☆☆甦れ美しい日本☆☆ 日本人、必読!
ようちゃん、おすすめ記事。↓☆☆甦れ美しい日本☆☆
------------------------------------
◎塚本三郎の「今を斬る」 「平和憲法」を問う
-----------------------------------
暑い夏の訪れと共に、また八月十五日を迎える。じりじりと暑い夏の昼。昭和天皇の玉音放送を拝聴しても、敗戦は、夢にうなされているとしか思えなかった、昭和二十年八月。十九歳の青春の思い出である。大都会の殆どが焦土となり、わが家も焼かれた日、昭和二十年三月が忘れられない。この戦争は、勝てないかもしれない。しかし、日本は神の国である。やがて神風が吹いて、鬼畜米英を亡ぼしてくれる。否、本土決戦で、一億玉砕の覚悟で戦うから、負けることはない。その確かな決意は、天皇陛下の玉音放送で一変した。史上初めての敗戦である。それでも大和魂だけは亡びていないぞ、負けた以上、潔く勝者の指示に服して生き延びよう。その覚悟をもって敗戦国民として、素直に生き抜いた戦後である。戦争終結後、その不屈の覚悟によって、日本は再び生き還った。ポツダム宣言の受諾によって、民主主義を無条件で受け容れた。そして、押し付けられたとは云え、「平和憲法」を制定した。敗戦と呼ぶ悲劇によって、自由と、平等と、平和を享受する権利を得た日本国民は、敗れたことによって、思いも及ばなかった権利を確保出来た。それは世界一、治安の良い、礼儀正しい、従順な国民の民度の上に築いた、自由、平等、平和の社会をもたらした。戦後の約三十年は、ゼロからの出発と覚悟した日本国民にとって、すべての世界が新しく、希望に満ちた年々と思われた。それが負け惜しみとしてではあったが。皮肉な表現が許されるならば、昭和三十年~五十年までは、日本国は戦争で勝つよりも、むしろ、負けた方がよかったとさえ思われた時代であった。逆説であるが。世界の秩序と復興は、すべて「勝者米国が中心」で、警察力をはじめ、経済的な面をも、親代わりとして面倒見の良い勝者、物わかりの良い、少々わがままな親分と仰いで過ぎた年々であった。勿論、歴代の日本の首相は、就任の挨拶に、ワシントンを訪れることが当り前の儀礼でもあった。隷属国家ではあったが、幸福なる国家日本と勝手に推察した。
共産主義の陰謀
敗戦から六十数年を経て、漸く戦前戦後の真実の歴史が米・ソの情報公開で知らされた。占領下の日本を、アメリカの自称進歩主義者が、自分たちの国では出来なかった乱暴な改革を、政治上の実験の場として、日本の各処に新施策を施して、日本の伝統的文化と、社会構造をめちゃめちゃにした。しかし、日本の指導者は、敗戦の屈辱を初めて味わったことであるから、無条件で彼等に従わざるを得なかった。その裏には、ソ連共産主義の謀略があったことが、六十年を経て真実が判明した。それによれば、アメリカ政府の中にさえ、共産主義者達の工作が大きかったことは驚きである。たとえば「太平洋問題調査会」の代表者たち。エドガー・スノー、アグネス・スメドレー、オーエン・ラティモア、ハーバート・ノーマン等。「盧溝橋事件」は、コミンテルンの指令に従って、日本政府の不拡大方針を覆して、日支事変を意図的に泥沼化させ、日本軍と蒋介石軍との、和平交渉を挫折させて来た。ソ連共産主義が送り込んだ、毛沢東は云うに及ばず、秘密共産党員でありながら、国民党政府の上海方面軍司令官・張治中が、支那事変拡大の主役であった。敗戦後、「日本侵略者論」即ち、歪められた支那大陸に於ける数々の事変の歴史は、日本のマスコミ各社でさえも、そのままを是認するのが大勢となって今日に至っている。既に戦前から、コミンテルンの秘密宣伝部が、日本の新聞と雑誌の一部に入り込み、実際の工作に携わり、共産主義の風潮が拡大されて、大正末期には「治安維持法」が無くてはならなくなり、日本の一部に緊張感を作り出していた。「共産主義の脅威」とは、一言で言うと、日本の政権の中枢部に侵入し、隠れ共産主義者や、多くのスパイを送り込み、ソ連の勢力の拡大と、世界共産革命の宣伝に利用した。また日本軍をして、支那大陸の泥沼から、更に深入りするよう誘い込む作戦に熱中した。例えば、「東大新人会」のように、組織そのものは、共産主義ではなかったが、その中に入り込み、学問の自由の名で、あたかもマルクス主義団体のように、日本共産党員がひそかに送り込まれた。実際に、尾崎秀実や野坂参三(共産党首脳)などが送り込まれ、その下地があったからこそ、敗戦と共に「日本悪者論」が一挙に噴出し表面化した。これが、日本の戦前の支!那大陸等に起きた事件の「歴史認識」を大きくねじ曲げた。占領下のGHQ内に、コミンテルン、ないしソ連諜報部の本格的なスパイ工作が為された。従って、戦後世代の日本人達にとっては、ロシアやアメリカの「情報公開」によって、幾多の事件の真実が暴露されても、日本人の大半、特にマスコミに携わった人達は、自分たちの誤りを認め難く、未だにそれを信じたくない「卑怯な自称文化人」が少なくない。理由の一つは、戦後直ちに、米、ソが激しく対立したため、まさか米国内の首脳にまで、共産主義者が入り込んでいるとは、自負心に溢れた文化人には想像出来なかった。戦中に生きた我々は、当時を省みて、漸く真実が出たかと、さわやかな気分であるのに。
