経済改革は教育改革から、教育改革は教員改革から?(日経)
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▼経済改革は教育改革から、教育改革は教員改革から?(日経)
学力の底上げを機軸に経済成長を実現したフィンランドの教訓 :日本経済が急速に不況の色を強める中で、内閣改造が行われました。内閣改造と同時に、政府も景気判断を下方修正するようです。でも、これまでも、好景気だという実感は薄かったと思います。地方経済は冷え込み、多くの若者が正社員になれない状況が続いてきました。 どうすれば経済を元気にできるのか。大きな課題です。 フィンランドのことを思い出しました。教育から経済を再生したからです。
・経済危機に直面し、教育を政策の柱に
昨秋、ノルウェーで行われた国際会議で、フィンランドの外務大臣や教育大臣を歴任された方に、じっくりとお話を伺う機会がありました。OECD(経済協力開発機構)が実施したPISA(学習到達度調査)という世界各国の子供の学力テストにおいて、フィンランドが科学的リテラシー部門でトップ、数学的リテラシー部門と読解力部門では2位を獲得。1人当たり国民所得でもフィンランドが世界で10位にまで躍進。 一方、かつて学力世界一だった日本は、前述の各部門で6位、10位、15位にまで下がり、1人当たり国民所得も18位にまで後退したことが報道された頃でした。 1990年代初め、世界中は不動産バブルの崩壊にひどく苦しんでいました。日本だけでなく米国や北欧でも、主な民間銀行の多くが破綻しました。フィンランドも大不況に見舞われました。
危機に直面したフィンランドは、ユニークにして理にかなったやり方で、経済を再建しました。国民の力を高めることを政策の柱に据えたのです。 小国フィンランドが、グローバリゼーションで激しくなる国際競争に打ち勝って豊かな経済を作るには、フィンランドの人材に国際競争力がなくてはいけない。それも、一部の人たちだけでなく、国民全体のレベルが向上しなくてはいけない。国民全体のレベルを底上げするのは教育である。そのために、教育を改善していく。こうした方針を打ち出し、具体的な教育改革に着手しました。 もともと、フィンランドでは、先生は最も尊敬される職業なのだそうです。先生になるには大学院卒業の資格が必要であり、10倍もの難関の試験を突破した優秀な人だけが先生になれるそうです。社会全体にも、先生や学校に対する尊敬と信頼の気持ちが強くあり、地域でも学校を住民が応援するのは当たり前である、という伝統があるそうです。 そうした素地がある上に、90年代の教育改革は行われました。
・教育予算を増やし、現場の創意工夫を促進
一言で言えば、金は増やすが口出しは減らす、という改革でした。大不況で財政も苦しい中で、教育予算を増やしました。しかし、もっと大切なのはお金と人の能力の使い方でした。 国家や地方政府が教育内容に関与する度合いを減らし、その代わり、現場の先生の創意工夫を促したのです。それまでは分厚かった学習指導要領も薄くなり、その分、現場の先生が手作りで教材を作ることが求められました。 生徒への教え方も、知識や記憶力を求めるよりも、自分で問題や課題を見つけ、その答えを見つける能力が重視されました。教室を出て街や野山で様々な発見をすることも活発に行われるようになりました。
・規制緩和と同時に、社会の安全網も充実
それは、21世紀の先進国に必要な能力に通じます。人が考えた問題に人が想定した答えを出す能力よりも、問題や課題を発見し、自分で調べて考えて、他の人とも協力して解決することの方が大事になったのです。 また、取り残される子供を作らないことが重視されました。1クラスの生徒数は20人程度に抑えられ先生の目が行き届くようにしました。そのうえ、授業についていけない子供たちや、言葉が不自由な移民の子供たちを指導する、補助の先生をクラスに配置しました。多くの子供たちが授業についていけるようにしたおかげで、子供たち全体の学力が底上げされました。 こうして教育で培った国民力を背景に、フィンランドは国際競争に打って出ました。そして、他の北欧諸国と同様に、市場を外国企業に開放し、規制緩和を行い、移民を大幅に受け入れました。その代わり、競争に敗れた人がまたチャレンジできるように、失業手当や職業訓練などを充実させました。 単に競争社会に国民を放り込むのではありませんでした。教育で国民一人ひとりの力をつけることと、社会の安全網を充実させて安心して経済競争に挑戦できるようにしたのでした。携帯電話シェアにおいて世界一のノキアだけでなく、様々なベンチャー企業が小国フィンランドから生まれ、経済が成長しました。
・改革どころか不正がはびこる日本の教育界
日本の教育は、先生が尊敬されるフィンランドとは逆の方向に進んできたようです。教育改革、教育再生のための会議が何年も開かれていますが、現実には子供の教育を担う先生の選び方や昇任にとんでもない不正がはびこっていることが分かってきました。教育改革は様々な面から必要です。でも、熱意と能力を持った若者が先生に採用されなければ、どんな立派な改革も効果は薄いでしょう。 大分県で教員の採用や昇任がカネとコネで決まっていたことが、警察の捜査で明らかになりました。10倍を越す競争率の中から採用されたはずの先生の半分が、実は不正な手段によって採用されていたのです。
