「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成20年(2008年)7月11日(金曜日)弐
通巻第2253号
五輪テロ警戒は尋常ならざる状況。戦々恐々の裏返し
チベット活動家の遠戚まで北京から強引に国外退去させる
************************
英国籍だが人種的にはチベット人であるデチャン・ペンバ(三十歳)は、北京で弐年半にわたって英語教師をしていた。7月8日朝、突如、彼女のアパートへ九人の公安がやってきて、「家を出ろ、ロンドンへ帰れ」と告げ、パスポートと携帯電話を取り上げた。
荷物は一個だけ、午後のロンドン行きに乗れ、と。家財道具は? 返事はなかった。かわりに「以後、キミは五年間、中国への入国が禁止される」と一方的なお告げがあった。
何の嫌疑か、ペンバには分からないと「ロスアンジェルス・タイムズ」に語った(同紙、7月10日付け)。「たぶんチベット人の友人たちをアパートに呼んだから?」。北京の公安はそれ以上の情報を掴んでいたようで、五月に彼女が短期的にロンドンへ帰った折、アパートが踏み込まれた明らかな形跡があった。彼女の父はチベット人であり、ベルリンで人権運動に関与したこともある。叔父のツェリング・シャクヤは名の知られた作家で、『雪国にやってきた龍』(チベットを侵略したシナ人)の作者だ。
ペンバは在中国英国大使館へ電話もかけることが許可されず、最後の乗客として機内に入る直前にやっと携帯電話をパスポートを中国の公安が返してきた。それにしてもチベットの活動家の遠戚までを北京から強引に国外退去させるという行為は、テロ警戒が尋常ならざる状況であり、当局の戦々恐々とした心理の裏返しであろう。
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♪(読者の声1)許世楷代表の離日を見送りました。
10 日付で「駐日代表」職を離任した許世楷・台北駐日経済文化代表処・代表は「士可殺不可辱」(志士は殺されても辱めを受けず)の言葉を残して、日本を後にされました。大使ご夫妻をお見送りに白金台の駐日代表処へ、十日、11時頃に着いた時には見送り人も数えるほどでした。
ところが出発間際には大勢の人が駆けつけてくださってご夫妻と名残惜しそうにお話なすっておられる姿に、多くの方に慕われておられたご夫妻のお人柄がしのばれました。
初夏を思わせる今日にふさわしく、白に水玉模様のさわやかなスーツ姿の奥様が玄関から出てこられると期せずして、皆さん心からの拍手、台湾バンザイをさけんでおられる方もいらっしゃいました。
奥様はあら!というお顔をなすってご挨拶なさる方、教え子さんの数人を見つけて駆け寄られるご様子には気品が漂い教養が人間の立ち振る舞いをここまで気高く見せるものかと圧倒されました。
出発される時間が迫り来る頃にお顔をおみせになられた大使はにこやかで、辞任と言う形での離日でしたから、さぞお心残りもあるだろうと気にかけていた私はホッとしました。
台湾に帰られたら台北でなく生まれ故郷の台中に帰られて一市民として過ごされるとか。しばらくお休みになられて又日本と台湾のためにお力添えいただく日が必ず来ると信じます。馬政権に代わって、台湾でお目もじした方々が、公職を辞される方が多く寂しく思います。大使の、「士可殺不可辱」の言葉が日本人の多くの人に、今まで台湾の方たちにおんぶにだっこだった日本と台湾の友好関係を、これでは先行きとんでもない事になるぞ、日本の生命線である台湾との友好関係を今こそゆるぎないものにするためにも立ち上がらなければ、行動を起こさなくては、と奮い立たせてくださったように思います。鹿児島の西郷さんの像に似た風格が許世楷さんにはあり、奥様は古きよき時代の日本女性の奥ゆかしい中にも芯の強さのようなものを見せていただけました。許世楷代表は言葉がもつ強い意味を、奥様は日本女性の忘れかけている立ち振る舞いの「美」を残していって下さったように思います。お二人のご健康を、と願いながら遠のく車に「台湾共和国」と、台湾桜植樹ツワーで頂いた小旗を振りました。(FF子、小平)
(宮崎正弘のコメント)心のこもったお見送り、ご苦労様でした。小生儀、七日に個人的にお目にかかってお見送りを兼ねました。漏れ伺っている所では秋にシンポジウム出席のため来日予定がおありとか。
