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▼中国特派員を縛る協定 (渡部亮次郎)杜父魚文庫ブログ (重要です。)

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▼中国特派員を縛る協定 (渡部亮次郎)杜父魚文庫ブログ
中国特派員をがんじ搦めに縛る協定の存在を知っていますか。この協定があるので、中国に派遣されたわが国特派員たちは取材の自由をまったく失い、監視されつつ、国外追放処分に怯えながら記事を送って来る。その記事が往々にして中国のお先棒かつぎの色彩を帯びたり、ゴマすりだったりする事は当然である。国外退去ともなれば中国語記者はそれで人生を閉ざされるのだから神経のやせ細る思いで自己規制に身を更に削るのである。日中記者交換協定がそれである。一般の人は見たことも聞いたことも無いはずである。だが日本と中国の間で取り交わされた、日中双方の記者を相互に常駐させる取り決めのこと。正式名は「日中双方の新聞記者交換に関するメモ」は厳然として日本を縛っているのである。
①日本政府は中国を敵視してはならない
②米国に追随して「2つの中国」をつくる陰謀を弄しない
③中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げない

すなわち、中国政府(中国共産党)に不利な言動を行なわない・日中関係の妨げになる言動を行なわない・台湾(中華民国)独立を肯定しないことが取り決められている。違反すると、記者が中国国内から追放される。中国に対する正しい報道がなされていないと批判があるのはこの協定のためだ。始まりは国交正常化前の1964(昭和39年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助(元通産大臣)事務所と廖承志(早稲田大学卒業)事務所が、その会談において、日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた。
会談の代表者は、松村謙三・衆議院議員(自民党)と廖承志・中日友好協会会長。この会談には、日本側から竹山祐太郎、岡崎嘉平太、古井喜実、大久保任晴が参加し、中国側から孫平化、王暁雲が参加した。要するに日中国交正常化に弱腰な自民党政府にシビレを切らした新聞、通信、放送各社が自民党内親中派の松村氏らの尻を叩いて結ばせた民間協定である。記者交換に関する具体的な事務は、入国手続きを含めて廖承志事務所と高碕事務所を窓口として連絡し、処理する。 交換する新聞記者の人数は、日中とも8人以内とし、1社1人の記者を派遣することを原則とする。第1回の記者の派遣は、1964年6月末に実現することをめどとする。 記者の相手国における1回の滞在期間は、1年以内とする。 相手方新聞記者の安全を保護するものとする。 取材活動に便宜を与えるものとする。(嘘吐きは協定の始まり)。
双方の記者は駐在国の外国新聞記者に対する管理規定を順守するとともに、駐在国が外国新聞記者に与えるのと同じ待遇を受けるものとする。相手側新聞記者の通信の自由を保障する。 かねて周首相と松村氏との間に意見一致をみた両国友好親善に関する基本5原則、すなわち両国は政治の体制を異にするけれども互いに相手の立ち場を尊重して、相侵さないという原則を松村・廖承志会談において確認し、この原則のもとに記者交換を行なうものである。 協定は猫を被っていた。1966年に走資派排除の文化大革命が始まるとキバを剥き始めるが、日本側はそれも受け入れてしまう。佐藤栄作内閣下の1968(昭和43)年3月6日、新聞記者の相互交換についても、発表した会談コミュニケに示された原則を遵守し、日中両国民の相互理解と友好関係の増進に役立つべきものであると一致して確認した。

