よみがえれ美しい日本
ようちゃん、おすすめ記事。↓
◎塚本三郎の「今を斬る」 激変する世界。どうする日本
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敗戦後の日本は、不運と共に、幸運も待ち受けていた。
米国とソ連が第二次大戦の戦勝国となったにもかかわらず、ソ連が、たちまち米国に敵対した。それを冷戦時代と呼んだ。ソ連は、欧州に於けるドイツの敵国ではあったが、日本の敵国ではなかった。にもかかわらずヤルタ協定を理由に日本に侵略した。
・ソ連の裏切りと日本
ソ連が日本との条約を無視した。即ち日ソ中立条約は、一九四六年までと確たる期日を明記しているのに、四五年八月、日本の降服を期に、これ幸いと火事場泥棒となり満州に侵略し,北方領土のすべてを強奪した。米、英の誘いによる、それがヤルタ会談である。領土拡張の野心に燃えるソ連は、第二次大戦の覇者、米国の世界支配の野心に、大きく立ちはだかった。米、ソ対立の狭間に位した日本の地位は、米国にとっては、共産主義の拡大、伸張を防ぐ防波堤として、幸い、日本を護り育てなければならなくなった。米、ソの対立は、軍拡競争となり地上に於ける権力の拡大が、やがて宇宙を制するものが世界を制すると、ミサイル競争から、大陸間弾道弾の覇権競争となった。ソ連は、米国の財力及び科学技術のせり合いに敗れ、遂に二国間の権威から脱落した。世界各国は、米、ソ冷戦の終焉と悦び、共産主義は、やがて地上から姿を消すかと、いっとき大きな期待と安らぎを抱かせた。
・米国の悲劇二つ
九・一一事件。米国の心臓部ニューヨークに於ける、あの自爆テロと、同時にワシントンの米国防総省への自爆テロは、全世界の防備の頂点に立つ米軍にとっては、想像を絶する事件であった。当時、ニューヨークのすべてのビルに、星条旗が掲げられた。米国人の自尊心への直撃であったであろうと、米国旗をみたすべての人は、米軍のテロ撲滅の決意と受け止めた。そのテロの震源地の一つとして、イラクのサダム・フセインが標的とされたようだ。首都バグダットへの見事な攻撃と、占領までは、米国の計画は予定通りに運ばれた。その後の「治安の迷走」は、戦争終結の困難の見本ではないか。北米大陸が、人類にとって最も理想の天地とあこがれて、この国に移住する各国の人民は、年々膨大な数に上り、それ等の人達の住宅事情は、米国政府にとっては最大の課題となっている。しかも、移住者の大半は、生活的に充分の能力を持たない人達であるとすれば、米政府の住宅対策の困窮は想像を超える。それがサブプライムローンとして表われた。金融証券の王国と自負する米国の金融当局が、得意の証券化の世界を拡大し、それが金融工学の粋と自負し、危機を乗り越えるやにみえたが、逆に泥沼に足を踏み入れ、その地獄から未だ抜け出ていない。「武力に酔って」躓き、「証券化に驕って」米国経済は狂乱の淵に迷い込みつつある。米国の、民主主義と云う名の政治覇者と、国際通貨と云う名のドルの支配が、近年米国自身の命取りとなりつつある。
・中国経済の台頭とその毒
世界に於ける金融支配の甘味を悟った米国は、地道な経済体制を軽視し、金融とサービス業を重点とすることによって、繁栄を謳歌して来たが、結果として、国家の経済的実力は衰退せざるを得ない破目に陥っている。その逆を行ったのが中国である。日本や、米国が、人件費の高騰に苦しみ、その対策として中国に工場を移転し、軽作業、とりわけ衣料縫製の大半を此の地に持ち込んだ。中国は、既に衣料から木工製品へ、更に金属製品に至るまで世界の加工工場として、年と共に実績を積み重ねた。その経験に立って自家製品の製造に踏み切り、徐々にその範囲を拡大して、日、米、欧に匹敵する製品を、しかも他国の価格の何分の一かの低価格で製造し、販売する勢いである。
