【連載】日本よ、こんな中国とつきあえるか(12) | 日本のお姉さん

【連載】日本よ、こんな中国とつきあえるか(12)

【連載】日本よ、こんな中国とつきあえるか(12)
    台湾人医師の直言  著者 林 建良
第2章 台湾から見た日本および日本人  
争いを避けたがる日本人に平和は守れない

4、木を植える日本人と木を伐る中国人
●阿里山鉄道は掠奪資源の運搬用だったと教える国民党教育
台湾の中央に、二〇〇〇メートルを超える山々からなる中央山脈と呼ばれる山岳地帯がある。そのなかに阿里山という山があり、この阿里山には、台湾人が「神木」と呼ぶ樹齢何千年という檜や杉の巨木がたくさんそびえていて、日本でもよく知られている。この阿里山でもう一つ有名なのは、台湾で唯一の高山鉄道「阿里山森林鉄道」である。阿里山森林鉄道は日本時代の一九一二(明治四五)年に敷設された鉄道で、当時、日本初の山岳鉄道だった。

われわれ戦後世代の台湾人はこの阿里山森林鉄道について、学校では「日本が台湾の貴重な檜や杉を伐採するために敷いた鉄道だ」と教えられた。国民党教育では、日本は台湾の資源を掠奪するために作った鉄道だと教えていた。当時の私はこの教えを信じて疑わなかった。日本が台湾を領土としたのは、台湾の資源を持ち出すためだったと思っていた。

 しかし、日本に来て、日本人の自然に対する対応を見ていて、日本人は植物を大切にする民族であることを強く感じた。日本人は猫の額ほどの小さな庭でも、木や草花を植えている。土地さえあれば植えているという印象だった。しかも、無造作に植えているのではなく計画的であり、また非常にていねいに手入れをする。あたかも家族に接するように大切にしているのである。

このような日本人を見ていて、果たして私が受けた教育は本当だったのだろうかと疑いはじめた。われわれ戦後世代の台湾人は、恥ずかしいことだが、台湾の歴史についてはほとんど無知に近いといってよい。私は日本に来てはじめて台湾に関する歴史資料などを読み漁った。そこでわかったことは、清朝が台湾を統治していた約二〇〇年間、木を伐採することはあっても、植林はいっさいやらなかったという事実だ。入りにくい高山は除いて、平野の森林をことごとく伐採してしまったのである。

逆に、清朝のあと一八九五(明治二八)年に台湾を統治した日本は、日露戦争に勝った一九〇六(明治三九)年から造林事業を奨励していたのだ。台湾総督府では毎年、一〇〇万本余の苗木を無償で配布し、補償金まで交付して造林事業に力を入れていたのである。

このように、日本が統治する以前の台湾では樹木がほとんど伐採されてしまったため、山の保水力が極端に落ち、ちょっとした雨でも大水が出たり山崩れが起こったりしていた。「イラ・フォルモサ」(麗しの島)と呼ばれた台湾の面影は消えてしまっていた。ところが、日本はどんどん造林し、たとえば一九四三(昭和一八)年には五〇七カ所で植林していて、阿里山鉄道にしても、伐採した檜を運搬する役目も果たしたが、それは決して掠奪するためではなかった。また植林・造林事業に果たした役割も大きかったのである。今の日本でも自然を維持しながら伐採し植林しているが、当時もほぼ同じ姿勢で臨んでいたのである。

●美しい並木を伐ってしまった蒋介石軍
歴史から見ても、たとえば鎮守の森に見られるように、日本人は木を植え、木を育てることを大切にしてきた民族である。台湾に関して言えば、台湾総督府の都市計画に基づいて作られた台湾の都会の道路という道路は美しい並木道だったという。ところが、一九五〇年代、私が小さいころにはそのような並木道はほとんどなくなっていた。戦後、中国から蒋介石の軍隊が台湾に入ってきたとき、この並木を伐ってしまったのである。

