▼「ストリートビュー」騒動をめぐる誤解(池田信夫) | 日本のお姉さん

▼「ストリートビュー」騒動をめぐる誤解(池田信夫)

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▼「ストリートビュー」騒動をめぐる誤解(池田信夫)

グーグルの新機能「ストリートビュー」が、論議を呼んでいる。上の画像はわが家の近所だが、確かに驚異的な細密さだ。私は意に介さないが、これを「気持ちが悪い」という人がいるのも事実だろう。先行してサービスが始まった海外でも、訴訟などが起こっている。これに対して「自分の家を映すのはやめてくれ」というのは自由だが、法的根拠はない。風景は個人情報ではないからだ。まして「サービスをやめろ」などというのは暴論である。


ただ高木浩光氏の報告によると、総務省の「通信プラットフォーム研究会」で、グーグルの担当者が「日本では、名前を表札に書いている。わざわざ自分の名前を公道に出しているわけだから、プライバシーなんて気にしていない」と発言したようだ。こういう無神経な発言は、火に油を注ぎかねない。そもそも名前がプライバシーなのか、というのが大問題だからである。ASCII.jpのコラムにも書いたが、私は個人情報保護法が国会で審議されていたとき、過剰規制のリスクが大きいので行政が介入すべきではないと反対した。案の定、「過剰コンプライアンス」が起きて、企業ではUSBメモリも使えないなど、官製不況の元凶になっている。


「プライバシーを守る」といえば聞こえはいいが、立場を変えて考えると、これがいかに危険な法律であるかわかる。あなたが個人事業者として確定申告していれば、個人情報保護法の規制対象になる可能性が高い。政令では「5000件以上の個人情報をもつ事業者」を規制対象としており、あなたのPCには(キャッシュを含めて)5000人ぐらいの個人名は入っているだろう。年賀状ソフトやカーナビにも数千万人の個人情報が入っている。その場合、あなたがブログで批判した相手が「私の名前を削除しろ」と要求してきたら、応じなければならない(第26条)。


グーグルやヤフーが、だれかに「私の個人名の入っているウェブサイトをすべてインデックスから削除しろ」という訴訟を起されれば、敗訴する可能性も高い。ストリートビューでも、表札の名前や車のナンバーは(要求されれば)削除義務の対象になる。しかし自宅の風景や通行人の姿まで「プライバシー」に含めたら、今後あなたが街のスナップショットをとるときも、すべての通行人に許諾を得ないと撮影できなくなるだろう。


こういう権利のインフレは、著作権法にもみられるように、いったん起こると元に戻らないので、今のうちに歯止めをかけるべきだ。以前の記事でも書いたことだが、プライバシー権と称するものは他人の表現をコントロールする権利であり、認めてはならない。クレジットカード番号のような財産権に関する情報は、金融情報として別途、立法すればよい。


そもそも、これは「通信プラットフォーム」の問題ではないので、総務省の研究会で論じるのが筋違いである。「情報通信法」(仮称)で、認証システムなどを「プラットフォーム」と名づけたのが間違いなのだ。通信プラットフォームといえばTCP/IPのようなプロトコルのことであり、行政が規制する筋合いのものではない。「特別メディアサービス」などのコンテンツとともに、通信プラットフォームも規制の対象から外すべきだ。

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▼社長・島耕作(池田信夫)

Economist誌が、島耕作社長の誕生を特集記事で報じている。漫画の主人公を同誌が取り上げたのは初めてだが、支局長は日本語が読めず、日本人スタッフがちゃんとチェックしていないためか、微妙にずれている。


島は一見、「日本人離れ」した一匹狼のヒーローのようだが、実は団塊世代の「モーレツ・サラリーマン」の典型だ。家庭をかえりみないで、会社のために得意先を毎日接待し、女性を利用して顧客を篭絡する。初芝電気が五洋電気を買収したのも、敵対的買収から守るためだ。社長就任会見でも「シンクグローバル」といいながら「自社や株主の利潤を追求するたけでなく、従業員・関連企業・消費者などといったすべてのステークホルダーの利益を実現できる企業を目指します」と語る。


Economist誌も「島に人気があるのは、グローバル資本主義についていかなければならないと思いながら、現実には変われない日本企業の象徴だからだろう」と皮肉に結んでいる。

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▼領有宣伝に余念がない韓国 (博士の独り言)

五輪野球の韓日戦、心の中では決勝戦 1

(野球試合で過去の日本戦を振り返り) いや、負けてはいけない試合だった。日本が独島(トクト、日本名・竹島)は自分の領土だと言い張り、選手団の雰囲気も終始、戦争を経験する感じだった」。独島領有権をめぐる日本の執拗な主張も数十年以上続いていた上、あのときも今も韓日野球は、野球を、スポーツを超えた戦いだった。「蹴鞠をしても韓日戦なら観衆が集まる」という言葉は冗談ではない。中央日報 8月11日付記事より参照のため引用/写真は同記事。参照のため引用。

