無理して若い隊員を出すことはないですよ
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◆「海を渡った自衛官─異文化との出会い─」
第14回 無理して若い隊員を出すことはないですよ
(イラク復興支援群-5)
第3次業務支援隊本部 M准尉(輸送科)
派遣期間(2004年8月2日~2005年1月23日)
■イラク業務支援隊について
およそ2カ年と半年にわたったイラク復興支援活動。良きにつけ、悪しきにつけ、話題になったのは復興支援群の隊員たちだった。大方の人にとっては、およそ100名で編成される業務支援隊のことは関心の外だったことだろう。イラクに派遣された支援群は、たとえば給水をし、道路整備をし、橋を直し、学校や病院などの公共施設を復興し、医療技術指導などをした。こういったことは、報道もされやすく、理解もされやすい。しかし、支援群の活動を裏で支えた業務支援隊のことは、ほとんど知られなかった。
業務支援隊とは、復興活動をする支援群が、その任務を円滑に、有効に行なえるように支援する部隊である。簡単にいえば、活動の基盤づくりをするのが役目になる。クエートと現地のサマーワに分かれて活動した。人やモノの出入りの手続きの一切、現地の人との交渉などは、すべて支援隊が行なった。支援群としての派遣部隊は10次を数え、これに対して業務支援隊は5次隊である。群の活動期間は、約3か月、それに対して支援隊の活動期間は倍の半年にわたった。
▼本音は2つあった
青函地区隊にいた平成15年、上司から、イラクの業務支援隊にだれを出そうかと相談を受けた。当時のM曹長はすぐに答えた。「無理して、若い隊員を出すことはないですよ。われわれ、年寄りからも選んでください」業務支援隊の大変さはわかっていた。縁の下の力持ちだし、ひたすら耐えながらの仕事だということも理解していた。上司も、中央も、環境の厳しい中での仕事だから、できるだけ若い隊員がいいと考えている。でも、人手も足りない中、若い人ばかりを出していたら、部隊の通常の仕事にも支障をきたしてしまう。
でも、本音をいえば、そんなことを言った裏には、2つの理由があったとM准尉は笑った。企画し、計画をつめ、準備をし、他の隊員を次々と送り出してきた。今度こそ、自分の番だという焦りにも似た気持ちがあった。もう1つは、自分が立てた計画は、現地でどうなっているのだろう、それが気になっていたという。結果を見たい、自分の目で見、現地で活動して実感したいという気持ちだったそうだ。
▼ 目の前の仕事に挑み続けた
M准尉は、Y駐屯地の最先任上級曹長を務めている。階級は准尉だが、左腕には肩から大きな袖章がかけられている。3本の山形線にさらに1本の山形がついて、その上に大きな桜が1つのっている。ふつうの制服の襟や、開襟シャツの3種といわれる服装の肩につく陸曹長の階級章を大きくしたものだ。それを着けている准尉や、曹長が部隊や機関、駐屯地ごとに1人いる。M准尉はY駐屯地司令の幕僚であり、駐屯地内の各部隊の陸曹諸官の中で、もっとも先任という立場にある。アメリカ軍の人事制度にならったもので、陸自では、一昨年から試行された。市谷の陸上幕僚監部には、陸自最先任上級曹長がいる。桜の数は4つ、つまり陸上幕僚長(大将)の肩に光る星の数と同じである。幹部のトップは陸上幕僚長だから、最先任上級曹長は全国8万人の陸曹のトップになる。
軍隊は下士官で動く、あるいは、下士官のレベルが軍隊の精強さを決定するなどといわれる。どこの国の軍隊でも、軍人は3つの階級に分かれている。士官(幹部)、下士官(准尉と曹)、兵(士)である。士官の仕事は企画することであり、それを忠実に実行する、兵に命令して、士官(幹部)の意図を現実化するのが下士官の役目になる。
筆者の年代の人たちなら、アメリカ映画『コンバット』のサンダース軍曹とヘンリー少尉を思い出すに違いない。下士官は、現場に精通し、兵に信服され、士官にも一目おかれる存在でなくてはならない。知識はあるが、経験の浅い学校出の若手幹部を鍛えるのは、陸曹のもっとも大切な仕事の1つとされている。