教育委員会や議員や組合や地元のマスコミまでもが、こうした不正に何らかの形で関わり、カネとコネで先生を決めていました。だから、試験で優秀な成績を上げた若者が落とされて、その代わりに、カネとコネを悪用した人の子供たちが先生に採用されていたのです。 また、先生と生徒のリーダーであり模範であるはずの、校長先生や教頭先生になるのにも、カネとコネが重視され、昇任試験に白紙解答しても昇任したという驚くべきケースも報道されました。
これが大分県だけの問題だとは到底思われません。他の地域でも多かれ少なかれ同じような実態があると想像できます。そもそも、採用の根拠がよく分かりません。最も大切な資料であるはずの採用試験の解答すら保管していないところが多いのです。内輪の調査では本当の姿は到底出てこないでしょう。大分県教育委員会自体が、何の不正もなかったと、これまで報告してきているのです。
・子供の人生を左右する先生は“聖職”
内輪の改革を行ったところで効果はないでしょう。そもそも、地域の教育政策を決める教育委員会、行政を監視するはずの議員、子供と教育を守ることを謳う組合、そして、当事者である教員たち、そのすべてが不正に関与しているのです。世間の関心が薄れれば、また同じことの繰り返しになるでしょう。
他に類似した例を考えると、上場企業での総会屋への利益供与や公共事業での談合が当てはまるのではないでしょうか。関係者たちには強固な利害関係があり、摘発を何度も受けてもまた同じような不正行為が発生するのです。 総会屋や談合よりも深刻なのは、不正を許し、能力も意欲も基準に達しない人間を先生に採用し、その代わりに優秀な若者を不合格にしていることが、多くの国民に取り返しのつかない大きな損害を与えるからです。 子供の時の教育はその人の一生を左右するからです。素晴らしい先生に自分の力や長所を見いだされた子供と、やる気のない先生にいい加減な扱いを受けたり、セクハラや犯罪の対象にされたりした子供では、その後の人生が大きく変わってしまいます。いまや死語となりましたが、先生は聖職だと思います。
生徒を性欲の対象にするハレンチ教師やイジメを放置し生徒指導を放棄したような異常な教師のことが毎日のように報道されます。彼らは本当に競争率が高い採用試験を実力で通ったのでしょうか。 多くの子供たちが学校で一生心に残る傷を受けたり、傷つけられたり殺されたり、自ら命を絶っています。先生は、大切な子供たちを預けるわけですから、学力だけでなく、人格や素行などについて、様々な角度からチェックするのが本来の姿でしょう。現実には、無能で問題のある人間でも平気で先生になり、子供たちが被害に遭っているのが実態でしょう。
・総会屋の排除などの経験を参考に
断固たる政策を国家が打ち出し、地域が実行する時ではないでしょうか。不正を根絶するには、まずは実態の十分な把握と情報公開が必要です。不正が明らかな関係者が処分を受け、職を退くのは当然です。お菓子の賞味期限が切れていたことよりも、はるかに重大な犯罪が行われていたのです。
最も大事なのは、これからは不正が起きない仕組みを作ることです。試験の基準を公開し、試験答案を厳重に保存し、試験結果を公開することは第一歩でしょう。その際、情報公開が大きな武器になるでしょう。教育委員会や組合や政治家などからの、不正防止に反対する人からの圧力はすべて公開を義務づけるべきでしょう。 再発の防止のために、この際、膿みを一気に出すことが必要でしょう。一種の司法取引も必要でしょう。一定の期間までに自己申告したら刑事罰を猶予するけれど、申告しなかったりその後も不正を続けたりしたら厳罰に処すことで、不正のあぶり出しと再発の防止も可能でしょう。 地域の自浄努力に任せても効果はないでしょう。国が法律を作り、全国一斉に実施する方が効果は大きいでしょう。情けない話ですが、総会屋の排除や談合防止などの立法での経験は参考になるのではないでしょうか。 優秀でやる気があり人柄に優れた若者を先生に選ぶ、まず、ここから教育の再生を始めるべきでしょう。今度の文部科学大臣は、今期限りで議員を引退されるそうです。しがらみにとらわれることなく、最後の力を出して、せめて先生の採用や昇任について、今の不正を一掃し、これからの再発防止の手段を講じるべきではないでしょうか。
・教育格差が希望格差につながる
残念ながら、日本では、教育についてフィンランドのような国民の間のコンセンサスはできていません。 戦後は、教育や先生は聖職から教育労働者になったという考えもあります。一方で、戦前の教育を復興しろ、という考えもあります。 また、ベビーブーム世代が成長するに伴い、入試競争が過熱しました。そこで、子供を受験戦争の犠牲にするな、という考えから高校全入、学区制、という措置もとられました。少子化の今も、そうした一時的な世代人口の増加による政策が尾を引いています。 また、このごろは、教育の民営化や市場原理という考えが導入されつつあります。しかし、東京などの大都市を中心に、受験産業という観点で見たときに、教育の市場経済化は極限まで進行しています。その一方、子供の人口が減れば、受験戦争は緩和され、教育現場にゆとりが生まれる、というかつての希望どおりには事態は変わりませんでした。 家庭の所得や社会的な影響力やコネなどにおける格差が、子供の教育格差にますます反映されてきました。こうして、日本の子供たちの学力は、全体として大きく低下しました。そして、教育から取り残される子供たちが大きくなり、国民全体としての希望格差を生んでいます。子供の教育を放棄したような家庭も多く見られます。 これほど大事な子供の教育を、現実に即して多くの国民が納得する政策にまとめるときではないでしょうか。 日本の教育について、構造的な問題を次の機会に考えてみたいと思います。