過熱する中学受験のリスク ~その2(日経・親野 智可等)
ようちゃん、おすすめ記事。↓(7月11日)
▼過熱する中学受験のリスク ~その2(日経・親野 智可等)
中学受験を正当化する一つの言い訳として、「不合格になっても、その間の努力は無にならない」という言葉がある。確かに、学力面からいえば、その間の努力は役に立つだろう。だが、代わりに何を犠牲にしているかも考えなければならない。その間に親子関係をしっかりと固めることができたかもしれないし、子どもが何か熱中できることや、自発的に興味を感じる勉強に出合えたかもしれない。ある、塾の先生がこんなことを言ったという。「6年生の夏休みは一生に1回のことなのだから、せみ取りなどをしていたら、負け組になるぞ」。その通り。6年生の夏休みは一生に1回だ。だからこそ、せみ取りをしてほしいとわたしは思う。小学校時代に友だちと走り回って、せみ取りに興じた楽しい記憶は一生残るだろう。お母さんたちが参加するインターネットの掲示板に、こんな書き込みがあった。「夏休み明けの9月に塾で知り合いのお母さんと話したら、1日も夏休みを取らずに勉強したと聞きました。我が家は3日ほど休んでしまって、とても焦りました」。
このお母さんは冗談ではなく、真剣な調子で後悔していた。夏休みに1日も休まないことの方がどれほど異常なことか分からなくなってしまうのだろう。
・「職業の選択肢を広げる」は大錯覚
お互いが競争の中にいると、自然とエスカレートし、どれほどエスカレートしたのか分からなくなる。「休みたいという気のゆるみが油断を呼ぶのだから、この時期ぐらいは1年間だけでも心を鬼にして子どもの尻をたたき続けろ」という塾関係者や親もいるだろう。大人にとってたった1年間だが、そんな異常なことを強制する1年間は十分すぎるほど長い。明らかに子どもは知らずにストレスをため、心に傷をつくるだろう。「1年間だけだ」と無理してがんばっても、子どもの一生は“中学合格”という大団円で終わるドラマではないのだ。その後が続かなければ意味がない。夏休みも十分に休み、遊び、そして集中的に勉強して入れる学校を目指せばいいのに、なぜ、無理して偏差値の高い学校に入れさせようとするのか。
よく聞く親の理由が「偏差値の高い中高から有名大学に入学できれば、将来の職業の選択肢が広がる」というものだ。これは親の錯覚の中でも「最大の錯覚」である。ここでいう「選択肢が広がる」ということは、いざ進路を決める段階になって、「さあ、あなたはなんでも選べますよ。弁護士、中央官庁官僚、銀行員、医者、なんでもやれますよ」ということだろう。だが、これは裏を返せば、その子には特にやりたいものがないということなのだ。これでは、結局、「どれにしようかな? う~ん、じゃあ、医者になろうか」ということになりかねない。大事なのでもう一度言うが、選択肢がいっぱいある子にするということは、特にやりたいことがない子にするということなのだ。これでいい医者になれるのだろうか? なれるはずがないし、患者の方こそいい迷惑だ。こういうやり方でも医者にはなれるし、弁護士にもなれる。だが、いい医者やいい弁護士になることはできない。どんな仕事も、なったときがゴールではなくそこがスタートなのだ。ずっとやりたいと思っていたとか、本当になりたくてなったとか、強い使命感を感じてなったとか、そういう仕事なら、そこからがんばれる。今まで以上の勉強や努力を惜しみなく続けていけるので、一流になっていくのだ。 だが、いっぱいある選択肢からなんとなく選んだ仕事では、そういうがんばり方はできない。それまでの20数年よりもはるかに長い時間を、たいした意欲もなくその仕事に従事し続けることになるとしたら、周囲も迷惑だし本人も不幸だ。
・過去問が解けても仕事はできない
中高大と、ずっと受験勉強に追われ、ずっと与えられた過去問題を解くだけで、自分のやりたいこともできず、見つける時間もなかった子が、いざ社会に出たときに自分でやりたいことを見つけることは難しい。与えられた課題を効率よく処理することはできるようになるかもしれないが、自分で課題を見つけたり、提案したり、企画を立て、人を動かし実行する力は育たないだろう。実際、有名大学を出たエリートのはずなのに、会社に入るとまるで役に立たないという人の話はよく聞く。わたしの知っている出版社のベテラン編集者も、「学歴はきらびやかだが、企画を考える力のない人が多い」と嘆いている。一般の企業でも同じだろう。