蒋介石軍がまず最初に取りかかったのが並木の伐採だった。木の陰に誰が隠れているかわからないから危険だ、という訳だ。伐った並木は薪にもできるから一石二鳥、という理由だった。これが中国人の考え方なのである。こうやって中国人は資源を破壊してきたのである。

中国には人を励ますときによく使う「人定勝天」(ズンディンスンテン)ということわざがある。人間は天に勝つように定まっている、すなわち「難題は必ず克服できるから頑張れ」と言って励ますのである。だが、この言葉の原義は、人間は「天」すなわち自然を征服できるという意味であり、中国人は、自然は人間に利用されるためにある、征服されるためにあると考えるのである。
 
先にも触れたように、生き物はすべて食べ物とするのが中国人である。植物にしても、いかに利用するか、それ以外なにも考えていない。自然を尊重し、自然と共生するなどという概念はなく、そういう発想もしないのが中国人なのである。

●まったく正反対の日本人と中国人の生命観
今は便利なことに、インターネットで衛星写真を自由に見ることができる時代になった。これで、中国と日本を比較してみれば一目瞭然だ。日本はきれいな緑色に映し出され、中国はほぼ全土が茶色っぽく映し出される。中国から緑、すなわち森林や植物が消失していることを如実に示している。

中国人は自分さえよければいいと考える民族だ。自分の短い人生のなかですべての自然を使い尽くしてしまったとして、なんの痛痒も感じないはずだ。自分の目を楽しませる樹木や草花なら植える。それも、食糧や薪にしてしまうことを考えながら植える。後世に豊かな自然を残すなどということはほとんど考えていない。また仮にあったとしても、自然と共生するなどという考えは皆無といってよい。私が台湾で教えられた日本人像をひと言で言えば、「残虐かつ残忍な日本人」であり、逆に「平和を愛し、寛容な中国人」という比較だった。日本に来て初めて、それがまったく逆だったことを知った次第だ。

日本人は、たとえば国の特別史跡・特別天然記念物となっている日光の杉並木や、世界遺産に登録された屋久島の縄文杉などへの接し方にもよく現れているが、木の一本一本に対して慈愛の念をもって接し、畏敬の念を示している。これは、日本人に生命に対する畏敬の念があるからにほかならない。虫の音を楽しみ、樹木や草花にも命を感ずる、日本人ならではの生命観であるといえよう。

その点で、中国人は日本人とまったく正反対の生命観を持っていることは第1章でも縷々述べたところである。親族以外の人間はすべて利用の対象であり、自然も例外ではない。中国人の目には、虫や草花は食べ物や薬材としか映らない。まさに日本人の生命観とは対極にあるといってよい。

樹木の生命は人間より長い。植林したところで、自分が生きている間に利用できるとは限らない。それでも日本人は百年後、千年後のために黙々と木を植える。ところが、中国人は樹齢何千年の巨木であろうと、美しい並木であろうと、自分が薪として使いたいとなれば平気で伐ってしまうのである。われわれ台湾人は、そのような日本人と運良く五〇年間暮らし、そのような中国人と不幸にして六〇年間付き合わされ、併呑の危機にもさらされているのである。
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【レポート】日本初!南モンゴルデモ行進大成功!
「倒中国共産党」より 
http://dadao.kt.fc2.com/ron154.htm
上のページでは約30枚の写真や動画もご覧になれます。

6月25日に行われた東トルキスタンのデモ行進が大成功に終わったことを受けて、7月5日、今度は南モンゴルのデモ行進が行われることになった。午後1時、集合場所の六本木三河台公園には予想を大幅に上回る150人が集結した。ミュージシャンの江村氏の司会で集会が始まり、国際政治学者の殿岡昭郎氏、世界ウイグル会議日本代表のイリハム・マハムティ氏、台湾研究フォーラム会長の永山英樹氏、モンゴル自由連盟党のダシイ氏、東京都議会議員の吉田康一郎氏らが演説を行った。

