家庭崩壊をくい止めよ 加瀬 英明 ・ 「大同」のツケが回ってきた 平井 修 (重要!)
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家庭崩壊をくい止めよ
━━━━━━━━━━ 加瀬 英明
食物は自然の恵みであったはずなのに、今日では加工食品が、子どもた ちまでに肥満体や、糖尿病をもたらすようになっている。食は人をつく るというが、商業論理だけによって、機械によって能率的につくられた 食物を摂れば、そのような精神が乗り移る。家族の繋がりはゆったりとした、無限と思われる時間を共有することによって、もたらされる。能率的でない。
私は多神教を信じているから、あらゆるものに精神が宿っていると思っ ている。コンビニやスーパーで売られている加工食品には、魔神が巣く っているはずである。女たちが結婚、台所、家で親を世話するという、歴史的な神聖な使命を放擲した。いつから老いた親を生活を束縛する負担として、見離すようになったのだろうか。家族が崩壊しつつあるために、日本の4700万世帯のうち、4世帯に1世帯に当たる1200万世帯が独り世帯となっている。私たちは有史以来、家族国家であることを誇りにしてきたはずなのに、どこにもやすらぎのない荒寥とした国となった。
弧を重んじる、現代の病的な都市型の生活が、日本を蝕んでいる。秋葉 原の無差別殺傷事件は現代都市の歪んだ精神が、もたらしたものだった。これも、日本政府が都会の商の論理を優先させて、農業を荒廃させた報いである。いまや、食糧の自給率が危険なまでに低下するようになっている。歴史を通じて日本の国本――国の基礎は、農村と農業にあった。つい昨日までは、東京や大阪のような大都会においても、農村型の人と人との互助の絆が隣近所を結んでいたものだった。私たちはどこに住んでいても、農民の心を持っていた。
イギリスもフランスも、イスラエルをとれば日本の面積の僅か6%しか なく、国土の半分が砂漠によって覆われているにもかかわらず、食糧を 自給自足したうえに、あまった食糧の輸出国となっている。私たちはこ れらの諸国を、大いに見習うべきである。私は最近、都内の超高層ビルの最上階にあるレストランで御馳走になった。眼下に品川沖まで、風景がひろがっていた。景観が売り物だということだった。
都心の緑は心の泉 見渡すかぎり、殺伐なビルばかりだった。緑がほとんどなく、終戦直後 の写真でみたことがある、一面の焼け跡を連想させた。商の論理が都市 まで、破壊してしまったのだ。幕末に壮麗な緑の都として、西洋人を感 嘆させた江戸は、もうその残映すらなかった。
7月の洞爺湖サミットを前にして、福田総理が「地球愛」を語った。
何と恥しい、虚しい言葉だろうか。かつて共産主義者は好んで「人類愛」を語ったが、一人ひとりの人間を憎んだ。愛は家族から発する。それが隣人愛となり、さらに郷土愛になる。地球愛を語る人は、祖国愛をもつことができまい。いったい、総理が家族愛について話したことがあるだろうか。
共産主義も社会主義も、大企業によって制覇された市場主義も、人を操 るべき対象である大衆としてとらえることで共通している。地球愛といえば、他の7ヶ国がキリスト教国であるG8サミットを控えていたというのに、西洋諸語に訳しようがない。西洋人は「神の愛」しか知らないから、地球愛はキリスト教を否定する、唯物的な無神論を思わせる。国際感覚を欠いている。せめて地球家族愛というべきだった。
外国人拒否の日本人学校
━━━━━━━━━━━渡部亮次郎
主として日本人ビジネスマンが外国に赴任した時、子弟を入学させるた めの日本人学校は2005年現在、50カ国・地域に85校設置されている。他 に現地の学校やインターナショナル・スクールに通う日本人児童生徒を 対象にした補習校は54カ国に185校が設置されている(文部科学省調べ)。これらの学校では入学資格が日本人に限られていて、入学を希望する外国籍の児童生徒は少なからず居る、というのに排除されている。全てを調べたわけではないが、こういう国はどうも日本だけらしい。
日本人学校の始まりは昭和31(1956)年、タイのバンコクから始まった。補習校は昭和33(1958)年、ワシントンDCが始まり。外務省から文部科学省に出向して国際教育課長をしている手塚義雅氏によると今、再検討が迫られている。
