西 村 眞 悟の時事通信  「台湾の声」 | 日本のお姉さん

西 村 眞 悟の時事通信  「台湾の声」

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西 村 眞 悟の時事通信  「台湾の声」

ミャンマーについて
                 No.357 平成20年 7月18日(金)
                      西 村 眞 悟

 この度、急きょミャンマーに行きサイクロン被害の状況と復興の様子を見てきたので、やはりミャンマーのことをお伝えします。福田内閣の竹島記述の問題やその他のことで怒っていると、ミャンマーのことを述べる機会を失しますから。

1、ミャンマー概要
面積 68万平方キロ(日本の1・8倍)
人口 5737万人
人種 ビルマ族(7割)、他200近くの少数民族
宗教 小乗仏教
GDP 一人当たり230ドル
 中部は灼熱の大地、北西部は三千メートルを越す山岳地帯

2、私とミャンマーとの関わり
 民社党(平成6年12月9日解党)の公式ミャンマー訪問団として、始めてミャンマーを訪れたのが平成6年5月。
公式訪問団とは言っても、団員は、私と党本部の寺井融そして秘書の向山好一の三人だけで、費用はほぼ自腹。
この時期は、アウン・サン・スーチー女史が、ちやほやされていてミャンマーの政権は「軍事政権」であるから悪であるという思い込みが民社党内でも濃厚で、ミャンマー訪問には消極的な雰囲気だった。これが、ささやかな訪問団になった原因だ。
しかし、民社党は青年を東南アジア各地に自由に行かせて経験を積ますという研修を繰り返しており、その中で育った寺井融はビルきち(ビルマきちがいの略)になっており、彼の工夫で単なる旅行ではなく「民社党訪問団」となった。民社党は同年末に解党してしまうので、結局、これが、民社党のただ一回のミャンマー訪問団となってしまった。
 
始めてミャンマーに入国して歩き回って感じたことは、日本の報道は事実を伝えていないと言うこと。日本のマスコミは、同じ「軍事政権」でも北朝鮮は「地上の楽園」と伝えてきて非常に甘く、ミャンマーの「軍事政権」は悪の権化のように伝えていた。事実は全く逆で、ミャンマーの人々は信心深く穏和で親切、首都ヤンゴンはニューヨークやパリ、ロンドン、東京、大阪よりも安全で、浮浪者は皆無。「豊かさの中の貧困」と「貧しさの中の豊かさ」、ミャンマーは日本人が忘れたこの豊かさをたたえていた。
そして、その「軍事政権」の親分のキン・ニュン第一書記は、禁欲的な威厳があり、明治の大久保利通とはこのような雰囲気の男だったのではないかと思うほど立派な陸軍中将であった。
 対して、アウン・サン・スーチーの言っていることは、英国流・米国流の民主主義を直ちに実現させない政権はすべて悪だと言うに等しくミャンマーの現実を無視していた。事実、彼女は英国で育ち、英国人の夫と子供の家族とともに長年英国に住んでいてミャンマーを知らなかった。
私は、キン・ニュン第一書記に、スーチー女史の言っていることは空論である。自信を持ってミャンマーはミャンマーの民主化を着実に進めて欲しいと言った。
すると彼は、まずはじめに、ミャンマーの英国からの独立は、日本軍のおかげであると日本への感謝の意を表明して、
「我々四千五百万のミャンマー国民(その当時の人口)は、この大地で生まれこの大地で死ぬ。英国で育ち、英国に家を持つ人には分からない」と答えた。

私は、ミャンマーが大好きになり、また、この親日的な国との友好を深めるのが日本の国益にかなうとの思いから、以後毎年一回から二回の割でミャンマーを訪れることになった。
 ある時は、スーチー女史が、日本のポリオ生ワクチンの援助を「軍事政権を利するだけだ」と非難したので、では、果たしてそうかと、首都を遠く離れたミャンマーの田舎のポリオ生ワクチン接種現場を見に行った。そこでは、多くの若いお母さんが村の学校に子供を抱えて集まっていた。楽隊が演奏して踊りも始まった。まるでお祭りのようであった。そして、お母さん達は幸せそうにニコニコ笑っていた。私には、この多くの子供達が日本の援助により小児麻痺の恐怖から解放されることが、何故「軍事政権を利するだけだ」と非難するのか、スーチーの言うことが馬鹿らしかった。そして、日本のマスコミは、何故スーチーの言うことだけを報道して、このようなすばらしい援助の場所を取材しないのかと思った。その後、平成17年の春には、多くの仲間とともにミャンマーを訪れ、日本で集まった浄財でヤンゴン郊外の村に小学校を寄付することができた。
 