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ふと目に入った記事

ふと目に入った記事である。野球(北京五輪)の対日本戦は、過去も今も「韓日野球は、野球を、スポーツを超えた戦いだった」と。また、「心の中では決勝戦」と語る韓国紙・中央日報の記事である。少なくとも、日本代表チームは、それが野球の場合にしても、他の国々の多く選手達がそうであるように、政治的な要素とは離れた純粋な競技として認識しているのではないか。だが、韓国紙が語る対日本戦関係の記事には、政治的要素を姑息に盛り込んだ「熱い」記述が目立つ。言葉は悪いが、クソミソの区別もつかない論旨だ。野球の勝敗で竹島の「領有権」が決まるわけでもあるまい。 竹島といえば、先般、話題となった韓国紙・朝鮮日報(7月27日付)には、「独島:韓日もし戦わば」と題するシュミレーション記事を(上)(中)(下)の3編構成で掲載。云く、「独島(日本名:竹島)をめぐって韓国と日本が軍事衝突を起こせば、1日で独島は奪われてしまうらしい」(同記事)と。また、「1日もかからないかもしれない。断言はできないが、(独島が奪われるのに)半日かからないかも…」との、「大洋海軍の父」と呼ばれる安炳泰(アン・ビョンテ)元海軍参謀総長」(韓国海洋戦略研究所が主催するセミナー)の言葉から書き出している。 戦力、装備、機動力の戦力比較がなされ、現状では、ほぼすべての面で韓国側が劣勢と記し、「宋永武(ソン・ヨンム)元海軍参謀総長は「韓国の海軍力が日本の70から80%のレベルになれば、日本が独島問題で挑発できなくなる。昨年夏に海軍が合同参謀本部に提案した内容、すなわちイージス艦3隻、5000トン級駆逐艦(KDX‐Ⅱ)6隻の追加建造計画を直ちに実行に移す必要がある」と述べた」と結ばれている記事であった。 だが、所詮、何を書こうとも、日本は反駁して来ない。日本をどう毀損しようとも、また、日本を“国威発揚”のためのどのような題材にあつかおうとも、何もクレームして来ない(要旨)との、ある意味で日本を見下した、「自信」で裏打ちしてのことであろう。先般の芸能からスポーツ、および政治経済の記事にいたるまでの、折々に、日本を見下すかのような、毀損、主権侵害に当たる言動を報じている。それが韓国のメヂィアに目立つスタンスだ。

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「独島上空は韓国の領空」と報道

その朝鮮日報(8月11日付)には、このような記事がある。云く、「独島(日本名:竹島)上空はどの国の領域だろうか。民間航空の安全と発展のため設立された国際協力機関、「国際民間航空機関(ICAO)」はこれを韓国の領空と見なしている。独島を韓国が実効支配していることを示すもう一つの証拠だ」と記している。日本国内では、韓国による領有主張の対日毀損の喧噪に関する報道が“沈静”化の方向にあり、再び忘れ去られるかの傾向にあるが、しかし、韓国は自国メディアを通じて、さまざまな話題や事項を借りて、来る日も、また来る日も、竹島は自国領と主張する報道を繰り返しているのである。

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かろうじて、週刊新潮(8月14,21日号)が「歴史研究「竹島」「尖閣諸島」は誰のものか」と誌面特集を掲載。客観的な概要をもとに反駁を加え、その結びに、黄文雄氏(拓殖大学日本文化研究所客員教授)の言葉を紹介している。日本の領土でありながら、不法占拠が相次ぐ背景について、云く、「日本政府は弱腰で、日本という国は自国の領土すら守れないと思われているからです」と。また、平松茂雄氏の「領土、資源問題では友好国であっても言うべきことは言い合うべき。日本政府の行動はあまりに情けなさすぎます」との指摘を記している。

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「ゆすり」「たかり」の国々とのつき合い

とりわけ、韓国内には、長年の反日教育のもと、普段は悪口雑言する相手でありながらも、困った時には、日本は支援の手を差し伸べてくれる。そうした、他虐的、且つDVにも似た“甘え”のメンタリティが徘徊している。一方では、微笑みと凶器を使い分け、篭絡のための威圧、工作に巧みな中国が「ゆすり」。そして、病的、且つ姑息な韓国、および朝鮮半島の手法を「たかり」に喩え得る所以がここにある。

そろそろ、これらの国々との「つきあい」方を根本的に見直すべきだろう。また、これらの外交スタンスの見直しが、すなわち国の次世代のための見直しに直結して来るに違いない。重要な要素ではないか----------

主権問題において、グルジアとロシアの間ではついに戦争にまで至っている。外国における領土、領有の政治感覚には、少なくとも、こうした緊迫感が常に存在しているのも事実だ。およそ、主権国家において、主権に関わる客観的証明、反駁は先ず政治家諸賢から発せられるべき事項ではないか。だが、この新潮誌面も一例だが、何か事があれば、民間の良識が反駁する。政治家になり代わるかのように反駁する。この状況を、本来は、「国民の安全と生命と財産を守る」べき立場におられる政治家諸賢は、恥ずかしく感じてはおられないのだろうか?

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【筆者記】

朗々とした晩夏の日差しのもと、蝉の声が実に賑やかである。小学生の頃、羽化直前の蝉のさなぎを拾って来た。そんな夕べを思い出す。部屋の柱によじ登ったさなぎから、白くて柔らかそうな蝉が抜け出る。その様子を幼い弟と2人で息を呑みながら観察。蝉の邪魔になってはいけない、と。くしゃみも我慢して眺めたものだ。さなぎから次第に抜け出た蝉は羽を伸ばし、空気に触れるほどに、本来の色鮮やかな「蝉」へと変身した。早朝に、縁側の戸を開け、羽化した蝉が屋外に飛び立って行く様子を弟とともに見送った。そんな思い出がある。 蝉は、こうして成虫になるまでの間、種類にもよるが、7年、10年の長期間を地中で過ごす。その長い期間を経て迎える夏というわけだ。政治スタンス、政策にも同様のことが謂えないか、と。ふと思う暑い午後である。雑感ながら短稿にて。

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