占領下に出来た平和憲法は
ハーバート・ノーマンは、日本生まれのカナダ人であるが、コミンテルンに加入して、オーエン・ラティモアの強い推薦によって、占領軍マッカーサーの特別の信頼を得た。またアメリカ留学中に共産党の秘密党員となった、都留重人(名古屋人で八校出身)は、八校在学中に、共産主義活動によって同校を追われ、米国に渡った人物で、戦後、表向き穏健な民主主義者として信用され、日本の共産主義化に尽力した。そして左翼系の学者、鈴木安蔵をはじめ、マルクス主義憲法学者などと、「憲法研究会」を作らせた。日本国憲法が、「平和憲法」と呼ばれるのも、彼等容共的学者の、巧みな日本共産化への筋道を書いた、アメリカの学者の実験場の一つの道具、となって成立している。否々、実験場としてと言うよりも、戦時中、日本人の烈しく挑戦した恐ろしい戦闘力を、再び起させない為、実質的にも、精神的にも日本人を骨抜きにして、日本国家としての存立を、不可能ならしめることを目的として、米国と、ソ連が、「平和の美名」によって不戦、非戦、非武装を、押し付けたと解釈すべきではないか。今日に至って、「九条の会」という護憲派の人達が、最近、鈴木安蔵の映画を作って、あの憲法はアメリカが創ったのではない、民主的な日本人の創意だと言っている。鈴木安蔵と「憲法研究会」自体が、コミンテルンの工作組織の一端である。日本人の中に巣食う、共産主義者の代表の一人、鈴木安蔵の言葉を元にして、占領軍の下で憲法を担当したケーディス達が、今日の「日本国憲法草案」を創った。日本国憲法の前文、及び第九条は、人道的にも、そして宗教者的にも、非の打ちどころのない、素晴らしいアメリカ的表現の「平和憲法」である。この憲法が、共産主義者の巧みな論法で、日本の良心的な学者をも利用したことが思い出される、例えば日本国憲法起草委員の一人、牧野英一・東京大学教授(当時)は、偉大な刑法学者であり、「死刑廃止論」の第一人者である。牧野教授の論は「刑は教育が基本でなければならない」「国家の権力に因る死刑であっても、人間が人間を殺す権利を神は許さない」。牧野刑法の論理が、日本国憲法の精神に生き写しとなっている。牧野教授は、共産主義を否定する学者の代表でもある。超理想主義は、逆に政治的には、非現実主義と同議語ともなる。今日の日本国憲法下での、政治上の苦しみがそこにある。
第二の敗戦
戦争に疲れた日本人にとっては、平和ほど貴いものはなかった。「平和憲法」の制定が、その経緯からして、多くの矛盾を包含していることを承知しながら、妥協と、あきらめと、占領政策の趣旨を逆利用することで、日本は今日の経済大国を築き上げた。だが、この基本法である憲法には、大きな落し穴が待ち構えていた。自由及び権利の主張には、義務の遵守が、平等の主張には、勤勉と愛情が、平和の確保には、破邪顕正の釼等々が不可欠である。その一々に付いて、日本人は、社会道徳として「当然の責任」と受け止めて過した。言わずもがなの道であったから。近々十年間の風潮は、残念なことに、日本人は、魂を売って平和と繁栄を買ったとの評が、智者の間に、公然と論ぜられる時が来てしまった。自由も、平等も、平和も、一国の政治の下に在ることを忘却して、国家権力が「秩序と責任」を強く論ずることは、それ等の権利を否定することになる、と勘違いして来た。国家権力が、あたかも個人の自由や権利を妨げ、更に平和をも害するもの、との政治不信の気風を作り、そして、自国さえ戦う意志と体制がなければ戦争は起こらないとの、怠惰な考えに落ちている。戦争を避ける為に「何が必要なのか」は、安全保障政策の永遠の課題である。核兵器が各国に拡大され、それが「恐怖の均衡」と嘯かれている現実をどう視るべきか。核保有国が、日本に対して、「憲法第九条を守れ」と工作を進めていることは、露骨な侵略工作の第一歩とみるのが、良識ではないか。心配なのは、わが日本国民が、国家としての自立心を失いつつあることである。第二の敗戦と云われるゆえんである。それと反比例して、中国及び周辺諸国が、巨大な牙をムキダシにして暴れ出しつつある。同様の、武力を背景にした共産主義外交は、既にロシアから、北朝鮮に及んでいる。北朝鮮のノドン・テポドンさえ、二〇〇基が日本に向けられている。どこの国に、銃口を向けられたまま、平然と生活している人が居るのか。平和ボケの日本を、神や仏が助けてくれると勘違いしている。人事を尽くして天命を待つのが日本人だったのに。天は自ら助くる者を助く。備えあれば憂いなし。艱難汝を玉にす。その心構えが本来の日本人である。元寇の襲来を克服し、黒船の襲来で明治維新を拓き、第二次大戦の敗戦で新しい日本を創り上げた。この三大国難を克服した日本の歴史に向って、今日、本当の日本人によみがえること出来るのか。「悲劇への道は、善意のレンガで敷き詰められている」。欧州の哲人の警告は、平和の為の貴重な心構えである。
-----------------------------------
2.本の紹介 呆れた牛村論文
「諸君」9月号 “「パール判決=日本無罪論」に秘められた乖離”を読んで
------------------------------------
1.