M准尉は青森県出身、1961年の早生まれだった。陸上自衛官だった父親は、高校生の頃には、すでに陸曹で退官していた。大学へ進学したいなと思っていたが、ちょうど、父親は家を建てた。無理をいいにくかった。進路も決まらないまま、2月ごろに、たまたま深夜ラジオを聴いていたら、自衛官の募集広報をしていた。「今でも覚えていますが、自衛官の月給は、8万5800円。これより良かったのは、コカコーラの会社ぐらいでした。でも、これは完全な肉体労働で、きつそうだと思いました」
当時の青森では、他の仕事では、とても自衛官の月収にとどかなかった。翌朝、父親に入隊しようかなと言ってみたら、すぐに地方連絡部に電話をしたらしい。募集の係官が家に来てくれた。まあ、とりあえず行ってみようかというぐらいでして、もちろん、2任期も勤めて、自衛隊は辞めようと思っていましたとM准尉は言う。入隊は、青森の5連隊。八甲田山越えで有名な普通科連隊である。すぐに辞めるつもりが、どうしたことか、陸曹候補生になり、仙台の第2陸曹教育隊に移る。3曹になって、特技(MOS)も軽火器をとった。バリバリの歩兵、小銃班長だった。
それが、まったくひょんなことから、輸送科になった。本人がすっかり忘れていた頃に、中隊長から希望が通った、おめでとうと言われた。ああ、そういえば、2、3年前のことだったと思い出した。輸送科はどうだろうと言われて、まあ、それもいいですねと確かに人事希望にそう書いてしまった。「3曹になってしまっていたものですから、第9輸送隊に転属しても、まともな職種の学校教育を受けていません。輸送学校の陸曹の課程も縁がなかった。私は目の前の仕事をこなしてきただけです。人に教えてもらう、書類を調べる、自分で考える、とにかく自学自習でした。そうやって仕事を覚えて、ここまで来ただけです」
▼昔っぽい人が一番
ボクらの仕事のことなんですがと、隊付准尉のH曹長といっしょに話してくれた。H曹長は熊本県出身、M准尉より5年後の入隊である。業務支援隊の派遣経験もあり、最後の撤収をになった後送業務隊にも出かけた。今は、Y駐屯地にある部隊の隊付准尉である。これも部隊の陸曹諸官の最先任者である。M准尉は、隊員には、昔っぽい人がいいという。言われたことは素直に聞く。分からないことは、「なんで、なんで、と聞いてくる若い人は伸びる」と言う。
「聞けば、分かる。分かるようになるまで考える。考えつかなかったら、また、聞けばいい。それが、人を新しいステージに立たせます。ちがう角度で見えるようになる。そうなると、また、分からないことが増える。また、聞けばいいのです」
H曹長は言う。若い人は団体生活が苦手です。自衛隊の仕組みも、昔とは変わったことがある。生活隊舎ができて、職場と暮らしが離れてしまった。個室も増えて、昔のように2段ベッドで10数人が同じ部屋で生活することがなくなった。おかげで、人とのつき合いが浅くなりましたという。「自衛官は損得なしで行動する。一言でいえば、GNNが欲しいですね」
GNNとは、番匠将補も言っていた。義理、人情、浪花節である。H曹長は、最近の若い隊員の風潮が、自衛隊らしくないと思っているよだ。いや、変化は当たり前だろうと認めている。2人とも、若い隊員の良さは十分評価している。
M准尉も、隊員の能力は高くなった、学校も出ているし、言われたことはそつなくこなしてくれる、海外へ行っても、たいへん、よくやってくれたと語ってくれた。「我慢がないんです。指導を受けると、どうして俺が怒られるんだと腹を立ててしまう」
2曹といえば、陸曹生活も10年以上と考えていい。プロの中のプロである。それにふさわしい考え方や、ものいい、態度を求めても、どうも、本人にその感覚が通じていないのではないかと准尉と曹長は悩んでいる。仕事が終わると、先輩から一杯やろうとよく誘われた。隊内にある隊員クラブで、よく飲んだ。飲めない人でも、ついていった。それが、今は、私的生活優先である。陸曹の間でも、そうなってきている。2人は危機感をもっているという。
自衛隊は世間の風潮と完全に無関係ではあり得ない。むしろ、開かれた自衛隊を標榜(ひょうぼう)してくれば、世間の影響を受けやすくなるのは当然だろう。しかし、その中でも、良き日本人の伝統を継承し、任務を立派に果たしてきたわが自衛官の存在も、また事実である。「これからの自衛隊…」今日は、そんなことを考えてみたかった。取材の合間に、聞かせてもらった、選ばれた准・曹(准尉と下士官)の代表者たちの話を紹介してみた。
