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◎【ニュースを斬る】 教師の告白があぶり出した中国社会の「危機意識」 (日経)

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◎【ニュースを斬る】 教師の告白があぶり出した中国社会の「危機意識」 (日経)



中国で今、「四川大地震で生徒より先に逃げ出した高校の教師」が話題になっている。しかもこの教師は自らその事実を、ネットで「告白」した。 最初は、なぜ彼がわざわざネットに書いたのか、何が言いたかったのかに関して、深く考察されることもなく、ただ単に卑怯か否か、道徳的に許されるか否か、といった賛否両論の方が表面化していた。しかし彼のこの告白は、徐々にだが、中国を支配するイデオロギーに基づいた道徳観念や、価値観の是非に対する議論のきっかけになりつつある。それはゆっくりと、中国のネットに大きな潮流を形成しつつあるように思われる。 それらの生の声を丹念に拾っていくと、この教師が投げかけた一石には、実は最初から現在の中国の思想統制を痛烈に批判する「メッセージ」が隠されていたことが見えてきた。果たしてこれが中国の新しい潮流を生むきっかけになるのか否か、そして中国の民は何を考えているのかに関して、私なりの分析を試みたい。


・校舎に生徒を置いて逃げ出した「私」

多くのメディアですでに公開されているが、この高校教師の名は範美忠(ファン・メイゾン)。1997年に北京大学の歴史学系を卒業している。魯迅をはじめドストエフスキーやカフカ研究を得意とするトップエリートの1人だ。輝かしい出世の道があったはずだが、彼は自ら志願して、誰もなりたがらない中学の先生になった。

(※中国では中等教育である中学と高校は、一貫して「中学」と称し、日本の中学は中国では「初級中学」、日本の高校は「高級中学」と称し、それぞれ「初中」および「高中」と略称する)

2005年5月19日に北京大学の「北大中文論壇」というサイトに載った彼の述懐によれば、「私の後に続く次世代の人々が、私と同じように騙されないようにするために」、大学に入学する前の教育に従事しようと思ったので、中学の教師を選んだのだという。「騙された」というのは、中学の6年間にわたって何一つ学べなかったということを指しており、それは中学の教育の質があまりに低いせいなので、自分が中学の先生になって教育を改善しようと決意したからだと書いている。

四川大地震が発生した当時に都江堰光亜学校という(高級)中学の教員をやっていた範は、地震発生のその瞬間、生徒に「慌てるな! 地震だ、大丈夫だ…」と叫んだのだが、言い終わらないうちに巨大な激震が大地を揺るがし、彼は無我夢中で外に飛び出したのだった。運動場に着いて後ろを振り返ったが、生徒たちは誰もついてきていない。そのとき大地は1メートルほどの振り幅でもう一度揺らぎ、それがやんだ後に、ようやく生徒たちが校舎から次々と出てきた。

幸運にも、この中学校の校舎は倒壊せず、死者は一人も出ていない。この中学の校長が、「手抜き工事」を許さず、校舎建築後も耐震性をチェックしていたからだ。校長が生徒の点呼を始め、範も自分のクラスの点呼をしたが、全員揃っていた。 ここまでの話なら、まあ、そういう人も当然いただろうという、膨大な現象の中の1つにすぎない。しかし範は、ありのままの自分の心をすべてさらけ出して、地震発生時の手記を「天涯博客」(博客はブログという意味)というサイトに載せたのである。