キン・ニュン第一書記と最後にあったのは、平成14年の秋であった。一旦握手して別れた後、ドアから出ようとする私をキン・ニュンが「シンゴ!」と呼び止めた。振り向くと、下を向いていたキン・ニュンが私を見つめ、「今度来てくれたときには、私と一緒に我が国の国境地帯を廻ろう、楽しみにしている」と言った。その後、彼は失脚し会えなくなったので、この時の彼の様子が強く思い出される。
そして、キン・ニュン失脚後、私はミャンマーに行っても新しい政権幹部と会わなかった。キン・ニュンの今の軟禁状態にある境遇を思い、義理と人情があれば、いそいそと新しい政権幹部と会うことはないと思っていた。

3、サイクロンの襲来
5月2日から3日にかけてミャンマー南西部を襲ったサイクロンは、史上初めての大災害をもたらした。サイクロンは、今までミャンマー西部の高い山脈に遮られ、西隣のバングラデシュを襲ってもミャンマー中心部にくることはなかった。しかし、この度は秒速60メートルという超大型サイクロンが史上初めて直撃してきた。しかも、その速度は時速15キロほどと極めて低速で、ヤンゴンをはじめミャンマー中心部は長時間の暴風雨に見舞われたのである。現在死者は8万人を超え、行方不明者を加えると人的被害10数万人におよんでいる。
この報を受け、直ちに日本ミャンマー友好議員連盟(平成6年結成)の総会が招集され、外務省から我が国の救援実施状況を聴いた。
その後、中国四川省を地震が襲ったが、ミャンマーのサイクロンによる人的被害は四川省の地震を遙かに上回っている。しかし、日本のマスコミは、もっぱら四川省の地震を主眼として救援の呼びかけをした。
友好議員連盟のメンバーは、貧しいミャンマーが如何に日本に期待しているかよく分かっている。親日国ミャンマーにこそ援助の手をさしのべるべきである。そこで、通常国会が終了したのをうけて、急きょ議連としてミャンマーの被害と復興状況を実際に見に行こうと言うことになり7月8日から12日までミャンマーを訪れテイン・セイン首相以下5名の閣僚と会見し、ミャンマーの物流の中心である被害の激しいヤンゴン港を視察した。訪問団のメンバーは、議連会長の渡辺秀央参議院議員、議連幹事長の私そして松下新平参議院議員。

4、被害状況と支援要請
被災地は、南西部のイラワジ川とアンダマン海に接するミャンマー中枢部で、130万エーカーの農地が失われた。そして、1500から2000の学校が倒壊した。国の物流の80パーセントを担うヤンゴン港の機能が低下して物資の欠乏と物価上昇をもたらし、国民生活に影響が出始めている従って、主に農業復興への支援、学校建設への支援そしてヤンゴン港機能回復への支援が首相からも各大臣からも求められた。
また、サイクロン予測と災害予防の為には最新のレーダーがいるとの要望と、海水の逆流はマングローブの森によって防げるので森を育成する為の支援を要請された。現在ミャンマーにある気象レーダーは、1980年に日本の支援で設けられたが、老朽化していて的確なサイクロン予測ができなかったらしい。
農業
ミャンマーは農業国である。しかし、被災地は農耕用の水牛をほとんど流されて失ってしまった。そのために、水牛に変わってトラクターと耕耘機を強く求めている。あの灼熱の堅い大地を人力だけで耕すのは無理だ。
 また、土地改良の技術を日本から学びたいと望んでいる。
ヤンゴン港
ミャンマーの物流の80パーセントをヤンゴン港が担っていた。しかし、未だ75隻の沈没船が放置され港に大型船が入れない。しかし、ミャンマーにはサルベージ船がない。日本に港内の測量とサルベージを求めている。
学校建設村が消滅してしまったところがある。そこでは、学校も村もともに流されてしまった。従って、住民が避難できるしっかりとした建物としての学校を建設することは、村の防災上急務である。今、被災地の子供達は、テントで勉強している。潰れた学校は1500から2000という数に上る。
我が国は経済的な観点からではなく、友好と友情の印に、ミャンマーの将来を担う子供達が学び、住民が避難する場所としての学校建設に本格的な援助の手をさしのべるべきである。ミャンマーは日本人と同じ心情をもつ人々の国(おそらく唯一の国)だから、我々の友情を理解してくれる。
以上が、首相をはじめ各大臣から訪問団によせられた日本に対する支援要請の概略である。特に、農業への支援は、世界的な食糧危機をひかえたこの時期のもっとも重要な支援であろう。ミャンマーでは米の二毛作はおろか四毛作も可能だ。食料自給率40パーセント未満の日本にとって、ミャンマーの農業への支援要請を真摯に実行すべきである。文字通り、情けは人の為ならず、である。

