17世紀にオランダが世界の覇権を取ることが出来たのは、日本との独占的貿易によるものだった(株式日 | 日本のお姉さん

17世紀にオランダが世界の覇権を取ることが出来たのは、日本との独占的貿易によるものだった(株式日

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▼17世紀にオランダが世界の覇権を取ることが出来たのは、日本との独占的貿易によるものだった(株式日記と経済展望)
◆日本史についての雑文その365 2つの倫理と重商主義 KNブログ
こうして16世紀末から17世紀初頭にかけて軍事的優位を背景にイギリス、フランス、オランダの商船もアフリカ南端を回ってインドへ至るようになり、イギリスとオランダは東南アジア方面へも進出してきてスペインやポルトガルが独占していたアジアの香辛料貿易にも食い込もうとしてくるようになったのでした。

そうした情勢の中、日本ではポルトガル商人と友好的関係を維持して大量の硝石を得て16世紀後半に天下を治めるまでに成長した織田信長の後を継いだ豊臣秀吉が突如、スペインやポルトガルの商人を冷遇し始め、16世紀末にはシナを征服しようとして大陸へ出兵するという行動に出ました。

これはスペインやポルトガルの日本やシナに対する侵略の野心を知って警戒したといわれますが、おそらくそれほど具体的計画は無かったのでしょうが、少なくともスペインにそうした野心があったことは事実であり、秀吉がそれを不快に思ったのも事実でしょう。また、特筆しておくべきことは、秀吉がスペインやポルトガルに対して怒りを向け警戒感を露にするようになったきっかけが、九州地方においては金銀がさほど産出しなかったため、スペインやポルトガルの商人から大名が硝石を購入した代価として戦で捕虜とした日本人同胞を奴隷として提供していたということだったということです。これはまさにヨーロッパ諸国がブラック・アフリカで行っていた奴隷貿易の形態と一致しており、その後、ブラック・アフリカ社会が大量の奴隷流出で衰退していき、最終的には西洋諸国の植民地になっていったことを考えると、戦国時代の日本もまた同じようになった可能性も十分にあったわけで、それが秀吉の怒りによって禁止されたことによって日本のアフリカ化は阻止されたわけですから、少なくとも秀吉はアフリカ黒人部族の指導者たちよりは先を見通す能力があったのだといえます。

あるいはこの時代の日本とアフリカの比較ということで言えば、アフリカは「統治の倫理」優位社会であったのでヨーロッパの「市場の倫理」である奴隷貿易と権力者が結託しやすく、奴隷獲得のための内戦が激化していったのですが、日本の場合は戦国時代は「統治の倫理」と「市場の倫理」が融合した混乱時代であったので一部ではこうした奴隷売買の逸脱もありましたが、基本的には「市場の倫理」優位社会であったので、ヨーロッパの「市場の倫理」である奴隷貿易と日本国内の「市場の倫理」が反発し合って、この頃はヨーロッパの「市場の倫理」の力が後の帝国主義時代ほど強くなかったので、日本側の「市場の倫理」が押し切って奴隷貿易を排斥し、その意向が権力者の秀吉を動かしたということになりましょう。

これは先述のヒンズー文明とイスラム文明の比較と相似形の話で、ヒンズー文明やアフリカは「統治の倫理」優位社会、イスラム文明や日本は「市場の倫理」優位社会であり、現在のヒンズー文明が西洋文明との相性が良くて活性化しているのと同じように、当時のアフリカ部族社会もある意味では活性化していたのだといえます。

しかしその活性化の果てが戦争の頻発による文明の崩壊であったわけで、際限ない活性化も時には恐ろしい結末を招くということです。その点、ヨーロッパの「市場の倫理」との相性が悪く、それを遠ざけた秀吉やそれに続く家康以降の江戸幕府の判断は、一見、際限ない成長への道を放棄したように見えますが、それは日本文明にとっては賢明な判断であったと思われます。そう考えれば、現代のインド経済の活性化やシナ経済の活性化のような「統治の倫理」優位社会における西洋型「市場の倫理」との結合による繁栄というものの行く末も案じられるというものです。

