孫子塾通信▼山崎拓氏をめぐる過去のエントリと裁判について
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孫子塾通信▼山崎拓氏をめぐる過去のエントリと裁判について
◆◇ メルマガ孫子塾通信 ◇◆ 2008.7.2(第4号)
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<タイトル>武蔵の「仏神は尊し、仏神は頼まず」と脳力開発でいう「主体性」との関係
<解説>
一、「仏神は尊し、仏神は頼まず」の意味
上記の言は、彼の宮本武蔵の自誓の書「独行道」のうちにある一箇条です。武蔵が吉岡一門との決闘の場所、洛東の一乗寺村下り松に趨(おもむ)くべく夜明けに洛中を出ましたが、その途上、八幡神社が鎮座するのを目に止めました。目前に迫り来る決闘への重圧から、武蔵は思わずその社前に足を止めました。そして社擅に上り、神に決闘の勝利を祈らんとして鰐口(わにぐち)の紐を取り、まさに打ち鳴らそうとしました。そのとき、強い後悔の念とともにその胸裏をよぎった自戒の思いが「仏神は尊し、仏神は頼まず」であります。
即ち、平素「兵法の道に一生を捧げ、老いて死しても悔いなし」とひたすら心身を鍛錬し己一人をよりどころに勝負の道を歩んできた武蔵にとって、一瞬の心の隙に生じたこの参拝こそ、まさに「困った時の神頼み」以外の何者でもないと悟ったのです。武蔵は勝負にかける己が心の至らなさを深く恥じ、慙愧(ざんき)の冷や汗を流して静かに社擅を辞したのです。この「仏神は尊し、仏神は頼まず」は、まさに脳力開発でいう「人頼りの姿勢は止めよう」であり、裏返せば「自分で主体的にやる姿勢をつくろう」に該当するものであります。脳力開発の指針は、極めて常識的な当たり前のことを簡潔に言うものでありますから、ともすれば「そんなこと改めて言われなくてもオレはとっくに知ってるよ、バカにするな」と軽視されるので、つまるところ意識から忘却され勝ちとなります。しかし、この指針の意味は極めて深いものがあります。言い換えれば、武蔵はなぜそれほどまでに「仏神は尊し、仏神は頼まず」にこだわったのかということです。
二、勝利の第一歩は敵の有利な条件を消すことにある
(1)洛東一乗寺村の下り松における決闘の概略
孫子の言に『ゆえに能く兵を用うる者は、手を携うること一人を使うが若くなるは、已むを得ざらしむければなり。』<第十一篇 九地>があります。 今回のテーマはこの言に深く関係するのでありますが、その前に、一乗寺村の下り松における武蔵と吉岡一門との戦いを概略いたします。即ち、当主の吉岡清十郎が敗れ、弟の伝七郎をも倒された吉岡一門は、清十郎の子、又七郎を決闘の名義人に立てて面目を保とうとしました。而してその実は、まだ少年の又七郎を守るという名目の門弟数十人が集まり、大勢で武蔵を打ち果たしてしまおうという計略でした。これに対する武蔵の戦略は、(伝七郎の時と同じく)また遅れてくるだろうと読んでいる相手の裏をかき、早くから下り松に到着して夜が明けはなれるまで松の陰に身を潜め、やがて吉岡又七郎以下門弟数十人が到着するのを見澄まして、いきなり飛び出して斬って入り集団の機先を制するにありました。
武蔵はまさにそのねらい通りにことを進めました。即ち、少年とは言えあくまでも大将たる又七郎を真っ先に血祭りに挙げ、さらに数人を斬り殺してその機先を制し、まさに「集団の要」を失って右往左往する吉岡一門を尻目に姿を消したのです。
(2)武蔵が「神頼み」を断固拒否した真意
通常、個人と多人数(もしくは組織)が戦った場合、もとより多人数が有利であることは論を俟ちません。しかし、これには条件があります。それは、多人数がまさに一糸乱れずあたかも『手を携うること、一人を使うが若くなる』<第十一篇 九地>場合であります。この場合、個人の力はまさに「蟷螂の斧」のごとく集団の力に跳ね返されてしまいます。逆に、多人数がいわゆる「烏合の衆」と化し、個人が決死の覚悟の言わば一騎当千の者である場合、衆はバラバラとなり、個が衆に勝つ可能性が出てきます。 つまり、既に一騎当千の者たる武蔵が衆に負けないためには最低限度、「神頼み」を止めて「死に物狂い」の精神状態になる必要があったのです。なぜならば『勝つ可からざるは己に在る』<第四篇 形>からであります。もし、不可ならば自ら勝つ条件を消す行為との謗りを免れません。