皆短い時間で要点をまとめたすばらしい演説を行ったが、今回は南モンゴルのデモ行進なので、ダシイ氏の演説の内容を紹介しよう。かつてモンゴル人は世界中を征服する大帝国を築いたが、諸民族の文化や習慣を破壊したりはしなかった。
今度は満州人がモンゴルを征服したが、モンゴルの言語、文化、宗教が破壊されることは無かった。だが1947年に南モンゴルが中国人の支配下に入ると、多くのモンゴル人が中国人に同化させられ、現在でも毎年モンゴル語の小学校が強制的に閉鎖させられ、モンゴル文化は絶滅の危機に瀕している。また自然破壊も深刻だ。中国共産党による60年間の自然破壊が無ければ、黄砂が日本や韓国やアメリカにまで飛ぶことも無かったであろう。もうひとつ、人権弾圧も深刻だ。当初南モンゴルのリーダーたちは、満州王朝に対すると同じく、協力すれば弾圧されずに済むだろう考えていたが、文化大革命ではモンゴル人のエリート層、軍人、教師、知識人約6万人が虐殺された。こうして約半世紀の間、モンゴル人は恐怖に慄いて黙っているしかなかったのである。しかし今、モンゴル人の若い世代が再び声を挙げようとしている。ぜひ日本の皆さんにも、チベット、東トルキスタンと同じく、南モンゴルを支援してほしい。
午後1時半、デモ行進がスタートした。参加者はモンゴル支持を訴える横断幕や、各国の国旗をプリントしたプラカード、さらにはモンゴル文字で書かれたユニークなプラカード掲げながら六本木通りを行進した。シュプレヒコールは前半は卯里氏が、後半は吉田康一郎都議会議員が担当し、「南モンゴルに自由を、南モンゴルに人権を」「北京オリンピック反対」「我々は中国共産党政権と戦うぞ」「フリーモンゴル、フリーチベット、フリーウイグル」「中国共産党の少数民族弾圧に反対!」などのシュプレヒコールを叫んだ。

約30分の行進の後、笄公園に到着し、デモ行進は終了した。参加者は若い世代が多く、男女比も同じぐらいであった。この日は拉致被害者奪還国民大行進、国民の声を聞けデモ行進などがほぼ同じ時間帯に予定されており、参加者がどの程度集まるかが懸念されていた。また、南モンゴルの認知度がまだまだ低いうえに、発表されたのが1週間前だったこともあり、今回は50人程度というのが大方の予想であった。ところが蓋を開けてみれば150人もの正義感溢れる有志たちが集まり、大成功のうちに終わったのである。やはり3月14日のチベット騒乱以降、世の中の空気が大きく変わったと思う。5月6日のフリーチベットデモ行進は4000人という大規模なものであったが、そんなチベット関連でさえ、騒乱直前の3月8日に新宿で行われたデモ行進にはわずか120人程度しか集まらず、集会開始時には司会者が「ちょっと集まりが悪いみたいですが、とりあえず時間ですので始めたいと思います」と言っていたのが随分昔のように感じる。それが今では南モンゴルのデモ行進でさえそれを上回る人数を動員できるようになったのである。

5月の中旬以降は四川大地震などもあって各国政府、マスコミは中国政府批判を控えるようになったが、中国共産党は残虐行為をやめたわけではない。今後も抗議活動は止めるべきではないし、息切れすることはないだろう。今、様々な勢力、団体が結束して中国共産党暴虐独裁政権に対抗すべしという共通認識ができつつある。そのため、チベット関連のデモ行進で東トルキスタンの旗が振られたり、人権聖火リレーで各国の旗が振られたりするようになった。また、中国共産党の悪徳行為は実に多岐に渡るので、抗議の内容やデモ行進のテーマも多様になっている。私が3年前に書いた文章で、「東京はありとあらゆる反中共活動の拠点となりつつある」と書いたのがついに現実となったようだ。今後は北京オリンピック開幕を一ヵ月後に控え、さらなる抗議活動が計画されている。実際にオリンピックが始まれば日本選手たちは中国人サポーターから激しく下品なブーイングを浴びせられて日本国内でもますます抗議の声が上がるであろう。