ただ、秀吉は多分そんな壮大なことを考えていたわけではなく、おそらく秀吉は、いやおそらくはその政治的師匠にあたる信長も、シナの貨幣経済やスペイン・ポルトガルのアジア香辛料交易などを支えているのは日本の金銀であるということは知っており、いずれ九州に直轄地を持つようになればスペインやポルトガルを排斥して直接硝石の産地であるシナと取引をしようと構想していたのでしょう。

スペインやポルトガルの征服の野心などは最初から承知で天下統一まで利用して、もともと用済みになれば切り捨てるつもりであったのでしょう。

信長はその計画の道半ばで倒れ、その後を継いだ秀吉が九州を平定した後、かねてからの計画通り、シナとの直接交易に乗り出したというのが実相でありましょう。ところがシナはその頃は明朝の末期で、朱子学の中華思想の影響で頑迷な鎖国政策をとっていたので秀吉の交易の誘いを拒絶しました。しかしシナの貨幣経済を維持するためには日本の金銀が不可欠なのであり、実際、シナの密貿易商人が持ち込んだ日本の金銀を使って明朝は貨幣を作っているわけですから、鎖国政策など建前に過ぎず、密貿易を官憲が公然と見逃していたのが実態だったのです。ならば密貿易商人などに恃まずに政府が堂々と日本と交易して硝石と引き換えに正当に金銀を得ればよいのです。秀吉や信長は恐ろしく合理的な考え方をする経済通の武将でしたから、当然このように考えたはずで、だから、そのように説いても交易に応じようとしない明朝の非合理な態度に秀吉は驚き、怒りを感じるようになったのです。

信長や秀吉は経済感覚に優れ、戦争にも強い優れた武将でしたがあまり(古典的な意味での)教養がありませんでした。だから朱子学や中華思想というものがシナ帝国にとってどのような存在であるのか理解出来ず、理解不能の障害物は武力で排除するというのが戦国の習いでありましたから、秀吉はシナ征伐に乗り出したのです。いや、いきなり軍事侵攻ということになるとは思っていなかったでしょうが、信長や秀吉はおそらくは交易を開始していずれはシナやインドまでも支配下に収めることが可能であると構想していたので、秀吉もこのシナ征伐にもあまり失敗の不安は感じていなかったと思われます。
信長や秀吉が「唐天竺まで平定する」と大言壮語していたというのはこういう構想があってのことでした。これは信長や秀吉の立場に立ってみれば決して誇大妄想ではありません。彼らは武力で天下を獲ったのではなく、むしろ経済力で天下を獲ったのであり、より具体的に言えば、領土を得ることではなく金銀や貨幣を握ることで支配権を確立していったのでした。信長や秀吉の天下統一事業を見ると、敵対する大名家を滅ぼすための戦いはしていますが、民衆を平定するための泥沼の戦いというものはほとんどしていません。唯一例外といえるのが巨大経済利権団体といえる本願寺の一揆衆との戦いであり、実は本願寺の一揆衆のみが信長の天下獲りに真の意味で抵抗した唯一の民衆勢力であったといえます。本願寺以外の民衆勢力は信長や秀吉が金銀や貨幣を握っていることを知れば簡単にひれ伏しました。それぐらい戦国時代の日本人というのはミもフタもないくらいに経済原理に忠実に生きていたのです。本願寺だけは一種のカルト教団であったので、経済原理を超越した哲学があったわけです。

