国会の中心テーマとする方向だ。麻生幹事長らは投資促進税制の検討を主張、貯蓄に回されているカネをいかに引き出すかを最優先に考えるべきだとしている。大型景気対策の軸のひとつにはなりそうだ。
■「戻し税」浮上か
だが、それだけではまだインパクトに欠ける。そこでひそかに検討されているのが、「戻し税」方式による減税だ。ブッシュ米政権が経済対策として低所得者に小切手を送付した「小切手減税」の日本版である。財源は特別会計などに隠されている「埋蔵金」を充てるという構想が出ている。国債を財源にしたら、将来へのツケを増やすだけの結果に終わるという批判が出るのは必至だから、「埋蔵金」を減税の原資にするのが一番いいというわけだ。特別会計のほか、かつて国立だった各種の独立行政法人も「埋蔵金さがし」の対象になっているらしい。「戻し税」というのは、現金が家庭に支給されるわけだから、通常ならば消費刺激効果は大きい。このご時世だから貯蓄に回るだけという指摘もないわけではないのだが、「家族そろってファミレスに1回行ってもらうだけでも効果はある」(自民党中堅幹部)。
麻生氏や与謝野馨(よさの・かおる)経済財政担当相(69)らは消費税増税論者だが、どうやら、来年度予算で消費税アップに踏み切ることは断念したようだ。基礎年金の国庫負担分引き上げに伴う財源措置は、たばこ増税などによって賄うということらしい。「上げ潮派」の中川秀直(ひでなお)元自民党幹事長(64)がたばこ増税を主張していることを、巧みに取り込むというわけだ。年内解散の可能性もいわれる中、消費税増税を打ち出したら、とてもではないが選挙は戦えないというのが、与党内の共通認識ともなっている。厄介な課題はすべて「先送り」で政権維持をはかるというのが福田首相の基本戦略のようだが、「1兆円景気対策」で活路が開けるのかどうか。瀬戸際の神経戦が本格化するのは間違いない。
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手練手管は吉原術
━━━━━━━━渡部亮次郎
「手練手管てれんてくだ」について『新明解』は「うまいことを言って人を丸め込む方法」とあり、いずれにせよ褒め言葉ではない。
手練手管 ほんに惚れたはぬしだけでおざりィす廓の譬えに「素見(ひやかし)千人、客百人、間夫が十人、地色(いろ)一人」という言葉がある。
【吉原よしわら】江戸の遊郭。1617年、江戸市内各地に散在していた遊女屋を日本橋葭屋町(よしやまち)に集めたのに始まる。
明暦の大火に全焼し千束日本堤下三谷(さんや)現在の台東区千束に移し新吉原と称した。北里、北州、北郭などとも呼ばれた。売春防止法(1958年4月施行)により遊郭は廃止。吉原にやってきて遊女を見てまわるだけの素見が1000人、そのうち客となるのは100人、馴染みとなって「私にとってはあなただけよ」などと言われてうつつを抜かす間夫(まぶ)が10人、しかし、遊女がほんに惚れている地色は1人だけという意味の言葉だ。現代でもこの譬えに身に覚えのある人は少なくはありますまい。「傾城(けいせい)=遊女)のまことの恋は恋ならで金持ってこいが本当(ほん)のこいなり」というように、遊女はある意味で客にいかに金を遣わせるかが商売である。たとえば遊女に対して見世から夕食は支給されないから、遊女は客をとり、その客に何らかの食事(台の物)を注文しもらわなければ食事にありつけないし、また、まともに男を相手にしていたのではとても身が持たない。「女郎の誠と卵の四角はありえない」と言われるように、客には身を預けて「ぬしだけよ」と言いながらも、本心ここにあらずのその手練手管は、「年季(ねん)があけたら夫婦になる」なんて起請文(きしょうもん)を客ととりかわしておきながら、実はその相手が3人いたという『三枚起請』などの落語にもなっている。起請文というのは、自分の名前のところに血判を押して神仏にかけて誓うもので、誓紙(牛王紙)を売り歩いた勧進比丘尼という人たちが「起請文を書くたびに熊野権現の烏が3羽死ぬ」と言いまわりました。