問題はコミュニケの内容である。
「双方は、日中両国は近隣であり、両国国民の間には伝統的な友情があると考え、日中両国国民の友好関係を増進し、両国関係の正常化を促進することは、日中両国国民の共通の願望にかなっているばかりでなく、アジアと世界の平和を守ることにも有益であると認めた。
中国側は、われわれの間の関係を含む中日関係に存在する障害は、アメリカ帝国主義と日本当局の推し進めている中国敵視政策によってもたらされたものであると指摘した。日本側は、中国側の立場に対して深い理解を示し、今後このような障害を排除し、日中関係の正常化を促進するために更に努力をはらうことを表明した。 中国側は、中日関係における政治3原則と政治経済不可分の原則を堅持することを重ねて強調した。日本側は、これに同意した。双方は、政治経済不可分の原則とは、政治と経済は切りはなすことが出来ず、互いに関連し、促進しあうものであり、政治関係の改善こそ経済関係の発展に役立つものであるとの考えであることを認めた。 双方は、政治三原則と政治経済不可分の原則は、日中関係において遵守されるべき原則であり、われわれの間の関係における政治的基礎であると一致して確認し、上記の原則を遵守し、この政治的基礎を確保するためにひとつづき努力をはらう旨の決意を表明した」。 池田内閣よりタカ派の佐藤内閣を意識し、国交正常化に悲観的になった中国側の高姿勢のコミュニケを呑まされた上に、「記者交換の人数をそれぞれ8名以内からそれぞれ5名以内に改めることに一致して同意した」のである。このように協定は日本側は記者を北京に派遣するにあたって、中国の意に反する報道を行わないことを約束したものであり、当時北京に常駐記者をおいていた朝日、読売、毎日新聞、NHKなどや、今後北京に常駐を希望する報道各社にもこの文書を承認することが要求された。以上の条文を厳守しない場合は中国に支社を置き記者を常駐させることを禁じられた。この協定に関連して、文化大革命期に産経新聞を除く新聞各社は、中国当局からの台湾支局閉鎖の要求をのんで中国に支局を開局したという経緯がある。国交の回復した以後の1974年1月5日には両国政府間で日中貿易協定が結ばれ、同日には「日中常駐記者交換に関する覚書」(日中常駐記者交換覚書)も交わされた。 現在に至るまで、中国へ不利な記事の報道や対中ODAに関する報道は自粛されている。日本政府が中国側記者を国外退去処分にした事はいまだ嘗て無いが中国からの国外退去処分の事件はある。産経新聞の北京支局長・柴田穂は、中国の壁新聞(街頭に張ってある新聞)を翻訳し日本へ紹介していたが、1967年追放処分を受けた。この時期他の新聞社も、朝日新聞を除いて追放処分を受けている。

<■唸声日本/産経新聞・斎藤勉編集局長、大いに語る
当時の北京支局長・柴田穂氏は壁新聞(当局に都合の悪いことも)を次々と翻訳し日本へ紹介、1967年産経・毎日・読売の追放、1970年共同追放で朝日新聞以外は全ていなくなった。1998年、31年ぶりに特派員の再開となるが、これは中国側からの要望でもある。特派員追放からは台北から大陸情報を得ていたので中共ご用達の朝日とは違った情報を掴んでいた。これが中共の癇に障ったための再開でもある 当初、中国側は台北支局を閉じ、北京支局にまとめることを条件としていたが、これに産経は応じず、中国総局(北京4名・上海1名)との呼称で譲歩をみせた。台北支局より総局が上と言う中国人の面子を利用したのである。>。2007/09/24  00:17
80年代には共同通信社の北京特派員であった辺見秀逸記者が、中国共産党の機密文書をスクープし、その後処分を受けた。
90年代には読売新聞社の北京特派員記者が、「1996年以降、中国の国家秘密を違法に報道したなどとして、国外退去処分を通告された。読売新聞社は、記者の行動は通常の取材活動の範囲内だったと確信している、としている。要するに国交正常化(1972年)以後、中国における日本人ジャーナリストの活動は制限を解かれたとするのは全くの誤解であり、取材の自由は殆ど無いことに変わりは無い。国交正常化前に他社を出し抜いて特派員を派遣したいとかいた欲の足元を見た中国側の「勝利」であり、日本側各社はいうなれば自業自得としかいいようが無い。福田康夫内閣の叩頭外交を批判できないのも、その延長上だからである。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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◎日中記者交換協定 - Wikipedia日中記者交換協定(にっちゅうきしゃこうかんきょうてい)は、日本と中国の間で取り交わされた、日中双方の記者を相互に常駐させる取り決めのこと。正式名は「日中双方の新聞記者交換に関するメモ」。
日本政府は中国を敵視してはならない
米国に追随して「二つの中国」をつくる陰謀を弄しない
中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げない
すなわち、中国政府(中国共産党)に不利な言動を行なわない・日中関係の妨げになる言動を行なわない・台湾(中華民国)独立を肯定しないことが取り決められている。違反すると、記者が中国国内から追放される。これらの協定により、中国に対する正しい報道がなされていないと批判がある。


[編集] 1964年の協定
1964年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖承志事務所は、その会談において、日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた。会談の代表者は、松村謙三・衆議院議員と廖承志・中日友好協会会長。この会談には、日本側から竹山祐太郎、岡崎嘉平太、古井喜実、大久保任晴が参加し、中国側から孫平化、王暁雲が参加した。

