台湾の声◆「海を渡った自衛官─異文化との出会い─」vol.09     荒木 肇 | 日本のお姉さん

台湾の声◆「海を渡った自衛官─異文化との出会い─」vol.09     荒木 肇

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【論説】支那人の尖閣列島戦略
グローバル・フオーラム 陳辰光(翻訳、編集)
台湾の凃桂英女史の論文を基礎として、日本語に要約しました。

中国の漁船が尖閣列島に接近しない理由は?
尖閣列島の主権問題は列強間で協議が有り、日本の管轄下に有るが、中華民国(台湾ではない)は香港や台湾の漁船の尖閣接近若しくは挑発を放任している。
ROCの中国国民党政権は戦争の勃発を企図しているのか、理解に苦しむ。サンフランシスコ平和条約には尖閣列島の管理権を中華民国には委ねてない。中華民国は何を根拠に尖閣列島の主権争奪を試みているのだろうか? 台湾民間で中国国民党を「土匪群盗集団」と呼んでいるが、正にその通りである。

中華民国(台湾ではない)の行政院長劉兆玄が「尖閣は主権問題で一戦交えるも惜しまず」と豪語したが、支那全土を失い、亡国した中華民国が開戦するならば、相手国は中国で有るべきで、日本ではあるまい、蛮勇あれば中華人民共和国に宣戦布告をすべきであろう。
中華民国は本来の中国主権すら取り戻せないのに、何故の尖閣列島主権の争奪を口にするのか? 国としての国格すらない中華民国がほんまに戦争を起こせば、全世界の譴責を受けるであろう。イラクよりも惨めな境遇となろう!

戦争には幾つかの条件又は考慮も有ろう:
日本は精密武器に優れている。近年来多くの新しい武器の技術を不断に米国ロシア等に提供し、人工衛星やレーダーでも探知不能な無声潜水艦技術などの先端技術を多く開発しているのは、衆知の通り。口だけの中華民国が海戦を起こす前に、水に叩き落された鳥の様になろう。惨めなのは、中華民国に狩り出された台湾人の若者たちである。中華民国の戦争犯罪行為にも反撥できずに、尊い命を敵(中華民国)の為に、犠牲と成るのは、あんまりにも惨い!

米国の台湾関係法を引用しよう。米国が台湾の防衛に当たるのは、金門馬祖を除いた、台湾海峡の中央線を、中国が突破した時に限る。中華民国が中華人民共和国の軍援を呼び掛けても、中国は米国を恐れて、中央線の突破を試みないであろう。中華民国(台湾ではない)と日本の戦争は、馬英九が戦犯首犯で、劉兆玄と共に、イラクのフセインの如く絞首台で命を終える事となろう、それが、若き台湾人の犠牲者へのせめ ての償いと払うべき代価であろう。支那人は台湾人を犠牲に自己の利益を確保する態度は始終変わらない。全世界の国々は中華民国を国と認めず、問題にしない、多発の漁船海事紛争を例に取れば解る。フイリピンやインドネシアが台湾の船を拘留した事件は多発したが、中華民国政府は全く不能で役立たず、船主が中国政府に泣き付くケースが多くある。

劉兆玄の開戦をも惜しまずは、蛮勇、文人内閣として世界時局の無知、張ったりのうすぺらい口先、中国人は死んでも、口が動いているの例えで、世界の笑い草が増えた事に止まる。
凃桂英女史は:断固中華民国の台湾殖民に反対、断固中華民国の台湾での選挙を拒絶、中華民国を中国に返還して、始めて、台湾は建国と国連加入が可能と成る;と叫んでいる。

尖閣列島関連の法的論述は:
1.最初に発見と有効占領:Occupation 条件
日本人の古賀辰四郎が1884年に尖閣を発見、カツオ節工場と羽毛と鳥糞肥料の経営を行った。また、尖閣付近は長年沖縄漁民の猟場でも有ると確認した。是は日本人が尖閣列島を発見、島に上陸、占領と使用、で国際法の「有効占領Occupation」の条件を満たし、尖閣への管轄権即日本の領土と確認した事になる。