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平成20年(2008年)7月12日(土曜日)
通巻第2254号
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戦争の現場体験から中国経済の鉄火場を観察すると、なぜ高額紙幣がこれほど多いのか、いくら出回っているのかを独自に算定
♪柘植久慶『中国大崩壊 世界恐慌のシナリオ』(学研)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
軍人の目から中国をみると、こうなるのかと柘植さんの軍事史学的なユニークな視点にはいつも驚かされる。戦地情報学、とでも言うのだろうか。柘植さんの前作品に最近の中国で高額紙幣が出回り過ぎている事実から、インフレの到来と深刻な通貨膨張を予見されていたが、こんどの著作には、この方面への独特な洞察がある。
中国の通貨、人民元は邦貨換算で390兆円ていど流通していると柘植式数学方式と理論は、あたかも戦場経済の裏側の作戦分析のようにはじき出すのである。こんなユニークな戦争経済学は訊いたことがなかった。つまり、柘植さんは通貨の番号の組み合わせから数式を成立し、発行枚数を絞り込んでいく遣り方。 日本のエコノミストや中国学者で、この視点はない。具体的にみると、紙幣に刻印されるナンバーは数字が六桁、頭にアルファベット26文字の組み合わせ。アルファベットが使用されるのは、数字が一文字で一桁なのに対して、一文字で二桁を稼げるためで、これは日本銀行券でも実施されてきた。
中国の紙幣はアルファベットについで、「アルファベットと同じ刷り色の二桁の数字があり、その後方に黒の六桁の数字が続く。つまりこれらはすべて合計すると262699999999が最大のナンバーとなる」柘植さんは個人的に2000年に入手したDA券が、07年にすでにTCまで進んでいた実体験から、出回っている通貨は邦貨換算でおよそ300兆円を超えていると推察する。
さらに独自の情報網を駆使して、
50元札 52兆円
20元札 21兆円
10元札 10兆円
5元札 5兆円
と類推の数字をはじく。戦場の於ける経済情報のイロハなのだろう。
ただし、小生はこれらの推測数字を鵜呑みには出来ないと思う。
第一に中国の通貨当局は偽札対策を講じているために、アルファベットの順番をパズルのように入れ替えているはずだから。
第二に、銀行における新札交換機能も、病原菌のまとわりついた汚い札びらの回収目的のみばかりか、たえず偽札への対応がある。このために必要とされる500元札、1000元札を、たとえ用意していても、流通に踏み切れない。インフレ防止だけではないようである。台湾でも1000元札は流通発表の十年も前から印刷準備されていた。
第三に中国人は昔から銀行預金よりタンス預金を好む。
市中の銀行より地下銀行を利用する特質が、この通貨の野放図な供給と繋がっているという日本では考えられない伝統。つまり銀行(公)を信用していないのだ。このため全法幣を毛沢東のデザインに改め旧札の回収を図ったが、いまだに旧札の流通があり、完全回収ができていない。
庶民の末端が銀行へ行かないからだ。
もう一つ。
日本側の最新データと比較しておく必要がある。08年6月の通貨供給量(M3)は1038兆5000億円。従来のM3統計から「ゆうちょ銀行」「農協」を除くのをマネーストック(日銀は五月からマネーストックを呼び替え)、つまりM2は738兆1000億円。同期の民間銀行の貸出残高は393兆0047億円(いずれも7月8日日銀統計)。
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♪(読者の声1)貴誌2234号の書評に樋泉克夫氏の『死体が語る中国文化』(新潮選書)の紹介があり、その中に次の一節がありました。「風水師がもしふさわしい場所の方角に公立公園を指定したら、平気で公園を掘って、棺をうめ墓を建てる。(中略)華僑には一度埋葬した棺を掘り出し、骨を洗い直して最埋葬する伝統がある。これはクーリ―(苦力貿易)でアメリカにわたって重労働のあげくに死んだ人を、仮埋葬ののち、七年後を目処に掘りかえし、骨を洗い直して、故郷へ送り届けた風習からだという。そういう専門業者が香港にたくさんいた。筆者の樋泉教授が実際に初めて目撃したのは四十年前の香港。「世界各地から送られてきた棺や遺骨はトランジットで立ち寄った香港の『死者のホテル』で小休止したのち、故郷へ戻った』と推測されるという」。これで思い出したのです。たまたま愛読している北方謙三の「望郷の道」(「日本経済新聞連載」。いま331回目)が、この情景を書いているからです。台湾でも、おなじ風習があったのですね。(MY生、大阪)
