よみがえれ美しい日本
ようちゃん、おすすめ記事。↓よみがえれ美しい日本(7月11日)
◎塚本三郎の「今を斬る」 G8の首相の姿勢
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「良いお天気ですね」「暑いけれどお体は大丈夫ですか」、久しぶりに対面する挨拶だ。人間対人間のつきあいは、自然や、天候を言い交わしておりさえすれば無難である。単なる時間つぶしの挨拶から始まる。お互いに、具体的な話に入り込めば、親身になって語り、時には自分の努力と苦労をもいとわず、相手の立場に立ち入って、協力することになる。それは、国家対国家の首脳会議(G8)も同様ではないか。
北海道洞爺湖サミット(主要国首脳会議)は、温室効果ガスの大幅削減。原油高の抑制。世界的な食糧価格の高騰。農業支援の連携等が話し合われた。地球上に住む人間にとって、何れも大切なこと、否、むしろ時間との闘いと云っても良い程の緊急の重大事である。しかし、その及ぼす処が、全地球規模であるだけに、それぞれの国情が違いすぎている。或る国にとっては極めて困った事例が、別の国にとっては、悦ぶべき現状となっていることもある。油の高騰、食糧の高騰は、G8の国々でも、内部事情は「天と地」程、相反しているのが当面の結果である。
長期的に、全地球的規模の立場では、このままが一番良いとは言うべきではないし、やがて将来はどうなるかも分からないから、表と裏を使い分けているのが実情であろう。
中国やインドは、更に露骨である。同じ地球に住む者にとっては、その必要は否定しない。しかし、今の処は、このままで行かなければ自分たちの国の発展は無理だ。俺達のことは見逃して欲しい。君達先進国はまず八〇~九五%削減せよ。とうそぶいている。既に公害に苦しんでいる中国は、自国の人民はどうなっても良いのか、と言いたい程の不遜ぶりで、その害は近隣諸国にも拡大しつつある。インドもやがて、先進国が次々と工場を移転してゆくことによって、中国と同様の問題を抱えるであろう。G8も、新興五カ国も、それぞれに、地上に於ける大切な仲間である。お互いに意識しつつ、そして警戒しつつも、徐々に足並みを揃えてゆかなければならなくなるであろう。
彼等の露骨な我がままが極大すれば、天は遠慮なく、不義と不善を大胆に裁いてくれる。現にその天誅を受けている国が中国である。「この世はやり得だ」は許されぬはずだ。既に中国の大都市の天空は晴天が殆どない。冷静に考えれば、「大自然の異変」そのものが天の裁きと呼ぶべきである。折角世界の主要国の代表が一堂に集まっている舞台を、日本国の伝統的長所や、科学技術の長所を、堂々と宣伝する大胆さが欲しかった。同じ目標を見つめている、宇宙船の同乗者として、主催国日本は、サミットの為に莫大な費用を使っているから、無事に、無難に、と心掛ける福田首相の態度は口惜しかった。
日本は、他国に無い「自然に優しい科学技術」を沢山持っているから、言うべきことは、堂々と主張し、協力もすると力説すべきだった。
とりわけ北方領土、竹島、東シナ海、等の国境問題についても、相手が嫌がっているからと、論及を避けたことは残念だ。事の成否は別にして、まずは遠慮なく力説すべきであった。国民はそれを期待した日本には、歴代の首相や、有為の外相経験者が健在で居られるのであるから。これ等の人々をも充分に、この場に活用できなかったことも残念至極である。
.松永太郎
本の紹介 秦 郁彦「現代史の虚実」(文芸春秋)、
小林よしのり「誇りある沖縄へ」(小学館)
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秦氏の本は、一章が「沖縄、集団自決の『神話』」に割かれている。また小林よしのり氏の本は、氏と沖縄の三名の方との討論で構成されており、秦氏の言われる「集団自決の神話」にも、多くの討論がなされている。どちらの本も読み応えがある。この2冊の本を通してだけでも、浮かび上がってくるのは、最近までの戦後日本の投影または縮図としての「沖縄」の姿である。この2冊の本を通じて見えてくる、沖縄を牛耳っている「メディア」および「アカデミズム(本土とほとんど同じ傾向)」に言いたい。あなた方が大好きだったお題目、「軍歌の響きが聞こえる」だの「ナショナリズムはよくない」だのを唱えていれば、業界を牛耳っていられた時代は終わってしまいましたよ、と。
