田中宇の国際ニュース解説 | 日本のお姉さん

田中宇の国際ニュース解説

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★イラン革命を起こしたアメリカ
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イランの現代史を見るとき、理解が困難な大事件が2つある。一つは1953年に米英がモサデク政権を失脚させた事件。二つめは、1979年のイラン革命(イスラム革命)である。1940年代までイランでは、イギリスがイラン国王(シャー)を傀儡化し、イランの石油利権のうち16%しかイラン側に渡さず、残りの84%が英石油会社(アングロ・イラニアン。今のBP)に入る仕掛けが作られていた。英は1901年にイランの石油利権を得た後、イランの王室を傀儡化した。ロシア革命後の1920年に、ソ連の赤軍がイランに侵攻し、当時の王室(カジャール朝)が抗戦しきれないと見るや、イギリスはイラン軍の有力な司令官だったレザ・ハーンにクーデターを起こさせて政権転覆し、ハーンは1925年に国王(シャー)になり、パーレビ王朝を開始した。その後、1930年代にナチス政権のドイツがイランの石油利権を狙い、イギリスより有利な条件を提示したため、シャーは親独に傾いた。1941年に第二次大戦が始まると、イギリスはソ連と組んでイランを占領し、ドイツ寄りのシャーを強制退位させ、息子のモハメド・レザ・パーレビ皇太子を王位につけた。シャーは、英のイラン統治の道具だった。

第2次大戦後、世界的にナショナリズム運動が強まる中、イランでも、イギリスから石油利権を取り戻すことが、イランの政治家たちの目標となった。だが、イギリスの支配力を背景に王位を維持していたシャーは、英と交渉して石油利権の奪還を目指すことなどできなかった。イラン政界では、議会がシャーの権力を削いで、英と再交渉する力をつけることが目標となった。この動きの主導者の一人が、1953年に米英に失脚させられることになったモハマド・モサデクだった。モサデクは、カジャール前王朝の親戚にあたる貴族だったが、政治家としてはナショナリズムと民主主義、イギリスからの完全独立を明確に主張し、国民の人気は高かった。彼は失脚後、自宅軟禁状態で60年代に死んだが、現在のイランでも彼を慕う人は多い。

▼モサデクを支援したアメリカ
モサデクは1949年に、英から石油利権の奪還をめざす政党「国民戦線」を結成し、議会で勢力を拡大したが、その背景には国民ばかりでなく、もう一つ支持勢力が存在していた。それはアメリカだった。アメリカは第2次大戦前から、アジア・アフリカの多くの国々のナショナリズムや独立運動を支援し、中東ではイランのほか、エジプトで汎アラブ・ナショナリズムを提唱するナセル大統領に対する支援も行っていた。米政府は戦時中、1941年にイランが英ソに占領され、連合国側の支配下に置かれた後、イランの国家建設に協力するようになった。1947年に米ソ冷戦が始まってからは、ソ連と隣接するイランは米にとって急に重要となった。イランの警察隊を訓練するために米政府が派遣したノーマン・シュワルツコフらは、イランの政治勢力に対するナショナリズムの鼓舞を行い、モサデクらのナショナリズム政党がイラン政界で勢力を拡大し、親ソ連の共産党の伸張を防いだ。民意とアメリカの後押しで、イランでの石油利権の奪還運動は強まった。米の石油会社アラムコは、サウジアラビアの石油利権を持っていたが、同社は1950年、サウジ側との石油利権を50対50の折半にする契約改定に同意し、サウジ側の取り分は急増した。これを見て、イラン政府は英に同様の改定を求めたが、英は拒否した。シャーもそれ以上の交渉を否定したため、イランでは暴動が起こり、シャーは1951年にモサデクを首相に任命せざるを得なくなった。モサデクは首相に就任した直後、石油産業の国有化を宣言した上で、英に再交渉を要求した。