5、「民主化要求」とは何か・・・欧米のダブルスタンダード
建国以来、ミャンマーは国内の少数民族の反政府ゲリラとの内戦が絶えず放置すれば分裂する危機が続いていた。
その原因は、イギリスの少数民族により多数派のビルマ族を支配させるという伝統的な分割統治にある。イギリスからの独立とともに、少数者は支配の特権を失うわけで、その不満が内戦に発展するのは必至である。
従って、この国家分裂の危機を克服してミャンマーを統治する政権として「軍事政権」が誕生するのは当然の帰結である。国民教育を奪われた英国による植民地支配の後で、知識のある人材を抱えた訓練された組織は軍隊しかなかったからである。
そして、軍事政権のキン・ニュン第一書記の時代に、内戦はほぼ克服される。そして、キン・ニュンは、平成15年に民主化実現に向けたロードマップを発表する。

しかし、この間、西側諸国は、ミャンマーが「軍事政権」であるが故に、援助を停止していたのだ。特にアメリカは「制裁」を実施していた。我が国も、この西側の動きに追随して独自の行動をとらず援助を停止した(但し、我が国は人道援助は実施していた)。
 この状況で特にミャンマーを苦しめ、また、腹に据えかねる思いにさせたのは、アメリカとイギリスの民主化要求と制裁だと思う。何故なら、独立後の内戦を必然的にする残酷で非民主的な植民地支配をしていたイギリスが民主化を要求する等は許されないではないか。また、アメリカの制裁はミャンマーの縫製業を中心とする国内産業に打撃を与え、失業の増加と外貨不足をもたらした。さらに、この英米に気に入られてミャンマー国民を苦しめる措置を歓迎し、日本からの人道援助も非難していたのが、イギリスで育ちイギリスに家族と家を持つスーチー女史であった。そして、ミャンマーは世界最貧国に低迷し続ける。
ところで、英米は、苦しみながらも民主化のプロセスを歩もうとするミャンマーには制裁を課し、民主化など全く考えようともしない中共や北朝鮮には民主化要求などしていない。
これを彼らのダブルスタンダードという。要するに、英米にとって、民主化要求は外交手段で相手を支配する方便に過ぎない。従って、英国や米国のミャンマーへの制裁をミャンマーは「第二植民地主義」(キン・ニュン第一書記)と受け止めた。
当然である。そしてこの中で、馬鹿を見た見本が日本であった。我が国は、英米の民主化要求を額面通りに受け取って追随し援助停止を続けたものだから、アジアのもっとも親日的な国ミャンマーを中共の懐に追いやってしまったのだ。中共は今や、ミャンマーを経てインド洋に進出して、そこに海軍力を展開するところまできている。

