頂門の一針 | 日本のお姉さん

頂門の一針

中共独裁は続くのか?(上)
━━━━━━━━━━━━━平井 修一

盛者必滅と言うが、ソ連が1991年に解体したときは「まさか!」と驚い たことを今でも覚えている。金城鉄壁で永遠に続きそうだったから、自 分が生きている間に崩壊を見るなんて想像したことさえない。あれあれ、と言う間に消えてしまった。なぜ崩壊したか。後出しジャンケン理論上はこう説明できる。

1)社会主義計画経済は資本主義市場経済に比べて恐ろしく非効率で ある。商店の棚はがらがら。工場の機械は壊れているか、材料がないか、電気がないか、やる気がないか、指示がないかのいずれであり、多くが動かない。

2)共産党の一党独裁はヒト・モノ・カネ・チエの自由な流通を阻害 する。頑迷固陋の官僚主義ではいいアイディアが浮かばない。いい人材 が登用されない。

3)自由がなく、社会が活性化しない。もの言えば唇寒しで、嘘と責 任逃ればかり。休まず、遅れず、働かず。頑張っても報われないから、 酒と年金暮らしだけが楽しみという閉塞社会。

4)革命を輸出し自由圏諸国と対峙、かつ国民の不満を抑え込むため に経済規模に見合わぬ莫大な軍事・公安費を必要とし、財政が疲弊する。

5)一党独裁は理想郷を築くためだという看板を掲げているから年金 など社会保障費は圧縮できずに、人口の高齢化とともに財政を圧迫する。

6)経済が伸びなければ国民の多くは共産主義、共産党に絶望する。 役人、軍人から庶民に至るまで変革を望むようになる。

ソ連崩壊の経緯を時系列で追えば以下のようになる(参考:ウィキ)。

1)1985年3月、経済、社会を立て直すために登場したゴルバチョフの指揮下でペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)が進めら れた。

2)この流れを受けて1989年から1990年にかけて東ドイツやハンガリーなどの衛星国が相次いで民主化を達成。ゴルバチョフとパパ・ブッシュが会談し、正式に冷戦の終結を宣言した(マルタ会談)。

3)1990年にはソ連でも一党独裁制にかわって複数政党制と大統領制 が導入された。

4)共産党というタガがゆるやかになったため、ソ連邦を構成してい た各共和国では急速に分離独立の動きが強まっていく。

5)1991年、改革路線がソ連崩壊に結びつくことを危惧した保守派に よりクーデターが発生。エリツィンら改革派がこれに抵抗し、さらに軍 や国民の多く、列強もクーデターを支持しなかったことから失敗に終わ る(ソ連8月クーデター)。

 6)保守派が失脚したことにより国家組織が機能不全に。ゴルバチョ フはクーデター後にソ連共産党書記長を引責辞任し共産党の解散を宣言。12月25日にソビエト連邦は完全に解体した。ゴルバチョフが爆弾の導火線に火をつけ、エリツィンが鉄のカーテンに投げつけ、そしてソ連は解体した。歴史は繰り返すと言うが、中国では誰がゴルバチョフ、エリツィンになるのだろう。(つづく)
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これからが「フライト本番」
━━━━━━━━━━━━━毛馬 一三

本欄の常連執筆者の石岡荘十氏が、先般「頂門の一針」に、ドクターヘ リ「5千件フライトの検証」を寄稿された。同氏は、国松孝次氏(救急ヘリ病院ネットワーク理事長)と、大阪府議会の光澤忍議員を通じて大阪府前知事に要請、「大阪ドクターヘリ就航」に貢献したキーマンだ。同氏は、同稿の中で、次のように記述している。

<怪我や病気で一刻も早い救急救命処置が必要な患者のもとに医師と看 護師がヘリコプターで駆けつけ、その場で救急治療を開始しながら病院 に患者を搬送するドクターヘリシステムが本格的な運用を開始したのは 2001年4月。

2007年度にはドクターヘリ全国配備のため新法案も出来た。今年3月ま でに全国13道府県(14ヶ所)で運用されている。現在、ドクターヘリの 運用が行なわれている道府県の実績は次の通り(数字は2007年度の出動 回数)

・北海道    433
・福島県     27
・埼玉県     30
・千葉県    686
・神奈川県   345
・静岡県東部  611
・静岡県西部  702
・長野県    330
・愛知県    470
・大阪府     12
・和歌山県   379
・岡山県    475
・福岡県    369
・長崎県    394

このうち、埼玉県は2007年10月、大阪府と福島県は2008年1月、運航を 開始したばかりなので、実績はまだ少ない>。石岡氏は、大阪の出動回数が12件と少ないのは就航開始から3ヶ月しか経っていないためだと説明している。しかし察するに石岡氏の心境は、大阪が大都市のモデルとして先行就航した実績を基に、首都圏東京のケツを叩く材料にしたかったのではないだろうかと思えてならない。果たして同氏は、このあとこう続けている。