中島岳志という北海道大学准教授(ってなんだろうか)が、「パール判事」という本を書き、そのなかで、パール判決を都合のいいように引用したり、利用したりする「保守派」を批判し、その代表として小林よしのりをあげた。小林は、それに反論して、そもそも中島という人が日本でのパール氏の発言を調査してもいないことを完膚なきまでに明らかにした。それはベストセラーになった「パール真論」にまとめられている。中島の本のいい加減さも、ひどいものだが、さらにひどかったのは、このインチキ本を、なぜか東大教授から、「保守派」(とよばれていた)の大物の評論家までが、いろんな書評欄で絶賛したことである。驚いたことに、この人たち(現代日本史、インド現代史、政治学などの専門家がふくまれている)は、日本でのパール発言どころか、当のパール判決書まで読んでもいなかったのである。このことも小林よしのりによって、完膚なきまでに明らかになった。日本の人文系アカデミズム、特に雑誌などで書いているような「知識人」のレベルが、一部であるにせよ、相当ひどいことがあからさまになったのである。これだけでも、アカデミズムにとっては、相当、恥ずかしいことなので、もうやめればいいのに、またも牛村圭という国際日本文化センター教授(これも教授だ!)「諸君」に「パール判決=日本無罪論に秘められた乖離」という論文を書いている。この人は東京裁判に関する本まである、その道の専門家である。この論文も、ひどい。何を言いたいのか、よくわからないばかりか、なんとか小林にやっつけられた人たちの面子をすくってやりたいという変な動機だけは透けて見えるような(編集者から依頼されたのかもしれないが)、そういう「論壇(ていうのもなにかわからないが)アカデミズム」に対する気配り論文である。彼は、こう言っている。「顧みるに、パール判決をめぐる論争は、どういう経緯をたどろうとも、結局のところ、パール判決は日本無罪論か否か、という問いに収斂してきた」。これは、端的にウソである。今回、中島の本をめぐって起きたのは、私のような一般読者から見れば、論争ではない。中島という学者がでたらめを書き、多くの学者・評論家がわけもわからず持ち上げた、という類の「スキャンダル」である。牛村は、この論文で、何か、パール判決をめぐってまともな論争があるかのように設定し、その両方にいい顔をするようなふりをしながら、特に中島と中島本を持ち上げた人々を間接的に弁護している。もって論壇政治的なものというゆえんである。論壇政治など私たちには関係ないが、ここには、もっと大きな問題も含まれているのである。
2.
東京裁判史観というものがある。これは簡単に言えば、GHQ(占領軍総司令部)の心理作戦部の工作によって、今の日本人の無意識にまで食い込んだ(と私には思われるが)「日本はとても悪い国だった」という集合的な罪責意識に基づく「ものの考え方」である(特別な学者や政治家、評論家だけが抱いているものではない)。この考え方が、普通の日本人に深く食い込んでいるため、アメリカで出版されている冗談本(ジョークの本)にさえ、日本人は、世界でもまれなほどヴァルネラブル:vulnerableな連中だ、と書かれているほどなのである。地球の裏側で、どこかの国が非難すれば、たちまち、ごめんなさい、ごめんなさいと言う、と書かれている。ジョークであっても、半分、本当ではないか。「ヴァルネラブル」というのは、「心理的に弱い」というほどの意味である。「A級戦犯が祀られている靖国神社に首相が行くのはけしからん」と外国政府から言いがかりをつけられれば、参拝をとりやめ、植民地化した罪があるから、といって領土を占領されても文句を言わず、国民(子供!)をさらわれても、おまえたちは、昔もっといっぱいさらったじゃないか、などとむちゃくちゃなことを平気で言われ、そうでした、ごめんなさい、という弱い連中だという意味である。それどころか、国のなかで率先して、そういうことを言い出す政治家だの大学教授だのがいる始末である。国民(子供!)をさらった国に、賠償金を払っても(何の賠償だろう?)「国交回復」しましょうという政治家や官僚がいるくらいである。世界でも、もっともプライドにかけた、偽善的な政治家や官僚やジャーナリストがいる国が、今の日本である。 GHQとマルクス主義的な左翼学者やメディアとが協力して作り上げた、この「日本は悪い国でした」的な考え方は、政治家や官僚だけでなく、メディアを通じ、国民の間に深く、その無意識レベルにまで浸透した。この考え方を浸透させたいくつかの柱がある。一つは現行の「憲法」であり、自分たちは悪い国だったので、二度と戦争はしません、というものである。2つ目は、日本は、悪い指導者に支配された悪い国でしたというもので、今、述べた東京裁判史観である。この悪い指導者が東京裁判A級戦犯とよばれる人たちに相当している。さらに、戦後、実施されたGHQによる言論統制である。江藤淳が明らかにしているように、これによって日本の言語空間は、おそろしく奇妙なゆがみを持つことになった。ある言葉、ある思考がそっと排除され、タブーになったのである。今でも、この言論空間は、続いている。罪責意識は、これを人(複数でも単数でも)に持たせれば、簡単にその人を操作することができる。GHQの目的がそこにあったことは言うまでもない。しかも罪責意識は、タブーを生む。もし、そのような罪の意識に触れるような言動をすれば、内心に恐怖が生まれるのである。したがって、内面化された罪責意識は、この恐怖によっていつまでも守られる。こうした心理メカニズムは、しっかりと国民の間に根付いたように見えた。 どうも、それがおかしいのではないか、と多くの日本人が、気がつき始めたのは、チャイナ政府による執拗な首相の靖国参拝に対する言いがかりや、北による非道な拉致の発覚あたりからである。メディアや政治家は、この国民の意識の変化に対して鈍感であった。彼らは言論統制(それは紙の配給の統制と公職追放という物理的なものを伴っていた)の恐怖を骨身にしみて知っている。そして、それはあたかも遺伝子のように、アカデミズムやメディア、政治家の、若い世代にまで継承されていったようである。今回の中島本、そして、中島本を持ち上げた人たちの中に、そうした若い世代が含まれているのが、その証拠である。
3.