昭和30年代から40年代にかけての日本経済の高度成長期に海外に赴任す るビジネスマンと同伴する子弟が急増した。当時はこれら子弟に対する 現地の教育施設は貧弱で、殆どの子供は現地校又はインターナショナル・スクールに通わざるを得なかった。逆にこうした後、帰国するいわゆる帰国子女の受け入れ態勢も不十分だったので、昭和37(1962)年になって政府が腰を挙げ、まず外務省が日本人教員の派遣を開始した。
話が前後するが、これら在外教育施設は政府運営ではない。一般的には 現地の日本人会が主体となって設置され、運営は日本人会代表、学校長、在外公館員(大使館・総領事館員)、保護者代表などからなる学校運営委員会によって行われる。私立学校なわけだ。これに対する政府の支援は文部科学省が教員の派遣と教科書の無料配布を、外務省が校舎の借り上げ料、現地採用教員への謝金への援助を受け持っている。派遣教員は平成17年度現在54カ国・地域に1,333人に達している。
先に書いたように政府が教員の派遣で海外子女教育に支援を始めたのは 昭和37(1962)年で、在留邦人の把握が容易だったことから全てを外務省 が担当したが、昭和56(1981)年からは教員派遣業務が文部省(当時)に 移管された。このような経緯をたどったために現在でも多くの日本人学校では、その対象を「邦人児童生徒」特に「帰国を前提とする邦人児童生徒」に限定している。そのために外国籍しかない子供は入学することが不可能である(補習校では外国人児童生徒を受け入れているところも多い)。これは特異だそうだ。
アジアでは特にそうだが、日本語を話せるから日本人学校に入りたいと いう外国籍の子供が少なからずいるという話を聞くが、門は閉ざされた ままである。手塚課長によると、在留日本人を多く滞在させているアジアのある国では、政府が認可した外国人学校は24校あるが、外国籍の児童生徒を拒んでいるのは日本人学校だけだ。
日本政府としては私立学校である以上、運営に口出しは今のところでき ない。また外国人児童生徒が入学すれば、日本人保護者から教育水準の 維持や教員確保に関する不安など様々な問題は出てくるであろう。しかし、手塚課長は指摘する。「今後、日本は経済面でも人口面でも相対的な国力の低下は免れないと思われるが、そうであればこそ、知日派、親日派の外国人を日本人学校で育成する事は国益に繋がる」 (霞関会会報2006年4月号参照)。
おそらくどこの日本人会もいまさら政府が口出しするというのなら運営 の全てに責任を持ってやってくれというに違いない。困難を克服して設 置し運営してきた矜持があるからである。
そうした現場を多少経験した私としてはまだ頭が整理できないが、昭和 16年、アメリカと戦争を始めた日本、が英語の使用を一切禁じたのに対 し、アメリカは翌年から陸軍と海軍がそれぞれ日本語学校を設置したこ とを思い出した。設置の理由が日本人捕虜の取調べだった。2006.04.02)(再掲)手塚氏は昨年、外務省に帰り、ロスアンジェルス総領事館に筆頭領事として勤務中。日本人学校のその後の状況を渡部は把握していない。
「大同」のツケが回ってきた
━━━━━━━━━━━━━平井 修一
世の中は円周率のように永遠に割り切れないもので、曖昧にしておいた ほうがいい場合もあるのだろう。戦後、日韓条約を結んだとき、竹島の 領有問題にこだわれば条約締結が暗礁に乗り上げてしまうので、決着を つけずに封印してしまった。
「小異を捨てて大同につく」と言うが、国交を正常化するという「大同」のために、竹島(対中では尖閣諸島)という「小異」を棚上げせざるを得なかったのだが、何年、何十年たつと、この「小異」が「大異」となるのだから、外交というのは実に難しい。「大同」のツケが回ってきた。
領土という国家の根源にかかわる問題を棚上げしてまで国交正常化を急 ぐ必要があったのか。相手の譲歩を引き出すべきだったのではないか。 今、小生はそう思うが、多分これは歴史の後出しジャンケン的解釈だろ う。当時の為政者にとって、韓国(中国)との国交正常化は日本の将来の国益、プレゼンスのために必要で、それは領土問題を封印してもなすべき課題だったろう。
政財官の秀才がそう判断し、圧倒的多数の国民もそれを支持したのであ る。今や韓国(中国)とは概ね友好関係にあり、経済パートナーになっ ているのだから、当時のその判断は正しかった、あるいは間違いではな かったというべきである。この「領土問題の封印」について、財団法人日韓文化交流基金・日韓歴史共同研究委員会の論文「補論 日韓基本関係条約をめぐる論議」(塚本孝著)にはこうある。