そのようなお題目は、すでに「本土」では、政界や財界にいたるまで完全に「浸透」し終わったからである。ある意味では、「朝日新聞」だの「琉球新報」だのは、すでに完全に勝利した、とも言える。
そうでなければ、「国民」を拉致されて一人も取り返せず、しかも、その拉致した国が、日本を、その着弾範囲(というのかどうか知らないが)にするミサイルや、そのミサイル弾頭に明日にでも搭載可能な核爆弾を、どうぞ、もってください!大丈夫です!もっとお金あげます!となっても別に何も言わず、政府が国民から預かった金をどこかになくしてしまっても、誰も罰を受けることなく・・・以下、無限に続くが、というような「国」になるわけがない。つまり「朝日新聞」および、その、ご一統さま(朝日TV、共同通信、岩波書店、その他)が、願望しておられたとおり、日本の国民は、政府を始め、上から下まで、もはや「日本国民」という「アイデンティティ」(正体)をまったく失ってしまったか、あるいは愛想を尽かしており、何か自分が「地球市民」か「国際人」(って、いったいなんだろうか)のように思うか、思わなければいけないと、信じ込んでいるのである。拉致された同胞に対する同情などかけらもない。田原総一郎という現代マスメディアを代表すると自他共に認める人の言動を見よ!
秦氏の報告される「大江健三郎裁判」の判決が、それをよく証明している<大江様は、戦後マスメディアの標語である「こんな日本人になりたくない」と念願して、ノーベル賞を受けた日本人大嫌い人間である。彼こそメディアやアカデミズムにおける戦後日本のスターであった。日本人になりたくない、なりたくないと念仏のように唱えて、今日まで来た作家なのである。
この裁判の判決を見ると、法曹界すら、大江健三郎(ノーベル賞作家)を代表とする「戦後民主主義」にすっかり浸透されていることがよくわかる。「朝日新聞」は、NHKとともに、そのうち、「日本解放新聞」「日本解放放送」となるだろう。NHKのベイジン・オリンピック成功祈願キャンペーン(チャイナ中央宣伝部と連動している)が、その証拠である。
「戦後体制」が目の敵にしていた「ナショナリズム」の根源である「日本人としてのアイデンティティ」の基礎は、心配しなくても、もう根こそぎ、なくなってしまったと言えよう。いかなる社会集団も、それに対する帰属意識を、個々のメンバーが喪失すれば、崩壊する。日本では、アカデミズム、政界、財界などにおいて、日本人にはなりたくないと感じている人が、もはや過半数を占めているとしか思えない。
日本人のアイデンティティを構成する経験も知識も倫理観や文化(生活のスタイル)も消滅してしまったのである。これでは「日本」は、早晩、滅びるであろう(東アジア共同体なるものに組み込まれるだろう)。したがって「琉球新報」など、小林氏の本によれば、沖縄の「朝日新聞」をさらに過激化したような新聞社は、別に、なにも心配する必要はないように思われる。「集団虐殺の神話」などを、高校生を使って血眼になって守らなくても、遠からず、皆様が崇拝おくあたわざるチャイナの軍隊、つまりその名も「人民解放軍」が、「良かれと思って」(加藤千洋TV朝日ニュースキャスター)、あなた方を「解放」をしに、やってくるであろう。どうか「人、人、人の波」(朝日新聞の沖縄教科書デモに関する見出し)で歓呼して、迎えてあげてください。
ただ、本当にそうなったとき、それは生易しいものではないということをいっておきたいような気もする。大江健三郎のような「知識人」だの「媚中派」政治家が、まず真っ先に粛清されるのは、スターリンや、旧東欧の独裁者、ポルポトやマオがしいた独裁体制を引き合いに出すまでもなく「歴史が証明する」ところである。彼らは、旧体制のうち、自分たちに通じていた工作員およびその仲間を最初に抹殺するからである。ポルポト体制では、そんな面倒なことをしなかった。学校へ行った人はすべて殺された。そういうことを知らないのだろうか。チャイナでは、少しでも教育のある人は、再教育の名のもとに、下放された。下放というのは、要するに重労働で殺すことである。また、そうなったとき、アメリカ様が助けてくださるだろうか? くださるわけがない。そのことをはっきりと示しているのが、今度の北朝鮮への「制裁解除」である。何千年も続いた世界でも屈指の文化・文明は滅びようとしているのだ。