2.国際法その2: 日本の第二次「有効占領Occupation」の事実:
国際法は無主の土地を発見の主体を国若しくは国から権利を授かった者に限ると規定している。古賀氏が日本の政府に尖閣の租借を申請した時、日本政府は{尖閣は日本の領土に非ず}として、申請を却下した。1941年日本が台湾を領有している時代であるが、台北州政府と沖縄郡政府の間に、漁場の所属問題で法律訴訟問題があり、1944年に日本の東京裁判所で、尖閣を台湾の台北の管轄と判定した。沖縄は江戸時代から薩摩藩の植民地の実態であるが、清朝と日本の戦争、即日清戦争で1895年下関条約で、台湾が日本領土と成った際に、尖閣の占領があり、翌年の1896年に古賀氏の申請を許可した、またその次の年、即、1897年に日本領土に編入した。

3.国際法その3:第3次「有効占領」米国の認可を取る。
尖閣の主権で日本の主な理由の一つは「サンフランシスコ平和条約、1951.9.8調印、1952.4.28発効」で琉球「沖縄」は日本から分離された。奄美島関係の規定にはシスコ条約と日米協定が有り、米国行政官署の布告第27条の「琉球の地理環境」第一条の規定に、尖閣は琉球列島の地理範囲内であると明記されている。此れに基ずき、尖閣は沖縄と共に1972年の住民投票(シナ人と台湾人の言う公投)で日本に「帰還」した事に成る。

「尖閣の主権から台湾問題を見る」 
中華人民共和国は台湾は中国の神聖不可分の領土であると嘯くが、国際法上の「有効占領OCCUPATION」を証明する文献は皆無である。
1. 台湾は400年来多国の支配と統治を受けた。
2. 中国という国の存在は支那歴史には無く、中国の呼び名は1912年以降である。台湾島発見の遥か後の年代である。
3. 中華民国は中国の一部であるが、台湾は中国の一部ではない。シスコ条約では、日本が台湾の管轄権を放棄したに止まり、受け皿の明記が無い。中国が台湾の主権を承継できる根拠は皆無である。台湾は中国の一部では有り得ない。
4. 中華民国は徹頭徹尾同盟軍の依託で、マッカーサーの第一号命令にて台湾で軍事占領の任務を遂行しているに過ぎず、台湾の主権を獲得して無い上、獲得する条件、資格すらない。
5. 中華人民共和国は中華民国を中国の一部と主張できるが、台湾に対する権利も法的根拠も無い。日本の法務省はこの鉄則を厳守すべきである。
6. 中華民国は国際法的には亡国で、亡命政権が米国の支えで、台湾で軍事占領を1945年以来奄奄と存在しているが、やがて、法理にもとずき、台湾人に完全消滅される途上にある。台湾人が中華民国を完全に台湾から抹殺せねば、中国からの嫌がらせが続く。等しく日本への尖閣問題も続き、福田首相とその後継者もまた、同じ錯誤即、賊に追い銭を上げる過ちを犯すであろう。

「法的原点論理」 中国は兵を出せない:
フィリピンが台湾の船を拘束した例で説明しよう。中国がフィリピンと交渉して、台湾の船を取り戻した理由は、船主が中国に船の保護を依頼し、船籍を中華民国から中華人民共和国に変更し、中国に帰化した事で、中国が船籍が中国籍で有る理由で、交渉と斡旋に乗り出し、台湾人の船主は罰金を支払い、一件落着。

拘束と沈没では事情が全然違う。 拘束は船が健全であるに対し、沈没は船という実物が無い。船が有れば船籍の変更申請も出来るが、沈没した船は船籍の変更も申請も出来ない。
平たく言えば、沈没船では中国籍に変更不可能で、中国に出る幕を与えられないと言う事であるが、福田首相は外務省のチャイナ・スクールに唆されての謝罪と弁償は、道理に合わない。盗人に追い銭は後遺症を齎す。

「法理的推理:中国の企図」
若しも、船籍が中国籍の場合、日本海域への侵入は日本への宣戦に等しい、此れは厳重な問題を引き起こす。国際法廷へ提出された場合は、全ての責任を負はねばならない。中国はその厳重性をよく理解した上での、台湾の船籍船で犠牲フライをしたまでの事、尖閣島近辺の領海権を持たない中華民国が一戦をも惜しまずは、中国への叩頭媚と台湾人への統治者としての誇示で有るが、福田首相の弱腰は、「助紂為虐」の効果で、外来政権の中華民国をして、益々増長させるのみである。台湾人には迷惑千番と言える。

日本外務省は中華民国が台湾主権を持たない亡命政権と確認して、台湾人の国造りに最大の協力をすべきである。中華民国が台湾から消えてしまえば、尖閣列島問題は、中国の手の届かない場所に位置付く。チヤイナ・スクール自身、日本の為にも、目覚めるべきである。『台湾の声』  http://www.emaga.com/info/3407.html

