【我ら、文化系暴走派】 「闇の子供たち」が映す臓器移植の課題~【後編】 | 日本のお姉さん

【我ら、文化系暴走派】 「闇の子供たち」が映す臓器移植の課題~【後編】

── 脳死を「人の死」と認めるかどうかは、法改正のいまも重要な争点となっています。

「もともとは、経済学的な考え方なんですよね。人工呼吸器によって、どこで治療を打ち切ろうとするのか、考えなければいけなくなった。どんなに治療しても、回復の見込みがない。その基準を定めようとしたときに出てきたのが『脳死』なんです。脳死は、人の死である。しかし、まだ心臓が動いているので、取り出して移植は可能ですよ。そういうふうに話をもってこないといけないんだけど、日本で問題になっているのは、心臓を取るために脳死判定をしているように思われる。そこが間違いなんですよ」 移植のときだけ、脳死を人の死と考えることにする現行法の規定は作為的で、異常だと福嶌さんはみている。「世界中でそういうのは日本だけだし、法律的にも、これじゃ殺人を犯しているんだけど、許されていることになる。僕はもちろん法律的にどうのという前に医学的に死んでいると理解しているし、ドナーとなる家族も理解しているからやれることなんですよ」


── ある意味、医療がここまで発達しなければ、この論議も起こりえなかったことなんでしょうね。

「人工呼吸器がなくて、すぐに死んでしまったから、脳死が死であるかどうなんて議論は発生しようがない。どっかで止めなければいけないということがが出てきたからですよね。一方で、死んだときに、次の命を助けることができるかもしれないということ。そういうことをつなげて、学校で教えたりするというのは必要やと思うんだけど。コンピューターゲームで簡単に人を殺す。それに、簡単にリセットがきいたりする。あれは悪いと思うんだけど、そういう子供たちに、教えていかないと」福嶌さんは、医者の仕事には文科系の部分も必要だという。「患者さんの気持ちを汲み取って、どう治療するのか。患者を救うのは、どんな薬よりも言葉なんですよ。不安が減ると、治療効果もいっきに上がる。とくに心不全の患者さんは、アドレナリンが出るのがよくない。不安とか憤りとともに出るものなんですけど。だから、同じことを言わなければいけないとしても、冷たく言われるのと、そうでないのとはちがうでしょう。移植が必要ということは、『あなたは1年以内に50パーセントの確率で死にますよ』という意味ですからね。 インフォームド・コンセントのマニュアルはあるけれども、どう説明するのか。いちばん簡単なのは、自分が言われたら厭だろうなということを考えてみる。『痛いのは当たり前だよ』とか言うたら、治らなへんもの。ときには方言も大事で、大阪の人には大阪弁でしゃべるのがよかったりするし。なかには病院高血圧といって、医者の前に出るだけで血圧が上がる人もいますからね。目の前にいる人を、自分の家族と思って言う。それに尽きると思う」

法律を改正した後のほうが大変


── お医者さんもそうだけど、移植の現場で、ドナーの家族との間をとりもつコーディネーターの役割が重要な気がします。人間の感情がむきだしとなる現場だけに、治療にあたる医師や看護士、コーディネーターの印象によっては、移植を要望されていた家族が拒絶することもあるでしょうし。

「そうですね。ドナーコーディネーターの面接は、いま僕がぜんぶやっています。医療従事者が多いですけど。看護師であったり、臨床検査技師であったり、大学で心理を勉強している人であったり。実際にネットワークのコーディネーターは採用試験があるんですけど、意識の持ち方にバラつきがあります」現在、ネットワークのコーディネーターは22人。その人たちが全国をカバーしている。実際に移植が行われるとなったときには、7、8人がいっせいに動くことになる。「移植がないときには、コーディネーターの人が、提供されたご家族のところにいって話をするとか、その人たちが安心して生活できているか、見てあげてほしいと思っている。でも、実際にそういうことはできてない。少ないとはいえ、脳死と心停止後の移植は年間110例ほどあって、これは3日に1回ある計算。22人で動いているんですから、彼女たちもほとんど寝てない。2日くらいの徹夜はめずらしくないんですよね」一人のコーディネーターを育てるまでに5年。現在、20代後半から30代が中心だ。ところが経験を積み、これからという10年目を境に、燃え尽きてやめてしまう人が半数にものぼるのが現状でもある。原因は、次のポジションがない。給料が上がらず、将来に対する不安。看護の現場で言われる、問題がここにも解決されないままに横たわっている。「やりがいが負けちゃうんです。だから、彼ら彼女らがやめないようにするにはどうしたらいいか。そこを考えていかないといけないんですよ。実は、法律を改正した後のほうが大変なんです」ワタシは、いまもこの原稿をまとめながら、考えはゆらいでいる。移植を受けなければ助からない命があり、提供してもいいと思う人がいるならば、その意思をかなえるのがいい。そうあるべきだと思う。臓器移植という方法を持ち得なかったならばいざしらず、その道を歩みはじめてしまった以上、後戻りは現実には不可能だろう。人がやることだけに、危惧を感じないわけではない。そもそも、死を看取るという場合、個的な感情、時間の過ごし方と、法によって一律に死を規定しようとする論議は相容れえないものがある。しかし、定めないことには、救えるのに、救えない命がある。いま優先されるべきは何か。明確に、ひとに勧め得る結論が出ないまま、提供の意思を確認するカードを見ている。情緒を殺した文面の向こうに、待てない現実がある。