地球温暖化で裨益するロシアの野望 (らいぶドア・ニュース・佐藤優) | 日本のお姉さん

地球温暖化で裨益するロシアの野望 (らいぶドア・ニュース・佐藤優)

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▼【眼光紙背】地球温暖化で裨益するロシアの野望 (らいぶドア・ニュース・佐藤優)

佐藤優の眼光紙背:第33回
洞爺湖G8サミット(主要国首脳会議)で、各国が地球温暖化対策と本気で取り組んでいると思うと大きな間違いを犯す。特にロシアについては、地球が温暖化することによって、これまで氷の壁に包まれていて調査することすらできなかったツンドラ地帯の地下や北極海海底に眠っている天然資源の開発が可能になる。昨2007年7月下旬から8月初旬、ロシア国家院(下院)副議長を隊長とする調査隊が海洋調査船「フョードロフ・アカデミー会員」号で北極圏を探査した。同年8月2日、「フョードロフ・アカデミー会員号」の積み込んだ深海潜行艇が北極点にチタン製のロシア国旗を置いてきた。潜行艇のロボットアームでロシア国旗が置かれる様子がロシアのテレビで報道され、国民の大喝采を得た。南極は、1959年の南極条約で領有権の主張が凍結され、資源開発が禁止されている。これに対して、北極については、何の縛りもない。少し乱暴な言い方をすれば、「早い者勝ち」の状態にある。実は、ロシアの狙いについては、1年前に朝日新聞が鋭い分析記事を掲載している。少し長くなるが、重要な部分を引用しておく。

<今回の探査が国威発揚に一役買ったことは確かだが、ロシアのより大きな狙いは、北極海海底に眠る膨大な資源の開発権を確保することにある。
海底の石油・天然ガス資源は全世界の未発見分の4分の1とも石油換算で1千億トンとも言われる。ダイヤモンド、金、プラチナ、マンガン、ニッケルなどの豊富な鉱床もあると見られる。冬は厚い氷に閉ざされる北極海の深海底を、今すぐ開発するのは難しい。しかし、資源大国として国力を急速に回復したロシアにとって、将来の供給源の確保は至上命題だ。旧ソ連時代には自国の北極海沿岸から北極点に至る扇形の海域全体に主権を主張するなど、北極への野心には長い歴史もある。加えて、地球温暖化で北極圏の氷が減りつつあり、資源へアクセスしやすくなったことが、くすぶっていた野心に火を付けた形だ。
ロシアの現在の主張はこうだ。ロシア北極海沿岸の海底から北方に延びている海底の山脈、ロモノソフ海嶺(かいれい)とメンデレーエフ海嶺は、地質学的にロシアの延長であり、海底資源の開発権はロシアに帰属する――。広さにして約120万平方キロ。日本の総面積の3倍を超える。今回の海底探査で土壌サンプルを採取したのも、これを裏付ける目的だ。主張の根拠は、海の憲法とも呼ばれる国連海洋法条約(94年発効)だ。沿岸国との地質学的なつながりなど一定の条件を満たした場合、沿岸から200カイリの排他的経済水域を大きく超える範囲が「大陸棚」として認められ、海底の天然資源の開発の権利を独占できる。ただし「大陸棚」を設定するためには、条約に基づいて置かれる国際委員会に申請して認められなければならない。ロシアは01年12月に一度申請したが、論拠不十分として却下され、詳細な調査結果を再提出するよう求められていた。今回の北極探査には、こうした事情もあった。>(2007年8月22日朝日新聞朝刊)