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◆「海を渡った自衛官─異文化との出会い─」  荒木 肇
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ゴラン高原国際平和協力隊-2  (チビの日本隊が見せた意地)
                  第7次ゴラン派遣輸送隊副隊長 N3佐
▼厳しいゴランの気候とくらし
 N1尉は思っていた。ゴランといえば、「砂漠とラクダ」。それが現地のイメージだった。
ところが、行ってみると、ゴラン高原はたいへん肥沃な土地で、農業も盛んなところだった。
気候は、大きく雨季と乾季に分けられる。雨季は毎年11月から3月までで、おどろいたことに雪も降った。この雪の量が、ゴランでの生活に大きく影響する。少ないと、春から夏にかけて、水不足になってしまう。シリア側の宿営地では給水制限も受けた。

 雨季から乾季の変わり目の3月下旬ころ、土の中からは次々と青い芽が生まれる。そして、高原一帯をさまざまな色の花が美しく飾り立てた。 「この景色は、まさに北海道でした。雪をかぶった大雪山と、緑がしたたる美瑛(びえい)の大地の眺めとそっくりです。この時期が1年間で最も美しい季節でしょう。任務時期の関係で奇数にあたる1次隊、3次隊、5次隊、私たち7次隊という部隊しか見ることができません」

 花が咲き終わると、気温はぐんぐん上昇した。高いときには40度をこえた。UNDOFの創立記念行事が5月に行なわれ、その式典のさなか、42度になった。 整列していたN1尉は、あやうく気を失いそうになった。湿度が低いので、汗はかかない。というよりすぐ乾いてしまう。気をつけないと、すぐに脱水症状を起こす。夏場には1日、3リットルの水分補給が必要だった。

その代わり、夜になると気温は一気に下がった。15度以下になるのがふつうだった。風邪をひきやすく、体調を崩しやすい。 「体調を崩すといえば、シリア側で外食すると、必ず下痢になりました」UNDOFでは、この下痢のことを「ヤラヤラ」と言い交わしたそうだ。もちろんN1尉も1週間ほど苦しんだ経験があるという。

ふだんの食事は、隊員の中の3名の海自、空自の専門の隊員がつくった。米や調味料は日本から送ってくるが、食材のほとんどは現地調達だった。手に入りにくい物もあった。 ブタは食べられない。ウロコのない魚、つまり、イカ、タコ、ウナギなどもない。また、新鮮な野菜も入手が難しかった。 宗教上の決まりで興味深かったのは、肉と乳製品を同時に食べられないことだった。イスラエル側に外出すれば、マックのようなファストフード店はたくさんあった。しかし、バーガーとミルクは同時に注文できない。チーズバーガーはメニューに書いてもいなかった。

▼自分を向上させるために
 幹部候補生学校卒業時に指定されたのは、希望どおり高射特科だった。陸自特科(砲兵)は2つに分かれる。野戦砲や地対艦ミサイルを装備する野戦特科と、高射機関砲や地対空ミサイルをもつ高射特科である。

「防大の1学年の時でした。パイロットの適性検査を受けに行きました。当時からメガネをかけていたので、会場に行ったら、検査官に受ける必要なしと言われたのです。ようし、それなら、撃ち落とす方になってやろうと考えたのです」 北海道の名寄駐屯地のホーク部隊に赴任した。北海道防空の要(かなめ)、第1高射特科団隷下の第4高射特科群である 生まれ故郷の九州からはずいぶん遠く離れてしまった。高校生の時に、テレビで防衛大学校の学生生活の特集を見た。進学することで、親にも負担をかけたくなかったし、学生の生活ぶりにちょっと興味があった。

「決して、国防の意識に燃えてとか、なにか崇高な気分などというものではなかったです」
 自衛隊は勉強をさせてくれた。AOC(幹部上級課程)を出てすぐ、上司から1年間の企業研修へ行かないかと誘いがあった。自衛隊の幹部は教育を受ける機会が多い。3尉に任官してからすぐにBOC(幹部初級課程)がある。各職種の学校に入って、部隊の指揮をとれるようにするための課程である。それが終わって2尉に昇任すると、次は、専門職になるための課程がある。それをAOCという。2尉、もしくは1尉で入校して学生になる。