誓いを破ると、熊野権現の烏が血を吐いて死に、たちまち天罰が下ると言われたため、はじめ、その誓いは堅く守られたと言う。起請文は戦国時代、武士同士の間でも盛んにやりとりされた。互いに裏切らないよう誓いを立てるのだが、そもそも親兄弟や主人と家来などが争う下克上の世の中だから、何度、書いたところで守られるわけがなく、次第に廃れていった。これに対して遊女の起請文は、少なくとも江戸時代の終わりまで見られたが、戦国時代の先例のように、目的は相手を信用させるためだけ、つまり見せかけであることが少なくなかった。
文化14年(1817)に出版された洒落本『籬の花』にその例が出ている。遊女・梅川が客の八右衛門の前で自分の左薬指の爪の下に小刀を突き刺し、おもむろに血起請を書き始める。文字を墨で書くときは、牛王紙に書かれた烏の目のところどころに血を塗りつけ、「起請文の事」という題に続いて、誓いの文言を書き記し、最後にさまざまな神の名を記し、「もし背かば御ばつをこうむらん」という文章で締めくくる。梅川はこのとき「御ばつうをこうむらん」とした(平仮名の「う」と「ら」はよく似ている)。「御ばつう」は言葉ではないので、誓いを破ったところで罪は被らない、つまり一言「う」の文字を入れるだけで、本物の起請が嘘の起請になるってわけだ。そうとは知らない八右衛門、梅川が誠を誓ったと思い込み、紋日(料金が通常の倍になる)にまたくることと、梅川から頼まれた15両の金をも明日持ってくることを約束。梅川は「必ず見捨てておくんなんすなよ」と言って帰る八右衛門を見送る。この八右衛門といい、「ほんに惚れているのはぬしだけ。年季があけたら一緒になろうよ」と起請文をしたためたのを本気にした『三枚起請』の男たちといい、真に受けた男のほうがなんぼか純情かもしれない。だが、それはまあ言ってみればタヌキとキツネの化かしあいみたいなものでもある。「他客(ひと)は客、俺は間夫だと思う客」なんていう川柳もあり、冷ややかな客もおった。閨(ねや)の中でもさまざまな手練手管が使われる。わざとゆっくり手紙を書いたり、ちょっと手水(ちょうず=手洗い)へと座敷を出ていって他の客のところへ行ったり、たらふく酒を飲ませて酔い潰し、なかなか床入りしようとしないのは日常茶飯事。床入りしても長時間にわたって男とくんずほぐれつしていたのでは身が持たないから、適度にあそこをきゅっきゅと締めて、男をさっさと昇天させ、一丁上がりとすぐに寝込んでしまったり。あるいは逆に「もっとしましょうよ」と秘術を尽くし、何度も男を奮い立たせるなんてこともすれば、男の腰遣いに合わせて激しく腰を動かしたりもした。何度もおいたをするのは矛盾しているように思うかもしないが、男ってのは単純なものであって、もてないよりはもてたほうがいいに決まってる。また、たとえば武士の奥方の場合(だけに限らないが)、喘ぎ声をあげるのは恥だとする風潮があり、その間は硬直しっぱなしのマグロも珍しくない。一方、秘術を尽す遊女はそれはそれで面白いものだから、こうされるとその後もせっせとこの遊女に通い詰めることになるわけで、とくにやりたい盛りのむすこ(息子株)に対してこの手管がよく使われたようだ。むすこというのは、たとえば商家のまだ店を持たせてもらえない男であって、金はある、時間もあるという、吉原の上得意客の一人である。男を騙すのが手練なら、もてなすのも手管。そんな遊女の手練手管の数々が姉女郎から妹女郎へと伝えられていった。三十年前、アメリカとの外交交渉の席で園田直外務大臣のことをヴァンス国務長官が盛んに「テレンテクダ」の人と持ち上げた。わが方の通訳氏、この日本語を知らぬ「お坊ちゃん」で、話が混乱した。良き思い出である。
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体育会制度の欠点顕著
━━━━━━━━━━前田 正晶