<基本関係条約(及び諸協定)をめぐって、日韓両国では国交正常化交 渉以来のもろもろの懸案をめぐりさまざまな論議が行われたが、主要な 論点につき政府が広報資料や国会論議を通じて国民に示した説明は、日 韓両国においてまったく矛盾したものであった。
大韓民国政府の性格や旧条約の効力については、両国政府の見解が実質 的に相違し、いわば同床異夢の状態で条約が締結された(本稿では取り 上げなかったが、漁業協定と李ラインの関係、紛争解決交換公文と竹島 の関係についても同様の問題がある)。
条約とは国家間の文書による合意であるが、ここで合意されたことは、 争点に対する結論ではなく、国交を正常化するという点であった。すな わち、(略)両国を巡る政治、経済、国際情勢の中で国交正常化すると いう大目的のために条約を締結し、国会の承認を得るために各々国内向 けの説明をしたのである。>
「大目的のためには細部に目をつぶることもある」のが政治なのだろう。ちなみにこの論文は韓国外交通商省のサイトにも転載されている。
ここでいう李ラインとは「李承晩ライン」のことで、占領下にある日本 が身動きできぬのをいいことに韓国の李承晩大統領が勝手に領海宣言を し、武力で占拠したのだ。
「条約によって得られなかったことを一方的行為で実現しようとしたと 評せざるを得ない」と塚本氏は記している。卑怯である。儒教の国とし て恥ずかしくないのか。今、韓国は「対馬も韓国領だ」と騒ぎ始めている。元と朝鮮は1274年と1281年に日本に侵攻したが、対馬は多くの島民が虐殺された。この時の怒りが主に対馬島民による倭寇の凶暴化となり、朝鮮と支那を震え上がらせたことを韓国人は思い出すべきである。
それを遡る660年、唐と新羅に攻められて逃げてきた百済の人々を日本は 保護したのみならず、再興のために軍船を整えて唐・新羅連合軍と激突 した。武運拙く負けたものの、日本は2000人もの亡命者を受け入れて手 厚く保護したのだ。恩を忘れてはいけない。
それから1300年、1960年代の日韓国交正常化で日本は多額の税金を韓国 に投入した。最貧国のひとつだった韓国はガソリンを注入されて急成長 した。60万人の在日は特別永住権を得て安心して暮らしている。誰のお 陰か。
日本人は温和しいが、ある日「堪忍袋の緒が切れた」と一気に怒りを爆 発し、怒濤の進撃をしかねないから、韓国人は自制とか遠慮とかを少し は学んだほうがいいだろう。
<竹島関係参考資料>
塚本孝氏は国立国会図書館参事を務めていたが、氏の「戦後における竹 島問題 サン・フランシスコ平和条約における竹島の取り扱い 平成17 年9月27日 研究会メモ」は、竹島の領有について貴重な資料を 提供してくれる。以下、長いが引用する。
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3.サン・フランシスコ平和条約の起草過程
米国国務省の担当者が1947年3月から1949年12月まで数次にわたり草案 (内部検討用の試案)を作成した。この時期の草案は、日本に残す島の 名称を列挙し、付属地図で日本の領土的範囲を示す方式を採っていた。
・・・1949年11月までの米国国務省草案では、竹島は、朝鮮放棄条項に 掲げられていた。1949年11月草案について意見を求められたシーボルド 駐日米政治顧問代理は、竹島に対する日本の領土主張は古く正当である と思われるとして再考を勧告した。これを受けて1949年12月の草案では、竹島が日本が保持する領域に加えられ、朝鮮放棄条項からは削られた。
1950年春以降、ダレス(John Foster Dulles)国務長官顧問が各国との調 整など実質的な起草者としての役割を担うことになる。ダレスは、それ 以前の国務省草案よりも簡潔な草案を作成し、日本に残す島の名前を列 挙したり地図で日本の領域を示す方式を取りやめた。
この結果竹島の名称も草案から消えたが、竹島を日本が保持する主旨に 変わりはなかった(例えば、いわゆる対日講和七原則に関する1950年9 月11日付けオーストラリア政府の質問について米国国務省の担当官が作 成した回答の中で、竹島の日本保持が明言されている)。