(宮崎正弘のコメント)じつは小生も北方謙三氏の同上連載を毎朝、楽しみに読んでいます。日経の連載小説といえば渡部淳一センセと決まっていたので、よまないことも多かった。間に連城三紀彦、阿刀田高、津本陽、堺屋太一の連載も挟まりましたが、いずれも手抜き。ところが北方謙三氏の連載は最初から力が入っていて、氏の代表作になるかも知れませんね。佐賀のやくざあがりの鉄火場経営者が、或る出入りで九州を追われ、ふらり台湾に渡って艱難辛苦のもとにキャラメル工場を始める。妻が追いかけてくる。戦場で片腕をうしなった弟が頼ってくる。ちょうど1895年(明治28年頃)から1904年(明治37年)にかけて、この物語りは進んできています。時代背景を雰囲気だけで漂わす力量のなかなかですね。地元のやくざや牛飼いと渡り合い、日本の台湾統治の担当者とやり合いながら、ついには本土へキャラメル逆上陸をはたすところまで、いま物語は進んでいます。後藤新平までふいに出てくる。この物語の過程ででてくるのが台湾の当時の葬送。棺をそのままにして、骨になって洗い直し、本格的埋葬をする。中華伝統と風水。主人公は台湾独自の伝統を尊ぶ姿勢を示しています。
♪(読者の声2)貴誌にも以前掲載されたオバマとヒラリーの共同戦線ですが、日テレでまたしてもそういう奇妙な場面を目撃しました。
米民主党の?資金集めパーテイでオバマが客にヒラリーに寄付してくれと呼びかけたのです。
指名争いを制した者が敗者に寄付を呼びかけるなど、聞いたことは有りません。余程ヒラリーに圧力をかけられているとしか思えないです。
それにしてもヒラリーは本当にお金に汚いですね。まるで支那人か朝鮮人のようです。(ND生)
(宮崎正弘のコメント)ヒラリーに限らず欧米政治家もおしなべて凄いですよ。カネと政治と権力とは、これに「おんな」を加えて、永遠の政治学のテーマでしょうね。
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【論説】許世楷・台湾大使が離任へー台湾人頼みの時代は終わった
永山英樹
ブログ「台湾は日本の生命線!」 http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/
ブログでは関連の写真と動画も↓
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-429.html
我が領海を侵犯した台湾の遊漁船が海上保安庁の巡視船と衝突して沈没し、台湾の外省人勢力が反日を煽るさなかの六月十七日、外務省報道官が外務省としては意外とも思える発言を行った。それは「台湾は多くの面において重要なパートナーだ」である。これが「意外」と言えるのは、まさに中国を最も刺激する言葉そのものだからだ。これまで中国への配慮で台湾には冷淡な姿勢ばかりが目立った外務省だが、敢えてそこまで表明したのは、やはり内心では日台関係が大きく損なわれることを恐れているからだろう。そして報道官は次のようにも語った。「次の駐日代表は今の駐日代表と同じような方が好ましい」と。
と言うのは、じつはその前日、台湾の駐日代表、つまり駐日大使の許世楷氏は台湾で、「駐日代表を辞める。政府は許可を」と訴える記者会見を行っていたのだ。外務省が台湾を「重要なパートナー」と言ったのは、実際にその通りであるからだが、実際には「平和ボケ」「日中友好バンザイ」との一種の思考停止情況に陥っていた政府や国会議員が従来、台湾の重要性をどれほど認識していたかは疑わしい。それでも近年はそうした現実認識は強く、広くもたれるようになったのは、許代表の外交上の努力によるところが大きいのである。だからこそ外務省報道官から台湾重視と許代表評価の画期的発言があったのだろう。
政府、議員だけではない。民間に対しても許代表は、メディア、講演、執筆などを通じ、「台湾は台湾人の国」「台湾は日本の友人だ」「日台関係は重要だ」と訴え続け、その結果多くの日本人は「台湾は中国の一部ではないらしい」「台湾人は日本を親しく思ってくれている」と知り、そして「台湾人の国である台湾をもっと応援しなければならない」という気持ちを抱くことになったのである。