本当にミャンマーが民主化するのを望むのならば、最貧国にして内戦で苦しむミャンマーに惜しみなく援助を与えて励ますべきであった。英米にも我が国にもその力はあった。
私には、西側の制裁と援助中止は、ミャンマーの国民を苦しめ民主化の歩みを停止させたとしか思えない。しかし、ミャンマーの「軍事政権」は、サイクロンの被害直後に予定通り新憲法採択のための国民投票を実施して国民から新憲法案の承認を受け、2010年には複数政党制による総選挙を実施して民政に移管すると発表している。つまり、現政権は、キン・ニュンなきキン・ニュンの民主化ロードマップを忠実に実行してきている。このような歩みを続けるミャンマーへの制裁は続けて、北朝鮮への制裁は解除するアメリカとは、如何にいい加減な国であるか明確に分かるであろう。

そこで、我が日本であるが、サイクロン被害復興援助を開始するとともに、直ちに本格的な援助を再開すべきである。もはや中共への援助は、するのがおかしいのであるから直ちに停止して、その分ミャンマーへの援助に振り向けるべきである。
欧米は、ミャンマーの2010年の選挙を見守るという姿勢をとるであろうが、決してそれに追随してはならない。我が国は、民主化に向けたプロセスを歩むミャンマーを支援すべきである。ミャンマーに対して、欧米のように民主化を方便に使ってはならない。そもそも、英米などは自由と民主主義とえらそうなことを言う資格はない。この度の訪問でもミャンマーの閣僚に語った。「自由と民主主義の国アメリカの建国の父であるジョージ・ワシントンの家に行かれよ。庭に奴隷の墓がある。七〇体の奴隷がここに埋葬されていると説明書きがあるだけで名前も墓標もない。あいつらの自由と民主主義とは自由を剥奪された人間、つまり奴隷を持つことができる自由と民主主義なのだ。ミャンマーは自信を持ってミャンマーの民主化を進めて欲しい」。 (了)

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日台友好へ不断の努力を 池田維前交流協会台北代表
【7月18日 産経新聞】

日本の尖閣諸島(台湾名・釣魚島)沖で6月に起きた日本の巡視船と台湾の遊漁船が衝突した事故で、領有権問題をめぐり先鋭化した日台関係の修復に奔走した交流協会台北事務所の池田維前代表=写真。その池田氏が任期満了にともなう今月10日の帰国を前に産経新聞の取材に応じ、「良好な日台関係も双方が不断の努力をしなければ、崩れやすいもろい側面もある」と事故を振り返った。(台北 長谷川周人)

 5月に発足した台湾の馬英九政権は、尖閣諸島は「中華民国の領土」という主張に立ち、衝突事故で日本への謝罪要求を繰り返すなど強硬姿勢を崩さず、「開戦の可能性も排除しない」(劉兆玄行政院長=首相)との常軌を逸した発言まで飛び出した。

 噴き出す反日世論を受けて池田氏は、在留邦人に注意を喚起する一方、欧鴻錬外交部長(外相)や王金平立法院長(国会議長)ら台湾要人と水面下で接触。事態打開に向けた折衝に入ったところ、馬政権は「対日関係は重要であり、対立は望まない」との認識で一致し、事態の早期解決を求めているとの感触を得た。

 日本側は領土主権について従来の立場を堅持しつつも、政治的歩み寄りを見せることで、事態は一応収拾した。しかし、その間、馬政権が見せた態度の急変は日本側に驚きを与え、今後に不安を残すことにもなった。

 これについて池田氏は「総統自身が反日的とは思わないが、メディアの扇動で世論が反日に傾く可能性がある。総統の意向がどうであれ、中国との関係改善が進む中、日本との関係が今後、希薄化する危険性もある」と指摘。馬政権には日本を理解する人材が乏しいといわれるだけに、これまでの親日ムードを保つには、日台双方による努力が必要だと強調した。

 また新政権の今後に関しては、「馬総統は日本、米国、そして中国とそれぞれ仲良くするというが、優先順位が見えてこない。当面は中国と一種の蜜月関係になるだ
ろうが、長く続くかはわからない」と分析。政権が目指す日米中との等距離外交は理想と
現実のはざまで何らかの軌道修正を迫られる可能性があり、馬総統に対し、政権の考え方や方向性を日本に説明していく努力と配慮を求めた。