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(イラク復興支援群-5)
第3次業務支援隊本部 M准尉(輸送科)
派遣期間(2004年8月2日~2005年1月23日)
■イラク業務支援隊について
およそ2カ年と半年にわたったイラク復興支援活動。良きにつけ、悪しきにつけ、話題になったのは復興支援群の隊員たちだった。大方の人にとっては、およそ100名で編成される業務支援隊のことは関心の外だったことだろう。イラクに派遣された支援群は、たとえば給水をし、道路整備をし、橋を直し、学校や病院などの公共施設を復興し、医療技術指導などをした。こういったことは、報道もされやすく、理解もされやすい。しかし、支援群の活動を裏で支えた業務支援隊のことは、ほとんど知られなかった。
業務支援隊とは、復興活動をする支援群が、その任務を円滑に、有効に行なえるように支援する部隊である。簡単にいえば、活動の基盤づくりをするのが役目になる。クエートと現地のサマーワに分かれて活動した。人やモノの出入りの手続きの一切、現地の人との交渉などは、すべて支援隊が行なった。支援群としての派遣部隊は10次を数え、これに対して業務支援隊は5次隊である。群の活動期間は、約3か月、それに対して支援隊の活動期間は倍の半年にわたった。
▼本音は2つあった
青函地区隊にいた平成15年、上司から、イラクの業務支援隊にだれを出そうかと相談を受けた。当時のM曹長はすぐに答えた。「無理して、若い隊員を出すことはないですよ。われわれ、年寄りからも選んでください」業務支援隊の大変さはわかっていた。縁の下の力持ちだし、ひたすら耐えながらの仕事だということも理解していた。上司も、中央も、環境の厳しい中での仕事だから、できるだけ若い隊員がいいと考えている。でも、人手も足りない中、若い人ばかりを出していたら、部隊の通常の仕事にも支障をきたしてしまう。
でも、本音をいえば、そんなことを言った裏には、2つの理由があったとM准尉は笑った。企画し、計画をつめ、準備をし、他の隊員を次々と送り出してきた。今度こそ、自分の番だという焦りにも似た気持ちがあった。もう1つは、自分が立てた計画は、現地でどうなっているのだろう、それが気になっていたという。結果を見たい、自分の目で見、現地で活動して実感したいという気持ちだったそうだ。
▼ 目の前の仕事に挑み続けた
M准尉は、Y駐屯地の最先任上級曹長を務めている。階級は准尉だが、左腕には肩から大きな袖章がかけられている。3本の山形線にさらに1本の山形がついて、その上に大きな桜が1つのっている。ふつうの制服の襟や、開襟シャツの3種といわれる服装の肩につく陸曹長の階級章を大きくしたものだ。それを着けている准尉や、曹長が部隊や機関、駐屯地ごとに1人いる。M准尉はY駐屯地司令の幕僚であり、駐屯地内の各部隊の陸曹諸官の中で、もっとも先任という立場にある。アメリカ軍の人事制度にならったもので、陸自では、一昨年から試行された。市谷の陸上幕僚監部には、陸自最先任上級曹長がいる。桜の数は4つ、つまり陸上幕僚長(大将)の肩に光る星の数と同じである。幹部のトップは陸上幕僚長だから、最先任上級曹長は全国8万人の陸曹のトップになる。
軍隊は下士官で動く、あるいは、下士官のレベルが軍隊の精強さを決定するなどといわれる。どこの国の軍隊でも、軍人は3つの階級に分かれている。士官(幹部)、下士官(准尉と曹)、兵(士)である。士官の仕事は企画することであり、それを忠実に実行する、兵に命令して、士官(幹部)の意図を現実化するのが下士官の役目になる。
筆者の年代の人たちなら、アメリカ映画『コンバット』のサンダース軍曹とヘンリー少尉を思い出すに違いない。下士官は、現場に精通し、兵に信服され、士官にも一目おかれる存在でなくてはならない。知識はあるが、経験の浅い学校出の若手幹部を鍛えるのは、陸曹のもっとも大切な仕事の1つとされている。
M准尉は青森県出身、1961年の早生まれだった。陸上自衛官だった父親は、高校生の頃には、すでに陸曹で退官していた。大学へ進学したいなと思っていたが、ちょうど、父親は家を建てた。無理をいいにくかった。進路も決まらないまま、2月ごろに、たまたま深夜ラジオを聴いていたら、自衛官の募集広報をしていた。「今でも覚えていますが、自衛官の月給は、8万5800円。これより良かったのは、コカコーラの会社ぐらいでした。でも、これは完全な肉体労働で、きつそうだと思いました」