許代表はまた、台湾の国連加盟への支持も訴え、「国連に加盟できないのは中国の国際的なイジメがあるから。日本はイジメに加担するのか、それとも立ち上がってイジメを止めさせるのか」と問いかけつづけた。私もある講演会でその言葉を聞いたが、そのとき聴衆の間では大きな拍手が巻き起こった。つまり彼の日台関係強化の訴えは、日本人覚醒の訴えでもあったのだ。そのようなところにも、日本人の心を捉える許氏の魅力があったのではないだろうか。李登輝氏と同様に。
さて、許代表はなぜ辞意を表明したかと言うと、日台関係の修復のため奔走していた彼は、日本側が巡視船に落ち度があったことを認めて遺憾の意を表したことを受け、「日本は遺憾の意を表明した。『遺憾』とは謝罪を意味する」として、理性を失っている外省人勢力の反日煽動を沈静化しようとしたところ、逆に「日本の立場に立って発言している。台奸だ」と罵られたためだ。
この「台奸」とは、「台湾の裏切り者」を意味する侮辱言葉だが、許代表にとってこれほど許しがたいものはなかった。なぜなら彼は「裏切り者」どころか、生涯を台湾のために捧げてきた人物だからだ。一九五七年に日本に留学、早稲田大学、東京大学で学び、津田塾大学で教鞭をとった許氏は、じつは来日直後から中華民国体制(外省人=中国人による苛烈な台湾人支配体制)の打倒を目指す台湾独立建国運動に挺身すべく、東京で設立された台湾青年社(のちの台湾独立建国連盟)に参加し、そのため中華民国のブラックリストに載り、三十年以上も帰国できないまま、日本で闘争を展開していた。
やがて独立運動は日本から他の国々にも拡大し、それが台湾の民主化(台湾が台湾人の国になること)に大きく貢献したのだが、その後も許氏は台湾独立建国連盟の主席や建国党主席などに就任し、中華民国体制の解消のため戦いを継続した。そして民進党政権が発足し、二〇〇四年に駐日代表に任命された。台湾の外交上の苦境を打開するためには日台関係を発展させなければならないとし、日本を深く理解する彼は、あえて中華民国の「駐日大使」に就任したのである。そして就任後の活動は前述の通りである。台湾のため、身を粉にして任務を遂行し、その結果、今日の良好な日台関係があると言うわけだ。ところが「台奸」と罵られた。しかも罵ったのはこれまで台湾人を弾圧し、そして今や中国と提携して台湾売却路線を強化し、さらには重要な日台関係を大きく後退させようとする外省人の勢力である。すでに任期が切れ、後任が決まるまで代表を務めていた許氏は、「士可殺不可辱」(士は殺されること厭わずとも、辱めだけは受けない)とし、辞意を表明した。これを受け馬英九総統は「罵倒は政界では日常茶飯事」だとして「慰留」を行ったが、この中国人には台湾人である許氏の志はまったく理解できなかったようだ。
当時彼はメディアに対し、次のように語っている。
「この四年間の日本での任期中も、私は台湾はいかにして国際社会で生存を強化するべきかを考えてきた。米国には台湾関係法があり、日本には日米安保条約がある。日本と台湾の関係は非常に重要なのだ。もし台湾が中国の併呑されたらどうなる。台日関係を強化する人間が台奸なら、中国と往来している人間はどうか。その二文字は、そう言った人たちにお返しする」
許氏は七月十日に離任するが、産経新聞(七月八日)のインタビュー記事において、「国交なき日本ながら多くの人の協力で(台湾人への査証=ビザ=免除など)実現できた外交成果が多く、悔いはない」と語っている。日本側に台湾人観光客のビザ免除を決めさせたことは、実質的に台湾を重要な友邦と認めさせたことであり、さらに台湾人の日本訪問を促進して両国関係を大きく発展させるものである。これは明らかに許氏の外交上の成果である。
許氏の後任はまだ決まっていないらしいが、許氏ほど日本を深く理解し、日本人を魅了し、その上で日台関係の発展を根底で支えることのできる人物は、そうはいないかもしれない。つまり「台湾人によって日台関係が支えられる」時代は、いよいよ終わりを告げると言うことだ。しかも台湾は「親日台湾人の国」から「反日中国人主導の国」へと代わりつつある今日、日本の側が台湾への甘えを捨て、自ら進んで台湾に提携を求めていかないかぎり、「重要なパートナー」を繋ぎとめることはできなくなるだろう。危機感を込めて訴えたい。これからの日本人は中国の脅威の前で、日台関係において無為であってはならないのだと。