・「私は勇敢な人間ではないが、それを恥じない」

そこには「なぜ自分は生徒たちを組織せずに逃げてしまったのか?」という自問はあるものの、「私はもともと献身的な行動に出る勇気を持った人間ではない。私は自分の命にだけ関心を持っている」「私は自由と公平を追求する人間で、決して他人を優先して自分を犠牲にする勇敢な人間ではない」と書き、そしてそのうえで今回の行為および自分に対して「道徳的引け目を感じていない」と明言した。 これが強烈な反発を読者に与え、モラルの低い教師として範を非難する大合唱が始まった。そして「範(ファン)パオパオ」(パオは走るとか逃げるという意味)というあだ名が彼についたのである。 実は、四川大地震が発生したその夜、政治局常務委員で中国共産党の宣伝任務を担っている李長春は、中国の主要メディアの幹部を集めて「(政府や党にとって)プラスになる宣伝となる場面を中心にして報道せよ」という旨の指示を出している。その指示に沿った報道は中央電視台(テレビ局)を中心として、まさに24時間体制で実行された。そして政府が「建国以来、空前の団結」と評価するほどの「団結心」で中国全土が燃え上がり、被災者支援と「中国加油、四川加油」(加油は頑張れという意味)を叫んでいた。 その真っ最中に範パオパオ事件は起きた。それだけに、範の告白は激しい批判にさらされた。


・「中国加油」が燃え上がる中に、これを書いた勇気

しかし、一方では、「範よ、よくぞ言った! あんたは正直だ! 私たちはあんたを強烈に支持するよ!」という、範を礼賛する書き込みも、批判と同数程度にネットに溢れたのだ。  これは何を意味しているのか? それを理解するために、彼の告白の書き出しの部分に注目したい。

「私はかつて、自分が米国のような自由で民主的で人権を尊重する国になぜ生まれてこなかったのかと心を痛め、生きる意欲を失ったことがある。大学を卒業した後の苦痛は、このことと関係し、私が17年にわたって受けた教育のくだらなさも、このことと関係している。神よ、あなたはなぜ私に自由と真理を愛する魂を授けながら、私をこんな専制的で暗黒な中国に生まれさせたのですか?」  このように範美忠は中国の専制的な政治を嫌い、「中国共産党は嘘をつくことが習わしとなっている」と断罪しており、あえて、その宣揚に乗らない者がいることを「暗に」表明した。範を支持する人々は、ここに反応したということになろう。  建国以来、ここまでのことを書く「勇気」を持った人も少ないだろう。 ネットのコメントの中には、範はわざと馬鹿を演じて「範パオパオ」になり、その中に賢明なる深い思慮をそっと忍ばせていると、指摘するものもあった。 こういった賛否両論の膨大な書き込みに対し、範は「私はなぜ、あのような話をしなければならなかったのか」というタイトルで以下のような主張を「中国選挙と治理」(China Elections & Governance)というサイトに発表した(発表日時は明記されていないが、最初のコメントの書き込みが5月29日であるところを見ると、そのあたりに発表したものと思う。私の見たこの記事が転載かどうかに関しては確認できていない)。

その概要を、範美忠の言葉(一人称)で個条書きにすると以下のようになる。

1.あの話は、もともと私が兼職している雑誌社の執行編集主幹のために書いたもの。彼はあの地震から今日に至るまで、良心の呵責から抜け出すことができずにいる。なぜなら彼は地震の時に部下を待たずに逃げ出したからだ。私は、そういう行動に出た人は、あなた1人ではないということを彼に伝えたかったのだ。

2.モラルを強引に強要するやり方に対する反感から、ということもある。被災者に対する義捐金に関してその金額が少ないということから他人を非難し、献金額を吊り上げていくやり方に強烈な反感を覚えた。

3.偽善に対する反感もある。確かにこの地震で多くの人が本当に悲しい目に遭っているが、しかし多くの人は虚偽の涙を流していることを私は知っている。我が身を犠牲にして他人を救っている者もいるが、しかし私は報道や世論の中に、ある種の隠蔽と、ある種のモラルを宣揚し、それを基準として強要する意図を感じるのだ。メディアも多くの人も真実を言おうとしない習慣に対して、私は非常な反感を感じる。

4.ある種の道徳家たちをちょっと刺激してみたかった。この機会を借りて、彼らの本当の顔を暴露させてやりたいという気持ちがあった。結果的に見るなら、彼らの反応の多くは、ほとんど私の推測した通りだったが、しかしあそこまで猛烈に攻撃してくるというのは予想外だった。


