◆「海を渡った自衛官─異文化との出会い─」vol.16 | 日本のお姉さん

◆「海を渡った自衛官─異文化との出会い─」vol.16

◆「海を渡った自衛官─異文化との出会い─」vol.16
第16回 郷に入らば、郷に従え

エジプトアラブ共和国在カイロ大使館勤務防衛駐在官
                   M将補(当時1佐)
            派遣期間:1992年6月~1995年6月
■防衛駐在官
駐在武官とも呼ばれる。外交官の身分で在外大使館に勤務する(つまり、一時的に外務省に出向する)。おもに安全保障・防衛関係業務にしたがう制服自衛官のことをいう。具体的には、駐在する国とわが国との間の軍事的透明性を高めることと、軍関係の行事に国家代表として出席することである。軍事的透明性を高めるとは、情報交換をし、信頼関係を築くことだが、もちろん、国益が最重視されねばならない。だから、情報収集は当たり前であり、いってみれば公然たるスパイの役目も果たすことになる。スパイや諜報というと、戦後の日本人は、何か後ろ暗いことのように思うらしい。だが、国益がせめぎ合う、厳しい国際社会では国家が安全を保つには、当然必要なことである。だから、駐在武官の公然たる情報収集活動は誰にも非難されることはない。戦前の陸海軍の起こした失敗から、外務省は武官の存在を嫌った。しかし、結局、武装組織をどの国でも持っている以上、また、安全保障上、制服武官の存在は欠かすことができなかった。2007年現在、世界の34カ国と、国際連合事務局、ジュネーブにある軍縮会議、オランダのハーグの化学兵器禁止機関などに、合計44名が常駐している。また、警備対策官として、やはり外務省職員として在外公館に勤務する幹部もいる。

▼アラブ人のIBM
大使館出勤の第1日目の朝、8時にホテルに来るはずの迎えの車が来ない。臨時に契約した運転手だった。しまった、彼が昨日、別れ際に言った「インシャラー」の言葉。M1佐は急に気にかかり始めた。インシャラーとは「何事も神の思し召しのまま」という意味である。インシャラーの頭文字は「I」。待つこと5分。運転手は現れると、自分の子どもが発熱したと説明を始めた。約束はしたけれど、インシャラーと言った以上、何かが起こった時には、その通りはいかないぞという。約束の結果は、神の御心にゆだねられているのだ。大使館への到着は10分も遅れた。自衛官は約束に厳格だ。とくに時刻については、完璧性を要求する。すべての計画は、時間通りに進まねばならない。M1佐は、すっかりまいってしまった。すると、彼はいう。「マレーシュ」、気にするな、たいした事ではない、ドンマイである。野球やゲームなら、ドンマイで済むことも多いだろう。しかし、着任当日の遅刻である。しかも、原因をつくった運転手から、連発されたのが、このマレーシュ。頭文字をとれば「M」になる。1佐はますます落ちこんだ。ホテル住まいも1カ月たった。毎朝、5時から始まる町中の喧噪、「アラー・アクバル(神は偉大なり)」の祈りがモスクから流れることにも慣れた。契約したアパートに移らなければならない。内装を替えてもらう約束をした。ところが、見に行くと何もしていない。家主に会って確かめると、「ボクラ、ボクラ」の連発である。何度会っても、「ボクラ(明日)」という。これが「B」。実に、2週間、「ボクラ」が続いた。 「エジプト人の生活リズムや感性は、私たちとは異なっているのです。秒刻みや、分刻みの考え方では、とても太刀打ちできません。郷に入りては、郷に従えですね」日本では仕事を第一に考える。エジプトでは最優先事項は家族である。インシャラーとマレーシュの運転手に超過勤務をたのんだら、きっぱりと断られた。その理由というのが、家族全員がいっしょに夕食を摂るというのが習慣になっている。仕事よりも、その時間ははるかに大切だという。現代日本人と、エジプト人の、どちらがいったい幸せなのだろうかとM1佐は考えてしまった。エジプト人の貧富の差は激しい。だからこそ、NHKのテレビドラマ「おしん」はエジプトでも大人気だった。貧しい人が、厳しい環境に我慢して、誠実に努力を重ね、いつか成功する。そういった姿にエジプト人たちは夢と希望を持った。政府も、また、こうした国民の気分に好感を持っていた。日本を見習って、豊かな社会にしようというのだ。謙虚、努力、正直、誠実というのが、「おしん」でエジプト人に広まった日本人のイメージである。最近のわが国社会の状況を見て、心配にもなる、しかし、「おしん」のDNAは引き継がれているはずだ。若者を信じたいですねと、M将補は笑って語ってくれた。