逆に『勝つ可きは敵に在る』ゆえに、相手が烏合の衆と化すことをもとより期待できませんが、幸運にもこの場合は、「その相救うや、左右の手の如き」死に物狂いの集団ではなく、人頼りの「烏合の衆」的性格が強かった言えます。武蔵の狙い目はまさにそこにあり、そのゆえにこそ武蔵は「神頼み」を断固拒否し己一個を拠り所とする必要があったのです。武蔵が早くに戦いの場に到着して待ち構え、いきなり飛び出して斬って入り、少年とは言え敵のシンボルたる大将を先ず討ち取ったのはまさに上記の力関係の差を増幅することであり、裏返せば、敵の勝利の条件を一つ取り除くことであります。
逆に言えば、武蔵の行動は、まさに孫子の曰う「その惰・帰を撃つ」、「治をもって乱を待つ」、「近きをもって遠き待つ」、「正々の旗を迎うることなかれ」などの勝利の条件を作為するにありました。そのゆえに、結果として『敵、衆しと雖も、闘うこと無からしむ可し。』<第六篇 虚実>の状況を招来したのです。 而して、その原動力は「原因は内因にあり」の本質的思想を端的に示す「仏神は尊し、仏神は頼まず」の決意にあったのです。
(3)武蔵の勝ちは「劇的な勝利」ではなく「勝つべくして勝った」ものである
一般的に、武蔵の一乗寺村下り松の決闘は、多勢に無勢という不利な局面を逆転した劇的な勝利と謂われておりますが、その実は、十分に勝てる見通しをつけての戦いであり、まさに「勝つべくして勝った」戦いと言うことができます。まさに孫子の曰う『善く戦う者は、勝ち易きに勝つ者なり。』、『勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め』<第四篇 形>の如しであります。
逆に言えば、勝利の条件づくりに向けての心憎いばかりの武蔵の配慮が窺えるのであります。この背景を知らずして、単純に武蔵は強いと賞賛したり、逆に、武蔵は弱い相手としか戦っていないなどと見たりすることは部分的・表面的・一面的な見方と言わざるを得ません。確かに、世間一般では、そのような思考パターンが主流ゆえに、思わず知らず流されて自己を見失い勝ちでありますが、的確な判断力を養い何事にも騙されないようにするためには、やはり全体的・本質的・両面的な物の見方・考え方を習慣づけることが必要であります。その意味においても、脳力開発でいう「自分で主体的にやる姿勢をつくろう」、裏返せば「人頼りの姿勢を止めよう」の指針は、武蔵の「仏神は尊し、仏神は頼まず」と同じく極めて深い意味を持つものであります。 それでは今回はこの辺で。次回をご期待ください。
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▼山崎拓氏をめぐる過去のエントリと裁判について (阿比留瑠比)
自民党の山崎拓元副総裁について、過去エントリの紹介も合わせててちょっと書きたいと思います。本日は、山崎派の在京連絡会があり、山崎氏は北朝鮮問題での安倍前首相の発言や姿勢を批判した週刊朝日の自身へのインタビュー記事のコピーを配り、次のようにあいさつしました。《山崎氏 在京者連絡会議ですが、記者の数の方が多いよう(議員出席10人のみ)で、申し訳ないような会合ですが、冒頭あいさついたします。お手元に週刊誌の記事などをお配りしていますが、このところ、党内のコップの中の争いじゃないかと揶揄される事態になりまして、甚だ面目次第もないんですが、北朝鮮問題は私にとりまして、いわばライフワークみたいなものであります。この際、はっきりした方向をですね、これは政府の方向と当然マッチする方向でございますが、取り組んでいきたい。非常に大事な時期を迎えているんじゃないかと思います。たった今も中国現代国際関係研究所というのがあるが、その日本研究所の所長の楊伯江さんが見えたばかりですが、その方がG8洞爺湖サミットの後に6者協議が再開され、そこで新しい段階に進むことになるので、ひとつ近未来研究会(山崎派)を中心として中国に来ないかという話がございました。シンクタンクですが、シンポジウムをやろうという持ちかけもあり、検討したいと思っています。