英は交渉を拒否し、イランでの石油操業を停止した。英側は石油会社の従業員を引き揚げるとともに、イランが油田を国有化して産油しても世界に売れないよう、同盟国にイランの石油を買わないよう頼むなど、イランに対する経済制裁を発動した。だが米は、モサデクを憎悪する英と対照的に、モサデクを支持し続けた。英軍は1951年、イラン南部に侵攻して油田を軍事的に接収することを検討したが、米に反対され、あきらめた。第2次大戦後の英は、戦争で疲弊して国家破綻状態で、米の協力なしには軍事行動できない状態だった。米は、イランと英との再交渉を仲裁しようとしたが、英の強硬さゆえに失敗した。米国務省は、英の態度を批判する声明を出した。英とイランの石油紛争は国連に持ち込まれ、モサデクはニューヨークの国連本部で演説したが、この際、米政府代表はモサデクを大歓迎した。国連参加の発展途上国の多くが、旧態依然の英の支配と果敢に戦うモサデクを賞賛した。日本も対米従属だったがゆえに、英の制止を無視し、出光興産がイランから石油を買い付けた(日章丸事件)。

▼共和党政権になって米の態度が一変
米の親モサデクの態度は、1953年に米大統領が民主党のトルーマンから、共和党のアイゼンハワーに交代するとともに一転した。53年2月、就任2週間後のアイゼンハワーは、英側との会議を開き、秘密裏にモサデク政権の転覆作戦を決定した。米のCIAなどは冷戦開始後の1948年から、イランのマスコミが反共産主義のプロパガンダを報じるよう隠然と仕組むBEDAMNと呼ばれる秘密作戦を続けていたが、その標的は共産党からモサデクに替わった。モサデク政権転覆は、米ではなく英にとって非常に都合の良いことだったが、作戦は主にCIAによって展開された。イランは油田を国有化したものの、英による制裁によって産油量は激減し、石油輸出に頼っていたイラン経済は1952-53年、急速に悪化した。議会ではモサデクに経済悪化の責任を問う勢力が拡大した。米側は、議員の一人である元軍人のザヘディ(Fazlollah Zahedi)を、モサデク追放後の首相として据えることに決め、ザヘディを取り込んだ。

そして1953年8月、モサデクとシャーの対立が決定的となって、シャーはモサデク解任を発表して亡命し、モサデク派とシャー派がイラン各地で激突する中で、CIA主導のクーデターが決行され、モサデクはイラン国軍によって逮捕され、シャーは亡命から帰還し、モサデクの代わりにザヘディを首相に任命した。ザヘディは英と石油の協約を再締結したが、契約相手は以前の英BP単独ではなく、米石油会社が石油利権の4割を取り、米英の合計8社が参画するコンソーシアム型の新契約となった。英は、米がモサデク転覆に協力した見返りとして、米にイランの石油利権の4割を、報酬として支払ったことになる。米はクーデターの最中、ザヘディが不利になるとテヘラン市内のCIAの隠れ家に匿ったり、騒乱をイラン共産党のせいにするため、共産党支持者のふりをしたニセのデモ隊を結成して行進させるなど、露骨な内政干渉を行い、民主的に選出されたモサデク政権を転覆した。この事件を機に、イランにおける米のイメージは、正義の味方から悪の化身に急落し、イラン人に反米感情を植え付けた。この反米感情は、1979年のイスラム革命につながった。

▼石油利権が目的ではなかった米
米はなぜ、それまでのナショナリズム擁護の方針を一挙に捨て、人々に嫌われて当然の政権転覆作戦を露骨に展開したのだろうか。ここが、理解困難な点である。一つの考え方として、米がモサデク転覆の見返りに石油利権を得た点を重視し、アイゼンハワー政権は米の石油業界からの要求に応じて、それまでの米の親モサデクの態度を大転換して英の政権転覆作戦に協力したのだという見方がある。しかし当時の米石油産業は、イランの石油利権を特に必要としていなかった。米企業に石油利権が分配されたのは、米業界の要求の結果ではない。むしろ英から米に対する政治的配慮の結果である。モサデクはイラン共産党に接近していたので、転覆が必要だったという説明、もしくは英が米に対してイラン共産党の脅威を誇張して伝えて騙したという説明も存在するが、これらも事実と違う。当時の米CIAの主流は、モサデクは親共産党ではないし、イラン共産党には政権を狙うほどの力はないと分析していた。米は、1953年にモサデクを転覆したのを皮切りに、54年にはグアテマラの左翼政権を転覆し、73年にはチリの左翼政権を転覆した。米が、いわゆる「反共の汚い作戦」をやり出したのは、53年のイランが最初だった。米はこの手の作戦を、89年に冷戦が終わるまであちこちで展開し、冷戦後は911事件を機に、こんどは「テロ戦争」の名目で、似たような政権転覆戦略を再開している。
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