そのように経済原理に忠実な日本人ばかり見てきたために、信長や秀吉はシナ人や朝鮮人も同じようなものだと思い込んでいたのでした。だからシナの貨幣の原料となる金銀を日本が、つまり秀吉が握っている以上、明朝政府を少し叩けばシナ人はみんな直ぐに秀吉にひれ伏すと思っていたのです。朝鮮も同じようなものであり、簡単なもので、通り道程度のものであろうと思っていました。実際、朝鮮政府は秀吉にへりくだった姿勢で接していたので、秀吉はそれを早くも朝鮮がひれ伏してきたものだと解釈したのです。「唐天竺まで」というのも誇大妄想ではなく、実際、日本の金銀が実質的にインドまで広がる香辛料市場における取引の基軸通貨の役割を果たしていた以上、秀吉の経済感覚で見れば、インドまで広がるアジア多島海の交易圏全てが秀吉にひれ伏すのが当然の摂理ということになるのです。

ただ秀吉が分かっていなかったことは、海を渡っての軍事征服の困難さ、特に兵站の確保の困難さと、シナ人や朝鮮人が必ずしも経済原理に忠実ではなく、まさに本願寺ばりのカルト性を発揮して非合理なまでに排他的であること、そして特に朝鮮の場合、経済原理云々以前にあまりに貧しすぎて、朝鮮半島に渡った日本兵の兵糧の調達すら困難であったということでした。こうして秀吉のシナ征服計画は失敗に終わり、秀吉の死によって朝鮮から日本兵は撤兵し、日本の天下は17世紀初頭には徳川家康に受け継がれました。

家康は秀吉と違ってかなりの教養人で、朱子学についても中華思想についても理解していたので、明朝と無理に正式に対等交易することにはこだわらず、シナの密貿易商人との取引を継続することにしました。そして家康は秀吉のようにスペインやポルトガルとの交易を押さえつけるようなことはしませんでしたが、オランダやイギリスとも交易を開始してカトリック国を牽制しつつ、日本商人も自前の外洋船に乗って東南アジア海域に進出させ、日本産の金銀を駆使してアジア多島海の交易を支配させようとしたのでした。つまり、それまでは日本の金銀は全部ヨーロッパ商人によって南方に運ばれて、南方においてシナ商人や東南アジア商人などの持つ硝石や香辛料などと交換されていたのですが、家康以降は日本商人が金銀を運んでくるようになったので、ヨーロッパ商人の旨みが無くなってしまったのでした。

もちろんヨーロッパ商人が日本へやって来て何かを売りつければ代価として金銀を得ることは可能でしたから、全く金銀を得る機会が無くなったわけではありませんが、日本船が南方に進出してきて外国商人と自由に取引できるようになってしまえば、どうしても金銀産出国である日本有利の状況となり、これはそれまで日本の金銀を独占して南方市場に運んできてそれを交易の原資にしていたスペインやポルトガルにとっては大きな痛手でした。一方、日本船の東南アジア海域にもたらす金銀と交換可能な商品をなんとかアジア市場にも供給できる製造業を持つイギリスやオランダは、金銀頼みのスペインやポルトガルよりは有利な状況となり、東南アジア市場やインド市場でもイギリスやオランダの勢力のほうが優勢になっていきました。そして1620年代になると、オランダが東南アジア市場、イギリスがインド市場において支配的地位を有するというように住み分けがなされるようになっていきました。

一方、家康の後を継いだ江戸幕府の日本においては、1615年の大坂の陣での豊臣氏の反乱を受けて大名統制を強化するようになり、交易によって大名や商人が強大化することを警戒して次第に幕府による管理貿易体制に移行し、外国商人の来航も制限するようになり、1635年にはとうとう日本人の海外渡航を禁止し、1641年には長崎にて幕府の厳正な管理のもとでオランダ商人のみに交易を許可するようになったのでした。これによって日本産の金銀はオランダによって一元的にアジア市場に運ばれることとなり、泰平の世となって武器を必要としなくなった日本は代わりにシナ産の絹織物を求めるようになり、オランダはその仲介貿易で多くの金銀を日本から持ち出してシナへ送るかたわら、その余剰分の金銀を原資としてアジア交易圏における主導権を握ったのでした。この独占貿易体制から締め出されたスペインやポルトガルはアジア市場で力を失い、その影響は甚大で、この後、17世紀後半以降、ヨーロッパにおいてもスペインとポルトガルは没落していくことになります。