ついでながら楊伯江さんがいわれた中で、金正日の北京五輪開会式の出席問題ですが、自分も5月頭に平壌に行ったばかりであるが、だいたい自分たちの総合的な判断で、金正日は訪中されるのは間違いないが、北京五輪後になるだろう、と。五輪開会式自体は別のナンバー2、3が出られる形になるんじゃないか、と予測しておられた。開会式出席問題で騒がれましたから、申し上げたいと思いました。》…この人は以前は憲法改正がライフワークと言っていましたが、いつのまにか北朝鮮がライフワークになっていたようです。かつて自民党総裁選に出たときには、「憲法改正、山崎拓」がキャッチフレーズだったのですが、あまり票にならないと見てやめたのでしょうか。それで会議後、山崎氏と記者団には次のようなやりとりがありました。
記者 楊伯江さんとは何者か
山崎氏 学者。中国現代国際関係研究所という国の研究機関の学者
記者 金正日総書記の訪中は五輪後のいつという感触か
山崎氏 五輪閉会後の9月だろう。当然、テロ支援国家指定解除の45日間のあとになるからそれも影響するんだろう。北京だけでなく、特区なども視察したいらしいよ
ここで、直接関係はないのですが、楊氏が山崎氏を訪れたというエピソードから、私はふと、自分が約2年前の2006年7月15日に書いたエントリ「山崎拓氏は二股かけていたのだろうか」を思い出したので、あえて再掲します。記者ブログの運営法としては反則なのかもしれませんが、当時はまだイザが始まって1か月ちょっとで、アクセス数も少なく、コメントも私の返事を含めてわずか8個でしたから、紹介する意味があると考えました。実は、山崎氏は小泉元首相の首相補佐官当時、中国の政府機関の一員でもあったのです。常識的にそんなことが許されるのか、また、それは甚だ危険な立場ではないかと思うのですが、そんなことは平気の平左であるのが山崎氏らしいですね。私にはこういう感覚は許し難いものに思えます。ともあれ、以下がそのときのエントリです。先日、自民党の山崎拓元副総裁が、政府・与党内の敵基地攻撃能力保有論に対し、「専守防衛に反し、重大な憲法違反になる」と述べ、安倍晋三官房長官や額賀福志郎防衛庁長官を批判したことが話題になりました。イザのブログでも、いろんな意見が表明されているのを拝見いたしました。この人は、本当は自分が総理・総裁になりたくて仕方ないのに、周囲もマスコミも「やれ」と言ってくれないので、将来ある後輩たちの足を引っ張ってうさ晴らしをしているのかとも勘繰りましたが、もう一つ、重大な事実に思い当たりました!。それは、山崎氏は、れっきとした中国の政府機関の人間だったということです。山崎氏は首相補佐官の重職にあった昨年5月、中国の政府機関であり、中央政府・地方政府の政策立案に携わる中国第2のシンクタンク、上海社会科学研究院の客員研究員に就任しています。事務所によると、「現在はもう辞めており、報酬はもらっていない」とのことですが、一時は日本政府と中国政府の両方に所属していたことになります。
また、山崎氏は韓国の国立慶尚大学校の客員教授でもありますから、日本に敵基地攻撃能力を持ってほしくない中国、韓国の気持ちは痛いほど分かるのでしょうね。山崎氏といえば先日、例によって議員会館をうろうろしていて興味深いコピーを入手しました(別に秘密文書でも何でもありませんが)。それは2002年5月16日付の文書で、「反訴状」と書いてあります。ふむふむ、中身は何かな。2枚目を見ると…
「なぜ山崎拓氏を反訴するか」
本日、衆議院議員であり、自由民主党幹事長である山崎拓氏に反訴を提起いたしました。
