田中宇の国際ニュース解説2 | 日本のお姉さん

田中宇の国際ニュース解説2

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▼軍産英複合体に世界戦略を牛耳られた米
当時の米は、世界に対する覇権(世界運営権)を、第二次大戦を機に英から引き継いだ後、間もなかった。米は第一次大戦時、英がドイツに負けそうになるまで参戦せず、英が独に負けるかもしれないとなった時点で、英がそれまで持っていた覇権を自由化する(事実上、英の覇権を米が引き継ぐ)ことを条件に、参戦を決めた。参戦前に米が発表した「ウィルソン大統領の14カ条」(植民地の独立、外交の公開化、国際連盟の設立など)が、覇権を引き継いだ後の米の方針を表していた。(覇権とは、18世紀の産業革命後、交通の発達によって世界が一体的な政治システムになった後、最強だった英が、外交・諜報・軍事の技能を駆使して、他国を騙したりそそのかしたり共倒れさせたりしつつ、英にとって好都合な政治システムを維持した能力のこと。19世紀後半、工業化の進展によって、英は衰退し、米独が台頭したが、依然として世界の政治システムは英が動かし続け、世界経済の発展より英の国力維持が重視されて、英覇権のマイナス面が拡大していた。米は、国際連盟などの新組織を作り、英が隠然と独占していた覇権の自由化・機関化を実現しようとした)

しかし、米の参戦で独は休戦に応じ、ベルサイユ講和会議が開かれて国際連盟の設立も決まったが、そこでのルール作りは、外交経験が長く狡猾な英に牛耳られ、米の思うようにならず、米は国際連盟に参加しなかった。英の裏切りに立腹した米側は第一次大戦後、欧州の政治に関与しない不干渉主義(孤立主義)をとった。1930年代からナチス政権になった独が再び領土拡張主義によって欧州大陸諸国を次々に占領していっても、米は超然と看過し続けた。そして、独が欧州大陸をすべて征服し、次は英に侵攻するという時になって、米は英からの参戦要請をようやく受けされた。その際の条件は、第一次大戦後に米を騙して英が保有し続けた世界覇権を、今度は間違いなく米に譲渡することだった。この合意の中の建前部分は、1941年の米参戦前に、米英首脳会談後の大西洋憲章として表明された。

第二次大戦後、英の覇権は米に委譲され、イランなど、英に支配されていた地域には、米が入ってきた。米は1856年からイランと国交があったが、初めて大使級の代表をテヘランに常駐させたのは1944年で、その後1948年にかけてテヘランの米大使館の要員が急増した。英の支配は、イランで石油を掘って英に持ち帰ることが主眼だったが、米(ニューヨークの投資家)は、イランに国民経済を作り、そこに投資して儲けることを考えていた(投資の利回りが最も高いのは、国民経済ができて工業化が進み、国民消費が拡大し続ける高度成長期である)。そのため、米はイランの政治体制を民主的に強化し、モサデクを支援して、イランが国力をつける方向に誘導しようとした。英は、主に欧州列強内部の均衡を重視し、列強が世界を分割支配する欧米中心型の「小均衡」の政治システムを作っていたが、米はそこにソ連や中国、その他の非欧米諸国を参加させる多極型の「大均衡」をめざした。米は世界中の途上国で、民主主義やナショナリズムを鼓舞しようとした。とはいえ、覇権国を引退したかに見える英は、実はしぶとかった。1947年、英は米の軍事産業やマスコミをたきつけ、ソ連に対する脅威感を煽り、冷戦の対立状態を作った。米の軍事産業は第二次大戦で大儲けしたが、戦後は受注が減って困っていた。英は、米軍事産業のために、米ソ冷戦体制の長期構想を作ってやり、米国防総省は第二次大戦で発動されていた米マスコミの有事プロパガンダのメカニズムを復活させてソ連の脅威を煽り、米議会では好戦派が活気づいて赤狩りを開始した。1950年の朝鮮戦争で冷戦はアジアにも拡大し、53年に朝鮮戦争が停戦する時には、38度線を境に米と中国が激しく対立する構図が作られていた。