女子のヴァレーボールがアテネ同様5位にはなった様子。敢えて数えていないが、このオリンピックで男女のメダル各頭数を比べたらどうなるだろう?特に、団体種目では野球が未だ予選の段階だが、男子ティームはヴァレーボールとサッカーがともに全敗。不振という以前の問題。
その昔、アメリカの会社時代の日本人社員でスポーツ愛好家が言った「日本ではプロ野球と相撲に人材を取られるので、男子の種目は振るわない」と。至言であろうか?!それにしても男子は弱い。その原因の分析はすでに公表したが、私はさらなる問題点を各種競技の上部団体に見出すのである。それは団体役員は体育会制度の中で生まれ育って、外の空気を吸ったことがなく、いわば純粋培養。しかもなかなか普通の会社に就職することを選択せず、競技に身を捧げている。そして、引退後は協会の仕事に献身・努力である。このこと事態は誠に結構である。非難すべき問題点はない。だが、世間の風に触れていないだけではなく、その種目の中で長幼の序と年功序列を重んじる世界に生きていれば、段々に一般人と異なる価値観を持ってしまうと、私は見ている。それだから柔道やマラソンに見られるような「その世界内部だけに通用する基準で、派遣する選手を選んでしまう結果に終わる」と私は考えている。こんなことを言えば異論・反論が来るだろうことは承知で言っている。今回はサッカーはU-23で「全敗」という無惨な結果に終わったが、これは協会だけの責任ではあるまい。
私は、自分がサッカーをやっていたから言うのではなく、この協会は少し異色で某大新聞に逆らってまでJリーグのフランチャイズ制度を確立し、あれだけ落ち込んでいたサッカーをワールド・カップの常連にまで進歩させた。その陰にはJの前身「日本リーグ」があると思う。これはいわば日本を代表するような大企業が加盟する異色の組織だった。新日鐵、日立、三菱重工、全日空、東洋工業(=マツダ)、ヤンマー、JR等々である。当時の選手には東大・早稲田・慶応等が強豪校だった時代の人も多く存在した。その中から故長沼会長や、川渕前会長、岡野IOC委員等が出ている。岡野は除いては大企業の組織の中で過ごして管理職を経験してきた。いわば、世間の風に吹かれた経験があったと思う。
男子の弱さは、前時代的な長老支配から脱却しきれず、未だに精神論者を指導者に頂く種目が多いからであると、独断と偏見で考えている。
以前に論じたように体格の差を補うと称して小技と技巧を磨き、精神論を叩き込むことに注力し、基礎体力を鍛えず、身体能力を強化していかないと、この北京オリンピックの結果のような状態が続くかと懸念する次第である。今回は同時に甲子園野球を見ていたが、有力校の中軸打者や投手には、他の種目に転向させればオリンピックは措くとしても、もう少し他の競技全部の底上げができるのではないかと思わせられる人材が多かった。それほどプロを目指し、イチローやまつざかになりたい子供が多いのかと思わせられた。また、フェンシングでは太田君が第2位となったが、彼、小学校入学前からフェンシング一筋だったと聞いた。それは立派で褒め称えたいが、他の競技を経験させれば、彼の才能がもっと磨かれてもっと早く世界で光ったのではないかと感じた。尤も、以前から知られた存在であったと知っているのだが。
要するに、体育会制度の長所・欠点が段々と年を追うごとに顕著になってきているのが、私が考える問題点であるのだ。
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出るか「1兆円景気対策」
━━━━━━━━━━━━花岡 信昭
世間は北京五輪のメダルラッシュで大騒ぎだが、福田康夫首相(72)はのんびり夏休みというわけにはいかない。お盆を終えて、週明けには再び「政治の季節」がやってくる。8月初旬の人事によって、自民党の麻生太郎幹事長(67)への「禅譲シナリオ」が浮上、公明党も福田政権と微妙な距離を置きはじめており、福田首相はその厄介な連立方程式に直面している。それをばさっと切る特効薬として出てきたのが、「1兆円景気対策」だ。原油高、消費低迷、大型倒産、格差問題、企業減益といった経済環境をいっぺんに引っくり返す迫力を持ち得るかどうか。