米国としての正式な草案は1951年3月23日付けで作成され、各国に示さ れた。同草案の朝鮮放棄条項は、単に「日本は、朝鮮、台湾及び澎湖諸 島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」と規定していた。
他方、英国は、独自に対日平和条約草案を作成していた。1951年4月7 日付け英国草案は、かつての米国国務省草案のように経度緯度による記 述と地図上での日本を囲繞する線により日本の領土的範囲を規定してい た。竹島は、その線の外に置かれていた。
1951年5月ワシントンで米英の協議が行われ、日本の範囲を特定する英 国草案の方式は採用されないことになった。英国は朝鮮放棄条項に済州 島、巨文島、鬱陵島の名称を加えることを主張し、米国は受け入れた (英国草案では竹島を日本の範囲から除外していたが、この協議の記録 では英国は済州島、巨文島、鬱陵島にしか言及していない。英国は SCAPIN677を踏襲して竹島を除外 していたものの、そのことに固執しな かったと考えられる)。
1951年6月にロンドンで再度米英の協議が行われ、その結果1951年6月 14日付けで改訂米英草案が成立した。同草案の朝鮮放棄条項は、「日本 国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に 対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」となり、この条文 が最終的に1951年9月8日の日本国との平和条約(サン・フランシスコ 平和条約)第2条となった。以上要するに、サン・フランシスコ平和条約上、竹島を日本が保持することが確定した。
4.韓国の竹島領土要求と米国による拒否
1951年6月の改訂米英草案について韓国政府は、1951年7月19日付けで、竹島を韓国領土とする修正を要求した。ダレス国務長官顧問は、当日修正要求の文書を持参した梁祐燦韓国大使に、独島と波浪島の位置について尋ね、韓豹 一等書記 官が、これらは日本海にある小島であり、だいたい鬱陵島の近くだと思うと答えた。
改訂米英草案:「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及 び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」
韓国の修正案:「日本国は、朝鮮の独立を承認して、朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、独島及び波浪島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を、1945年8月9日に放棄したことを確認する。」
この修正要求に対して、米国政府は、1951年8月10日付け文書で回答し、1945年8月9日の日本によるポツダム宣言受諾が同宣言で取り扱われた地域に対する日本の正式ないし最終的な主権放棄を構成するという理論を条約がとるべきだとは思わない、独島又は竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年ころから日本の島根県隠岐支庁の管轄下にある、この島は、かつて朝鮮によって領土主張がなされたとは思われない、として修正要求を拒否した。
7月19日の会談の席上、独島と波浪島の位置を聞かれたとき、大使は答 えず、一等書記官が波浪島(東シナ海にある暗礁とされる)を含め鬱陵 島の近くだろうと自信なく答えている。
また、8月3日付けの米国国務省のメモには、独島と波浪島を韓国大使 館に照会したところ、独島は鬱陵島又は竹島の近くであろう、波浪島も そうかもしれないとのことであったとある。
韓国政府としては、いかにも準備不足であった。しかし、歴史に「if」はない。行われたことは行われたことである。前記3の経過からだけでなく、以上のことからも、サン・フランシスコ平和条約上、竹島を日本が保持することが確定したのである。
竹島領有権紛争が日韓間で顕在化するのは、韓国が1952年1月李承晩ラ インを設定し、竹島を同ライン内に取り込んだことによるが、条約によって得られなかったことを一方的行為で実現しようとしたと評せざるを得ない。