米軍事産業と国防総省、好戦派の政界、マスコミなどが、準戦時体制の冷戦を延々と続けるために結託し、隠然と米政府を牛耳っている状態を「軍産複合体」と初めて呼んだのは、1961年に任期満了の辞任演説をしたアイゼンハワーだったが、軍産複合体によって最初に引っかけられた大統領は、アイゼンハワー自身である。就任2週間後に、英側と協議してモサデク転覆を決めたのは彼だった。軍産複合体の後ろには、冷戦構想のアイデアやノウハウを供給した英(米各界に入り込んでいる英諜報機関MI6)がいると考えられるので「軍産英複合体」(70年代以降は、イスラエルも参加したので「軍産英イスラエル複合体」)と呼ぶべきである。軍産英複合体は、米の外交戦略を、軍事偏重に動かすと同時に、英の国益に合う形に動かした。イランでは、モサデクが転覆させられ、英傀儡のシャーが復権した。米が世界中で軍事費を使い続ける状態にするには、世界中の人々が反米感情を持ち、常に米の覇権に挑戦してくる状況の方が良い。そのため、米を牛耳る軍産英複合体は、世界中で人々に嫌われる内政干渉を意図的に繰り返した。早期のケースとしては、1945年に米軍が韓国に軍政を敷いたとき、韓国人が結成した政治組織をすべて解散させたことがある。政党禁止の表向きの理由は、左翼が多かったからだったが、民主的な政治活動を許されると思っていた韓国人は激怒し、むしろ反米左翼の傾向を強め、1950年に北の金日成が南侵してくる原因を作った。現在まで60年間、韓国人は反米であり続け、米軍は韓国に駐留し続けている。軍産英複合体が反米感情の育成に特に努めた地域の一つは、中南米である。中南米が親米的な地域になると、米と中南米諸国との経済・政治の関係性が強まり、米はユーラシア大陸に関与しなくても、南北米州の中だけで十分に発展できるようになり、英が目論む「米を牛耳って英好みの世界支配を続けさせる」という長期戦略が破綻してしまう。中南米で、反米ゲリラが活躍して米軍が延々と介入せざるを得ず、経済も悪い状態が続く限り、米は南北米州だけを重視することはできず、ユーラシアに関与し続ける。

▼イラン軍に革命を容認させた米
話をイランに戻す。モサデク転覆後、イランではシャーの政権が続き、米は4万人もの軍事顧問団をイランに駐留させ、イラン政府の外交・軍事・内政のあらゆる部門に米顧問がいる傀儡状態が続いた。この状態は、1979年のイスラム革命によって、劇的に終わった。テヘランの米大使館は1年間、革命派学生らによって、米職員が人質にとられた状態で占拠され、その後の米イラン間は、現在まで国交断絶している。
イスラム革命は、イラン国内の反米感情が高まってシャーが追放され、代わりに反米イスラム主義のホメイニが亡命先から凱旋して実現したと、一般には語られている。だが、当時の状況を詳細に見ると、シャーを追い出してホメイニに権力を与える画策をした張本人は、アメリカ(軍産英複合体)だったのではないかと思えてくる。一つのポイントは、ホメイニが亡命先のパリから、仏当局などに全く阻止されずに、テヘランに凱旋したことである。ホメイニがテヘランに帰国する直前の79年1月末、米政府のイラン駐留要員高官の一人だったラムジー・クラーク(民主党・左翼)が、パリに行ってホメイニと会談し、米政府の意志をホメイニに伝え、その後記者団に「今後、イランの革命が成功し、人々に社会正義をもたらしてくれるだろう」と述べている。