また、北極海の氷が薄くなったことにより、簡単な砕氷機能のもつ船舶ならば、冬期を含め北極海を航行することが可能になる。そうすると、スエズ運河経由と比較して、ヨーロッパ、北太平洋航路が約8000キロメートルも短縮されることになる。その辺をにらんで、ロシア企業が、北海道の稚内港や小樽港などの港湾施設を購入することに関心を示している。資源大国であるロシアの政府系投資ファンドは16兆円もの資金をもっている。ロシアによる「日本買い」が本格化する可能性がある。京都議定書が締結された1997年時点は、冷戦終結の余韻がさめず、各国が自国の個別利益を抑え、国際協調が可能であるという雰囲気が主流だった。筆者の理解では、現在、各国は露骨に自らの国益を追求する帝国主義的な外交をとっている。特に資源がからむ問題になると帝国主義的傾向が一層強まる。地球温暖化によって裨益するロシアの野望を正確に把握しておく必要がある。(2008年7月7日脱稿)
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ようちゃんの意見。↓
★北国ロシアが 温暖化大歓迎なのは 当然ですね。北極海の海底資源の独占へ 布石を打ち始めてる。そうなると日本への南下政策を止めて、6カ国協議で北朝鮮へ、関心を向き変えてくれる事を せめて期待したくなる。
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▼ロシアのアルメニア人(連山・松緒錦江)
日本に帰国してしまうと、流石にアルメニア人に出会うことは皆無であるが、広いロシアで出会った人々の中で不思議な親近感を感じたのが、このアルメニア人であった。なぜ、敢えてアルメニア人なのかというと難しいが、比較的大都市で人間不信の(近所付き合いもしにくい)ところで一番開放的に受け入れてくれた最初の人がアルメニア人だったことは、偶然ではないと思う。(しかも偶然だが、彼らのアパートの部屋にはパリ在住時代に日本人画家から買った油絵が掛かっていた。)また、現地で聴いた数ある民族音楽の中でも最も心の琴線に触れたのが、アルメニアの父とも呼ばれる、ジバン・ガスパリャンのドゥドゥクの音(これが恐ろしく日本の尺八を情熱的にしたような音なのだ!)だったり、シャルル・アズナブールやハチャトリヤンの音楽から受けた影響も計り知れない。実際問題、たとえ首都モスクワでもアルメニア人は多数派とは決していえない。コーカサスの国々から来ている人々は一見して分かる風貌をしているが、アルメニア人はその中においても際立った特徴があるように思える。見た目だけでなく、性格もずばぬけて活発でラテン的なように感じた。子供を見ていても、ロシア人よりも数倍表情の変化が激しく、しかも眼差しに才気があったように見受けた。もちろん、混血している人たちは必ずしも黒髪に黒い瞳というわけではない。
たとえば、ヨーロッパにも相当数アルメニア人が潜在的にいるらしい中でも、最も有名と思われる人にフランスの文部大臣クラスまで出世したシャルル・アズナブールというシャンソン界の大御所がいる。この人なども両親の命名したアルメニア風の本名があまりにも難しいから、勝手に生まれたときに看護婦か誰かフランス人向けに「シャルル」とされ、さらに苗字の「アズナブリヤン」も「アズナブール」にされてしまったという話だ。このアズナブールの風貌こそ、まさに典型的なアルメニア人といえるだろう。

また、ソ連が崩壊するまでは、アルメニアもグルジアもアゼルバイジャンも今ほど仲違いしていなかったらしいが、現アルメニアの政治的立場はこの三国でも最も劣悪であると考えられる。そのためか、あるいは民族的な歴史問題か、周辺両国民から極端に毛嫌いされており、知人のグルジア人などは話題に欠いて沈黙が走ると、ブラックユーモアで「ほらまた、アルメニア人がどこかで生まれた!」と言っていたくらい、北オセアチア問題絡みで嫌われているし、アゼルバイジャンでは領土問題のために非常に立場が悪い。その上、最近ではトルコで、過去のトルコ人によるジェノサイドについて書いていた文筆業のアルメニア人が暗殺(?)される事件まであって、まさに周囲ぐるりに、まるで味方がない状態に近い。当然、ユダヤ人のように流浪の民アルメニア人が世界に散らばって、数の多い国で団結して、なんとか本国の状態を維持して、自分たちの同胞に有利に働こうとするのは無理もあるまい。ただし、映画の世界ではカルト的に有名なセルゲイ・パラジャーノフという人が驚くべきことに、アルメニア人でありながら、グルジアの首都で生まれて、両国の文化を映像化した魅惑的なフィルムを撮影している。この人の映画というのは、真剣に映画芸術に関心を持つ人の間では、一種伝説的な存在である。なぜなら、彼のような映像を撮った人は世界中どこを探してもいないだろうし、ソ連時代の映画教育を受けながら、その影響を最小限にして、完全に自分の世界を作り上げているからだ。私自身、映画の専門家とはいえないながらも、ソ連時代の映画をかなりの本数見れば、大方その映画手法というのは非常に厳格なカメラ位置や、それぞれのコマのモンタージュなどのエイゼンシュテインをお手本とする流れに基づいて撮られたものがほとんどだと感じる。そんな中で、パラジャーノフは完全な例外であり、完全にそこから自由なのだ。これは、驚くべきことでありながら、同時にアルメニアやグルジアなどの古代文化圏ともいえるような紀元前からの伝統文化を受け継ぐ芸術家としては、当然の現れなのかもしれない。