■臨時国会の召集は
これは臨時国会の召集時期と微妙に絡む。公明党は早期召集に反対している。インド洋の海上自衛隊給油支援活動の継続を断ち切るために新テロ対策特別措置法改正案の再可決に反対し、さらには民主党が企てている矢野絢也(じゅんや)・元公明党委員長(76)の国会招致を阻止するためにも、臨時国会は短いほうがいいということらしい。政府・自民党側は今月下旬の召集を求めていたが、公明党は9月下旬への先送りを要求、どうやら間を取って9月初旬から中旬ぐらいで決着しそうな気配だ。公明党を納得させる材料としても「1兆円景気対策」が打ち出せるのであれば、これは有効な策となる。そこで8月下旬に総合経済対策をまとめ、これに基づいた補正予算案を編成、臨時国会の中心テーマとする方向だ。麻生幹事長らは投資促進税制の検討を主張、貯蓄に回されているカネをいかに引き出すかを最優先に考えるべきだとしている。大型景気対策の軸のひとつにはなりそうだ。
■「戻し税」浮上か
だが、それだけではまだインパクトに欠ける。そこでひそかに検討されているのが、「戻し税」方式による減税だ。ブッシュ米政権が経済対策として低所得者に小切手を送付した「小切手減税」の日本版である。財源は特別会計などに隠されている「埋蔵金」を充てるという構想が出ている。国債を財源にしたら、将来へのツケを増やすだけの結果に終わるという批判が出るのは必至だから、「埋蔵金」を減税の原資にするのが一番いいというわけだ。特別会計のほか、かつて国立だった各種の独立行政法人も「埋蔵金さがし」の対象になっているらしい。「戻し税」というのは、現金が家庭に支給されるわけだから、通常ならば消費刺激効果は大きい。このご時世だから貯蓄に回るだけという指摘もないわけではないのだが、「家族そろってファミレスに1回行ってもらうだけでも効果はある」(自民党中堅幹部)。
麻生氏や与謝野馨(よさの・かおる)経済財政担当相(69)らは消費税増税論者だが、どうやら、来年度予算で消費税アップに踏み切ることは断念したようだ。基礎年金の国庫負担分引き上げに伴う財源措置は、たばこ増税などによって賄うということらしい。「上げ潮派」の中川秀直(ひでなお)元自民党幹事長(64)がたばこ増税を主張していることを、巧みに取り込むというわけだ。年内解散の可能性もいわれる中、消費税増税を打ち出したら、とてもではないが選挙は戦えないというのが、与党内の共通認識ともなっている。厄介な課題はすべて「先送り」で政権維持をはかるというのが福田首相の基本戦略のようだが、「1兆円景気対策」で活路が開けるのかどうか。瀬戸際の神経戦が本格化するのは間違いない。
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手練手管は吉原術
━━━━━━━━渡部亮次郎
「手練手管てれんてくだ」について『新明解』は「うまいことを言って人を丸め込む方法」とあり、いずれにせよ褒め言葉ではない。
手練手管 ほんに惚れたはぬしだけでおざりィす廓の譬えに「素見(ひやかし)千人、客百人、間夫が十人、地色(いろ)一人」という言葉がある。
【吉原よしわら】江戸の遊郭。1617年、江戸市内各地に散在していた遊女屋を日本橋葭屋町(よしやまち)に集めたのに始まる。
明暦の大火に全焼し千束日本堤下三谷(さんや)現在の台東区千束に移し新吉原と称した。北里、北州、北郭などとも呼ばれた。売春防止法(1958年4月施行)により遊郭は廃止。吉原にやってきて遊女を見てまわるだけの素見が1000人、そのうち客となるのは100人、馴染みとなって「私にとってはあなただけよ」などと言われてうつつを抜かす間夫(まぶ)が10人、しかし、遊女がほんに惚れている地色は1人だけという意味の言葉だ。現代でもこの譬えに身に覚えのある人は少なくはありますまい。「傾城(けいせい)=遊女)のまことの恋は恋ならで金持ってこいが本当(ほん)のこいなり」というように、遊女はある意味で客にいかに金を遣わせるかが商売である。