クラークは左翼なので、シャー政権を倒す革命を「正義」と評価した。ここで重要なことは、米政府はイランでシャー打倒の革命が起ころうとしていることを知りながら、防がなかったということである。シャー自身、米に亡命した後、自分を追放してホメイニを政権につけたのはCIAの戦略だったと述べている。イスラム革命の背後に米がいたと思えるもう一つのポイントは、革命の直前、在欧米軍のホイザー司令官(Robert Huyser)がテヘランにやってきて、イラン軍の上層部に、革命が起きてもイラン軍は中立の姿勢を貫くように、要請して回ったことである。シャーは回顧録の中で、それまで何度もテヘランに来るたびに、まず自分のところに挨拶に来るホイザーが、革命直前の訪問時には自分に全く連絡せずにテヘランに来て隠密行動したのでおかしいと感じた、と書いている。イラン共産党からの情報で書かれたと思われる当時のソ連のプラウダの記事は、ホイザーはクーデターを起こすためにイランに来た、と報じた。ホイザーは、シャーが亡命してホメイニが帰国し、その間イラン軍は中立を維持し、やがてホメイニを支持するのを確かめるまで、イランに滞在していた。革命が起きると、駐イラン米大使館は、イラン軍に対して不介入を呼びかけた。革命によってホメイニ新政権が樹立された翌日には、米政府は新政権を承認した。ホメイニ側も、対米関係を悪化させることはしないと表明した。
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▼人質事件でホメイニを反米化
当時の事情をよく知る人々の中からは「シャーが米に亡命した時には、すでに米当局とイランのイスラム聖職者勢力との間で、新政権に関する話し合いができていた」「イラン革命政府は、米が革命を支援していたことを隠している」との指摘が出ている。革命前、シャーはイスラム聖職者集団に接近し、対立回避策を試みたが、同時期には米当局も聖職者に接近し、非公然に革命を煽ることをやっている。ホメイニは米からの非公式な支援を受け、イスラム革命を成功させたが、革命から7カ月後、革命派の学生らがテヘランの米大使館を人質を取って占拠した後、米イラン関係は悪化し、ホメイニは米を敵視する態度をとるようになった。米大使館占拠は革命発生直後にも起き、ホメイニは一貫して革命派による米大使館占拠に強く反対していた。しかし、2度目の占拠が長引き、米議会でイラン制裁が議論され、米軍ヘリコプター部隊が秘密裏にイランに侵攻して人質救出を試みたが失敗するといった敵対行為が増す中で、ホメイニ政権は反米姿勢を強めた。米大使館の人質解放までには約1年かかったが、この間、米では大統領選挙があり、軍産複合体が推す共和党レーガンが勝った。1980年10月の選挙前には、副大統領候補だったパパブッシュがパリに行き、イランのホメイニ側近と会い、レーガン陣営が勝ったら人質を解放するとの約束を得て、人質解放に失敗し続ける現職の民主党カーターとの違いを鮮明化し、選挙戦を有利に進めた(10月サプライズ事件)。レーガンは就任後、ソ連に対する敵視を再燃させたり、巨額予算がかかるミサイル防衛計画を開始したりして米の軍事費を急増させ、軍産複合体を潤わせた(政権末期には、ゴルバチョフと対談して冷戦を終わらせるという、反軍産的な挙に出たが)。

▼イスラム主義を扇動し第2冷戦を画策
シャーは米英の傀儡だったはずなのに、なぜ米当局はシャーを追い出してイスラム主義者に政権を渡し、しかもその後、大使館占拠事件の後始末でイスラム主義者の反米感情を煽り、米自らがイランから追い出される展開を作ったのか。それを考えるヒントになりそうなことをシャーが言っている。シャーは革命前にイラクに側近を派遣し、当時ホメイニをナジャフに亡命させていたイラク政府(バース党政権)に対し、ホメイニを匿うとしっぺ返しを受けると警告した。シャー側近はイラク政府に「米は、中東諸国の政治体制をイスラム主義に転換させようとしている。CIAは今、ホメイニを使ってイランの政権転覆を狙っているが、それが成功したら、米は次はイラクで、バース党政権を転覆し、イスラム主義(シーア派)の政権に変えようとするだろう」と警告した。イラク政府はホメイニへの警戒を強め、ホメイニは78年、米当局が接触しやすいパリに移動した。イラン革命から半年後の79年7月、イラクでは副大統領だったサダム・フセインがクーデターを起こし、穏健派を追い出して大統領となり、外からの政権転覆策に対応できる独裁体制を強化した。シャーの警告は、示唆に富んでいる。米は、中東全域をイスラム主義に転換させる一環として、イランの政権をイスラム主義に転換させたことになる。