しかし、当時のソ連の社会主義政権下でこのような天才的な芸術家が辿った運命というのは例外がほとんどない過酷なもので、パラジャーノフも長い間投獄されることになる。既に海外での名声を確立していた彼は、イタリアのフェリーニやヴィスコンティ、フランスのゴダールやトリュフォーなどの抗議行動によって図らずも自由の身になるが、生前に残した映画の本数は非常に少ない。それでも、不屈の精神で獄中でもゴミ屑のようなものから芸術作品を制作するなどして、今もその足跡をアルメニアの首都エレバンにある博物館で見ることができる。ところで、このようなアルメニア人芸術家を並べると数限りなく感じるほどだが、とりわけ私自身がアルメニア人に聞かされて驚いたのは、ロシアの美術館で見ることができる有名な画家も、ロシア風の苗字になっていても実はアルメニア人という場合が少なくないことである。また、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館の館長もアルメニア人だった。やはりなにかと芸術方面に研究分野でも秀でた人が多いようだ。どこまで本当かは調べ尽くしていないが、モスクワ市庁舎の前に銅像が建っているドルゴルースキーだったかも、無理矢理ロシア人の都合で改名されているが、アルメニア人だとかいう話もあるくらいだ。実際、モスクワ地下鉄の駅名になっているバグラチオーノフなども、グルジア人に言わせると、明らかにグルジア系の貴族だというから、色々と歴史上の改竄はロシアという国では多々ありそうだ。(レーニンの成績・卒業証書然り)

一方で、グルジアのゴリ出身のスターリン、(実際にはグルジア人でなく、少数民族のアセチア人の可能性もあるらしい)モスクワにいながら、グルジアの食品を取り寄せるなど、大変なグルメだったといわれている。人種的にまさに同じコーカサスの地の利を生かしてスターリンとの関係を利用したと思われる有名なアルメニア人政治家がおり、この人の子孫が今もモスクワで大々的に食品加工業を営んでいる。有名なアナスタス・ミコヤノフスキーである(英語のウィキペディアでもかなり詳しく解説されている)。まさに、ソ連時代にあって、彼のように82歳まで無事健在で子孫代々に渡って立派な墓までノボデービッチ修道院に維持できているような男は他にいないと思われる。奇しくもミコヤノフスキーの墓というのは、スターリンの妻であった人の墓とほぼ隣り合わせていたが、それより立派であった。
このミコヤノフスキー、略歴だけ見ても、アルメニアの寒村サナヒリで生まれ、グルジアで学を受け、アゼルバイジャンの首都バクーで赤軍運動に参加して逮捕されるも脱出。それから、レーニン死後にスターリンの権力闘争に加担した、まさに勝ち組であり、見事粛清の対象とならなかった。(むしろ、先導していた側か?)
しかも、スターリンが亡くなった後、フルシュチョフの政治的に「雪解け」といわれた時代にも見事権力の座に復活し、むしろフルシュチョフを書記長の座から追い払ったとまでいわれているらしい。外交面でもキューバ(当時、チェ・ゲバラとも面会、一緒に撮った写真まで残っている)やアメリカを外務大臣として歴訪して、数々の歴史的場面(ケネディー暗殺後の葬儀に出席)に遭遇しており、冷戦時代の立役者でもあったようだ。また、弟はロシア空軍でMIGと呼ばれる戦闘機開発に関わったエンジニアであったという。
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★アルメニア共和国(―きょうわこく)、通称アルメニアは西アジアに近接する国。首都はエレバン。黒海とカスピ海の間にある国で、西にトルコ・北にグルジア・東にアゼルバイジャン・南にイランとアゼルバイジャンの飛び地がある。1991年12月にソビエト連邦 の解体により独立した。ナゴルノ・カラバフをめぐってアゼルバイジャンと、歴史認識をめぐってトルコと激しく対立している。またノアの箱船が漂着したというアララト山はよく知られている。日本人の殆どは、「アルメニア共和国」の事なんて知らないだろう。殆どの人は「アルメニア」なんて聞き慣れない国名、聞いた事も無いと思う。だけど、トルコと今も紛争続けてる。「アルメニア虐殺事件」が起きてる。所謂火薬庫の1つの国です。アルメニア社会は基本的に「アラブ社会」である。アルメニア自体、何かの間違いでキリスト教を受容したが、社会構造や、殆どのアルメニア男性の性格そのものは非常にアラブ的である。「アラブ社会」とは何か?ソレは強烈な「男尊女卑社会」だという事です。