「神奈川県川崎市にある東芝工場でした。だいたい午前中2時間くらいは、ロケット技術や、装備関係のレクチャーを受け、午後は工場内で見学や実習をさせてもらいました。北海道の静内での発射試験なども見学したものでした」そうした充実した時間を過ごして部隊に帰った。結婚を機に、九州の飯塚駐屯地の第3高射特科群に転属。そこで、海外派遣の希望調査があった。 「カンボディアPKO派遣などが過去にありました。でも、あれは施設科が中心ですし、自分のような戦闘職種の人間は難しいのではないか。しかも、階級は1尉になっている。でも、国際舞台に立って、自分自身を向上させたいとひたすら願っていました」

希望補職は副隊長だった。面接で、隊長予定者のH3佐から英語で質問を受けた。ほとんど答えられなかった。もうダメだろうと思っていたときに、決まったという知らせが入った。部下を連れて、重機関銃実射訓練に行く途中の電話で教えられた。 「帰宅してすぐ、家内に話しました。驚いていました。やはり行って欲しくなかったようです。でも、自分の夢の実現だからと説得して、なんとか承知してもらいました」

▼チビの日本隊の見せた意地
 UNDOFでは、年間を通じて、さまざまな行事や競技会を開いていた。業務が単調で、変化がないため、どうしても緊張感がなくなってしまう。
 わが日本隊は、各種行事に積極的に参加した。しかし、各国の軍人たちの態度は冷ややかなものだった。 「当初は、あんなチビの連中がどうやって俺たちに勝てるんだ、という調子でした」ところが、サッカーでも頑張った。初戦ではオーストリア・チームに快勝。その後も勝ち続けた。ワールドカップでは1勝もできなかった日本だが、ヨーロッパの各国軍隊に自衛隊はひけもとらずに勝ち抜いた。

ヘルモン山登山では、隊員の1人が足に負傷したが、それでも彼は棄権しないで競技を続けた。表彰式も終わり、頂上に残った大会関係者と日本隊の前に現れたのは、足をひきずったその隊員である。予定時刻より3時間も遅れていた。ゴールと同時に彼は号泣した。見ていたほとんどの人も感激でもらい泣きをした。オーストリアの大隊長も泣いていた。ワジ・パトロールにも参加した。武装して、渓谷地帯(ワジ)をパトロールする競技である。日本隊は4個チームを参加させ、全21個チーム中、4、6、7,10位を獲得した。派遣国別では、なんと、ワジを監視地域にしているポーランド大隊をおさえ、総合優勝を勝ちとった。

そして、7月には、派遣国対抗射撃競技会があった。 過去、この競技会は、日本隊にとってたいへん不利な条件があった。それは、各国選手の小銃は狙撃用のスコープを付けたものであり、自衛隊の64式小銃とは精度の点で各段の違いがあったからである。 H隊長以下、誰もが工夫した。どうしたら勝てるかを緻密に分析して、錬成射撃を繰り返し、スナイパーを養成したという。1個チームは1回戦を勝ち抜いた。すると、各国の妨害が始まった。「日本隊に勝たせるな」、そういう暗黙の連帯が各国にあった。2つある射場の当たりにくい方を割り当ててきた。そこでも勝っていくと、反対の射場を指定してくる。

 結果、狙撃専用の小銃を使った列国軍の中で、唯一、通常の小銃を使った日本隊は、準優勝の成績をあげた。 「結果を出してしまうと、彼らは公正でした。この日本隊は強い。立派な軍隊だと受け入れてくれました。部隊の団結を固くし、士気をあげるには競技会で勝つことが一番ですね。部隊の精強化のためには勝つことが一番です」

▼交流を深めるには、やっぱり言葉
「各国軍との交流を深めるには、互いをニックネームで呼び合うことが大事ですね。そして、相手の母国語で挨拶をすること、これが大切だと思いました」カナダ、スロバキア、ポーランド、オーストリアそして日本と5カ国の軍人が集まっていた。進んで交流すべしというH隊長の指導のもと、隊員たちは積極的に他国の軍人と付き合うようになった。もちろん、互いにニックネームで呼び合いながら。 共通語は英語だったが、N1尉は挨拶だけは、相手の母国語に合わせていた。オーストリアはドイツ語、ポーランドはポーランド語、イスラエルはヘブライ語、そして、シリアはアラビア語。

 任務期間中に苦労はあったかと尋ねると、とくになかったとN3佐は答えてくれたが、「しいて言えば」と教えてくれた 「会議での英語力の不足と、妻に半年間会えなかったことかな」と。
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