シーア派のイラン革命から9カ月後の79年11月には、サウジアラビアの聖地メッカの大モスクで、スンニ派イスラム過激派による襲撃事件が起き、サウのイスラム主義勢力が王室に対する不満を強めていることが発露された。メッカでの襲撃事件に米当局が関与しているかどうかは全く不明だが、79年以降、中東全域で反米的なイスラム主義が強まったことは確かだ。軍産複合体を中心とする米当局が、中東で反米的なイスラム主義勢力を台頭することを扇動ないし歓迎したとしたら、その理由はおそらく、イスラム世界と欧米イスラエルが長期対立する「第2冷戦」の枠組みを作りたかったからだろう。当時、東西陣営間の冷戦は終わりつつあった。70年代初期の米ニクソン政権が、金ドル交換停止によって西側陣営の経済基盤だったドル本位制を自滅させるとともに、中国訪問や米ソ対話を行って冷戦終結への方向性を作り、これは78年の米中国交正常化、89年の米ソ冷戦終結宣言へとつながった。軍産複合体には、長期的・世界的に敵対できる新たな敵勢力が必要だった。

ケネディ・ジョンソン・ニクソンの3代の政権によるベトナム戦争の自滅的な惨敗の影響で、米政界では軍産複合体に対する支持が減った。同時期には米の財政難悪化で、米から財政支援を受けていた英の財政も破綻に瀕し、英は1967年に海外(スエズ運河以東)の軍事基地を全廃するなど、支配力が激減した。このような軍産英複合体の弱体化の中で、かつて国連を作った米の拡大均衡派(多極主義勢力)が盛り返し、冷戦終結の方向に事態を動かした。苦境にあった軍産複合体を救ったのが、衰退する英の跡継ぎのように70年代から米政界に食い込み出したイスラエル(シオニスト右派)で、彼らが考えたのが、欧米イスラエルがイスラム世界と長期対立する第2冷戦(今の呼び名はテロ戦争)の構造だった。その構造を作り出すための一策が、79年のイスラム革命であり、80年代のレバノン戦争(シーア派ヒズボラの勃興)であり、90年代のオサマ・ビンラディンらによる活動だったと考えられる。ホメイニがCIAとつながっていたのと同様、ビンラディンもCIAとのつながりがたびたび指摘された。正確には「CIAのふりをしたモサド(イスラエル諜報機関)」と言うべきかもしれない。90年代には、冷戦終結に加え、英が軍産複合体を見捨てて金融面で米と結託する新戦略に転じたことにより、一時的にイスラム対欧米の第2冷戦構造の強化は止まったが、90年代後半の「文明の衝突」のキーワード発布あたりから再びイスラム対欧米の構図が取り沙汰され、911事件とともに、テロ戦争として劇的に復活した。

▼25年遅れてイラクのイスラム主義化
シャーの警告が示唆するもう一つの点は、イラクでのシーア派のイスラム主義の勃興が、イスラム革命から25年遅れて、2003年に米軍がイラクを占領した後、サドル師らの反米ゲリラとして立ち上がっていることとの関係だ。米軍は、サドルを執拗に名指し非難し続けて反米の英雄に仕立てるなど、もともとバラバラだったイラクのシーア派イスラム主義勢力を結束強化する策を講じている。同時に米軍は、監獄でのイラク人虐待の写真を意図的にマスコミに流すなど、イスラム社会の反米感情を意図的に強めた観がある。今後、米軍が撤退した後のイラクは、サドルらが権力を握るイスラム主義の国になり、同じくシーア派イスラム主義のイランと連携し、世界の石油埋蔵量の4分の1を抑える大国になるだろう。軍産複合体による第2冷戦の敵方としては、十分に強い存在といえる。そう考えると、イスラム対欧米の第2冷戦(テロ戦争)の構図が、今後何十年も続くという予測が出てくる。しかし、実際の国際政治は複雑だ。米政界の上層部は一枚岩ではない。米中枢には、軍産複合体の味方のふりをして、テロ戦争やイラク戦争をやりすぎることで、米英イスラエルの側を自滅的に弱め、同時にイスラム世界をロシアや中国などと結束させ、第2冷戦を欧米側の負けにして、世界を多極化してしまおうとする「隠れ多極主義」(拡大均衡派)の勢力が存在している。