パール判事は、東京裁判で、被告を無罪とする判決書(意見書)を書いた。これを形式的に見れば、東京裁判は、被告たちを「陰謀の罪」で裁いたので、それを無罪とする判決書(意見書)は、日本を無罪としたわけではない、と言える。牛村も中島も、そのような書き方をしている。Aを被告とする裁判の判決で、Bの有罪・無罪は判定できない、これが彼らの論理であり、その限りで、そのとおりである、というより、あたりまえである。パール判事の意見書も、その形式にのっとっている。あたりまえのことである(これを形式論理に過ぎるとのたまうのが、西部先生の驚嘆すべき論理である。判事が法律の形式にのっとって書くことのどこら辺が形式的に過ぎることなのだろうか。したがって「パール意見書の表紙や目次に日本は無罪という字句はない」と牛村が書いているのは、あたり前の話である。だから、どうしたというのか。そんなところにそんな字句を入れる必要も、意味も、まったくないからである。判事が、裁判の対象以外のことに関して、突然、自分の思想なり意見を開陳するわけがない。そんなことを平気でするのは、今の日本の常識はずれの裁判官だけである。 一方、そのパール意見書の翻訳は「日本無罪論」(田中正明編・太平洋出版社、昭和27年)という題名で出版された。そこで、パール判決書は、「日本無罪論」だと「誤解されている」、というのが中島や牛村が言いたいことなのである。そうなのだろうか。東京裁判は、形式的にはA級戦犯を裁いたのであるが、その意味するところは検事側その他の論告もあるように、「日本」という国が「文明」(なんだかわからないが)に対して犯した「侵略」という「犯罪」を、A級戦犯を右代表として裁いたものである。つまり東京裁判は、A級戦犯に代表(represent)させて、日本(の政策や行動)を裁いたのであって、それ以外のなにものでもない。東京裁判では、A級戦犯たちが、陰謀をたくらんだ、という陰謀史観に基づいて、彼らを絞首刑にした。では何の陰謀か、といえば、世界支配のための侵略行動であった、というのである!オカルトに近い陰謀史観ではないだろうか。そして、その「侵略行動」をとった主体は日本とされているのだ。そして以後、主流メディアやアカデミズムでは、戦前の日本の行動は、すべてこうした前提をもとに語られることになった。これを称して「日本は東京裁判を受け入れて国際社会に復帰した」という! 憲法同様、戦後の日本は「国際社会」という、実体のない概念に対してひれ伏しているのである。この「国際社会」に対する無邪気なまでの信頼は、国際連合に対する崇拝ないし信仰ともつながっている。国連に軍隊を預けてしまうという、とてつもないことを言い出す政治家すらいる。そして多くの日本人もまた、今、述べたように、日本国、あるいは日本人全体が、罪を犯したような意識となり、A級戦犯が祀られている神社に参拝するなどという行為は、「その罪を反省していない証拠だ!」などという言説がまかりとうるようになったのである。これらに対して、「将来、日本の青年が不必要な罪悪感を抱き、卑屈になることのないよう」願ったのがパール判事である。まさに今、日本人の多くが、不必要な罪悪感を抱くことが良心的(国際的?)であるかのような振る舞いをし、それによって外国政府の内政干渉や、領土の不法占領を許す、という前代未聞の卑屈な行動に出ている。パール判事の慧眼は、みごとに東京裁判の本質と、その招来するところを見抜いていたのである。それゆえに、小林よしのりが書いているように、パール判事自身が、自分の判決書の翻訳に「日本無罪論」という題名をつけることを許したのである。中島や牛村は「パール判決書」は「日本無罪論」ではない、と言い張るのをもうやめたらどうだろうか。結局、何を言いたいのか、わからなくなるのが関の山だからである。
-----------------------------------
------------------------------------
◎塚本三郎の「今を斬る」 「平和憲法」を問う
-----------------------------------