中国保有の外貨ドルは、一兆五千億ドルに達している。しかも、米国の市場に溢れるメイド・イン・チャイナの製品は、米国の市場の脅威となり、労働者の職さえ奪う程になりつつある。かつての米国政権は、日本に対して、貿易のアンバランスを叫んで、制限措置を強要したが、今日の米国ではその声は小さい。理由は、安価な日常品を求める米国民の期待に背くことはむずかしい。加えて輸出で得たドルで、米国の国債を買い入れ、充分に保有しており、米国債を対米交渉のかけひきに利用している。米政府は、中国の保有するドルや、米国債を、市場に投げ出されれば、政権そのものが揺らぎかねないから、対中国への発言を控え目にしていることが気にかかる。ことは米対中国の二国間に止まらない。中国の行って来た無軌道で不道徳な経済活動は、製品のコピー化、盗作、等、製品が高度化することによって、世界の犯罪国化しつつある。とりわけ、加工食品について、有害、有毒物の使用が限度を超え、拡大させつつある。その被害は、ひとり自国内に止まらず、アジア各国にも毒物の害が波及している。
・日本は革命的な対応を
ソ連の後退、米国の衰退、逆に中国の台頭。この重大な国際情勢の変化は、日本に極めて大きな影響を与えつつある。そもそも、日本の敗戦後の再出発は、米国の一極支配を前提として、憲法をはじめ、あらゆる政治、経済体制が組み立てられて今日に至った。その土台が崩壊しつつあるのに、日本自身に変化はないからと、周囲の変化を無視し続けることは許されない。かつての米国は、ソ連とは、相対してもバランスを保つ政治体制が整っていたとみる。米国と今日の中国では、バランスどころか、政治の世界も、経済の世界も、何一つとしてルールを語り合い、譲り合えない間柄である。
米国が、今日では大きく発言を控えつつあることは、日本にとっては、考え方を「革命的に変える必要」がある。中国はその持てる力をどう利用するのか、中国は国家としての一貫した「経済体制」も「政治統括」も実績が無いから、我々にとって判断の材料がない。ただ言い得ることは、彼等は政権維持の為には、自国民に対してさえ暴虐の限りを尽くすことを辞さない。毛沢東の文化大革命や、天安門事件がそれを物語っている。政権維持に役立たなければ、自国民を見殺しに放置しても意に介さない歴史をもつ。米国は、中国の横暴を警戒しながらも、時の流れに委せているやにみえる。逆に、ロシアが同じ共産主義の祖国であっても、独裁の両雄並び立たずで、米国に代って、ロシアが、中国への反発を隠さなくなった。法治国家にあらざる中国政権が、北京オリンピック後、如何なる変化を来し、政治を指向するのかは、大いなる注目と、重大なる対応を考慮しなければならない。外交交渉は、相手に対して、対等の構えと対等の防備がなければ、対等の交渉が不可能であることを、我々は近隣諸国の傲慢を見せ付けられて悟らされた。
・日本が総てを決める
中国にとって、日本を隷属させるためには、「歴史攻撃」ほど有効な武器はない。歪められた「嘘の歴史」以外に、日本を攻撃する手段はないと、承知しているからだ。中国を尊大ぶらせたのは、日本に大半の責任がある。日本の政治家が過去の歴史を調べる努力を怠り、国内の権力闘争に明け暮れているからだ。
ロシアや米国では、既に戦時中の「対日謀略の数々」が情報公開によって、その真実が暴露されている。従って嘘の歴史を論破することが、被害国日本の当然の道である。新しく発表された真実を政界はなぜ取り上げないのか。公表された幾つかのうち、例えば、(ユン・チアン、ジョン・ハリディ著『「マオ」誰も知らなかった毛沢東』)によって質問すべきではないか。——人道を無視する国々に対しては、人道的、紳士的話し合いなど、不可能だと決めてかかるべきだ。それをしないのは無知というべきであろう。
「歴史認識」も「領土問題」も「拉致事件」も「従軍慰安婦」も「南京事件」も「毒餃子事件」も、何一つ解決出来ていない。否、中国の嘘の主張に対し、解決の為の論及さえ避けてきたのは、不作為の重罪と言うべきで、真実を述べての対立ならば止むを得ない。 その意味で日本には、日米同盟と呼ぶ最強のパートナーが控えている。その同盟国を袖にして、共産主義に媚を売っていることは、正気の沙汰ではなく、憤りさえ覚える。
