【地上げ屋の道徳教育】 サイフに常時100万円、それで己に克てたのか?(日経) | 日本のお姉さん

【地上げ屋の道徳教育】 サイフに常時100万円、それで己に克てたのか?(日経)

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*【地上げ屋の道徳教育】 サイフに常時100万円、それで己に克てたのか?(日経)

地上げ屋、小川宇満雄は月1回、2人の子供に道徳教育を始めた。いじめに回らない、いじめに負けない子供にしたいと考えたからだ。最初に選んだテーマは「心の強さとは」。人間の強さは心の強さであると説く。立ち退き交渉という札束が飛び交う世界で人の本質を見続けた男の道徳論とは。
・「克己心」
小川:おい、お前ら。今日のテーマは克己心(こっきしん)や。
サクラ:何?
小川:知らんと思うけど、こう書くんや。「克」「己」「心」。

サクラ:ほんで、これどういう意味?
小川:おう、これはな、自分に克つ心っていう意味や。「己」は自分自身。「克つ」は「勝つ」と同じような意味や。
リュウジ:えっ、自分と勝負するん?
小川:まっ、そやな。ある意味、自分自身との闘いやわな。辞書には「自分の欲望や邪念にうち勝つこと」ってあるで。前にお母さんがユウキ(※編集部注:2歳になるサクラとリュウジの妹)を生んだ時、サクラは千羽鶴を折ったやろ。あれ、結構しんどかったと違うか。
サクラ:しんどかった。
小川:「もうしんどいなぁ」「やめようかなぁ」という自分と、「アカンアカン、頑張って最後まで完成させな」という自分がおった。サクラはその時、自分との闘いに勝ったから、ユウキが生まれる前に千羽鶴を完成させることができたんや。
サクラ:ふーん。
お母さん:そやで、サクラは偉いな。ありがとう。

小川:まあ、こういうことも克己心の1つや。前に話した「心の強さ」はこの言葉に関係するんやで。
リュウジ:そうなん?
小川:そら、そうやろ。やっぱり人間、楽な方を取りたい。学校でも授業中に先生の話を聞くよりも、友達とコソコソ話している方が面白いやろ。そういう時は、克己心という言葉を思い出せ。大事な言葉やぞ。大人になっても絶対、忘れるなよ。分かったな。
サクラ&リュウジ:ハイ!
小川:ほな、書けよ。
「克己心とは、自分に勝つ心。すなわち強い心。すなわち実行力」
「すべての人間の力は克己心を持つ人に備わる」
「克己心とは、物事を人のせいにしない、人を頼らない、すべて自己責任で生きる」
「克己心とは、自分の立場を考えて正しい行いをするために必要な力」
小川:ちょっと難しすぎたかな。でもな、お前らに、欲に負けない強い人間になってほしいから難しいことを言うんや。お父ちゃんな、自分を信じてここまでやってきた。カネを稼ぐこともできたと思う。それについては、何も後悔してないで。ただな、今から考えると無茶もした。克己心という言葉に照らして、自分の欲望に克ったんやろうか、と思うこともある。
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小川は1959年に愛媛県で生まれた。ミカン畑を営む生家は集落の中でも裕福だったが、小川が2歳の時に父親が小豆相場に手を出して散財。愛媛の生家を追われた。その後、一家揃って大阪に上京。すぐに父親は森ノ宮(大阪市城東区)で風呂釜の製造を始めた。 高度経済成長の追い風もあり、父親の会社は順調に業績を伸ばした。最盛期には、東成区に400坪の工場を所有するなど隆盛を誇った。だが、経済成長の鈍化とともに会社は傾く。そして1981年、小川が22歳の時に父親の会社は倒産した。 オヤジは投機に手を出して、実家を勘当された。そんな経緯があるから、日々の生活は質素やった。酒は飲まんし、タバコも吸わない。毎日、判で押したように夜7時に帰ってきて、オレらと一緒に夕ご飯を食べていた。 世間ズレしてなかったから、よく騙されていた。オヤジは一度、手形のパクリにあった。後で聞いた話やが、オヤジを騙した奴、そのカネを元手に九州でラーメン屋とスーパーの経営を始めて大成功したんやて。オヤジを見ていて、騙されるより騙す側にならなきゃアカン、と子供ながらに思った。

だからと言っては何やけど、カネを儲けたかった。 高校卒業後、オレはうどんチェーン店でうどんを打ち始めた。月給は13万円。カネ儲けをしたかったんやけど、何をやればエエのか、分からなかったんや。すぐに仕事を覚えたオレは、ジャスコの中のうどん屋で働き始めた。 「迷惑をかけるのはまず身内から」 そしたらある日、中学時代の連れがベッピンの女を連れて店に来たんや。話を聞いてみると、こいつ、ミナミで水商売をしとった。月の手取りは22万円、ベッピンの女はホステスや。うらやましくなって、そのままうどん屋を辞めてもうた。新しい職場は韓国クラブのボーイ。要領はいいから、始めてすぐに月給30万円を超えたで。 自分で言うのは何やけど、この頃は本当にすれていた。 高校の同級生にサラ金行かせて13万5000円を借りさせるやろ。5000円だけ戻して後は無視。借金、そいつに返させた。弟が貯めてた20万円の定期預金を解約させたこともあったな。その金は女遊びに使ってしもうた。 お袋は激怒したが、オレにはオレの理屈がある。「お前、『人に迷惑をかけるな』って言うやろ。迷惑をかけるのはまず身内からと違うか」って。まったく身勝手な理屈やな(笑)。この頃、何か内面から湧き出るパワーのようなものがあって、毎晩のようにケンカしとったな。 20歳で夜のミナミに飛び込んだ小川。「オレのモットーは『働く以上は一生懸命』」。こう語るように、誰よりも早く出社し、店の掃除や集金業務に精を出した。すぐに高卒の勤め人の倍以上のカネを稼ぐようになったが、数年も経つと、黒服生活に飽き始める。その時、小川はひとりの男に出会う。1