▼一皮むけた自衛隊広報
冒険心から防衛大に入った。家族の周囲には軍隊アレルギーがなかった。入校の決意は1970年のことである。通っていた都立高校の柔道部監督のおかげで、防衛大の柔道部の合宿に、着校前から参加できた。 「だからっていうだけではないのですが、さほど防衛大の団体生活は苦になりませんでした。でも、気持ちが揺れたのは夏休みが終わったころでした。一般の大学に進んだ同級生に会いますでしょ。ああ、自分が慶応に行っていたらな……とか、早稲田だったらなとか、辞めようかなあなんて思いました。でも、結局、学生舎のつながりといいますか、同期や先輩のおかげで思いとどまった」柔道部で活躍しただけあって、M将補は見上げるような体格をしている。同期生でも身長181センチ、体重85キロは、当時でも、大きなほうだった。久留米の幹部候補生学校で、志望を決めるとき、職種はとくにこだわらなかった。同期の防大卒業者の中で、たった一人、警務官になった。警務という職種は、外国軍や旧陸軍の憲兵にあたる。黒地に白くMP(ミリタリー・ポリス)、警務と浮き出した腕章を見た人もいるだろう。部隊内の事件の捜査や、要人の警護、外国からの国賓への儀仗などを任務とする。もちろん、有事には避難民の保護や、捕虜の管理などを行う。
9月に幹部候補生学校を卒業し、名古屋市守山の第35普通科(歩兵)連隊に配属。新隊員教育隊の区隊長、教官を経験する。3尉に任官して警務官課程(6カ月)を卒業、第10師団司令部保安警務隊に異動した。1978年には東京芝浦にあった第302保安中隊で小隊長になった。国賓がきて、迎賓館などで儀仗を行なう。ここでAOC(幹部上級課程)をおえて、112地区警務隊(下志津)に異動、つづいて業務学校(現在の小平学校)で教官、次は自分が学生になった。幹部学校のCGS課程(指揮幕僚課程)を卒業すると、また、業務学校の教官にもどった。 「電通の広報室へ1年間、研修に行かせてもらえました。その後、陸幕広報室へ」雑誌関係を担当する報道Bのポストだった。時代は東西冷戦末期、平成元年のことである。出前ライブ」という日本テレビの番組があった。若者に人気があったサンプラザ中野が市ヶ谷台にやってきた。その調整をした。夜中のうちに、大型トラックにセットを積んで駐屯地に入った。ところが、用意された曲が反戦調のものだった。曲を差し替えてもらったものの、聞く人が聞けば、どうしたって反戦・平和希求の内容であることは変わらない。でも、若い自衛官たちは喜んでいた。ふつうの若者、健康な精神と肉体を持った若者である。スターが来て、目の前で流行の曲が聴かれた。会場は若い熱気が溢れて、大乱舞になった。その様子がテレビで放映されると、すぐに大手週刊誌にたたかれた。見出しは『反戦歌に狂喜乱舞する自衛官』。電車内のつり広告にもその文字はおどっていた。ほら見たことか、自衛官はたるんでいる、いざとなったらあてにならないという書き方である。よかれと思って企画したことだった。隊員も喜んでいた。当時のM3佐は頭を抱えた。ここからは筆者(荒木)の思いである。ずいぶん前から、自衛官はだめだとか、有事にはあてにならないとか言われてきた。昔の軍人とちがって、サラリーマンだから。軍法がないから、いざとなったら逃げるだろうとまでいう人もいる。自衛隊を目の敵にする人ばかりか、国防は大事だと主張しながら、現職の自衛官を腰抜けのように誹謗する人までいる。
誰だって、戦争は恐ろしい。旧軍の軍人だって、実際は、勇躍進んでいった人ばかりではない。軍人だって官吏(かんり)だったし(俸給も賞与ももらうサラリーマンだった)、家族もいれば妻子ある人が多かった。今の自衛官も変わりはない。変わったのは世間の方である。昔は、危険な職業を進んで選んだ人たちには、感謝と尊敬を惜しまなかった。戦地に出かけた軍人に、後顧(こうこ)の憂いがないように、社会全体が配慮もしたのだ。自衛官の実態を見ようともせず、彼ら、彼女らが危険な地域で活動をし、誰も逃げたり、事故を起こしたりしていないことをどう考えるのか。危険な地域に立つ自衛官に、列国の軍人らしい待遇を与えない。 たとえば、派遣国の統治者と結ぶべき「地位協定」である。国内法で軍隊ではないから、地位があいまいである。外国軍人のような行動上の特例を受けられないのだ。もし、現地で交通事故を起こしたら、現地の法律で裁かれることになってしまう。そのあたりを、ごまかし続ける政府や官僚、国会議員たちはどういう神経を持っているのか。筆者はいつも不思議に思っている。さて、問題になったテレビ番組のことである。どうしようと頭を抱えていたら、防衛庁内局の広報課長から呼ばれた。沈痛な顔で出かけたM3佐を、Y課長は、開口一番、「よかったな!これで防衛庁・自衛隊の広報は、一皮むけたというものじゃないか」
とむかえてくれた。 「ほんとうにありがたいと思いました。あれで、私の心は、ほんとうに晴れました」