<首都東京都はどうなっているのか。
昨年11月から、「東京型」ドクターヘリを運用しているという。ところ が、これは離れ島などで病人が出たとき、消防庁の防災ヘリがどこかで 医者を拾って乗せ、患者の搬送に向かうという方式で、都心部での患者 にドクターヘリは必要ないという判断だ。

救急車で十分間に合うというのだが、これでは世界の先進国で常識とな っている救急体制に較べ、交通渋滞の中を駕籠で病人を運ぶようなもの だ。(略)東京都民がかわいそうだ。

1970年にドクターヘリを導入した、いわば草分け的国家であり、面積に して日本より小さいドイツでは、80ヶ所に拠点がある。「全土どこへで も15分以内に現場到着」を謳っている。これと較べると、日本人はかわ いそうだ>と。

当時、光澤府議を通じ大阪府知事へ橋渡しを依頼した筆者も、石岡氏の 秘めた「大阪の稼動実態」が気になったので、大阪府医療対策課の責任 者に「低迷?」のわけを尋ねてみた。

すると、大阪ドクターヘリの出動件数は、2007年度(2008年3月迄)12 件だったのを既に超え、実は2008年7月末までに前記の3倍の36件に達 している、と明らかにした。

ただこの出動件数は、救急救命病院の少ない僻地を抱える他府県の出動 とは根本的に違い、大阪ドクターヘリは、救急車が出動する中心部とは 違い、府下郡部の重症患者の救急救命出動に限られるため、回数はある
程度制限されるには止むを得ないと説明する。

では、「このままの状態で推移するのか」。

大阪府としては、さらに出動回数が増えるように、今ある府北部の阪大 付属病院基地局に加えて9月から、府東部の八尾空港に新基地局を設け ることで、府東・南部を短時間で網羅する救急救命出動システムを作り 上げるという。

また、9月1日大阪湾周辺で行われる「防災の日」には、近畿南部の激 震災害を想定した救助活動訓練に同ドクターヘリを参加させ、災害被害 に遭った重症患者を海上自衛艦の甲板に搬送して救急救命医療に当るな どの訓練も行い、今後の災害対策にも備えるという。

いずれにしても、各地の消防本部や救急救命専門協議会等と緊密に連絡 を取りながら、重症患者の適切な搬送出動に当り、実積向上に繋げたい としている。橋下(はしもと)知事も、大阪ドクターヘリには共感と理解を見せていると関係者はいう。

出動回数の「数」より、助けた「質」だという説もあるが、どれだけ府 民・近隣府民を医師・看護師付きのヘリに収容して短時間で搬送し、 「重篤患者の命」を救うか、その「数」も大きなキーワードになるので はないだろうか。
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海で泳ぐということ
━━━━━━━━━馬場 伯明

前田正晶さんが「特に海(で泳ぐこと)の危険性」を指摘されている (本誌1271号反響欄)。もっともである。だが、海でも泳ぐことができ る方が楽しい。

今小学校のプールでは水泳の授業があり、スイミングスクールも盛況だ。しかし、海でまともに泳ぐことができる児童は少ない。海で連続30分間泳ぎっ放し(浮いていること)ができる子供が10%いるかどうか・・・。

プール育ちはなぜ海が苦手なのか。プールには大波や引き潮がない。す ぐ近くに壁(岸)がある。プールの水は塩辛くない(海水を飲み込んだ らヤバイ)。遠泳の行事がなくなった、などである。

また、海水浴場といえば、背よりちょっと深い場所は遊泳禁止区域とな り、立ち泳ぎなど「浮く」練習ができない。海は泳ぐ場所ではなく、浜 辺で遊ぶ場所とされている。

あげくの果ては、「胸より深いところへは行かないで」という放送が響 き渡る。つまり、「泳ぐな、浮くな」と言うに等しい。泳がないのであ れば、そりゃあ安全だろう。

先日、稲毛海岸の遊泳禁止区域沿いに潮の流れに乗って北から南へ約1km 泳いだ。監視船が近寄り、監視人のお兄ちゃんが危険区域を示すブイか ら離れろという。「このオッサン、何しよる?」とでもいいたげ。「ハ イハイ」と、ブイから5mほど離れた。

海には海の泳ぎ方がある。私が子供の頃習い覚えた泳ぎ方はとにかく 「沈まない、(楽に)浮き続ける」ことである。

まず、顔を上げた状態の平泳ぎ。これがオーソドックスな泳法/ 次がと っておきの楽チン泳法、以下。仰向けにひっくり返る/ 身体の力を抜き リラックスする/ 脇を開閉し両腕でバランスを取り手であおる/

両脚でゆっくりあおる/ あごを少し引き顔を上げる/ 波が顔にかかっ てもあわてず、海水を飲み込まず、含んで吐き出す/ 速く泳ぐ技術より、体力を使わないで浮くことが大切である。

