世界の農を拓いた日本人(3) by hideおじさん
▼▽ 心が元気になる話 ▽▼ by hideおじさん
☆ 世界の農を拓いた日本人(3) ――――――――― 2008/07/14
現在中国で生産されているサツマイモの多くが、日本からもたらされた種類であることを知る日本人は少ない。
2000年、江蘇省甘藷研究中心の研究者も、公式に「日本の芋が原型」と認めているが、たったひとつの芋に我々が知らぬ歴史が刻まれている。1605年、沖縄嘉手納出身の「野國總管」が中国より種芋を持って帰ったのが日本における「サツマイモの伝来」といわれる。 水田が少なく台風・旱魃など自然の厳しい沖縄では、このサツマイモが常食にされるようになっていった。
その後、サツマイモは鹿児島に伝わり、江戸時代においても青木昆陽らの努力により、飢饉の際多くの日本人の命を救ったことは有名である。
大正5年、沖縄農事試験場で汗を流すひとりの若い技術者がいた。
松永高元、後に彼は「昭和の野國總管」とまで呼ばれるようになる。戦中・戦後の食糧難の時代「日本の食の救世主」とまで言われ、多くの国民を救ったサツマイモ「沖縄100号」を世に出した人物である。
沖縄は、世界に先駆けてサツマイモの近代的な育種を始めた土地である。
松永も、新たな試みに胸を躍らせ故郷鹿児島より沖縄へ向かった。しかし時代は単純な食料増産のみを許してくれたわけではなかった。サツマイモから作られる工業用アルコールは航空燃料にもなり得えることから、いかに効率よく、且つ大量に収穫できるかが重要であった。松永も国策に沿って品種改良に取り組んでいた訳だが、とにかくその数が半端ではない。 昭和14年までの在任中、交配した花の数だけでも49万以上、採取した種16万粒以上。
全く寝る暇もなかったというのはあながち誇張ではない。多忙の中、育てていたのが「沖縄100号」であった。このサツマイモは、昭和9年に誕生したのだが、肥料不足の時代、やせた土地でも栽培し易く、早掘りに適し、多収であることから、食糧難が叫ばれた昭和13年以降、別種「靖国」と共に全国栽培面積の36%を占めるようにまでなる。私たちの父母が子供の頃、口にしたであろうサツマイモのほとんどが松永の沖縄100号であったといっても過言ではない。
しかし、この「沖縄100号」は日本だけに留まってはいなかった。海を渡りその活躍を満州にまで広げたのである。それも日中戦争の最中である。当時「華北交通」はゲリラの鉄道破壊に悩まされていた。
そこで考えられたのが地元農民の協力であるのだが、その住民宣撫に役立ったのが何あろう「沖縄100号」であった。
華北交通は、鉄道路線近くに「愛路農場」という農事試験場をつくり、地元農民を呼んで、日本のものを含めた農作物の見本市を開いたり、農業技術の講習会などを催した。ーーーこれが功を奏したのかゲリラ活動は随分と少なくなったというこの自然厳しい満州の土地に、まさに根を張ったのが「沖縄100号」なのである。今も昔も農民の生活は厳しい。そんな満州農民の食料、そして生活資金を得る糧として、さらには長征途中の中国共産党員の命を繋ぐ糧として「沖縄100号」は国境を越え人々に愛されていった。
後に毛沢東は、「沖縄100号」の名を次のように変えた。「勝利100号」中国共産党勝利の陰に、日本のサツマイモがあったことを知る人はいない。= おわり =
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