もともと家康が日本商人を南方へ展開させようとしたのは、基本的には信長や秀吉と同じ発想で、金銀の力を使ってのアジア市場制覇が目的でありました。それを軍事先行でやろうとしたのが秀吉で、経済先行でやろうとしたのが家康であり、それは方法論の違いでしかなかったのです。しかしこの管理貿易体制への移行はアジア市場の覇権をオランダに譲り渡してしまうものであり、家康の方針には反したものでした。しかし、この「金銀を市場に投入して支配権を確立しよう」という発想は、まさに没落していこうとするスペインと同じ発想なのです。そしてまさに勃興してこようとするオランダやイギリスの発想というのは「貨幣経済において多くの貨幣を確保して産業の育成に充てる」というもので、この後の日本はまさにオランダやイギリスと同じ方向、すなわち「国内経済限定の重商主義政策」を目指したのだといえます。すなわち金銀を徒に海外に放出せずに一定量は確保して貨幣を鋳造して国内に貨幣経済体制を敷いて内需を喚起して、それに対応して藩単位で産業を育成していったのです。江戸時代の歴史というのは大略すればそういうものであり、特に後期はそうした傾向が顕著になっていきます。それは「統治の倫理」が「市場の倫理」と融合していた戦国時代から、兵農分離によって「統治の倫理」から「市場の倫理」を引き離して「市場の倫理」優位の社会へと転換していった時代の始まりでした。そして結果的にはこの選択は正しい方向性であったといえます。ただ、貨幣鋳造は家康の始めた方針ですから、家康の段階で既にこの方向性が志向されていたのだともいえますが。

(私・トラのコメント)
世界の覇権はスペイン、オランダ、イギリス、アメリカと変遷してきたのですが、それは海洋軍事力の変遷の歴史でもあった。現在はアメリカ海軍が世界の海を支配している時代であり、そのアメリカ海軍を支えているのが日本である。横須賀には唯一アメリカ本土以外に原子力空母の基地があり、太平洋からインド洋の海の覇権を維持している。原子力空母をメンテナンスするにはアメリカ本土か日本にしかその能力がない訳であり、日本の協力が得られなければ原子力空母は本土にまで基地を後退させなければならない。ハワイやグアムは中継基地にしかならない。オーストラリアやニュージィ-ランドは空母機動部隊をメンテナンスするほどの工業力がない。「株式日記」では世界の覇権を握るには日本の協力がないと維持できないと書いて来ましたが、それは歴史が証明してる。覇権国が一番最初にやってきたのはスペイン・ポルトガルの商船艦隊でしたが、中国の硝石と日本の金銀との貿易でスペイン・ポルトガルは世界の覇権を握った。

しかしスペインは秀吉の逆鱗に触れて日本から追い払われてオランダに取って代わられてしまった。秀吉がスペインの侵略性を見抜いたからですが、スペインへの威嚇の意味で秀吉は朝鮮半島から中国に攻め上ろうとした。その代わりにオランダが日本との貿易を独占するようになって日本の金銀を独占的に使えるようになった。この結果オランダは次第にスペイン・ポルトガルを東南アジアから駆逐していった。その原動力となったのが日本との貿易独占によるものである。まさに17世紀はオランダの世紀となったのですが、英欄戦争に負けて次第に世界の覇権はオランダからイギリスに移っていった。

18世紀から20世紀前半はイギリスの世紀ですが、大英帝国が覇権の頂点に立っていた時期が日英同盟の時期と重なる。日本も明治維新でイギリスから蒸気機関や近代工業製品や軍艦などを輸入していた事でイギリスの経済力は頂点に達した。当時はイギリスが世界の工場でもあった。イギリスが世界の覇権を失うのは第二次世界大戦ですが、日英同盟の失効が大きな原因となっている。もし日英同盟が維持されていればイギリスは香港要塞とシンガポール要塞を失う事はなかったであろうし、失った事でインドの独立をゆるしスエズ運河から西の利権を全て失った。