また、私はオリンピックが終わってからこそがいよいよ本番の始まりだと思っている。今中国は国全体がオリンピックモードを無理やり演出していて、13億の人民は無我夢中でオリンピックを歓迎し、不満があっても我慢している。先日貴州省で数万人規模の暴動が起きたが、あれはほんの序曲に過ぎず、オリンピック閉幕後は中国各地で不満に耐え切れなくなった人民が暴動を起こすであろう。そうなったとき外国にいる我々は、ますます中国共産党暴虐独裁政権に強く抗議し、アジア全体の平和と幸福のために努力すべきであろう。

【レポート2】モンゴル自由連盟党が中国大使館に抗議文提出
2008年7月5日午後2時半ごろ、東京都港区の笄公園では、日本初の歴史的な南モンゴルデモ行進を終えた百数十人の参加者が集まり、興奮と喜びに浸っていた。そこへ5人の有志たちが、参加者から拍手で見送られて公園を出て行った。抗議文書を大使館に提出するのだという。郊外公園から中国大使館までは徒歩5分程度の距離である。私は知り合いの警察官に許可を得て、撮影のために同行することにした。中国大使館前で抗議を行うときは人数は5名までという制限がある。私はかねてからこの規制に不満があるのだが、とりあえず致し方ない。私は抗議ではなく撮影のために行くので、そのとき着ていた手錠五輪Tシャツのうえに半そでのシャツを着て手錠五輪が見えないようにした(警察から指示されたわけではなく、自分からそうした)

笄公園を出て少し坂を上ってテレビ朝日通りに出て、一度大使館とは逆方向に少し歩いて、そこで5人のメンバーは警察から荷物検査を受けた。そして5人はいよいよ中国大使館へ。ダシイ氏がモンゴル自由連盟党の旗を掲げて先頭を歩いた。私は道路の反対側でビデオカメラとデジタルカメラで撮影した。そして中国大使館の正面に到着し、ダイチン氏がモンゴル語で抗議文を読み上げ、警察に案内されて大使館のポストに抗議文書を投函した。

その後大使館側がその文書をどうするかはわからない。目を通すのか、読まないのか、保管しておくのか破棄するのか。おそらく情報の一部として保管しておくのではないかと思う。抗議文書を一回提出したぐらいでもちろん何かが変わるわけではない。だが中国大使館にはすでに様々な団体が多数の抗議文書を提出している。こうした形で世界中の世論の声を継続して中国共産党暴虐独裁政権に訴えていくことは決して無駄ではないはずだ。
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■■■■■■■■■ JOG Wing ■ 国際派日本人の情報ファイル■

日本人として忘れてはならない4つの日

今上陛下は皇太子時代に「日本人として忘れてはならない4つの日がある」と仰った。終戦記念日(8月15日)、広島・長崎原爆投下の日(8月6日、9日)、沖縄戦終結の日(6月23日)である。これらの日には、陛下は戦没者の慰霊のために、お慎みになる。前侍従長は・渡部充氏は次のように回想されている。

平成6(1994)年に米国を訪問された時、サンフランシスコに到着したのが、ちょうど現地時間で6月22日、日本では沖縄 戦終結の日だった。
陛下は「ちょうど重なってしまうが、沖縄で慰霊式典が行われる時間はこちらでは何時ごろだろうう」とお尋ねに なった。調べたところ、公式晩さん会の始まるころでした。「それでは少し遅らせてもらえないだろうか」とおっしゃって、両陛下はその時間にはホテルの部屋で黙とうをされていたようです。[1]

「皇室は祈りでありたい」とかつて皇后陛下は言われたが、このお言葉そのままのエピソードである。