平成20年(2008年)7月11日(金曜日)弐
通巻第2253号
五輪テロ警戒は尋常ならざる状況。戦々恐々の裏返し
チベット活動家の遠戚まで北京から強引に国外退去させる
************************
英国籍だが人種的にはチベット人であるデチャン・ペンバ(三十歳)は、北京で弐年半にわたって英語教師をしていた。7月8日朝、突如、彼女のアパートへ九人の公安がやってきて、「家を出ろ、ロンドンへ帰れ」と告げ、パスポートと携帯電話を取り上げた。
荷物は一個だけ、午後のロンドン行きに乗れ、と。家財道具は? 返事はなかった。かわりに「以後、キミは五年間、中国への入国が禁止される」と一方的なお告げがあった。
何の嫌疑か、ペンバには分からないと「ロスアンジェルス・タイムズ」に語った(同紙、7月10日付け)。「たぶんチベット人の友人たちをアパートに呼んだから?」。北京の公安はそれ以上の情報を掴んでいたようで、五月に彼女が短期的にロンドンへ帰った折、アパートが踏み込まれた明らかな形跡があった。彼女の父はチベット人であり、ベルリンで人権運動に関与したこともある。叔父のツェリング・シャクヤは名の知られた作家で、『雪国にやってきた龍』(チベットを侵略したシナ人)の作者だ。
ペンバは在中国英国大使館へ電話もかけることが許可されず、最後の乗客として機内に入る直前にやっと携帯電話をパスポートを中国の公安が返してきた。それにしてもチベットの活動家の遠戚までを北京から強引に国外退去させるという行為は、テロ警戒が尋常ならざる状況であり、当局の戦々恐々とした心理の裏返しであろう。
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♪(読者の声1)許世楷代表の離日を見送りました。
10 日付で「駐日代表」職を離任した許世楷・台北駐日経済文化代表処・代表は「士可殺不可辱」(志士は殺されても辱めを受けず)の言葉を残して、日本を後にされました。大使ご夫妻をお見送りに白金台の駐日代表処へ、十日、11時頃に着いた時には見送り人も数えるほどでした。
ところが出発間際には大勢の人が駆けつけてくださってご夫妻と名残惜しそうにお話なすっておられる姿に、多くの方に慕われておられたご夫妻のお人柄がしのばれました。
初夏を思わせる今日にふさわしく、白に水玉模様のさわやかなスーツ姿の奥様が玄関から出てこられると期せずして、皆さん心からの拍手、台湾バンザイをさけんでおられる方もいらっしゃいました。
奥様はあら!というお顔をなすってご挨拶なさる方、教え子さんの数人を見つけて駆け寄られるご様子には気品が漂い教養が人間の立ち振る舞いをここまで気高く見せるものかと圧倒されました。
出発される時間が迫り来る頃にお顔をおみせになられた大使はにこやかで、辞任と言う形での離日でしたから、さぞお心残りもあるだろうと気にかけていた私はホッとしました。
台湾に帰られたら台北でなく生まれ故郷の台中に帰られて一市民として過ごされるとか。しばらくお休みになられて又日本と台湾のためにお力添えいただく日が必ず来ると信じます。馬政権に代わって、台湾でお目もじした方々が、公職を辞される方が多く寂しく思います。大使の、「士可殺不可辱」の言葉が日本人の多くの人に、今まで台湾の方たちにおんぶにだっこだった日本と台湾の友好関係を、これでは先行きとんでもない事になるぞ、日本の生命線である台湾との友好関係を今こそゆるぎないものにするためにも立ち上がらなければ、行動を起こさなくては、と奮い立たせてくださったように思います。鹿児島の西郷さんの像に似た風格が許世楷さんにはあり、奥様は古きよき時代の日本女性の奥ゆかしい中にも芯の強さのようなものを見せていただけました。許世楷代表は言葉がもつ強い意味を、奥様は日本女性の忘れかけている立ち振る舞いの「美」を残していって下さったように思います。お二人のご健康を、と願いながら遠のく車に「台湾共和国」と、台湾桜植樹ツワーで頂いた小旗を振りました。(FF子、小平)
(宮崎正弘のコメント)心のこもったお見送り、ご苦労様でした。小生儀、七日に個人的にお目にかかってお見送りを兼ねました。漏れ伺っている所では秋にシンポジウム出席のため来日予定がおありとか。