世界の覇権がイギリスからアメリカに移った時期と日米安保が結ばれた時期が一緒なのは偶然ではなく必然なのである。経済関係においても日本とアメリカとは非常に密接となり、現在でもアメリカ経済を支えているのは日本の力が大きい。軍事的にも西太平洋からインド洋までの海域を支配できているのも日本の協力があるからだ。アメリカの一部にはヒラリー・クリントンのように中国こそアメリカのパートナーだという人も出てきましたが、経済的にも軍事的にも中国がアメリカにとって日本に代わるパートナーになりうるとは思えない。むしろ日本との同盟関係を失う事でアメリカの世界の覇権が失われる可能性が高いだろう。同盟を維持する為には国家としての信用と誠実さが必要ですが、アメリカはそれを失いつつある。このように日本は世界史においてスペインからオランダへの覇権の移動に大きく関与しているし、大英帝国の没落にも大きく関与している。ならばアメリカが世界の覇権を失うのは日本との同盟関係が失われる事が原因となるだろう。

スペインがアジアから撤退していったのもオランダに駆逐されたからですが、スペインの侵略性と日本人を奴隷として世界に売りさばいていた事実が秀吉の怒りとなってスペインは日本から追放された。その後は日本の商人によって中国の硝石を手に入れようとしましたが、明の鎖国政策のために思うように行かなかった。
つまりスペインは日本人を奴隷として売りさばいた事が世界覇権を失う原因の一つとなったのだ。それに対してオランダは通商優先だったから家康などに気に入られて貿易を独占する事ができた。それ以降も日本はイギリスやアメリカと手を組んできましたが、ドイツとも一時同盟を組みましたが人種差別的でユダヤ人排斥などで悪いイメージが重なって日本もえらい目にあった。

あくまでも国家の同盟を組むには信義を守り道徳的な国家とでないと同盟は長続きしない。アメリカも最近は冷戦崩壊後は自分勝手な国となりイラクを侵略するなど道徳的に疑問が持たれる国となった。スペインやナチスドイツのようにたちの悪い覇権国家とは手を切ったように、アメリカとも手を切る時期が近づいたように思える。つまりアメリカが世界の覇権国家から脱落する日は近い。ではアメリカの後の世界の覇権国は何処になるのだろうか? 中国ではないだろう。中国は近代国家ですらない。ロシアも中国と大して変わらない。近代国家で民主主義国家で経済的にも軍事的にも強大な国は今はアメリカしかありませんが、日本が軍事的な強国になればその条件は満たせる。つまりアメリカにもしもの事があればそれに代わりうる国になれるのは日本しかない。