暑い夏の訪れと共に、また八月十五日を迎える。じりじりと暑い夏の昼。昭和天皇の玉音放送を拝聴しても、敗戦は、夢にうなされているとしか思えなかった、昭和二十年八月。十九歳の青春の思い出である。大都会の殆どが焦土となり、わが家も焼かれた日、昭和二十年三月が忘れられない。この戦争は、勝てないかもしれない。しかし、日本は神の国である。やがて神風が吹いて、鬼畜米英を亡ぼしてくれる。否、本土決戦で、一億玉砕の覚悟で戦うから、負けることはない。その確かな決意は、天皇陛下の玉音放送で一変した。史上初めての敗戦である。それでも大和魂だけは亡びていないぞ、負けた以上、潔く勝者の指示に服して生き延びよう。その覚悟をもって敗戦国民として、素直に生き抜いた戦後である。戦争終結後、その不屈の覚悟によって、日本は再び生き還った。ポツダム宣言の受諾によって、民主主義を無条件で受け容れた。そして、押し付けられたとは云え、「平和憲法」を制定した。敗戦と呼ぶ悲劇によって、自由と、平等と、平和を享受する権利を得た日本国民は、敗れたことによって、思いも及ばなかった権利を確保出来た。それは世界一、治安の良い、礼儀正しい、従順な国民の民度の上に築いた、自由、平等、平和の社会をもたらした。戦後の約三十年は、ゼロからの出発と覚悟した日本国民にとって、すべての世界が新しく、希望に満ちた年々と思われた。それが負け惜しみとしてではあったが。皮肉な表現が許されるならば、昭和三十年~五十年までは、日本国は戦争で勝つよりも、むしろ、負けた方がよかったとさえ思われた時代であった。逆説であるが。世界の秩序と復興は、すべて「勝者米国が中心」で、警察力をはじめ、経済的な面をも、親代わりとして面倒見の良い勝者、物わかりの良い、少々わがままな親分と仰いで過ぎた年々であった。勿論、歴代の日本の首相は、就任の挨拶に、ワシントンを訪れることが当り前の儀礼でもあった。隷属国家ではあったが、幸福なる国家日本と勝手に推察した。
共産主義の陰謀
敗戦から六十数年を経て、漸く戦前戦後の真実の歴史が米・ソの情報公開で知らされた。占領下の日本を、アメリカの自称進歩主義者が、自分たちの国では出来なかった乱暴な改革を、政治上の実験の場として、日本の各処に新施策を施して、日本の伝統的文化と、社会構造をめちゃめちゃにした。しかし、日本の指導者は、敗戦の屈辱を初めて味わったことであるから、無条件で彼等に従わざるを得なかった。その裏には、ソ連共産主義の謀略があったことが、六十年を経て真実が判明した。それによれば、アメリカ政府の中にさえ、共産主義者達の工作が大きかったことは驚きである。たとえば「太平洋問題調査会」の代表者たち。エドガー・スノー、アグネス・スメドレー、オーエン・ラティモア、ハーバート・ノーマン等。「盧溝橋事件」は、コミンテルンの指令に従って、日本政府の不拡大方針を覆して、日支事変を意図的に泥沼化させ、日本軍と蒋介石軍との、和平交渉を挫折させて来た。ソ連共産主義が送り込んだ、毛沢東は云うに及ばず、秘密共産党員でありながら、国民党政府の上海方面軍司令官・張治中が、支那事変拡大の主役であった。敗戦後、「日本侵略者論」即ち、歪められた支那大陸に於ける数々の事変の歴史は、日本のマスコミ各社でさえも、そのままを是認するのが大勢となって今日に至っている。既に戦前から、コミンテルンの秘密宣伝部が、日本の新聞と雑誌の一部に入り込み、実際の工作に携わり、共産主義の風潮が拡大されて、大正末期には「治安維持法」が無くてはならなくなり、日本の一部に緊張感を作り出していた。「共産主義の脅威」とは、一言で言うと、日本の政権の中枢部に侵入し、隠れ共産主義者や、多くのスパイを送り込み、ソ連の勢力の拡大と、世界共産革命の宣伝に利用した。また日本軍をして、支那大陸の泥沼から、更に深入りするよう誘い込む作戦に熱中した。例えば、「東大新人会」のように、組織そのものは、共産主義ではなかったが、その中に入り込み、学問の自由の名で、あたかもマルクス主義団体のように、日本共産党員がひそかに送り込まれた。実際に、尾崎秀実や野坂参三(共産党首脳)などが送り込まれ、その下地があったからこそ、敗戦と共に「日本悪者論」が一挙に噴出し表面化した。これが、日本の戦前の支!那大陸等に起きた事件の「歴史認識」を大きくねじ曲げた。占領下のGHQ内に、コミンテルン、ないしソ連諜報部の本格的なスパイ工作が為された。従って、戦後世代の日本人達にとっては、ロシアやアメリカの「情報公開」によって、幾多の事件の真実が暴露されても、日本人の大半、特にマスコミに携わった人達は、自分たちの誤りを認め難く、未だにそれを信じたくない「卑怯な自称文化人」が少なくない。理由の一つは、戦後直ちに、米、ソが激しく対立したため、まさか米国内の首脳にまで、共産主義者が入り込んでいるとは、自負心に溢れた文化人には想像出来なかった。戦中に生きた我々は、当時を省みて、漸く真実が出たかと、さわやかな気分であるのに。
占領下に出来た平和憲法は