2002年4月24日、山崎氏は、週刊文春5月2.9日号(4月24日発売)の「元愛人赤裸々手記 山崎拓『変態行為』懇願テープとおぞましい写真 愛人同行で外遊も」と題する記事を「全く虚偽であり、山崎氏の名誉を毀損する」として5000万円の損害賠償を求める訴えを起こしました。山崎氏は訴状で、小誌の記事を「全く虚偽であり、言語道断」と主張しています。しかし、小誌の記事は、テープや写真、領収書など多数の証拠に基づく真実のものです。(中略)そこで、山崎氏を名誉毀損で反訴し、山崎氏の提訴が正当なものかどうかを法廷に問うとともに、山崎氏が国民に重大な嘘をついていることを問いたいと考えます。コピーには、山崎氏と愛人女性とみられる男と女の会話(テープのおこし)も添えられていました。そういえば、山崎氏をめぐってはかつて、女性スキャンダルがありましたねぇ(わざとらしい言い方)知り合いの週刊誌関係者の話では何年か前、民主党の菅直人代表代行の女性スキャンダルを特集しようと印刷所に原稿を送ったら、なぜだか山崎氏側から発売差し止めを求める内容証明が届いたことがあるそうです。何を勘違いしたんでしょうね。 そんなわけで、山崎氏が小泉首相の靖国神社参拝を批判したり、何にか立派そうなことを言っているのをみると、つい下半身に目がいきそうになるのです。見たくもないのに。》
上のエントリでも一部触れていますが、山崎氏をめぐっては、週刊文春が2002年3月に女性問題を取り上げた上で、その女性が統一協会に出入りしたことも報じ、山崎氏を「政治家失格」と結論づけたことがあります。それに対し、山崎氏は発行元の文芸春秋などを相手取って5000万円の損害賠償を求める訴訟を起こしたのですが、東京地裁は2003年9月、「記事は真実か、そう信じる相当の理由があった」として訴えを棄却しました。このとき土肥章大裁判長は「山崎幹事長は夜に女性宅を訪れており、記者の取材に対して合理的な理由を説明したとは言いがたい。記事は国民に対して山崎幹事長の政治家としての適格性に関する判断材料を提供する目的だった」などとして、記事内容を認め、肯定的に評価すらしています。また、これに対し山崎氏側は「極めて遺憾」として控訴したものの、同年12月には、控訴を取り下げました。当時の週刊文春の木俣正剛編集長のコメントは「記事の真実性を問うような言動をしないことを確約したので取り下げに同意した。記事の真実性が全面的に認められたことを意味すると考えている」としていますから、これはもう文春側の全面勝利ですね。山崎氏は東京地裁に政治家失格と認定され、それが確定したようなものだと言えます。
私としても、あまり古い話や昔のことを蒸し返すのはどうかと思っていましたが、最近の山崎氏の言動があまりに目にあまるので、こういうことも嫌々(?)取り上げてみました。私のブログの訪問者の中にも、あまりこうしたことについてご存じない方もいるだろうとも考えました。まあ、山崎氏に関しては、問題点を書こうと思うと無理に探さなくてもいくらでもあるので、今後も必要に応じて適宜、エントリしていきたいと思います。
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ようちゃんの意見。↓
★実は、山崎氏は小泉元首相の首相補佐官当時、中国の政府機関の一員でもあったのです
山崎氏は首相補佐官の重職にあった昨年5月、中国の政府機関であり、中央政府・地方政府の政策立案に携わる中国第2のシンクタンク、上海社会科学研究院の客員研究員に就任しています。事務所によると、「現在はもう辞めており、報酬はもらっていない」とのことですが、一時は日本政府と中国政府の両方に所属していたことになります。
また、山崎氏は韓国の国立慶尚大学校の客員教授でもありますから、日本に敵基地攻撃能力を持ってほしくない中国、韓国の気持ちは痛いほど分かるのでしょうね。あと いろいろ 普通の人なら 耐えられないような ご経験 があるとのこと。
それでも 生き残っておられると いうことは、それだけも 政治家の かがみ??