・真実のモラルを“演技”する

このように範美忠は、徐々に真の目的を明らかにし始めた。おまけに、この釈明文において、「真実のモラルを演技するというのは、罪悪感と懺悔の意識のない国家においては正常である」と付け加えている。 つまり、彼は国民が共産党という「権力」の顔色を見ながら偽善的言動を重ねていることに憤りを覚え、また「一定方向」に世論と国民の感情を誘導する政府に対しても憤りを覚えることを表明し、かつ、政府に洗脳されて、「自分こそはこの共産主義国家におけるモラルと価値観の模範である」と言わんばかりに大げさに演じて見せ自己宣伝をすることによって自己保身を図る者たちに挑戦したのである。そのために、わざわざ告白文を書いたということになる。 地震の時に、自分を優先した数多くの「範パオパオ」がいたはずだ。黙っていれば非難の対象とはならなかっただろう。しかし、あえて非難を承知で書いた背景には、このような「反逆」があり、「挑戦」があったということになろうか。この隠された意図を見抜いた中国国民は少なくはなかった。その例をいくつか挙げよう。

「範先生を非難罵倒し攻撃する者たちは、支配的イデオロギーの虚偽道徳を守る者たちというより、むしろ全身虚偽に満ち満ちた“偽君子”か、あるいは市井の俗人だ。もっと深遠な意義から語るならば、範先生のような人材こそ真の民族の精鋭なのだ! 第1に、彼が言ったのは真実である。第2に、何といっても彼は真実を語る勇気を持ったのだ! こういう人物は現在の中国社会においては、ほとんど絶滅してしまっている! 彼の個人モラル自身は褒めたものではないにしても、口を開けば虚偽しか言わない、あの虚偽の小人たちよりも、ずっといい」

「1957年の反右派闘争以来の、中華民族の背骨が、遂に折られたぞ! 今われわれは新たな背骨を見る思いだ。いいぞ! 範よ、われわれはあんたを支持するよ!」

「範パオパオよ、あなたは実に素晴らしい! 私は強烈にあなたを支持する! この、至るところ虚言と詐欺が充満し、道徳が喪失し、信仰を失ってしまった国土において、自分の弱点をさらけ出す勇気を持つなんて……」

「オカラ建築で賄賂をもらった教育部とその傘下における地方役人の方が、どれだけモラルに欠けているか! 彼らは多くの子供の命を奪った責任を問われるべきだ。自分の懐に入れたお金で数え切れないほどの生徒たちの命を奪ったのだ。範は誰の命をも奪っていない。教育部に彼を裁く権利はない」

「価値観は多元化しなければならず、社会には契約が必要だ。“平等、自由、民主”は人類が発展していく世界の趨勢であり、一方的に他人に対し(一方向性の)道徳的(思想的)束縛を要求するのは実に良くない。現在の(中国)社会における集団的暴政は、封建時代の専制よりももっと恐ろしいものだ。範美忠のような逆の方向の価値観が巻き起こした論争は、われわれにとって実に深く思慮する価値を持っている。われわれはもっと自己と異なる価値観を容認することはできないのか、もっと多元化した価値観を受け入れることはできないのか、そして(社会との)契約観念によって物事を見ることはできないのだろうか。人を助けるときに、誰一人自分の命の大切さや自分の利益を考えたことはないのだろうか。範美忠は恐れずに自分の行動と観念を公開し、大衆心理に迎合しなかっただけなのだ。こういう声を社会に反映できる正常な道が提供されるべきだ」