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3.松永太郎
本の紹介 「アラビアのスパイたち」 プリヤ・サティヤ (未訳)
Spies in Arabia Priya Satiya Oxford University 2008
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多くの賛辞に彩られた、この本は、スタンフォードの若い教授、プリヤ・サティヤ氏によるものである。かなりハードな文体(おそらく著者は、名前からインド系の人と思われる。インドの知識人の英文は、だいたい難解である)で書かれた、全400ページあまりの大冊なので、読み通すのに、骨が折れるが、拾い読みしただけでも、おもしろすぎるので、ご紹介したい。冷戦後の新しい歴史分野として「情報機関」の歴史がある。これは、一方では「陰謀史観」となり、一方では、公表された公式文書の中身をただ連ねるだけの無味乾燥な歴史となる。サティヤ教授の独創性は、この分野に、新しい視点から光を当てたところにある。それが「ポスト・コロニアリズム」の文芸批評の方法であった。
「ポスト・コロニアリズム」は、日本では、サヨク・アカデミズムの専売特許である。ほかに、そんなものに興味を持つ人がいないから、仕方がない。そのため、夏目漱石は、植民地主義者だった(だから、どうしたのだろうか?)、とか、ゴミくずのような「業績」しか残っていない。ある時代に生きた人間が書いたものを通して、その「意識空間」に光を当てる、という、現象学的な方法が、ポスト・コロニアリズムである。ジェーン・オースティンの小説に出てくる「居間」に接近してみる。すると、そこにオースティンもひそかに気がついていた「インドからの富」が、その「居間」を成り立たせていたことがわかってくる。これが「ポスト・コロニアリズム」の文芸批評の方法であって、別段、オースティンが帝国主義者だ、悪いやつだ、というためのものではない(われらが日本では、そういう文脈で紹介されている)。
サティヤ教授は、大英帝国の秘密工作員というものを成立させた想像力に焦点を当てている。「アラビアのローレンス」が、この場合、有名だが、それは彼の個人的な性癖、アメリカ・ジャーナリストの宣伝、そして、むろん、デヴィッド・リーン監督になる、あの忘れがたい映画など、いろんな要素によってそうなったのであって、今では、多くの歴史家、ジャーナリスト、その他の人々が、ローレンスを擁した、イギリスの情報機関「アラブ・ビューロー」の存在に気がついている。この「ビューロー」には、あまりにも、面白い連中がいすぎといえる。こんなところに、本を読む醍醐味を感じる。「アラブ・ビューロー」にいたのは、ガートルード・ベル、ハリー・セント・ジョン・フィルビーをはじめとして、一癖もふた癖もある、すごいやつらばかりであった。とくセント・ジョン・フィルビーが、すごい(満州で謀略を練った人たちも、このぐらいの気概があったのを、私は、直接、聞いて知っている)。ベルやフィルビーの動機はなんだろうか。それは一言でいえば「ロマン」である。この「ロマン」という言葉ほど、誤解されている言葉はない。今の日本ではほとんど「バカ」と同一語であろう。しかしフィルビーもベルも、そしてむろんローレンスも、そんな「バカ」ではなかった。彼らは、今すぐイギリスの外相、イングランド銀行の総裁、あるいはオックスフォードの欽定教授をやれ、といわれれば、やれる能力を備えていた。
こういった連中が、イラクの国境線を画定し、ハシム家と互角の戦いをし、ワッハビに改宗し、スタンダード石油その他を手玉に取った。この想像力の根源は、何か。それは反発するにしろ、しないにしろ「イングランドの誇り」なのである。サティヤ教授は、綿密に資料をあさり、こうしたすべてを明らかにしている。ご一読を。