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<タイトル>武蔵の「仏神は尊し、仏神は頼まず」と脳力開発でいう「主体性」との関係
<解説>
一、「仏神は尊し、仏神は頼まず」の意味
上記の言は、彼の宮本武蔵の自誓の書「独行道」のうちにある一箇条です。武蔵が吉岡一門との決闘の場所、洛東の一乗寺村下り松に趨(おもむ)くべく夜明けに洛中を出ましたが、その途上、八幡神社が鎮座するのを目に止めました。目前に迫り来る決闘への重圧から、武蔵は思わずその社前に足を止めました。そして社擅に上り、神に決闘の勝利を祈らんとして鰐口(わにぐち)の紐を取り、まさに打ち鳴らそうとしました。そのとき、強い後悔の念とともにその胸裏をよぎった自戒の思いが「仏神は尊し、仏神は頼まず」であります。
即ち、平素「兵法の道に一生を捧げ、老いて死しても悔いなし」とひたすら心身を鍛錬し己一人をよりどころに勝負の道を歩んできた武蔵にとって、一瞬の心の隙に生じたこの参拝こそ、まさに「困った時の神頼み」以外の何者でもないと悟ったのです。武蔵は勝負にかける己が心の至らなさを深く恥じ、慙愧(ざんき)の冷や汗を流して静かに社擅を辞したのです。この「仏神は尊し、仏神は頼まず」は、まさに脳力開発でいう「人頼りの姿勢は止めよう」であり、裏返せば「自分で主体的にやる姿勢をつくろう」に該当するものであります。脳力開発の指針は、極めて常識的な当たり前のことを簡潔に言うものでありますから、ともすれば「そんなこと改めて言われなくてもオレはとっくに知ってるよ、バカにするな」と軽視されるので、つまるところ意識から忘却され勝ちとなります。しかし、この指針の意味は極めて深いものがあります。言い換えれば、武蔵はなぜそれほどまでに「仏神は尊し、仏神は頼まず」にこだわったのかということです。
二、勝利の第一歩は敵の有利な条件を消すことにある
(1)洛東一乗寺村の下り松における決闘の概略
孫子の言に『ゆえに能く兵を用うる者は、手を携うること一人を使うが若くなるは、已むを得ざらしむければなり。』<第十一篇 九地>があります。 今回のテーマはこの言に深く関係するのでありますが、その前に、一乗寺村の下り松における武蔵と吉岡一門との戦いを概略いたします。即ち、当主の吉岡清十郎が敗れ、弟の伝七郎をも倒された吉岡一門は、清十郎の子、又七郎を決闘の名義人に立てて面目を保とうとしました。而してその実は、まだ少年の又七郎を守るという名目の門弟数十人が集まり、大勢で武蔵を打ち果たしてしまおうという計略でした。これに対する武蔵の戦略は、(伝七郎の時と同じく)また遅れてくるだろうと読んでいる相手の裏をかき、早くから下り松に到着して夜が明けはなれるまで松の陰に身を潜め、やがて吉岡又七郎以下門弟数十人が到着するのを見澄まして、いきなり飛び出して斬って入り集団の機先を制するにありました。
武蔵はまさにそのねらい通りにことを進めました。即ち、少年とは言えあくまでも大将たる又七郎を真っ先に血祭りに挙げ、さらに数人を斬り殺してその機先を制し、まさに「集団の要」を失って右往左往する吉岡一門を尻目に姿を消したのです。
(2)武蔵が「神頼み」を断固拒否した真意
通常、個人と多人数(もしくは組織)が戦った場合、もとより多人数が有利であることは論を俟ちません。しかし、これには条件があります。それは、多人数がまさに一糸乱れずあたかも『手を携うること、一人を使うが若くなる』<第十一篇 九地>場合であります。この場合、個人の力はまさに「蟷螂の斧」のごとく集団の力に跳ね返されてしまいます。逆に、多人数がいわゆる「烏合の衆」と化し、個人が決死の覚悟の言わば一騎当千の者である場合、衆はバラバラとなり、個が衆に勝つ可能性が出てきます。 つまり、既に一騎当千の者たる武蔵が衆に負けないためには最低限度、「神頼み」を止めて「死に物狂い」の精神状態になる必要があったのです。なぜならば『勝つ可からざるは己に在る』<第四篇 形>からであります。もし、不可ならば自ら勝つ条件を消す行為との謗りを免れません。