当時、長崎県南串山町の海岸沿いは「石ガラガッツ(石ばかり・砂浜が ない)」で磯の石にはカキ(牡蠣)やマガリ(曲がり)などの鋭い殻で 覆われていた。危なく裸足では歩けない。

初歩の泳ぎは安全な波止場の波打際で教わる。本格的な泳ぎ(浮き)は 深いところで覚える。伝馬船(1、2隻)を水深3~4mの場所にとめ碇を打つ。この船の回りや間で泳ぐ。幼児から中学生までいっしょである。

泳げない者には皆で教える。船から海に放り込み、自力で浮くことを教 える(溺れそうならすぐ引き揚げる)。小さい子供もまもなく泳げる (浮ける)ようになる。速く泳ぐ(推進する)より長く浮くことを重視 する。背が足りないような深い海では、浮くことができなければ溺れるだけ。「水泳道とは、浮くことと見つけたり」である。

そのうち、もぐり(潜水)を覚える。海底のサザエ、巻き貝(ミナ)、 ナマコなどを獲る。もぐりは難しい。人間の体は本来「浮く」ようになっているから。重い頭から海底へ張り付いていく。

後年、勤務した工場の水泳大会の「もぐり距離競争」で、私は50mプール をもぐったままターンし、優勝したことがある。もぐりのコツを覚えた 少年時代の経験が生きた。

溺れるといえば、映画「母べえ」で、佳代(吉永小百合)は溺れた山ち ゃん(浅野忠信)に鮮やかな抜き手で、近づき、救助した。この「抜き 手」も安定した泳ぎ方だ。水泳オタク小百合さんの面目躍如という一場 面であった。

昔、事故があった。私が学生になった頃、剣道の練習ばかりで泳ぎが苦 手だった10歳下の弟が波止場で溺れた。子供が浜辺の大人に知らせた。
収容された医院ではいろいろやっていたが意識がもどらない。

家から海辺へ坂を駆け降りてきた母は、いきなり、看護婦さんらに「何 ばしよっと、どかんね」「洗面器ば、早よ、持ってこんね」といい、仰 向け状態の弟をひっくり返し、その腹を膝に抱え、中指を喉に深く突っ
込み、背中を強く押した。

ドドッと大量の海水が流れ出た。母の機転が功を奏し彼は助かったので ある。でも、海水が肺の中まで入っており肺炎対策の治療が残ったが、 体はやがて正常に戻った。

しかし、その後、彼が自ら好んでは海に泳ぎに行くことはなかった。こ の事故以来、海への恐怖心は消えず、海では泳ぐことができなくなった。スポーツは万能であったが、高校の水泳の授業で「カナヅチック」であることがチョンバレとなり、「やあやあ、弁慶の泣き所!」と仲間に冷やかされたという。

母の機転に助けられた彼は、母から2つ生命(いのち)を貰ったことに なる。母には頭が上がらない。母は強い。だから、私の2倍の親孝行をし なければならない。

今、彼は長崎市内の開業医(心臓内科)として、医療制度の谷間で溺れ かかっている老人たちを支え、励まし、助けている。同時に、母(90歳)が病気や老衰で「溺れない」ようしっかり監視している。

ところで、私は父母といっしょに泳いだことはない。母は海辺の生まれ、水泳が得意でイルカのように泳いでいたらしい。父は師範学校の頃高飛び込みがうまかったといっていた。

私は数年前、ハワイのアラモアナ海岸の人工島、(俗称)マジックアイラ ンド(Aina Moana State Recreation Area)の南端の内海(約400x150m)で(買物に出かけた妻子と離れ)ひとりゆっくり海面に仰向けになり、泳いでいた(浮いていた)ことがある。

その外海ではサーファーたちが大波に挑戦していたが、内海は大きな突 堤で囲まれており、波が静かな安全地帯である。誰もいない海を独り占 め、至福の時間(とき)を過ごした。

前田正晶さんがおっしゃるとおり、海面下の引き潮や土用の大波は危険 である。あっという間に身を沖へ持っていかれる。九十九里浜、湘南海 岸、岡山の鷲羽山(久須美鼻)の潮流などもそうだ。

海を楽しむためには海で泳ぐ技術を身につけなければならない。「君子 危うきに近寄らず」ではなく「備え(の遊泳技術が)あれば憂いなし」 ということだ。

溺れるということは「慌てる、気が動転する」から。潮流に流されたら 流れに抵抗せず長い距離をゆっくり泳ぎ、迂回して帰ってくる。自分に は泳ぐ(浮く)技術があるという自信が危険域からわが身を守ってくれ る。泳ぐ技術の習得へのわずかな努力もしたくない横着者は、海へは入らず、浜辺でビニールボール・バレーや子供の砂遊びでもしてもらうしかない。しょんなかこつ(しょうがないこと)。