軍産複合体と、隠れ多極主義者のどちらが最終的に勝つのか、もしくは戦後60年、彼らの間での暗闘が延々と続いてきたように、今後も決着のつかない暗闘が何十年も続くのか。米共和党(軍産複合体系)のシンクタンク「ランド研究所」は最近「テロ戦争は、もう終わりにした方が良い」「テロ防止は、軍事戦略としてではなく、犯罪捜査として行った方が良い」とする報告書(主張)を発表した。テロを戦争ではなく犯罪捜査で解決するのは、地下鉄サリン事件を犯罪捜査によって解決した日本での展開を見れば、当然の常識であると簡単にわかる。だが米では、その常識がランド研の報告書になるまでに7年を費やした。報告書が今ごろ出てきた意味は「テロ戦争に名を借りた軍産複合体の戦略は、マイナス面が大きすぎるので、もう終わりだ」ということである。

▼ブレジンスキーも隠れ多極主義者
911後、チェイニー副大統領やネオコンの中に、隠れ多極主義の勢力がいると考えられるが、ほかには、民主党オバマ候補の外交顧問になったブレジンスキーも、隠れ多極主義者と疑われる。イラン革命当時、カーター大統領の安全保障担当補佐官だったブレジンスキーは、革命後の80年7月、イラクを訪問してフセイン大統領と面会した。その2カ月後、フセインはイランに侵攻し、8年におよぶイラン・イラク戦争が展開された。イランでは革命後、シャー派や親米派が多くいた国軍幹部に対する大粛清をホメイニが挙行した。ホメイニは国軍の代わりに、革命派を集めて新たな軍として「革命防衛隊」作ったが、新軍はろくな訓練も受けておらず、イランの軍事力は劇的に弱くなった。イラクのフセインはそれを見て、長年の国境紛争の地帯を一気に分捕るには今が好機だと考え、イランに侵攻したと考えられる。そして、そこに米カーター政権を代表してゴーサインを出したのがブレジンスキーだった。イラン・イラク戦争が8年も続いたため、イランのイスラム革命がイラクに伝播してイラクにイスラム政権ができることは防がれ、中東諸国にイスラム主義が拡大することは阻止された。ブレジンスキーはフセインにイラン侵攻をそそのかすことで、イスラム対欧米の第2冷戦の状態が形成されることを防いだと言える。

ブレジンスキーは同時期に、CIAなどを動かし、79年末からソ連軍が領したアフガニスタンで、イスラム主義勢力を統合してソ連との「聖戦」を開始する戦略を進めたが、これも「反冷戦」的な動きである。米が冷戦を長期化するには、当時すでに経済難が続いていたソ連の国力を、これ以上弱めないようにする必要があったが、ブレジンスキーはイスラム主義勢力をけしかけてソ連をアフガンでゲリラ戦の泥沼に陥れ、本気でソ連潰しをやってまった。ソ連はアフガン占領で疲弊し、10年後にはアフガンから無事に撤退するために米の協力を得ることを決め、ゴルバチョフとレーガンの劇的な和解・冷戦終結となった。ブレジンスキーがオバマ候補の外交顧問になっているということは、オバマが大統領になったら、テロ戦争やイラク戦争に負ける演出が行われ、第2冷戦の構造が崩壊し、欧米中心の世界体制を多極型の拡大再均衡に転換する流れになるかもれしない。共和党のマケイン候補の外交顧問はネオコン勢であり、ネオコンも隠れ多極主義者だと疑われるから、今年11月の米大統領選挙でどちらが勝っても、来年からの米次期政権は、第2冷戦構造を壊して世界を多極型に持っていくことになりそうだ。