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平成20年(2008年)7月12日(土曜日)
通巻第2254号
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<<<< 今週の書棚 >>>>
戦争の現場体験から中国経済の鉄火場を観察すると、なぜ高額紙幣がこれほど多いのか、いくら出回っているのかを独自に算定
♪柘植久慶『中国大崩壊 世界恐慌のシナリオ』(学研)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
軍人の目から中国をみると、こうなるのかと柘植さんの軍事史学的なユニークな視点にはいつも驚かされる。戦地情報学、とでも言うのだろうか。柘植さんの前作品に最近の中国で高額紙幣が出回り過ぎている事実から、インフレの到来と深刻な通貨膨張を予見されていたが、こんどの著作には、この方面への独特な洞察がある。
中国の通貨、人民元は邦貨換算で390兆円ていど流通していると柘植式数学方式と理論は、あたかも戦場経済の裏側の作戦分析のようにはじき出すのである。こんなユニークな戦争経済学は訊いたことがなかった。つまり、柘植さんは通貨の番号の組み合わせから数式を成立し、発行枚数を絞り込んでいく遣り方。 日本のエコノミストや中国学者で、この視点はない。具体的にみると、紙幣に刻印されるナンバーは数字が六桁、頭にアルファベット26文字の組み合わせ。アルファベットが使用されるのは、数字が一文字で一桁なのに対して、一文字で二桁を稼げるためで、これは日本銀行券でも実施されてきた。
中国の紙幣はアルファベットについで、「アルファベットと同じ刷り色の二桁の数字があり、その後方に黒の六桁の数字が続く。つまりこれらはすべて合計すると262699999999が最大のナンバーとなる」柘植さんは個人的に2000年に入手したDA券が、07年にすでにTCまで進んでいた実体験から、出回っている通貨は邦貨換算でおよそ300兆円を超えていると推察する。
さらに独自の情報網を駆使して、
50元札 52兆円
20元札 21兆円
10元札 10兆円
5元札 5兆円
と類推の数字をはじく。戦場の於ける経済情報のイロハなのだろう。
ただし、小生はこれらの推測数字を鵜呑みには出来ないと思う。
第一に中国の通貨当局は偽札対策を講じているために、アルファベットの順番をパズルのように入れ替えているはずだから。
第二に、銀行における新札交換機能も、病原菌のまとわりついた汚い札びらの回収目的のみばかりか、たえず偽札への対応がある。このために必要とされる500元札、1000元札を、たとえ用意していても、流通に踏み切れない。インフレ防止だけではないようである。台湾でも1000元札は流通発表の十年も前から印刷準備されていた。
第三に中国人は昔から銀行預金よりタンス預金を好む。
市中の銀行より地下銀行を利用する特質が、この通貨の野放図な供給と繋がっているという日本では考えられない伝統。つまり銀行(公)を信用していないのだ。このため全法幣を毛沢東のデザインに改め旧札の回収を図ったが、いまだに旧札の流通があり、完全回収ができていない。
庶民の末端が銀行へ行かないからだ。
もう一つ。
日本側の最新データと比較しておく必要がある。08年6月の通貨供給量(M3)は1038兆5000億円。従来のM3統計から「ゆうちょ銀行」「農協」を除くのをマネーストック(日銀は五月からマネーストックを呼び替え)、つまりM2は738兆1000億円。同期の民間銀行の貸出残高は393兆0047億円(いずれも7月8日日銀統計)。
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♪(読者の声1)貴誌2234号の書評に樋泉克夫氏の『死体が語る中国文化』(新潮選書)の紹介があり、その中に次の一節がありました。「風水師がもしふさわしい場所の方角に公立公園を指定したら、平気で公園を掘って、棺をうめ墓を建てる。(中略)華僑には一度埋葬した棺を掘り出し、骨を洗い直して最埋葬する伝統がある。これはクーリ―(苦力貿易)でアメリカにわたって重労働のあげくに死んだ人を、仮埋葬ののち、七年後を目処に掘りかえし、骨を洗い直して、故郷へ送り届けた風習からだという。そういう専門業者が香港にたくさんいた。筆者の樋泉教授が実際に初めて目撃したのは四十年前の香港。「世界各地から送られてきた棺や遺骨はトランジットで立ち寄った香港の『死者のホテル』で小休止したのち、故郷へ戻った』と推測されるという」。これで思い出したのです。たまたま愛読している北方謙三の「望郷の道」(「日本経済新聞連載」。いま331回目)が、この情景を書いているからです。台湾でも、おなじ風習があったのですね。(MY生、大阪)