逆に『勝つ可きは敵に在る』ゆえに、相手が烏合の衆と化すことをもとより期待できませんが、幸運にもこの場合は、「その相救うや、左右の手の如き」死に物狂いの集団ではなく、人頼りの「烏合の衆」的性格が強かった言えます。武蔵の狙い目はまさにそこにあり、そのゆえにこそ武蔵は「神頼み」を断固拒否し己一個を拠り所とする必要があったのです。武蔵が早くに戦いの場に到着して待ち構え、いきなり飛び出して斬って入り、少年とは言え敵のシンボルたる大将を先ず討ち取ったのはまさに上記の力関係の差を増幅することであり、裏返せば、敵の勝利の条件を一つ取り除くことであります。
逆に言えば、武蔵の行動は、まさに孫子の曰う「その惰・帰を撃つ」、「治をもって乱を待つ」、「近きをもって遠き待つ」、「正々の旗を迎うることなかれ」などの勝利の条件を作為するにありました。そのゆえに、結果として『敵、衆しと雖も、闘うこと無からしむ可し。』<第六篇 虚実>の状況を招来したのです。 而して、その原動力は「原因は内因にあり」の本質的思想を端的に示す「仏神は尊し、仏神は頼まず」の決意にあったのです。
(3)武蔵の勝ちは「劇的な勝利」ではなく「勝つべくして勝った」ものである
一般的に、武蔵の一乗寺村下り松の決闘は、多勢に無勢という不利な局面を逆転した劇的な勝利と謂われておりますが、その実は、十分に勝てる見通しをつけての戦いであり、まさに「勝つべくして勝った」戦いと言うことができます。まさに孫子の曰う『善く戦う者は、勝ち易きに勝つ者なり。』、『勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め』<第四篇 形>の如しであります。
逆に言えば、勝利の条件づくりに向けての心憎いばかりの武蔵の配慮が窺えるのであります。この背景を知らずして、単純に武蔵は強いと賞賛したり、逆に、武蔵は弱い相手としか戦っていないなどと見たりすることは部分的・表面的・一面的な見方と言わざるを得ません。確かに、世間一般では、そのような思考パターンが主流ゆえに、思わず知らず流されて自己を見失い勝ちでありますが、的確な判断力を養い何事にも騙されないようにするためには、やはり全体的・本質的・両面的な物の見方・考え方を習慣づけることが必要であります。その意味においても、脳力開発でいう「自分で主体的にやる姿勢をつくろう」、裏返せば「人頼りの姿勢を止めよう」の指針は、武蔵の「仏神は尊し、仏神は頼まず」と同じく極めて深い意味を持つものであります。 それでは今回はこの辺で。次回をご期待ください。
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▼山崎拓氏をめぐる過去のエントリと裁判について (阿比留瑠比)