たとえば遊女に対して見世から夕食は支給されないから、遊女は客をとり、その客に何らかの食事(台の物)を注文しもらわなければ食事にありつけないし、また、まともに男を相手にしていたのではとても身が持たない。「女郎の誠と卵の四角はありえない」と言われるように、客には身を預けて「ぬしだけよ」と言いながらも、本心ここにあらずのその手練手管は、「年季(ねん)があけたら夫婦になる」なんて起請文(きしょうもん)を客ととりかわしておきながら、実はその相手が3人いたという『三枚起請』などの落語にもなっている。起請文というのは、自分の名前のところに血判を押して神仏にかけて誓うもので、誓紙(牛王紙)を売り歩いた勧進比丘尼という人たちが「起請文を書くたびに熊野権現の烏が3羽死ぬ」と言いまわりました。誓いを破ると、熊野権現の烏が血を吐いて死に、たちまち天罰が下ると言われたため、はじめ、その誓いは堅く守られたと言う。起請文は戦国時代、武士同士の間でも盛んにやりとりされた。互いに裏切らないよう誓いを立てるのだが、そもそも親兄弟や主人と家来などが争う下克上の世の中だから、何度、書いたところで守られるわけがなく、次第に廃れていった。これに対して遊女の起請文は、少なくとも江戸時代の終わりまで見られたが、戦国時代の先例のように、目的は相手を信用させるためだけ、つまり見せかけであることが少なくなかった。
文化14年(1817)に出版された洒落本『籬の花』にその例が出ている。遊女・梅川が客の八右衛門の前で自分の左薬指の爪の下に小刀を突き刺し、おもむろに血起請を書き始める。文字を墨で書くときは、牛王紙に書かれた烏の目のところどころに血を塗りつけ、「起請文の事」という題に続いて、誓いの文言を書き記し、最後にさまざまな神の名を記し、「もし背かば御ばつをこうむらん」という文章で締めくくる。梅川はこのとき「御ばつうをこうむらん」とした(平仮名の「う」と「ら」はよく似ている)。「御ばつう」は言葉ではないので、誓いを破ったところで罪は被らない、つまり一言「う」の文字を入れるだけで、本物の起請が嘘の起請になるってわけだ。そうとは知らない八右衛門、梅川が誠を誓ったと思い込み、紋日(料金が通常の倍になる)にまたくることと、梅川から頼まれた15両の金をも明日持ってくることを約束。梅川は「必ず見捨てておくんなんすなよ」と言って帰る八右衛門を見送る。この八右衛門といい、「ほんに惚れているのはぬしだけ。年季があけたら一緒になろうよ」と起請文をしたためたのを本気にした『三枚起請』の男たちといい、真に受けた男のほうがなんぼか純情かもしれない。だが、それはまあ言ってみればタヌキとキツネの化かしあいみたいなものでもある。「他客(ひと)は客、俺は間夫だと思う客」なんていう川柳もあり、冷ややかな客もおった。閨(ねや)の中でもさまざまな手練手管が使われる。わざとゆっくり手紙を書いたり、ちょっと手水(ちょうず=手洗い)へと座敷を出ていって他の客のところへ行ったり、たらふく酒を飲ませて酔い潰し、なかなか床入りしようとしないのは日常茶飯事。床入りしても長時間にわたって男とくんずほぐれつしていたのでは身が持たないから、適度にあそこをきゅっきゅと締めて、男をさっさと昇天させ、一丁上がりとすぐに寝込んでしまったり。あるいは逆に「もっとしましょうよ」と秘術を尽くし、何度も男を奮い立たせるなんてこともすれば、男の腰遣いに合わせて激しく腰を動かしたりもした。何度もおいたをするのは矛盾しているように思うかもしないが、男ってのは単純なものであって、もてないよりはもてたほうがいいに決まってる。また、たとえば武士の奥方の場合(だけに限らないが)、喘ぎ声をあげるのは恥だとする風潮があり、その間は硬直しっぱなしのマグロも珍しくない。一方、秘術を尽す遊女はそれはそれで面白いものだから、こうされるとその後もせっせとこの遊女に通い詰めることになるわけで、とくにやりたい盛りのむすこ(息子株)に対してこの手管がよく使われたようだ。むすこというのは、たとえば商家のまだ店を持たせてもらえない男であって、金はある、時間もあるという、吉原の上得意客の一人である。男を騙すのが手練なら、もてなすのも手管。そんな遊女の手練手管の数々が姉女郎から妹女郎へと伝えられていった。三十年前、アメリカとの外交交渉の席で園田直外務大臣のことをヴァンス国務長官が盛んに「テレンテクダ」の人と持ち上げた。わが方の通訳氏、この日本語を知らぬ「お坊ちゃん」で、話が混乱した。良き思い出である。