記者交換に関する取り決めの内容は次の通り。

一 廖承志氏と松村謙三氏との会談の結果にもとづき、日中双方は新聞記者の交換を決定した。
二 記者交換に関する具体的な事務は、入国手続きを含めて廖承志事務所と高碕事務所を窓口として連絡し、処理する。
三 交換する新聞記者の人数は、それぞれ八人以内とし、一新聞社または通信社、放送局、テレビ局につき、一人の記者を派遣することを原則とする。必要な場合、双方は、各自の状況にもとづき、八人の枠の中で適切な訂正を加えることができる。
四 第一回の新聞記者の派遣は、一九六四年六月末に実現することをめどとする。
五 双方は、同時に新聞記者を交換する。
六 双方の新聞記者の相手国における一回の滞在期間は、一年以内とする。
七 双方は、相手方新聞記者の安全を保護するものとする。
八 双方は、相手側新聞記者の取材活動に便宜を与えるものとする。
九 双方の記者は駐在国の外国新聞記者に対する管理規定を順守するとともに、駐在国が外国新聞記者に与えるのと同じ待遇を受けるものとする。
十 双方は、相手側新聞記者の通信の自由を保障する。
十一 双方が本取り決めを実施する中で問題に出あった場合、廖承志事務所と高碕事務所が話し合いによって解決する。
十二 本会談メモは、中国文と日本文によって作成され、両国文は同等の効力をもつものとする。廖承志事務所と高碕事務所は、それぞれ中国文と日本文の本会談メモを一部ずつ保有する。
付属文書
 かねて周首相と松村氏との間に意見一致をみた両国友好親善に関する基本五原則、すなわち両国は政治の体制を異にするけれども互いに相手の立ち場を尊重して、相侵さないという原則を松村・廖承志会談において確認し、この原則のもとに記者交換を行なうものである。

[編集] 1968年の修正
1968年3月6日、「日中覚書貿易会談コミュニケ」(日本日中覚書貿易事務所代表・中国中日備忘録貿易弁事処代表の会談コミュニケ)が発表され、LT貿易に替わり覚書貿易が制度化された。この会談は、同年2月8日から3月6日までの間、松村謙三が派遣した日本日中覚書貿易事務所代表の古井喜実、岡崎嘉平太、田川誠一と中国中日備忘録貿易弁事処代表の劉希文、王暁雲、孫平化により、北京で行われた。

コミュニケの内容は、次の通り。

 双方は、日中両国は近隣であり、両国国民の間には伝統的な友情があると考え、日中両国国民の友好関係を増進し、両国関係の正常化を促進することは、日中両国国民の共通の願望にかなっているばかりでなく、アジアと世界の平和を守ることにも有益であると認めた。
 中国側は、われわれの間の関係を含む中日関係に存在する障害は、アメリカ帝国主義と日本当局の推し進めている中国敵視政策によってもたらされたものであると指摘した。
 日本側は、中国側の立場に対して深い理解を示し、今後このような障害を排除し、日中関係の正常化を促進するために更に努力をはらうことを表明した。
 中国側は、中日関係における政治三原則と政治経済不可分の原則を堅持することを重ねて強調した。日本側は、これに同意した。双方は、政治経済不可分の原則とは、政治と経済は切りはなすことが出来ず、互いに関連し、促進しあうものであり、政治関係の改善こそ経済関係の発展に役立つものであるとの考えであることを認めた。
 双方は、政治三原則と政治経済不可分の原則は、日中関係において遵守されるべき原則であり、われわれの間の関係における政治的基礎であると一致して確認し、上記の原則を遵守し、この政治的基礎を確保するためにひとつづき努力をはらう旨の決意を表明した。
 双方は、一九六八年度覚書貿易事項について取りきめを行なった。
また、同日、先に交わされた記者交換に関する取り決めの修正も合意された。修正内容は次の通り。

 一 双方は、記者交換に関するメモにもとづいて行われた新聞記者の相互交換は双方が一九六八年三月六日に発表した会談コミュニケに示された原則を遵守し、日中両国民の相互理解と友好関係の増進に役立つべきものであると一致して確認した。
 二 双方は、記者交換に関する第三項に規定されている新聞記者交換の人数をそれぞれ八名以内からそれぞれ五名以内に改めることに一致して同意した。
 三 この取りきめ事項は記者交換に関するメモに対する補足と修正条項となるものとし、同等の効力を有する。
 四 この取りきめ事項は日本文、中国文によって作成され、両国文同等の効力を有する。日本日中覚書貿易事務所と中国中日備忘録貿易弁事処はそれぞれ日本文、中国文の本取りきめ事項を一部ずつ保有する。
この修正内容のうち、「会談コミュニケに示された原則」とは、会談コミュニケの中の「政治三原則と政治経済不可分の原則」を指す。「政治三原則」とは、1958年8月に訪中した社会党の佐多忠隆・参議院議員に対し、廖承志(当時、全国人民代表大会常務委員会委員)が周恩来・総理、陳毅・外交部長の代理として示した公式見解以来、中国側がたびたび主張してきた日中間の外交原則である。1960年8月27日に発表された「周恩来中国首相の対日貿易3原則に関する談話」によれば、「政治三原則」とは次のような内容である。