自民党の山崎拓元副総裁について、過去エントリの紹介も合わせててちょっと書きたいと思います。本日は、山崎派の在京連絡会があり、山崎氏は北朝鮮問題での安倍前首相の発言や姿勢を批判した週刊朝日の自身へのインタビュー記事のコピーを配り、次のようにあいさつしました。《山崎氏 在京者連絡会議ですが、記者の数の方が多いよう(議員出席10人のみ)で、申し訳ないような会合ですが、冒頭あいさついたします。お手元に週刊誌の記事などをお配りしていますが、このところ、党内のコップの中の争いじゃないかと揶揄される事態になりまして、甚だ面目次第もないんですが、北朝鮮問題は私にとりまして、いわばライフワークみたいなものであります。この際、はっきりした方向をですね、これは政府の方向と当然マッチする方向でございますが、取り組んでいきたい。非常に大事な時期を迎えているんじゃないかと思います。たった今も中国現代国際関係研究所というのがあるが、その日本研究所の所長の楊伯江さんが見えたばかりですが、その方がG8洞爺湖サミットの後に6者協議が再開され、そこで新しい段階に進むことになるので、ひとつ近未来研究会(山崎派)を中心として中国に来ないかという話がございました。シンクタンクですが、シンポジウムをやろうという持ちかけもあり、検討したいと思っています。
ついでながら楊伯江さんがいわれた中で、金正日の北京五輪開会式の出席問題ですが、自分も5月頭に平壌に行ったばかりであるが、だいたい自分たちの総合的な判断で、金正日は訪中されるのは間違いないが、北京五輪後になるだろう、と。五輪開会式自体は別のナンバー2、3が出られる形になるんじゃないか、と予測しておられた。開会式出席問題で騒がれましたから、申し上げたいと思いました。》…この人は以前は憲法改正がライフワークと言っていましたが、いつのまにか北朝鮮がライフワークになっていたようです。かつて自民党総裁選に出たときには、「憲法改正、山崎拓」がキャッチフレーズだったのですが、あまり票にならないと見てやめたのでしょうか。それで会議後、山崎氏と記者団には次のようなやりとりがありました。
記者 楊伯江さんとは何者か
山崎氏 学者。中国現代国際関係研究所という国の研究機関の学者
記者 金正日総書記の訪中は五輪後のいつという感触か
山崎氏 五輪閉会後の9月だろう。当然、テロ支援国家指定解除の45日間のあとになるからそれも影響するんだろう。北京だけでなく、特区なども視察したいらしいよ
ここで、直接関係はないのですが、楊氏が山崎氏を訪れたというエピソードから、私はふと、自分が約2年前の2006年7月15日に書いたエントリ「山崎拓氏は二股かけていたのだろうか」を思い出したので、あえて再掲します。記者ブログの運営法としては反則なのかもしれませんが、当時はまだイザが始まって1か月ちょっとで、アクセス数も少なく、コメントも私の返事を含めてわずか8個でしたから、紹介する意味があると考えました。実は、山崎氏は小泉元首相の首相補佐官当時、中国の政府機関の一員でもあったのです。常識的にそんなことが許されるのか、また、それは甚だ危険な立場ではないかと思うのですが、そんなことは平気の平左であるのが山崎氏らしいですね。私にはこういう感覚は許し難いものに思えます。ともあれ、以下がそのときのエントリです。先日、自民党の山崎拓元副総裁が、政府・与党内の敵基地攻撃能力保有論に対し、「専守防衛に反し、重大な憲法違反になる」と述べ、安倍晋三官房長官や額賀福志郎防衛庁長官を批判したことが話題になりました。イザのブログでも、いろんな意見が表明されているのを拝見いたしました。この人は、本当は自分が総理・総裁になりたくて仕方ないのに、周囲もマスコミも「やれ」と言ってくれないので、将来ある後輩たちの足を引っ張ってうさ晴らしをしているのかとも勘繰りましたが、もう一つ、重大な事実に思い当たりました!。それは、山崎氏は、れっきとした中国の政府機関の人間だったということです。山崎氏は首相補佐官の重職にあった昨年5月、中国の政府機関であり、中央政府・地方政府の政策立案に携わる中国第2のシンクタンク、上海社会科学研究院の客員研究員に就任しています。事務所によると、「現在はもう辞めており、報酬はもらっていない」とのことですが、一時は日本政府と中国政府の両方に所属していたことになります。