(宮崎正弘のコメント)じつは小生も北方謙三氏の同上連載を毎朝、楽しみに読んでいます。日経の連載小説といえば渡部淳一センセと決まっていたので、よまないことも多かった。間に連城三紀彦、阿刀田高、津本陽、堺屋太一の連載も挟まりましたが、いずれも手抜き。ところが北方謙三氏の連載は最初から力が入っていて、氏の代表作になるかも知れませんね。佐賀のやくざあがりの鉄火場経営者が、或る出入りで九州を追われ、ふらり台湾に渡って艱難辛苦のもとにキャラメル工場を始める。妻が追いかけてくる。戦場で片腕をうしなった弟が頼ってくる。ちょうど1895年(明治28年頃)から1904年(明治37年)にかけて、この物語りは進んできています。時代背景を雰囲気だけで漂わす力量のなかなかですね。地元のやくざや牛飼いと渡り合い、日本の台湾統治の担当者とやり合いながら、ついには本土へキャラメル逆上陸をはたすところまで、いま物語は進んでいます。後藤新平までふいに出てくる。この物語の過程ででてくるのが台湾の当時の葬送。棺をそのままにして、骨になって洗い直し、本格的埋葬をする。中華伝統と風水。主人公は台湾独自の伝統を尊ぶ姿勢を示しています。
♪(読者の声2)貴誌にも以前掲載されたオバマとヒラリーの共同戦線ですが、日テレでまたしてもそういう奇妙な場面を目撃しました。
米民主党の?資金集めパーテイでオバマが客にヒラリーに寄付してくれと呼びかけたのです。
指名争いを制した者が敗者に寄付を呼びかけるなど、聞いたことは有りません。余程ヒラリーに圧力をかけられているとしか思えないです。
それにしてもヒラリーは本当にお金に汚いですね。まるで支那人か朝鮮人のようです。(ND生)
(宮崎正弘のコメント)ヒラリーに限らず欧米政治家もおしなべて凄いですよ。カネと政治と権力とは、これに「おんな」を加えて、永遠の政治学のテーマでしょうね。
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【論説】許世楷・台湾大使が離任へー台湾人頼みの時代は終わった
永山英樹
ブログ「台湾は日本の生命線!」 http://
ブログでは関連の写真と動画も↓
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我が領海を侵犯した台湾の遊漁船が海上保安庁の巡視船と衝突して沈没し、台湾の外省人勢力が反日を煽るさなかの六月十七日、外務省報道官が外務省としては意外とも思える発言を行った。それは「台湾は多くの面において重要なパートナーだ」である。これが「意外」と言えるのは、まさに中国を最も刺激する言葉そのものだからだ。これまで中国への配慮で台湾には冷淡な姿勢ばかりが目立った外務省だが、敢えてそこまで表明したのは、やはり内心では日台関係が大きく損なわれることを恐れているからだろう。そして報道官は次のようにも語った。「次の駐日代表は今の駐日代表と同じような方が好ましい」と。
と言うのは、じつはその前日、台湾の駐日代表、つまり駐日大使の許世楷氏は台湾で、「駐日代表を辞める。政府は許可を」と訴える記者会見を行っていたのだ。外務省が台湾を「重要なパートナー」と言ったのは、実際にその通りであるからだが、実際には「平和ボケ」「日中友好バンザイ」との一種の思考停止情況に陥っていた政府や国会議員が従来、台湾の重要性をどれほど認識していたかは疑わしい。それでも近年はそうした現実認識は強く、広くもたれるようになったのは、許代表の外交上の努力によるところが大きいのである。だからこそ外務省報道官から台湾重視と許代表評価の画期的発言があったのだろう。
政府、議員だけではない。民間に対しても許代表は、メディア、講演、執筆などを通じ、「台湾は台湾人の国」「台湾は日本の友人だ」「日台関係は重要だ」と訴え続け、その結果多くの日本人は「台湾は中国の一部ではないらしい」「台湾人は日本を親しく思ってくれている」と知り、そして「台湾人の国である台湾をもっと応援しなければならない」という気持ちを抱くことになったのである。