 こういったコメントがネットに溢れたが、中でも長文の鋭い分析を行ったのは、施項嘉。彼はネットで暴れる「憤青」(憤怒青年)たちを、偽愛国主義者だと断罪する文章も書いているネット論客である。 施項嘉は、「作者賜稿」というサイトに「中国はもっと多くの範パオパオを必要としている」というタイトルで彼の見解を展開している。彼の主張の冒頭に出てくる「郭跳跳」(グオ・ティヤオティヤオ)というのは時事評論家である郭松民を揶揄した呼称だ。郭松民と範美忠は6月初旬に「一虎一席談」という、香港に拠点を置く鳳凰衛視(衛星テレビ局)の番組で公開討論を行った。そのとき郭は最初から範を「この恥知らず者が!」と激しく罵倒し、悪口雑言を範に浴びせかけた。遂には激怒して跳び上がり、対談の席を離れていってしまったことから「郭跳跳」というあだ名がついたのである。


・「一元的な思惟とは恐ろしいものだ」

郭のこの不遜な態度とは対照的に、範は終始礼儀正しく、反論を言う時も「あなたは話し終わりましたか?」とまず郭に尋ね、「それなら私は自分の意見を言ってもよろしいですか?」と確認してから発言したことから、範の株は大きく上がった。結果的に範パオパオを最も支持させる結果を招いたのは「郭跳跳」だ、という声がネットに飛び交ったのは、このことを指している。施項嘉の論旨は以下の通り。 郭跳跳と範パオパオの争いは天地を覆い尽くし、一時期は2人のことで持ち切りだった。 ある人は「偽君子」と「真の小人」の論争であったと位置づけているが、郭跳跳が偽君子であるか否か考証する時間はないし、また範パオパオが「真の小人」であるか否かに関しても、少なくとも他人を犠牲にしていないという前提においては、みだりに断言することはできない。 もっとも、海外経験の多い楊恒均に言わせれば、これが米国なら範パオパオは教師になる資格さえないとのことだが、しかし、現在の中国においては、範パオパオのような存在は非常に大きな意義を持っている。もちろん決して彼の足がウサギより早いからではなく、たった1人で挑戦した論争が、現在の(共産党の統制による)「一元的な思惟」と強制的に束縛されている思想を打破することに寄与するからである。 「一元的な思惟」というのは、実に恐ろしいものである。世間におけるすべての専制、腐敗、暗黒(政治)は、ひとえにこの「一元的な思惟」が招いたものだ。  一元的思惟の下では、ある人たちはあたかも自分は真理を掌握しており大多数の国民を代表していると勘違いし、高らかに自信に満ちて大言壮語し、手段を選ばずに異なる意見を排斥する。そして彼らが定義した異論、異端をすべて消滅させるのだ。したがってそれに伴って罪悪が発生するのは当然のことだろう。 今日まで発展を遂げてきた人類社会は「多元的な思惟」こそが社会を進歩させる有力な保証になることを人類に認識させてきたし、先進国家は各種の法律や法規あるいは道徳規範で多元的思惟に対して保障を与えている。 ある社会の進歩の程度は、社会の異なる意見を取り入れる程度によって決定されるし、特に異端に対しての許容度によって決まるものだ。 郭跳跳と範パオパオの議論は、道徳、生命、責任、人間性等々に関する広範な国民の討論を引き起こし、しかも(大衆は)中道的な理性を欠いていない。ある者は非難し、ある者は同情し、ある者は責め立て、ある者は理解を示している。総じて一辺倒な見方は劣勢となっている中で、人々の思惟はいまや「いわゆる主流的価値観」が誘導した思惟の影響を受けなくなりつつある。これこそは今回の論争が持つ、積極的な意義なのである。 中国は郭跳跳等の類の人物には事欠かないが、最も欠如しているのは、現在の一元的思惟を打破する勇気を持った(範パオパオのような)勇士である。 世の中は不思議なものだ。ある人はある側面では意気地なしであったかもしれないが(先に逃げたことを指す。筆者注)、ある側面では勇士となるのだから。 この論争が始まってから今日まで、範パオパオに対する同情と理解と寛容と支持は、ますます多くなっている。(検索エンジンサイトである)捜狐ネットが、郭と範のテレビ論争の後、「あなたは範パオパオがあなたの教師になることを望みますか?」という質問をネットで行ったところ、なんと54%の人が「望みます」と答えている。これはおおむね、それだけの人が範パオパオを支持しているということになり、それは逆に、硬化した体制の庇護下にある偽道徳家およびこういった体制そのものに対する人々の不満がそれだけ大きくなっていることの証拠であり、むしろ悪の極みだと思っている証拠なのである。 今や郭跳跳たちは範パオパオ個人のモラル問題を追及することから、その矛先を「自由派知識分子」へと向け始めている。道徳(観念)問題の劣悪なる環境を正視せず、自由民主的価値そのものに問題をすり替えようとしているのだ。 「米国では教師になる資格さえない」らしい範パオパオは、われわれのこの中国においては、こんなに貴重で並はずれた意義を持った存在となっているのだ。 もしこの論争に何か不足している点があるかと問われるならば、それはこの論争によって地震そのものに存在していた深刻な問題が曖昧模糊となる点であって、その問題とは即ち、地震の被害の直接の責任者たちの責任を追及することであり、これはまた範パオパオがこの論争を巻き起こした「初志」でもあると言うことができよう。 権力に寄りかかり、権力のみを命とする道徳は真の道徳ではない。  いま中国で最も必要とされているのは、疑いもなく範パオパオのような人であり、中国にもっと多くのこの種の人が出てくることが必要とされている。