なぜ「集団的自衛権」を否定するのか。なぜ「非核三原則」を固持しているのか。それとも近隣諸国に脅されたのか、或いは頼まれたのか。これは皮肉ではない。そうとしか思われないから云う。もう周辺国の魂胆はわかって来たから、右二項目だけは直ちに改めよ。今日の福田政権は、余りにも無責任であり、卑怯に見える。与党も野党も、今何をすべきかは既に語りつくされている。日本が第二の敗戦と自嘲していることを悔しく思っているのは、ひとり為政者のみではない。国民は、心底、日本の政界が異常であることを憂いている。まず「日米同盟の真の絆」を確かめて再出発しよう。
今日の社会で最も多く売れている本の一つに、「品格」と題した書がある。日本人の行動の本質が求められるからである。失われつつある品格への期待かもしれない。八月八日には北京でオリンピックが開催される。スポーツは、人間の能力の限界を示す闘いでもある。勝負に全力を尽すことは言うまでもない。
日本人の代表に期待したいのは、闘いに至るまでの態度、そして勝敗が決まったときの態度である。競技は、世界を相手とする日本人の、「品格」を示す絶好の舞台でもある。日本の国技である、柔道、剣道、相撲は、礼に始まり礼に終る。それが闘いの真髄である。だから国技である。ゆえに審判は日本語でする。否、選手もまた日本語を心得ている。
先日終った大相撲名古屋場所は、白鵬が全勝優勝で千秋楽を飾った。記者会見で、さわやかに日本語で語ってくれた。三役以上の力士は、半数が外国人勢となった。それでも違和感がないのは、彼等の魂が、日本人として、日本語で生活しているからではなかろうか。
以上の主張は、普通の独立国の当然の主張である。それが、今日の日本の政治の世界のみは「革命的」に聞こえることに気付くべきだ。
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◎松島悠佐の軍事のはなし(70)「防衛省改革会議報告書について」
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防衛省・自衛隊では昨年来事故や不祥事が相次いだために、抜本的な組織改革が検討され、昨年秋に官邸に設けられた「防衛省改革会議」が十数次の検討を重ね、7月15日に報告書をまとめ総理に提出しました。
「不祥事の分析と改革の方向性」と題するその報告書は、隊員の意識改革や防衛省の組織改革、さらには総理官邸の司令塔機能の強化など、広範にわたって改善すべき点が書かれています。
報告書に書かれている内容は、至極当然のことであり正しいことなのですが、「言わずもがなのこと」が多く、自衛隊の中身をほとんど知らない人たちが作文し、組織改編に無理やりこじつけた提言のような感じがします。報告書には「隊員の意識と組織文化の改革」として、次の3点をあげています。
(1)規則遵守の徹底
(2)プロフェッショナリズムの確立
(3)全体最適を目指した任務優先型の業務運営の確立
そしてその根底には、次のような隊員の現状認識があるようです。
・最高幹部が規則違反を行い現場部隊では初歩的なルールさえ守られていない
・現代社会における自衛官として責任ある意識を欠いた隊員の行動がある
・高度な秘密保持についての明確な心構えの欠如も見られた
しかし、これが本当に今の自衛隊の組織的な問題なのだろうかとの疑問が禁じえません。不祥事を起こした隊員の中には確かにそのような傾向がみられるかもしれません。そのような規律の緩みや教育の不備は速やかに是正し、再発防止を徹底しなければなりませんが、報告書にも書かれているように、「圧倒的に多数の隊員が真面目に任務を遂行していることは確かであり」、組織的な欠陥から生まれたものとは言い難く、一部の隊員の不始末であり、組織を抜本的に見直さなければならないようなものではないように思います。