子ども時代に何かに熱中したり、遊んだりした経験がないと、自発的に関心や興味を抱いて、実行する力が育ちにくい。親がいくら「職業の選択肢を広げる」ことを金科玉条のごとく考えても、当事者に選択の動機がなければ猫に小判だ。昨年の話でこういう例がある。小学校6年生の子が博物館で開催されているインカ・マヤ・アステカ文明展を見に行きたいと言ったが、親は「そんな時間があるなら、過去問をやりなさい」と行かせなかったそうだ。もし、展覧会に行っていたら、その子は古代文明への関心を自分の中で大きく育てていくことができただろう。もちろん、その分野の研究者になるとは限らないが、一時期でも自分が熱中した経験はその子の中に宝として残る。何かに熱中して自分で深めることのおもしろさを味わい、その方法も身に付けるだろう。 このような自ら伸びる芽をつみ取り続け、小中高大学というように子どものころから受験受験で追いまくり、やりたいこともやらせずに育て続けて、成長した暁に「なんでもやれるよ。何を選んでもいいんだよ」と言っても、もう遅い。
・均一集団は人間関係力を弱める
難しい中学入試を突破し、入学してきた集団はほぼ均一の能力を持っている。優秀な友人たちに囲まれるからこそ自分もがんばるというメリットはあるが、一方で、中高時代を均一の集団に属するデメリットもある。人間の付き合いの幅が狭くなり、いろいろな人間との関係を構築する力が育たないのだ。公立学校はいろいろな生徒が集まってくる。優秀な子もいるし、逆にかけ算もできないような子もいる。その両極端がいる方が大事な人生勉強になる。ところで、わたしの母は糖尿病と高血圧に悩み、わたしは母に付き添っていつも病院に通っている。これまで3カ所の病院にかかったが、そのうちの2カ所の医者には驚いた。まともに患者と対話ができないのだ。
ある医者は、75才の母が病状を説明しようとしても、話を遮り自分の言いたいことだけを言う。しかも、患者と目を合わせることも少ない。パソコン上の検査データを見つめて、勝手に自分の言いたいことを言っているだけだ。「そうですか、それはつらいですね」という共感の一言さえない。その医者がパソコンを見ながらいった一言には、本当に驚いた。その医者はかなりの早口でこう言ったのだ。「しこうてきにけいこうとうよざいはどうでしょうか」。何のことか分からず、母はポカーンとしていた。わたしの方も、「歯垢? 蛍光灯? ‥‥あっ、そうか!」という感じで、彼が「試行的に経口投与剤はどうでしょうか」と言っているのだと分かるまでに、1、2秒かかった。文字にすれば分かるが、日常的に使わないそんな言葉を早口で言われたら、年寄りでなくても分からない。なぜ、「試しにこのお薬を飲んでみましょうか」と言えないのか。彼は幼小中高大とエリートコースを歩み続けてきて、これまで「試行的に経口投与剤」というような言葉がすぐ分かる均一集団の中だけで過ごしてきたのだ。小中時代にも、かけ算ができなかったり漢字が読めなかったりする友達と勉強したり遊んだりした経験は全くない。彼は、目の前の75才のおばあちゃんが「試行的に経口投与剤」と言ったとき理解できるかどうか考える必要性すら理解していないのだ。もしかしたら、こういう言葉が分からない方がダメだという傲慢な考え方も無意識で働いているのかもしれない。彼がどれほどの知識をもっているのかは知らない。だが、臨床医としては、まず患者の訴えを十分聞き、問診をして、相手が分かる言葉で病状や治療方法を説明するのが当然ではないか。つい3日前、母の白内障の検査のために眼科医に行ったが、そこでも同じようなことがあった。医者の問診力、つまり患者とのコミュニケーション力にはほとほとあきれることが多い。
・私立中学には志を持って進め