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体育会制度の欠点顕著
━━━━━━━━━━前田 正晶
女子のヴァレーボールがアテネ同様5位にはなった様子。敢えて数えていないが、このオリンピックで男女のメダル各頭数を比べたらどうなるだろう?特に、団体種目では野球が未だ予選の段階だが、男子ティームはヴァレーボールとサッカーがともに全敗。不振という以前の問題。
その昔、アメリカの会社時代の日本人社員でスポーツ愛好家が言った「日本ではプロ野球と相撲に人材を取られるので、男子の種目は振るわない」と。至言であろうか?!それにしても男子は弱い。その原因の分析はすでに公表したが、私はさらなる問題点を各種競技の上部団体に見出すのである。それは団体役員は体育会制度の中で生まれ育って、外の空気を吸ったことがなく、いわば純粋培養。しかもなかなか普通の会社に就職することを選択せず、競技に身を捧げている。そして、引退後は協会の仕事に献身・努力である。このこと事態は誠に結構である。非難すべき問題点はない。だが、世間の風に触れていないだけではなく、その種目の中で長幼の序と年功序列を重んじる世界に生きていれば、段々に一般人と異なる価値観を持ってしまうと、私は見ている。それだから柔道やマラソンに見られるような「その世界内部だけに通用する基準で、派遣する選手を選んでしまう結果に終わる」と私は考えている。こんなことを言えば異論・反論が来るだろうことは承知で言っている。今回はサッカーはU-23で「全敗」という無惨な結果に終わったが、これは協会だけの責任ではあるまい。
私は、自分がサッカーをやっていたから言うのではなく、この協会は少し異色で某大新聞に逆らってまでJリーグのフランチャイズ制度を確立し、あれだけ落ち込んでいたサッカーをワールド・カップの常連にまで進歩させた。その陰にはJの前身「日本リーグ」があると思う。これはいわば日本を代表するような大企業が加盟する異色の組織だった。新日鐵、日立、三菱重工、全日空、東洋工業(=マツダ)、ヤンマー、JR等々である。当時の選手には東大・早稲田・慶応等が強豪校だった時代の人も多く存在した。その中から故長沼会長や、川渕前会長、岡野IOC委員等が出ている。岡野は除いては大企業の組織の中で過ごして管理職を経験してきた。いわば、世間の風に吹かれた経験があったと思う。
男子の弱さは、前時代的な長老支配から脱却しきれず、未だに精神論者を指導者に頂く種目が多いからであると、独断と偏見で考えている。
以前に論じたように体格の差を補うと称して小技と技巧を磨き、精神論を叩き込むことに注力し、基礎体力を鍛えず、身体能力を強化していかないと、この北京オリンピックの結果のような状態が続くかと懸念する次第である。今回は同時に甲子園野球を見ていたが、有力校の中軸打者や投手には、他の種目に転向させればオリンピックは措くとしても、もう少し他の競技全部の底上げができるのではないかと思わせられる人材が多かった。それほどプロを目指し、イチローやまつざかになりたい子供が多いのかと思わせられた。また、フェンシングでは太田君が第2位となったが、彼、小学校入学前からフェンシング一筋だったと聞いた。それは立派で褒め称えたいが、他の競技を経験させれば、彼の才能がもっと磨かれてもっと早く世界で光ったのではないかと感じた。尤も、以前から知られた存在であったと知っているのだが。
要するに、体育会制度の長所・欠点が段々と年を追うごとに顕著になってきているのが、私が考える問題点であるのだ。