ハーバート・ノーマンは、日本生まれのカナダ人であるが、コミンテルンに加入して、オーエン・ラティモアの強い推薦によって、占領軍マッカーサーの特別の信頼を得た。またアメリカ留学中に共産党の秘密党員となった、都留重人(名古屋人で八校出身)は、八校在学中に、共産主義活動によって同校を追われ、米国に渡った人物で、戦後、表向き穏健な民主主義者として信用され、日本の共産主義化に尽力した。そして左翼系の学者、鈴木安蔵をはじめ、マルクス主義憲法学者などと、「憲法研究会」を作らせた。日本国憲法が、「平和憲法」と呼ばれるのも、彼等容共的学者の、巧みな日本共産化への筋道を書いた、アメリカの学者の実験場の一つの道具、となって成立している。否々、実験場としてと言うよりも、戦時中、日本人の烈しく挑戦した恐ろしい戦闘力を、再び起させない為、実質的にも、精神的にも日本人を骨抜きにして、日本国家としての存立を、不可能ならしめることを目的として、米国と、ソ連が、「平和の美名」によって不戦、非戦、非武装を、押し付けたと解釈すべきではないか。今日に至って、「九条の会」という護憲派の人達が、最近、鈴木安蔵の映画を作って、あの憲法はアメリカが創ったのではない、民主的な日本人の創意だと言っている。鈴木安蔵と「憲法研究会」自体が、コミンテルンの工作組織の一端である。日本人の中に巣食う、共産主義者の代表の一人、鈴木安蔵の言葉を元にして、占領軍の下で憲法を担当したケーディス達が、今日の「日本国憲法草案」を創った。日本国憲法の前文、及び第九条は、人道的にも、そして宗教者的にも、非の打ちどころのない、素晴らしいアメリカ的表現の「平和憲法」である。この憲法が、共産主義者の巧みな論法で、日本の良心的な学者をも利用したことが思い出される、例えば日本国憲法起草委員の一人、牧野英一・東京大学教授(当時)は、偉大な刑法学者であり、「死刑廃止論」の第一人者である。牧野教授の論は「刑は教育が基本でなければならない」「国家の権力に因る死刑であっても、人間が人間を殺す権利を神は許さない」。牧野刑法の論理が、日本国憲法の精神に生き写しとなっている。牧野教授は、共産主義を否定する学者の代表でもある。超理想主義は、逆に政治的には、非現実主義と同議語ともなる。今日の日本国憲法下での、政治上の苦しみがそこにある。
第二の敗戦
戦争に疲れた日本人にとっては、平和ほど貴いものはなかった。「平和憲法」の制定が、その経緯からして、多くの矛盾を包含していることを承知しながら、妥協と、あきらめと、占領政策の趣旨を逆利用することで、日本は今日の経済大国を築き上げた。だが、この基本法である憲法には、大きな落し穴が待ち構えていた。自由及び権利の主張には、義務の遵守が、平等の主張には、勤勉と愛情が、平和の確保には、破邪顕正の釼等々が不可欠である。その一々に付いて、日本人は、社会道徳として「当然の責任」と受け止めて過した。言わずもがなの道であったから。近々十年間の風潮は、残念なことに、日本人は、魂を売って平和と繁栄を買ったとの評が、智者の間に、公然と論ぜられる時が来てしまった。自由も、平等も、平和も、一国の政治の下に在ることを忘却して、国家権力が「秩序と責任」を強く論ずることは、それ等の権利を否定することになる、と勘違いして来た。国家権力が、あたかも個人の自由や権利を妨げ、更に平和をも害するもの、との政治不信の気風を作り、そして、自国さえ戦う意志と体制がなければ戦争は起こらないとの、怠惰な考えに落ちている。戦争を避ける為に「何が必要なのか」は、安全保障政策の永遠の課題である。核兵器が各国に拡大され、それが「恐怖の均衡」と嘯かれている現実をどう視るべきか。核保有国が、日本に対して、「憲法第九条を守れ」と工作を進めていることは、露骨な侵略工作の第一歩とみるのが、良識ではないか。心配なのは、わが日本国民が、国家としての自立心を失いつつあることである。第二の敗戦と云われるゆえんである。それと反比例して、中国及び周辺諸国が、巨大な牙をムキダシにして暴れ出しつつある。同様の、武力を背景にした共産主義外交は、既にロシアから、北朝鮮に及んでいる。北朝鮮のノドン・テポドンさえ、二〇〇基が日本に向けられている。どこの国に、銃口を向けられたまま、平然と生活している人が居るのか。平和ボケの日本を、神や仏が助けてくれると勘違いしている。人事を尽くして天命を待つのが日本人だったのに。天は自ら助くる者を助く。備えあれば憂いなし。艱難汝を玉にす。その心構えが本来の日本人である。元寇の襲来を克服し、黒船の襲来で明治維新を拓き、第二次大戦の敗戦で新しい日本を創り上げた。この三大国難を克服した日本の歴史に向って、今日、本当の日本人によみがえること出来るのか。「悲劇への道は、善意のレンガで敷き詰められている」。欧州の哲人の警告は、平和の為の貴重な心構えである。
-----------------------------------
2.本の紹介 呆れた牛村論文
「諸君」9月号 “「パール判決=日本無罪論」に秘められた乖離”を読んで
------------------------------------
1.