医者や弁護士だけでなく、あらゆる仕事が人間関係力やコミュニケーション能力を抜きには成り立たない。このことは働いたことがある者ならば誰もが知っている。学歴や知識だけでは仕事はできないのだ。そして、世の中には自分たちと違う知識、違う言語環境、違う価値観を持っている人々がたくさんいる。仕事をするということは、そういう人たちとコミュニケーションしていくということだ。医者は医療知識のない人を説得して積極的に治療に取り組むように動機付けをする必要があるだろうし、弁護士ならば罪を犯した人々と腹を割って話さなければならないときもある。これは過去問を解くようには簡単にいかない。 わたしたちは自由の社会に生きている。だから、自分たちはこういう人間を育てたい、こういう教育をしたい、こういう学校を作りたいということで、独自の建学の精神をもって私立の学校をつくり運営することは当然あっていいことだ。あっていいどころか、むしろ望ましいことだ。なぜなら、そこでは、多様な価値観の下での教育が可能になるからだ。そのような多様性が保障されない社会、この場合でいうと公立の学校しか存在しない社会というのは、恐ろしい。親や子どもの立場から見ても、ことは同じだ。わたしたちには、「我が子にこういう教育を受けさせたい」「自分はこういう教育を受けたい」と自由に選ぶ権利がある。だから、この場合でいえば、私立中学を自由に受験する権利があるのだ。そして、先ほどと同様、これも望ましいことなのだ。だが、今の問題は、そのような私立学校の持つ本来の価値とは別のところで、別のモチベーションによる異常な受験ブームが起きているということなのだ。
もう一度、わたしは以下のようなことを親たちに言いたい。
・ブームに流されず、受験産業のプロパガンダに踊らされず、長い目で大局観をもって本当に我が子のためになる選択をして欲しい。受験のプラスとマイナスを冷静かつ総合的に分析して、場合によっては、無理な志望校の変更や受験そのものからの勇気ある撤退も視野に入れて判断して欲しい。
・我が子の特質や実力をよく見て、もし受験を選択する場合も、決して子どもに無理な要求をしないで欲しい。健全な日常生活を送りながらの受験勉強で行けるところに行く、これで十分なのだから。
・成績が上がらないからといって、感情的にしかりつけたり雑言を浴びせたりしないで欲しい。生涯にわたるいい親子関係をつくる上で、今が一番大事な時期だということを改めて認識して欲しい。
次に、メディア関係者に言いたい。
・ネット、雑誌、新聞などで中学受験に関する記事を取り上げるメディアは多いが、内容は私立中学受験のメリットや「こうしたら合格した」という成功談ばかりだ。わたしが今回話したような中学受験のリスクに関する情報はほとんど表に出てこない。これでは公平性を欠いている。なかなか表に出てこない中学受験のリスクも取材して取り上げなければ、メディアといえないのではないか。
そして、受験産業関係者に言いたい。
・「自分の目の前にいる子どもとその親にとって、本当にいい選択肢はどれか?」と考えるハートを持って欲しい。そのために、自分のスキルやノウハウを活用して欲しい。
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ようちゃんの意見。↓
★・均一集団は人間関係力を弱める。の医師の言葉。「しこうてきにけいこうとうよざいはどうでしょうか」。何のことか分からず、母はポカーンとしていた。わたしの方も、「歯垢? 蛍光灯? ‥‥あっ、そうか!」という感じで、彼が「試行的に経口投与剤はどうでしょうか」と言っているのだと分かるまでに、1、2秒かかった。文字にすれば分かるが、日常的に使わないそんな言葉を早口で言われたら、年寄りでなくても分からない。所謂、専門用語でしか、語れない。又は一般人の使う用語で説明しがたいと言うことは 医師だけに限らない。業界専用用語はある。しかし、顧客に面と向かっては、普通は使わないが、この頃の若い人には多いのは、どの業界でも同じです。業界の中の金魚鉢の 中は確かに均一用語で通用する。思考までも均一になってると言う事は無いと思いたい。単に其処まで気が回らないのだと。
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