 池田氏は四十数年にわたる外交官生活を振り返り、「台湾は外交官としての出発点であり、実質的な最後の勤務地。特別な因縁を感じる」と述懐。この間の台湾の変化について、経済規模の拡大と民主主義の定着を挙げた。特に李登輝政権下では「歴史
教科書が変わってバランスがとれた歴史観が根付き、日本に親近感を持つ若者が増えた」と感慨深げで、地域の安定のためにもさらに関係を発展させる必要性を日台双方に呼びかけた。

池田維(いけだ・ただし)氏

1939年生まれ。東京大学法学部卒。62年外務省入省。同年から2年間、外交官補として台北で語学研修。中国課長、アジア局長、官房長、オランダ大使、ブラジル大使などを経て2004年に退官。翌年5月、交流協会台北事務所代表就任。在任中、台湾人への
観光ビザ(査証)免除や運転免許証の相互承認、李登輝元総統訪日などの実現に尽力、今年5月、総統から大綬景星勲章を授与された。

交流協会

台湾における日本の民間代表窓口機関。1972年の日台断交後、実務レベルで日台交流を維持する目的で設立された。東京本部の下に台北と高雄に事務所を置き、経済、文化、学術、人的往来などの分野で日台交流の円滑化を図る。台北事務所は在台湾大使館に相当する。これに対応する台湾側の窓口機関は台北駐日経済文化代表処。台北事務所の代表は大使に当たり、通例、退官した外務官僚を充てる。池田維氏の後任には、駐中国公使などを歴任した斉藤正樹前ニュージーランド大使が今月11日付で就任した。
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【人物紹介】自由を求める心・王進忠さん


毎日新聞(2008年7月9日)より

自由を求める心、不変--ラジオ自由アジア特派員・王進忠さん(45)

東京都八王子市
のマンションの一室。米政府系のラジオ自由アジアの
東京都
内の支局を兼ねる自宅で、特派員の王進忠(おうしんちゅう)さん(45)は南洲(なんしゅう)の名でマイクに向かう。3分半の早朝ニュースを担当し4年目。ダライ・ラマ14世訪日や拉致問題など、主に政治ニュースを北京語で放送する。「中国国内で報じられない事実を伝えたい」


 父は官僚、母は資産家の娘。エリートとして北京市で育った。21歳で労せずして国営の中国中央テレビに入局、人気ドラマの制作に携わった。毛沢東時代の疲弊した経済立て直しのため、改革・開放路線が急速に進んでいた。「ギターを弾き英語で歌う若者だった」

 入局3年目の85年、仕事の合間に趣味の延長で制作した音楽テープ「美国現代歌曲」が運命を変えた。米国のポップスなどを中国語に吹き替える斬新なアイデアで、数十万本が売れた。

 ところがその後、民主化を求める学生運動が盛り上がり、厳しい取り締まりの中、外国の音楽や映画の大半が公開禁止に。王さんのテープも「反共」の烙印(らくいん)を押された。逮捕は免れたが、テレビ局の制作現場を外れ、共産党から反省と勉強を迫られた。「どこが反共なのか分からない」。鬱々(うつうつ)とした日々にうんざりし87年、祖国を飛び出した。

 来日しても祖国を信じ、自由な中国を夢見ていた。「またテレビの現場に戻ろう」とも考えた。しかし89年6月、夢は打ち砕かれた。天安門事件。真っ暗な広場に銃声が響く。ブラウン管にくぎ付けになった。「あの時の気持ちは言葉では表せない。怒りも悲しみもある」。東京の抗議デモは数万人に膨れ、王さんはその先頭を歩いた。

 世界を飛び回り活動家らと交流、亡命者支援などに数千万円の私財を投じてきた。あれから約20年。中国は急激に豊かになり、日本での民主化運動は衰退する。「家族に迷惑がかかる」「生活が苦しい」と当初300人いた仲間は次々と去り、今は5人ほどになった。

 自宅の片隅にあった古びたテープを手につぶやく。「自分にも他の人生があったかもしれない。でも20年前の夢のまま、自由を求める気持ちは変わらない」。北京五輪で改革・開放は進むかもしれない。しかし王さんは「民族主義を強める」と懸念する。

 来日後、一度も祖国の土は踏んでいない。テープには「テイク・ミー・ホーム、カントリー・ロード」が収録されている。=つづく