中島岳志という北海道大学准教授(ってなんだろうか)が、「パール判事」という本を書き、そのなかで、パール判決を都合のいいように引用したり、利用したりする「保守派」を批判し、その代表として小林よしのりをあげた。小林は、それに反論して、そもそも中島という人が日本でのパール氏の発言を調査してもいないことを完膚なきまでに明らかにした。それはベストセラーになった「パール真論」にまとめられている。中島の本のいい加減さも、ひどいものだが、さらにひどかったのは、このインチキ本を、なぜか東大教授から、「保守派」(とよばれていた)の大物の評論家までが、いろんな書評欄で絶賛したことである。驚いたことに、この人たち(現代日本史、インド現代史、政治学などの専門家がふくまれている)は、日本でのパール発言どころか、当のパール判決書まで読んでもいなかったのである。このことも小林よしのりによって、完膚なきまでに明らかになった。日本の人文系アカデミズム、特に雑誌などで書いているような「知識人」のレベルが、一部であるにせよ、相当ひどいことがあからさまになったのである。これだけでも、アカデミズムにとっては、相当、恥ずかしいことなので、もうやめればいいのに、またも牛村圭という国際日本文化センター教授(これも教授だ!)「諸君」に「パール判決=日本無罪論に秘められた乖離」という論文を書いている。この人は東京裁判に関する本まである、その道の専門家である。この論文も、ひどい。何を言いたいのか、よくわからないばかりか、なんとか小林にやっつけられた人たちの面子をすくってやりたいという変な動機だけは透けて見えるような(編集者から依頼されたのかもしれないが)、そういう「論壇(ていうのもなにかわからないが)アカデミズム」に対する気配り論文である。彼は、こう言っている。「顧みるに、パール判決をめぐる論争は、どういう経緯をたどろうとも、結局のところ、パール判決は日本無罪論か否か、という問いに収斂してきた」。これは、端的にウソである。今回、中島の本をめぐって起きたのは、私のような一般読者から見れば、論争ではない。中島という学者がでたらめを書き、多くの学者・評論家がわけもわからず持ち上げた、という類の「スキャンダル」である。牛村は、この論文で、何か、パール判決をめぐってまともな論争があるかのように設定し、その両方にいい顔をするようなふりをしながら、特に中島と中島本を持ち上げた人々を間接的に弁護している。もって論壇政治的なものというゆえんである。論壇政治など私たちには関係ないが、ここには、もっと大きな問題も含まれているのである。
2.
東京裁判史観というものがある。これは簡単に言えば、GHQ(占領軍総司令部)の心理作戦部の工作によって、今の日本人の無意識にまで食い込んだ(と私には思われるが)「日本はとても悪い国だった」という集合的な罪責意識に基づく「ものの考え方」である(特別な学者や政治家、評論家だけが抱いているものではない)。この考え方が、普通の日本人に深く食い込んでいるため、アメリカで出版されている冗談本(ジョークの本)にさえ、日本人は、世界でもまれなほどヴァルネラブル:vulnerableな連中だ、と書かれているほどなのである。地球の裏側で、どこかの国が非難すれば、たちまち、ごめんなさい、ごめんなさいと言う、と書かれている。ジョークであっても、半分、本当ではないか。「ヴァルネラブル」というのは、「心理的に弱い」というほどの意味である。「A級戦犯が祀られている靖国神社に首相が行くのはけしからん」と外国政府から言いがかりをつけられれば、参拝をとりやめ、植民地化した罪があるから、といって領土を占領されても文句を言わず、国民(子供!)をさらわれても、おまえたちは、昔もっといっぱいさらったじゃないか、などとむちゃくちゃなことを平気で言われ、そうでした、ごめんなさい、という弱い連中だという意味である。それどころか、国のなかで率先して、そういうことを言い出す政治家だの大学教授だのがいる始末である。国民(子供!)をさらった国に、賠償金を払っても(何の賠償だろう?)「国交回復」しましょうという政治家や官僚がいるくらいである。世界でも、もっともプライドにかけた、偽善的な政治家や官僚やジャーナリストがいる国が、今の日本である。 GHQとマルクス主義的な左翼学者やメディアとが協力して作り上げた、この「日本は悪い国でした」的な考え方は、政治家や官僚だけでなく、メディアを通じ、国民の間に深く、その無意識レベルにまで浸透した。この考え方を浸透させたいくつかの柱がある。一つは現行の「憲法」であり、自分たちは悪い国だったので、二度と戦争はしません、というものである。2つ目は、日本は、悪い指導者に支配された悪い国でしたというもので、今、述べた東京裁判史観である。この悪い指導者が東京裁判A級戦犯とよばれる人たちに相当している。さらに、戦後、実施されたGHQによる言論統制である。江藤淳が明らかにしているように、これによって日本の言語空間は、おそろしく奇妙なゆがみを持つことになった。ある言葉、ある思考がそっと排除され、タブーになったのである。今でも、この言論空間は、続いている。罪責意識は、これを人(複数でも単数でも)に持たせれば、簡単にその人を操作することができる。GHQの目的がそこにあったことは言うまでもない。しかも罪責意識は、タブーを生む。もし、そのような罪の意識に触れるような言動をすれば、内心に恐怖が生まれるのである。したがって、内面化された罪責意識は、この恐怖によっていつまでも守られる。こうした心理メカニズムは、しっかりと国民の間に根付いたように見えた。 どうも、それがおかしいのではないか、と多くの日本人が、気がつき始めたのは、チャイナ政府による執拗な首相の靖国参拝に対する言いがかりや、北による非道な拉致の発覚あたりからである。メディアや政治家は、この国民の意識の変化に対して鈍感であった。彼らは言論統制(それは紙の配給の統制と公職追放という物理的なものを伴っていた)の恐怖を骨身にしみて知っている。そして、それはあたかも遺伝子のように、アカデミズムやメディア、政治家の、若い世代にまで継承されていったようである。今回の中島本、そして、中島本を持ち上げた人たちの中に、そうした若い世代が含まれているのが、その証拠である。
3.