984年の秋である。 オレが店長していたクラブの常連さんの中に、いつも1人で飲みに来る作業服のオッサンがいた。一晩で10万円ほど使うエエお客さんや。このオッサン、サイフにいつも100万円の束を入れていた。驚くやん。それである時、聞いたんや。「社長、何の商売してるんですか」って。この人、鉄工所の社長だったんやけど、その時に吐いた言葉が今でも忘れられない。 「ミナミで飲む時は(サイフに)100万円ないと不安や」  なんやそれ。その当時、オレは24歳のガキ。オヤジの会社が潰れた後で苦労してる頃や。オッサンの話を聞いて、男としてこの人くらいにならなアカンと目が覚めた。「サイフに100万円束をつめてミナミを歩く」。この時、それが人生の目標になった。 水商売の給料は50万円。勤め人の給料を考えれば悪くない金額や。でも、水商売など知れている。かといって、高卒のオレにできる商売は限られる。徒手空拳の人間には口八丁、手八丁のビジネスしか無理。その時、頭に浮かんだのが証券会社と不動産だった。 何で不動産に決めたのかって? 証券会社には大学卒でなきゃ就職できないイメージがあるやん。その点、不動産は高卒のオレでもOKやろ。それで、(大阪市営地下鉄御堂筋線)江坂駅前の不動産仲介会社に入った。見習い期間中の2カ月間は月給30万円。見習い期間を過ぎると20万円に落ちて歩合制になるという話やった。2カ月で(この店の仲介実績の)新記録を作ったよ。

この会社には、物件を借りに来た客に対して3つの物件を案内するという仲介マニュアルがあった。最初に提示された物件で即決する奴はまずいない。“当て物”として2つの物件を紹介するという発想や。でも、よく考えれば、2つの物件を紹介しても、3件目で決まる保証はどこにもない。ならば無駄なことをせずに、初めに本命を見せればいい。そう考えたわけやな。 結局、2番目に本命を紹介することにしたけど、ほかの連中より1件少ないだけ効率的。すぐに成績が伸びた。オレは不動産の素人やったけど、初めの1カ月で100万円の仲介料を稼いだで。2カ月も経つと、この会社で学ぶことはなくなった。そのまま独立したよ。 1986年夏、独立した小川はミナミにあるワンルームマンションの一室で不動産仲介業を始めた。前年に円とドルの為替レートの大幅修正を決めたプラザ合意が成立。内需拡大へと舵を切った日本はバブル経済に向けて階段を上り始めた。それに歩を合わせるように、小川も不動産業界に乗り出したわけだ。
もっとも、その幕開けは甚だ乱暴なものだった。

不動産仲介を始める場合、不動産会社は宅地建物取引主任者を置く。独立した小川が国家資格である宅建の資格を取るか、資格を持つ人間を採用する必要がある。だが、国家資格など取れるわけがない。そう考えた小川はあり得ない行動に出た。
宅建の資格は不動産売買でトラブルが起きた時に必要なものやろ。普通に考えれば、不動産仲介でトラブルなんて起きない。だったら、偽造でいいやん。そう思うたから、ミナミにワンルームを借りて、法人登記もしてないのに「株式会社××」という看板を掲げ、名刺に「大阪府知事△△ 宅地建物取引主任者」と刷り込んだ。今から思うとめちゃくちゃやけど、そういう人種だったんや。 オレの賢いところは、クラブで働く“ジャパゆきさん”を相手にしたことや。みんな観光ビザで来日して夜の街で働き出す。保証人などいるわけがない。こいつらに、「日本の家主は誰も貸さない。オレが保証人になってやる」と言って、バンバン仲介していった。百発百中やったで。

ちなみに、紹介先はすべて末野興産のマンション。あの末野興産や(編集部注:末野興産は旧住宅金融専門会社の大口融資先だった不動産会社。末野謙一元社長はバブル時に「借金王」の異名を取った。1996年に大阪地裁が破産宣告)。何でか言うたら、末野興産は仲介手数料として、通常よりも多い家賃の2カ月分を戻してくれたからや。家主からの手数料のほかに、入居者からも手数料として1カ月分が入る。末野興産に1人紹介すれば、20万円は儲かる計算。だから、バンバン仲介したわ。 当時の稼ぎは月100万円。夢に向かってもう一歩というところ。「稼ぐためには手段を選ばず」ということやな。まあ、今から振り返れば、自らの欲望に負けていたんやと思う。つまり、克己心が足りなかったということや。当時はそんなん全く考えてなかったけど。
 じゃあ、次のテーマは「人生について」。無茶した時代の話をもう少しするからつき合ってや。