▼もう一人の戦友
夜中に突然、電話が鳴った。国際電話特有のベルである。あわてて受話器を取ると、電通研修の時に世話になったK氏からだった。Fテレビのカイロ支局長I氏がルワンダで亡くなったという知らせである。1994年12月の初旬のことだった。ケニアのナイロビの地方空港から離陸した小型飛行機が墜落したのだ。さわやかな好青年は、ルワンダのゴマで活躍する自衛隊の取材をしようと出発した。夫人と幼い子ども2人を残しての殉職だった。 I氏は、湾岸戦争ではトマホークミサイルがバグダッドを空襲するさなか、マイク片手に冷静な報道を続けた人である。また、モザンビーク難民支援に活躍する自衛官の取材にも進んで出かけていった人だった。最後に会話を交わしたのは、5日前、12月1日のことだった。自衛隊の撤収場面を取材したかったI氏は、電話でM1佐にたずねてきた。「最後のC-130が後部ドアを閉めて離陸するときの映像が撮りたい」というのだ。撤収開始は東京では、12月15日頃を予定していた。その知らせもM1佐には届いていた。しかし、まだ公表をする段階ではなかった。「あまり急いで行く必要はないですよ……とだけ言って、電話を切ってしまったのです。今でも、そのこと、彼の事故の責任の一端が自分にあるように思えてなりません」翌日、M1佐はゴマへ向かった。空自C-130のクルーが搭乗者名簿を確認に来た。I氏の殉職、彼との交流などを話すと、クルーは飛行経路を変えた。小型機の事故現場の上空を飛ぶことになった。機上からM1佐は、I氏と助手、2人のルワンダ難民救援隊の報道に身を挺してくれた記者に霊に手を合わせた。

▼エルアラメインの慰霊祭
1942年の夏、地中海にのぞむエルアラメインは激戦場だった。ロンメル将軍率いるドイツ・イタリア軍がエジプトを攻略しようとしていた。モントゴメリー将軍は英国連邦軍を指揮して迎撃し、両軍で約8万人の死傷者が出た。広大な砂漠地帯にはあるものの、北を地中海に、南を湿原にはさまれた隘路(あいろ)である。毎年10月、イギリス、ドイツ、イタリアが持ち回りで合同慰霊祭を盛大に行なっている。英国首相やドイツの国防大臣など、各国首脳も参列する。もちろん、わが国を代表して、在エジプト大使館武官としてM1佐も列席した。
「特に目を引くのは、ドイツの慰霊廟(びょう)です。一辺が5メートルもある六角形の分厚い石壁で囲まれた重厚な建造物になります」
その中庭は、オリーブの葉で飾られていた。壁の石盤には、戦死したドイツ将兵の約8,000名の名前が刻まれているそうだ。中央の碑には、「ドイツ国家の価値観のために、勇敢にその命を捧げた将兵がここに眠る。われら国民は諸君達を永遠に忘れない」と記されていた。
「本国から5,000キロ離れた、灼熱の砂漠で、毎年、戦死者に敬意を払うための慰霊祭が行なわれているのです」わが国でも、戦争の評価や、当否の議論とは別に、戦死者への敬意は別であるとする気持ちを持つことが大切ではないでしょうかとM将補は、語り終えてくれた。
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