 ・以上が施項嘉氏の論旨である。

私はこれを読んで、驚きを禁じ得ない。こういった議論が、顔の見えない、匿名性の高いネットの中であるとはいえ、堂々と表明できるようになったことは、やはり一種の進歩であろう。と同時に、危険を冒してでも指摘せずにはいられないほど、共産党による強硬宣揚路線が強まったことの証しでもあるのだろうか。 特に今年は北京オリンピック開催の年。だというのに2008年はチベット騒乱から始まって聖火リレーの際の世界各地における抵抗、そして四川大地震と、中国は次々と「災難」に見舞われている。それを乗り越えるために、過激なまでに愛国心を煽り、中華民族の団結心を刺激する思想的「誘導」を行ったのも理解できないわけではない。 しかしその結果、まさに中国側が言うところの「空前の団結」が実現し、愛国的ナショナリズムへと発展して燃え盛っていると言うことができよう。

中央電視台の番組に「我們」(私たち)という番組がある。いろいろな層の国民が発言をして討議する番組だ。この番組で、まるで北朝鮮の放送を聴いているかのような印象を与える発言者がいた。頭の血管が破裂するのではないかと思われるほどの大声で、党を称え、政府を称え、四川大地震に対する軍の献身的支援を褒めちぎっていた。そして「私たちにできないものはない! なぜなら私たちは中国人だから!」という趣旨の言葉で締めくくったのである。

「空前の団結」に、危機意識を覚える人々がこの最後の言葉により聴衆は感極まって落涙する者さえいた。今の中国は、まさにこういった「愛国主義とナショナリズムの爆発」の坩堝の中にある。支配的イデオロギーが定義する「道徳」的行動に出ない者は中華民族ではないような雰囲気なのだ。  範美忠が「範パオパオ」を身に纏(まと)って、あえて告白文を書いたのは、こういう熱気が持つ危険性を直感したからだろうし、範に賛同する者がこんなにも多いのは、少なからぬ国民がその直感を共有できるところまで中国が行ってしまったことを物語るものとして、私はこの現象に注目をした。中国のゆくえと民の心を読み解くのに、範パオパオ論争は、またとない事例ではないだろうか。 まだ貧富の格差が大きく、人口も多い中国においては、確かに一定期間の政治の安定が必要であることは誰もが分かっている。しかし、たとえ必要悪であったとしても、現状は度を越しすぎていると国民は思い始めているのも確かだ。経済の繁栄をもたらした党を肯定する気持ちと、経済力を手にしたからこそ求める「個人の尊厳」との間で、中国の心はどこに行くのか、静観したいと思う。 (愛国的ナショナリズムの高揚に関しては、「中央公論」2008年8月号の拙稿もご参照くだされば幸いです:筆者)