当時の青森では、他の仕事では、とても自衛官の月収にとどかなかった。翌朝、父親に入隊しようかなと言ってみたら、すぐに地方連絡部に電話をしたらしい。募集の係官が家に来てくれた。まあ、とりあえず行ってみようかというぐらいでして、もちろん、2任期も勤めて、自衛隊は辞めようと思っていましたとM准尉は言う。入隊は、青森の5連隊。八甲田山越えで有名な普通科連隊である。すぐに辞めるつもりが、どうしたことか、陸曹候補生になり、仙台の第2陸曹教育隊に移る。3曹になって、特技(MOS)も軽火器をとった。バリバリの歩兵、小銃班長だった。
それが、まったくひょんなことから、輸送科になった。本人がすっかり忘れていた頃に、中隊長から希望が通った、おめでとうと言われた。ああ、そういえば、2、3年前のことだったと思い出した。輸送科はどうだろうと言われて、まあ、それもいいですねと確かに人事希望にそう書いてしまった。「3曹になってしまっていたものですから、第9輸送隊に転属しても、まともな職種の学校教育を受けていません。輸送学校の陸曹の課程も縁がなかった。私は目の前の仕事をこなしてきただけです。人に教えてもらう、書類を調べる、自分で考える、とにかく自学自習でした。そうやって仕事を覚えて、ここまで来ただけです」
▼昔っぽい人が一番
ボクらの仕事のことなんですがと、隊付准尉のH曹長といっしょに話してくれた。H曹長は熊本県出身、M准尉より5年後の入隊である。業務支援隊の派遣経験もあり、最後の撤収をになった後送業務隊にも出かけた。今は、Y駐屯地にある部隊の隊付准尉である。これも部隊の陸曹諸官の最先任者である。M准尉は、隊員には、昔っぽい人がいいという。言われたことは素直に聞く。分からないことは、「なんで、なんで、と聞いてくる若い人は伸びる」と言う。
「聞けば、分かる。分かるようになるまで考える。考えつかなかったら、また、聞けばいい。それが、人を新しいステージに立たせます。ちがう角度で見えるようになる。そうなると、また、分からないことが増える。また、聞けばいいのです」
H曹長は言う。若い人は団体生活が苦手です。自衛隊の仕組みも、昔とは変わったことがある。生活隊舎ができて、職場と暮らしが離れてしまった。個室も増えて、昔のように2段ベッドで10数人が同じ部屋で生活することがなくなった。おかげで、人とのつき合いが浅くなりましたという。「自衛官は損得なしで行動する。一言でいえば、GNNが欲しいですね」
GNNとは、番匠将補も言っていた。義理、人情、浪花節である。H曹長は、最近の若い隊員の風潮が、自衛隊らしくないと思っているよだ。いや、変化は当たり前だろうと認めている。2人とも、若い隊員の良さは十分評価している。
M准尉も、隊員の能力は高くなった、学校も出ているし、言われたことはそつなくこなしてくれる、海外へ行っても、たいへん、よくやってくれたと語ってくれた。「我慢がないんです。指導を受けると、どうして俺が怒られるんだと腹を立ててしまう」
2曹といえば、陸曹生活も10年以上と考えていい。プロの中のプロである。それにふさわしい考え方や、ものいい、態度を求めても、どうも、本人にその感覚が通じていないのではないかと准尉と曹長は悩んでいる。仕事が終わると、先輩から一杯やろうとよく誘われた。隊内にある隊員クラブで、よく飲んだ。飲めない人でも、ついていった。それが、今は、私的生活優先である。陸曹の間でも、そうなってきている。2人は危機感をもっているという。
自衛隊は世間の風潮と完全に無関係ではあり得ない。むしろ、開かれた自衛隊を標榜(ひょうぼう)してくれば、世間の影響を受けやすくなるのは当然だろう。しかし、その中でも、良き日本人の伝統を継承し、任務を立派に果たしてきたわが自衛官の存在も、また事実である。「これからの自衛隊…」今日は、そんなことを考えてみたかった。取材の合間に、聞かせてもらった、選ばれた准・曹(准尉と下士官)の代表者たちの話を紹介してみた。
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