パール判事は、東京裁判で、被告を無罪とする判決書(意見書)を書いた。これを形式的に見れば、東京裁判は、被告たちを「陰謀の罪」で裁いたので、それを無罪とする判決書(意見書)は、日本を無罪としたわけではない、と言える。牛村も中島も、そのような書き方をしている。Aを被告とする裁判の判決で、Bの有罪・無罪は判定できない、これが彼らの論理であり、その限りで、そのとおりである、というより、あたりまえである。パール判事の意見書も、その形式にのっとっている。あたりまえのことである(これを形式論理に過ぎるとのたまうのが、西部先生の驚嘆すべき論理である。判事が法律の形式にのっとって書くことのどこら辺が形式的に過ぎることなのだろうか。したがって「パール意見書の表紙や目次に日本は無罪という字句はない」と牛村が書いているのは、あたり前の話である。だから、どうしたというのか。そんなところにそんな字句を入れる必要も、意味も、まったくないからである。判事が、裁判の対象以外のことに関して、突然、自分の思想なり意見を開陳するわけがない。そんなことを平気でするのは、今の日本の常識はずれの裁判官だけである。 一方、そのパール意見書の翻訳は「日本無罪論」(田中正明編・太平洋出版社、昭和27年)という題名で出版された。そこで、パール判決書は、「日本無罪論」だと「誤解されている」、というのが中島や牛村が言いたいことなのである。そうなのだろうか。東京裁判は、形式的にはA級戦犯を裁いたのであるが、その意味するところは検事側その他の論告もあるように、「日本」という国が「文明」(なんだかわからないが)に対して犯した「侵略」という「犯罪」を、A級戦犯を右代表として裁いたものである。つまり東京裁判は、A級戦犯に代表(represent)させて、日本(の政策や行動)を裁いたのであって、それ以外のなにものでもない。東京裁判では、A級戦犯たちが、陰謀をたくらんだ、という陰謀史観に基づいて、彼らを絞首刑にした。では何の陰謀か、といえば、世界支配のための侵略行動であった、というのである!オカルトに近い陰謀史観ではないだろうか。そして、その「侵略行動」をとった主体は日本とされているのだ。そして以後、主流メディアやアカデミズムでは、戦前の日本の行動は、すべてこうした前提をもとに語られることになった。これを称して「日本は東京裁判を受け入れて国際社会に復帰した」という! 憲法同様、戦後の日本は「国際社会」という、実体のない概念に対してひれ伏しているのである。この「国際社会」に対する無邪気なまでの信頼は、国際連合に対する崇拝ないし信仰ともつながっている。国連に軍隊を預けてしまうという、とてつもないことを言い出す政治家すらいる。そして多くの日本人もまた、今、述べたように、日本国、あるいは日本人全体が、罪を犯したような意識となり、A級戦犯が祀られている神社に参拝するなどという行為は、「その罪を反省していない証拠だ!」などという言説がまかりとうるようになったのである。これらに対して、「将来、日本の青年が不必要な罪悪感を抱き、卑屈になることのないよう」願ったのがパール判事である。まさに今、日本人の多くが、不必要な罪悪感を抱くことが良心的(国際的?)であるかのような振る舞いをし、それによって外国政府の内政干渉や、領土の不法占領を許す、という前代未聞の卑屈な行動に出ている。パール判事の慧眼は、みごとに東京裁判の本質と、その招来するところを見抜いていたのである。それゆえに、小林よしのりが書いているように、パール判事自身が、自分の判決書の翻訳に「日本無罪論」という題名をつけることを許したのである。中島や牛村は「パール判決書」は「日本無罪論」ではない、と言い張るのをもうやめたらどうだろうか。結局、何を言いたいのか、わからなくなるのが関の山だからである。
-----------------------------------