(前略)これまでわれわれがのべてきた政治三原則を堅持するもので三原則は決して日本政府に対する過酷な要求ではなく、非常に公正なものである。すなわち、第一に、日本政府は中国を敵視してはならないことである。なぜなら、中国政府は決して日本を敵視していないし、さらに、日本の存在を認めており、日本人民の発展をみてよろこんでいるからである。もし双方が話し合いをすすめるとすれば、当然日本政府を相手方とするものである。だが、日本政府は中国に対しこのような態度では臨んでいない。かれらは新中国の存在を認めず、これとは逆に、新中国を敵視し、台湾を承認し、台湾が中国を代表するとのべている。また日本政府は新中国政府を会談の相手方にしようとはしていない。第二は米国に追随して「二つの中国」をつくる陰謀を弄しないことである。米国で今後大統領が民主党から当選するにせよ、また共和党から当選するにせよ、すべて「二つの中国」をつくることをたくらむであろう。香港にある台湾系の新聞の報道によると、共和党の「二つの中国」をつくるたくらみは消極的で、待つて見ていようとするものであり、一方、民主党が政権をとれば、「二つの中国」をつくるたくらみが積極的であり、主動的であろうとのべている。これはある程度道理にかなっていると思う。米国がこのように行ない、日本がこれに追随すれば、われわれはもちろん反対である。第三は中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げないことである。(後略)
すなわち、

日本政府は中国を敵視してはならない
米国に追随して「二つの中国」をつくる陰謀を弄しない
中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げない
の3点の遵守が取り決められた。

この政治三原則と政経不可分の原則に基づいて日中記者交換を維持しようとするもので、当時日本新聞協会と中国新聞工作者協会との間で交渉が進められているにも関わらず、対中関係を改善しようとする政府・自民党によって頭ごしに決められたという側面がある。日本側は記者を北京に派遣するにあたって、中国の意に反する報道を行わないことを約束したものであり、当時北京に常駐記者をおいていた朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、NHKなどや、今後北京に常駐を希望する報道各社にもこの文書を承認することが要求された。以上の条文を厳守しない場合は中国に支社を置き記者を常駐させることを禁じられた。

この協定に関連する動きとして、文化大革命期に産経新聞を除く新聞各社は、中国当局からの台湾支局閉鎖の要求をのんで中国に支局を開局したという経緯がある。詳しくは「産経新聞」の紙面・論調項目を参照されたい。


[編集] 日中常駐記者交換に関する覚書
1972年9月29日、「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)が発表され、日中両国間の国交は正常化した。以後、日中関係は大きく進展する。1974年1月5日には両国政府間で日中貿易協定が結ばれ、同日には「日中常駐記者交換に関する覚書」(日中常駐記者交換覚書)も交わされた。 現在に至るまで、中国へ不利な記事の報道や対中ODAに関する報道は自粛されている。


[編集] 国外退去処分
中国からの国外退去処分の具体的な事件としては、産経新聞の北京支局長・柴田穂は、中国の壁新聞(街頭に張ってある新聞)を翻訳し日本へ介していたが、1967年追放処分を受けた[1] 。この時期他の新聞社も、朝日新聞を除いて追放処分を受けている。80年代には共同通信社の北京特派員であった辺見秀逸記者が、中国共産党の機密文書をスクープし、その後処分を受けた。90年代には読売新聞社の北京特派員記者が、「一九九録年以降、中国の国家秘密を違法に報道した[2]」などとして、当局から国外退去処分を通告された例がある。読売新聞社は、記者の行動は通常の取材活動の範囲内だったと確信している、としている。
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ようちゃんの意見。↓
★日本の大手新聞と NHKが記者を シナに おいてもらう ためにシナの いやがることは 書かないと いう 約束をし 今もって 従っている!  と いう日本の言論界の堕落の象徴なのです。彼らに 報道の自由とか 真実を伝えるとかいう 資格は ないのです。
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