ところがこの検討の最初から、総理大臣も防衛大臣も組織改革の必要性を訴え、福田総理は「一連の事故や不祥事は、組織に欠陥があるのではないか、十分な反省の上に立って、国民から本当に信頼されるような体制を作る提案をして欲しい」と述べており、石破防衛大臣も、「防衛省は極めて使いづらい組織であり、どこで誰が何を決めているかよく分からない」と、組織への不信感を表明し、抜本的な改革を示唆しました。
報告書には、「最近起きたさまざまな不祥事を詳細に分析検討した結果、抜本的改革が必要であるとの認識に達した」と書かれていますが、私は自分自身の体験から、この種の事案は、規律の乱れや教育の不徹底、あるいは規則や制度の不備が原因であり、組織の問題ではない様に思います。
ここで分析検討した不祥事とは、次のようなことです。
・油量取り違え事案(平成15年2月、インド洋での米補給艦への給油量の取り違えの問題)
・「あさゆき事案」(平成18 年2 月、海上自衛隊護衛艦「あさゆき」乗組員が、自宅の私有パソコンでファイル共有ソフトを使用し、秘密情報がインターネット上に流出)
・「イージス事案」(平成19 年3 月、海上自衛隊護衛艦「しらね」乗組員の自宅から、秘密の疑いのある情報を記録した私有の外付けハードディスクが発見され、海上自衛隊警務隊と
・守屋前事務次官の公務員倫理規定違反と収賄容疑による逮捕事件
・山田洋行等による過大請求(平成19年11月、!)山田洋行が、防衛省が納入した輸入装備品2件の契約について、過大請求を行っていたことが判明)
・イージス艦衝突事故(平成20年2月1 9 日、海自護衛艦「あたご」と漁船「清徳丸」が野島崎沖合で衝突)
例えば前事務次官の不祥事など守屋氏個人の資質によるものであり、組織が悪いと言う訳ではないでしょう。組織の問題というよりも、むしろ4年もの間次官に補職した人事管理や指導監督すべき立場にあった防衛大臣の管理能力にこそ問題があったのではないかと思います。また、2月に起きたイージス艦衝突事故の際の対応の不手際も、防衛大臣はじめ主要な幹部数人の指揮能力の不手際が原因であり、組織の所為ではない様に思います。
自衛隊が今、組織として活動している実態は、国際貢献活動・国内の災害派遣など、どれを見ても国家・国民の負託に応える活動を的確に実施しており、国内でも海外でも使命感を持った自衛隊の行動は高く評価されています。それが自衛隊の組織として行動能力の実態です。今回の防衛省組織改革の背景には、大臣をはじめ一部の者の不手際を組織の所為にして、組織改革に無理やりこじつけている不自然さが見えます。
例えば、油量取り違え事案で正しい情報が上がらなかった事象や、イージス艦衝突事故で大臣への報告が遅れたといわれているような事象など、文民統制を乱すような問題でもないのですが、それを文民統制が守られていない大きな問題と取り上げ抜本的な施策を考えることなど、無理やりにこじつけたものに過ぎません。
政治が軍事に優先するという本来の意味合いの文民統制は、わが国ではすでに徹底しています。それは国際貢献活動や災害派遣活動、あるいは最近の多岐にわたる任務の遂行等どの事象を見ても明確です。文民統制の問題は、大臣への報告が少し遅かったというような瑣末な事象の話ではありません。
「隊員の意識と組織文化の改革」として掲げた、「規則遵守の徹底、プロフェッショナリズムの確立、全体最適を目指した任務優先型の業務運営の確立」に書かれていることこそ、創隊以来自衛隊が隊員の教育、部隊の充実強化のために、目標に掲げ、実行してきたことであり、ここに書かれた内容のほとんどのことは、自衛隊の精神教育の資料に書かれています。
このことは、国防に対する国家基盤と国民意識が十分できていない中で、自衛隊自ら、その実現に努力してきたことです。今更「防衛省改革会議」がお題目として掲げることでもないだろうし、「今更、言わずもがなのこと」のような感じがします。と同時に、今まで国家の防衛にさほど関心もなく、汗をかき、体を張った経験もない人たちが、机上で検討し作文したものを、改革の書として提示することなど、この半世紀の間汗を流し、命がけで任務を遂行してきた自衛隊員に失礼な感じこそします。