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4.松永太郎
本の紹介 小林よしのり「パール真論」 小学館
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この本は、今、大きな書店では、たいがい平積みになっている。相当、売れているのだろう。それにしては、新聞・雑誌などのメディアの書評が少ない。おそらく、後述する理由から、この本の書評を依頼された人は、さぞかし困っているだろう。
この本を、別の角度から見てみると、日本(社会)の末期症状の一つの兆候が見えてくる。その意味でも、非常に興味深い。ここでは、そのことについて書いてみたい。マスメディアとアカデミズムの境界が無くなってくると、今まで人の言っていないようなことを言い出して、まずメディア受けを良くし、もってアカデミズムの世界で出世しようという野心家が、洋の東西を問わず、続出した。いわゆる「大衆化」である。
日本のアカデミズム(はっきり言えば大学)でも、これは最近の「少子化」のため、メディアで売れている人を「教授」にし、もって「なんとかパンダ」にしようとしている。ビートたけしは、立派な映画監督であり、また芸人でもあるが、それでも「芸術大学教授」である。このような「スター・システム」は、学者の経済生活向上には大いに寄与したであろうが、反面、アカデミズムの徹底的な堕落を招いている。まずメディアで売り出せ、これがアカデミズム・
メディア双方の戦略となっているからである。
かつては、学者になろうという人は、ご先祖から継承した、よほどの財産がなければできなかった。本を読んで遊んで暮らせる人でなければ、学者なんぞにはなれなかったのである。それが良いか悪いかという論議は別として、このような経済的な保証がなければ、「学問的な良心」を貫くことができなかったのは確かである。末は博士か大臣か、という言葉は、名誉という言葉が生きていた時代を思わせるし、さらには軍人や芸術家や、その他、さまざまな領域の人に対して名誉が配分されていたことを思わせる。今の先進国社会(日本を含む)では、経済的に成功するか、有名になるか、どちらか(だけ?)が渇望されている。ハーバーマスというドイツの社会学者は、文明の歴史を、その時代、「人間がもっとも渇望するものの段階」として分類したが、その文脈から言えば、現在の日本社会も、その他、先進世界でも、「他人から認知されること」が、もっとも渇望されているのである。アカデミズムとメディアの癒着は、その意味では、非常にわかりやすい構図である。
というわけで、小林よしのり氏のこの本では、中島岳志という
簡単に言えば、中島という若い学者を、出版社が売り出すため、最初に何か賞を送り、めでたく彼は「保守派の新人」として有名になったのである。その次にパール判事の判決書について本を書いたところ、今まで人の言わなかったこと、つまりパール判事の判決書は、「日本」それ自体を無罪にしたわけではない、ということを言ったので「これはいいや!」(今までの「右翼的」な保守派をやっつけることができる)というわけで、今をときめく学者だの評論家が、皆様、賛嘆これ久しくしたのである。ところが、その中の誰一人として(つまり、その道の専門家であるはずの「学者」がみんな)当の「パール判決書」を原文はおろか、翻訳にすら目を通していなかった、要するにぜんぜん読んでいなかった、ということが、この本を通して完膚なきまでに明らかにされているのである。とくに加藤洋子東大教授がひどい。また、何かの言論戦略があるのかもしれないが、西部邁先生も、これまでの名声を損なうような言論である。
これは、肉屋が産地を偽った、だの、大福屋が賞味期限を延ばした、だのよりも、もっとひどいスキャンダルである。
もちろん私は、日本のアカデミズム、メディアのすべてが退廃している、ということを言いたいのではない。むしろ、その逆で、立派な学者、尊敬すべきジャーナリストの数のほうが、数からすれば、多いであろう。しかし、このメディアと組んだ「スター・システム」は、どうしようもない腐臭を発している。早晩、崩壊するだろう。 その前に日本が、崩壊するかもしれない。