許代表はまた、台湾の国連加盟への支持も訴え、「国連に加盟できないのは中国の国際的なイジメがあるから。日本はイジメに加担するのか、それとも立ち上がってイジメを止めさせるのか」と問いかけつづけた。私もある講演会でその言葉を聞いたが、そのとき聴衆の間では大きな拍手が巻き起こった。つまり彼の日台関係強化の訴えは、日本人覚醒の訴えでもあったのだ。そのようなところにも、日本人の心を捉える許氏の魅力があったのではないだろうか。李登輝氏と同様に。
さて、許代表はなぜ辞意を表明したかと言うと、日台関係の修復のため奔走していた彼は、日本側が巡視船に落ち度があったことを認めて遺憾の意を表したことを受け、「日本は遺憾の意を表明した。『遺憾』とは謝罪を意味する」として、理性を失っている外省人勢力の反日煽動を沈静化しようとしたところ、逆に「日本の立場に立って発言している。台奸だ」と罵られたためだ。
この「台奸」とは、「台湾の裏切り者」を意味する侮辱言葉だが、許代表にとってこれほど許しがたいものはなかった。なぜなら彼は「裏切り者」どころか、生涯を台湾のために捧げてきた人物だからだ。一九五七年に日本に留学、早稲田大学、東京大学で学び、津田塾大学で教鞭をとった許氏は、じつは来日直後から中華民国体制(外省人=中国人による苛烈な台湾人支配体制)の打倒を目指す台湾独立建国運動に挺身すべく、東京で設立された台湾青年社(のちの台湾独立建国連盟)に参加し、そのため中華民国のブラックリストに載り、三十年以上も帰国できないまま、日本で闘争を展開していた。
やがて独立運動は日本から他の国々にも拡大し、それが台湾の民主化(台湾が台湾人の国になること)に大きく貢献したのだが、その後も許氏は台湾独立建国連盟の主席や建国党主席などに就任し、中華民国体制の解消のため戦いを継続した。そして民進党政権が発足し、二〇〇四年に駐日代表に任命された。台湾の外交上の苦境を打開するためには日台関係を発展させなければならないとし、日本を深く理解する彼は、あえて中華民国の「駐日大使」に就任したのである。そして就任後の活動は前述の通りである。台湾のため、身を粉にして任務を遂行し、その結果、今日の良好な日台関係があると言うわけだ。ところが「台奸」と罵られた。しかも罵ったのはこれまで台湾人を弾圧し、そして今や中国と提携して台湾売却路線を強化し、さらには重要な日台関係を大きく後退させようとする外省人の勢力である。すでに任期が切れ、後任が決まるまで代表を務めていた許氏は、「士可殺不可辱」(士は殺されること厭わずとも、辱めだけは受けない)とし、辞意を表明した。これを受け馬英九総統は「罵倒は政界では日常茶飯事」だとして「慰留」を行ったが、この中国人には台湾人である許氏の志はまったく理解できなかったようだ。
当時彼はメディアに対し、次のように語っている。
「この四年間の日本での任期中も、私は台湾はいかにして国際社会で生存を強化するべきかを考えてきた。米国には台湾関係法があり、日本には日米安保条約がある。日本と台湾の関係は非常に重要なのだ。もし台湾が中国の併呑されたらどうなる。台日関係を強化する人間が台奸なら、中国と往来している人間はどうか。その二文字は、そう言った人たちにお返しする」
許氏は七月十日に離任するが、産経新聞(七月八日)のインタビュー記事において、「国交なき日本ながら多くの人の協力で(台湾人への査証=ビザ=免除など)実現できた外交成果が多く、悔いはない」と語っている。日本側に台湾人観光客のビザ免除を決めさせたことは、実質的に台湾を重要な友邦と認めさせたことであり、さらに台湾人の日本訪問を促進して両国関係を大きく発展させるものである。これは明らかに許氏の外交上の成果である。
許氏の後任はまだ決まっていないらしいが、許氏ほど日本を深く理解し、日本人を魅了し、その上で日台関係の発展を根底で支えることのできる人物は、そうはいないかもしれない。つまり「台湾人によって日台関係が支えられる」時代は、いよいよ終わりを告げると言うことだ。しかも台湾は「親日台湾人の国」から「反日中国人主導の国」へと代わりつつある今日、日本の側が台湾への甘えを捨て、自ら進んで台湾に提携を求めていかないかぎり、「重要なパートナー」を繋ぎとめることはできなくなるだろう。危機感を込めて訴えたい。これからの日本人は中国の脅威の前で、日台関係において無為であってはならないのだと。