例えば、「規則遵守の徹底」など、「圧倒的多数の自衛隊員にとって、今更言うまでもないことだろう」と報告書にも書いてあるとおり、一部のものを除いて自衛隊の中ではすでに出来上がっています。また、「プロフェッショナリズムの確立」についても、「任務に対する知識と技能を向上させ、高次の倫理観・使命感・責任感を持って仕事に当たらなければならない」と書かれていますが、正にこのことこそ自衛隊が精神教育・実技訓練の主眼にしてきたことです。
それがまだ十分浸透した状態でないことは確かでしょう。隊員の教育、部隊の育成というものはさほど簡単なものではありません。未成熟な若者を受け入れ、国家観・使命感を育成し、国家・国民のためになる自衛隊を育成することは、お題目を並べただけで容易にできることではありません。このことは、諸外国でも、旧軍の時代でも、軍隊教育の終生の課題であり、自衛隊も半世紀にわたってこの課題に取り組んできました。
報告書では、「改革をより確実にかつ効果的に実行するためには、どうしても組織面での改革が必要であるとの認識に達した」として、文民統制の側である「総理大臣の下における官邸の体制も整備していかなければならない」としている点は評価できます。
だが、もし本当に防衛省・自衛隊の抜本的に組織改革を考えるのであれば、まず最初にその基盤をしっかりと固めるのが先決ではないかと思います。組織を一つの建物に例えれば、自衛隊という建物の基盤はきわめて不安定な状態になっているからです。
わが国の法整備の基本的な考え方は、まず憲法に国家戦略・国家運営の基本を定め、それを受けて基本的事項を定めた基本法を作り、その上に個別の法律を整備するのが通常ですが、わが国では、憲法に国家防衛に関する定めはなく、従って基本法も作られず、当面の国内外情勢に引きずられ、必要性に迫られて防衛庁設置法・自衛隊法のいわゆる防衛二法が個別法として作られ、自衛隊を設置し運用することになりました。
憲法には国防の基本となる「国家としての自衛権の保有、国防軍の保持、国家防衛のための国民の義務」などを明示すべきであり、それを受けて基本法を制定し、「国連の支持、日米安保の堅持」などの「国防の基本方針」を明確に定めるべきでしょう。
ところがわが国では、「自衛権の存在」を政府見解で示し、「国防の基本方針」は閣議決定事項として処置されています。憲法や基本法に定めるべき、国家防衛の基本的なことが閣議決定や政府統一見解で示され、その上で自衛隊が運用されるという極めて歪んだ、且つ不安定な形になっています。憲法に戦争放棄を謳いながら、警察予備隊を設置し、保安隊・自衛隊へと変革させてきたところに問題の原点がありますが、結局戦力なき自衛隊と揶揄され、軍隊なのか軍隊ではないのか、曖昧なままの状態が半世紀も続いているのは異常な姿です。
自衛隊にとって今一番の問題は、憲法改正・有事法制・軍刑法・秘密保護法など、その存立の基本を正し、「軍隊らしきもの」から「軍隊」に脱皮させることではないでしょうか。この曖昧らしさを正すことこそ、文民統制の立場に立つ政治家、なかんずく総理大臣・防衛大臣の役目だと思います。自衛隊が出来てからの半世紀の間、こと防衛問題に関しては、とにかく基本問題には触れず、とりあえず出来ることだけをやって、当面の事態に何とか対応し、憲法の制約をくぐり抜けながら辻褄を合わせてきました。
自衛隊は、防衛大臣が言うほど「信頼できない組織」ではありません。むしろ、わが国の国防基盤が脆弱なことが問題です。そこを直さなければ、防衛省・自衛隊の組織をいかに抜本的に直しても、国防の基本は直らないと思います。これまでにも何度か基本を見直す機会はありました。例えば、91年の湾岸戦争への自衛隊派遣の検討とその後の掃海艇の派遣、01年の9・11テロ後のテロ特措法の検討、03年のイラク復興支援への派遣などです。だが結局、当面の処置だけに終わってしまいました。
今回もわが国の防衛体制の基本には触れずに、「できる事だけをする」といういつもの姿勢に終わっています。これでは国防組織の抜本的な改革など出来ません。(2008・7・31記)