EUもスペインは奴隷貿易で道徳的に重荷を背負っており、ドイツもユダヤ人排斥で十字架を背負っている。アメリカにしてもインディアンを絶滅させたり黒人への人種差別が世界の覇権を維持する為の重荷になっている。このような倫理的罪悪感が覇権国家を没落させる意外な一因ともなっている。日本が軍事的に強大になれないのもアメリカから侵略国と東京裁判で裁かれたからですが、アメリカ人にも後ろめたい事があるから決め付けるのだろう。奴隷貿易は遥か昔の出来事であり、今のスペイン人を責めたところで意味はない。しかし北中南米に行くと黒人奴隷の末裔がいるし、アフリカ大陸は荒廃したままだ。まさに黒人は家畜同然に扱われてきたのですが、日本人も戦国時代はスペイン人によって奴隷として売りさばかれた。それに対して秀吉はキリシタン禁止令でスペイン人を追い払いましたが、今の日本人には、イラク人を虐殺ししているアメリカ人を追い払うだけの政治家はいない。
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★世界の覇権はスペイン、オランダ、イギリス、アメリカと変遷した。世界の覇権を握るには日本の協力がないと維持できない。日本は世界史においてスペインからオランダへの覇権の移動に大きく関与しているし、大英帝国の没落にも大きく関与している。ならばアメリカが世界の覇権を失うのは日本との同盟関係が失われる事が原因となるだろう。日本が どの程度 関与していたかは 議論の余地 あるでしょうが、かなりの重要性を もっていたのは 事実でしょう。ソ連の崩壊も シベリア抑留などで 日本人から 嫌われて 日本のテクノロジーを 導入できなかったからだ と だれかが 書いていました。なお 秀吉の キリシタン禁止令については ↓
●日本は16世紀末世界最大の奴隷輸出国(宮崎正弘ブログ・読者の声1)
遠藤周作「沈黙」が海外で映画化されます。
日本への誤解がまた拡がる懼れが・・・・秀吉が一番問題としたのは、戦国大名同士の戦いで捕虜となった兵士を、宣教師からの要請により、スペイン、ポルトガルの商人に奴隷として売り渡すキリシタン大名・武将がいたことである。
戦国時代を通じて総数約10万人。日本は16世紀末世界最大の奴隷輸出国であり、東南アジア一帯に日本人奴隷があふれた。・・・・キリシタン弾圧とは狂信的な犯罪者に対してやむを得ず行われたものである・・・これは びっくり おどろき!
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日本のお姉さん。↓
ニセのキリシタンとなった九州の大名が
火薬欲しさに、敵の陣地の日本人を奴隷に
したんですよ。ニセのキリシタンだということは、
キリシタン禁止令が出たら、直ぐに寝返って
キリシタンを辞めたことから分かる。
外国人から火薬を買うために、便宜上キリシタンに
なっていただけです。火薬一樽と、日本人奴隷10人と
交換だったそうです。宣教師の記録には、
日本人が熱心に奴隷を売りたがるのでびっくりしている
という内容の手紙や、宣教の妨げになるので、奴隷購入を
止めさせてくれと本国に手紙を書いたものが残されている。
宣教師は、商売にはそんなに関わっていないのです。
宣教師と一緒にやってきた商人が、奴隷と火薬を交換して
いたのです。秀吉にあった九州の宣教師コレヒヨ(コレリヨ)
が、どうして外国人は日本人奴隷を買うのかと秀吉に
聞かれた時、では奴隷売買を禁止してください。
売る者がいるから、買う者がいるのです。と答えたので
次の日からキリシタン禁止令が出されたのです。
コレヒヨの応対が悪かったせいだと思うと、当時の宣教師も
手紙にも書かれている。売る者を取り締まれという答え方は
外国人らしい答え方だが、秀吉は怒ったのでしょうね。
実際には宣教師には商人が奴隷を買わないようにする
力は無かったのだと思います。商人たちは勝手に
商売をしていたのだし、宣教師は商人を支配しているわけでは
無かったのです。日本人は、奴隷売買も宣教師のせいだと
思っているけど、宣教師と共に入ってきた商人と
奴隷を売って火薬を欲しがった九州の日本人大名が
いけないんです。火薬を欲しがったのは、九州で覇権を持つため
必要だったからです。大名にしたら、早く九州を手に入れたかった
のだろうし、敵の陣地の日本人は敵だから、外国に
売っても全然平気だったのでしょう。自分たちは日本人だという
感覚が薄かったとしか思えない。
10万人もの日本人女性が外国に売られていったのですね。
悲惨な人生だったのだろうな。奴隷市場で陰部をさらして
恥ずかしい姿で売られていたそうです。スペインに行った
少年使節団の子ども達がそれらの奴隷たちを見て、心を痛めた
そうです。
日本人奴隷は、主にアラブやアフリカに売られたそうです。
かわいそうに。