また、山崎氏は韓国の国立慶尚大学校の客員教授でもありますから、日本に敵基地攻撃能力を持ってほしくない中国、韓国の気持ちは痛いほど分かるのでしょうね。山崎氏といえば先日、例によって議員会館をうろうろしていて興味深いコピーを入手しました(別に秘密文書でも何でもありませんが)。それは2002年5月16日付の文書で、「反訴状」と書いてあります。ふむふむ、中身は何かな。2枚目を見ると…
「なぜ山崎拓氏を反訴するか」
本日、衆議院議員であり、自由民主党幹事長である山崎拓氏に反訴を提起いたしました。
2002年4月24日、山崎氏は、週刊文春5月2.9日号(4月24日発売)の「元愛人赤裸々手記 山崎拓『変態行為』懇願テープとおぞましい写真 愛人同行で外遊も」と題する記事を「全く虚偽であり、山崎氏の名誉を毀損する」として5000万円の損害賠償を求める訴えを起こしました。山崎氏は訴状で、小誌の記事を「全く虚偽であり、言語道断」と主張しています。しかし、小誌の記事は、テープや写真、領収書など多数の証拠に基づく真実のものです。(中略)そこで、山崎氏を名誉毀損で反訴し、山崎氏の提訴が正当なものかどうかを法廷に問うとともに、山崎氏が国民に重大な嘘をついていることを問いたいと考えます。コピーには、山崎氏と愛人女性とみられる男と女の会話(テープのおこし)も添えられていました。そういえば、山崎氏をめぐってはかつて、女性スキャンダルがありましたねぇ(わざとらしい言い方)知り合いの週刊誌関係者の話では何年か前、民主党の菅直人代表代行の女性スキャンダルを特集しようと印刷所に原稿を送ったら、なぜだか山崎氏側から発売差し止めを求める内容証明が届いたことがあるそうです。何を勘違いしたんでしょうね。 そんなわけで、山崎氏が小泉首相の靖国神社参拝を批判したり、何にか立派そうなことを言っているのをみると、つい下半身に目がいきそうになるのです。見たくもないのに。》
上のエントリでも一部触れていますが、山崎氏をめぐっては、週刊文春が2002年3月に女性問題を取り上げた上で、その女性が統一協会に出入りしたことも報じ、山崎氏を「政治家失格」と結論づけたことがあります。それに対し、山崎氏は発行元の文芸春秋などを相手取って5000万円の損害賠償を求める訴訟を起こしたのですが、東京地裁は2003年9月、「記事は真実か、そう信じる相当の理由があった」として訴えを棄却しました。このとき土肥章大裁判長は「山崎幹事長は夜に女性宅を訪れており、記者の取材に対して合理的な理由を説明したとは言いがたい。記事は国民に対して山崎幹事長の政治家としての適格性に関する判断材料を提供する目的だった」などとして、記事内容を認め、肯定的に評価すらしています。また、これに対し山崎氏側は「極めて遺憾」として控訴したものの、同年12月には、控訴を取り下げました。当時の週刊文春の木俣正剛編集長のコメントは「記事の真実性を問うような言動をしないことを確約したので取り下げに同意した。記事の真実性が全面的に認められたことを意味すると考えている」としていますから、これはもう文春側の全面勝利ですね。山崎氏は東京地裁に政治家失格と認定され、それが確定したようなものだと言えます。
私としても、あまり古い話や昔のことを蒸し返すのはどうかと思っていましたが、最近の山崎氏の言動があまりに目にあまるので、こういうことも嫌々(?)取り上げてみました。私のブログの訪問者の中にも、あまりこうしたことについてご存じない方もいるだろうとも考えました。まあ、山崎氏に関しては、問題点を書こうと思うと無理に探さなくてもいくらでもあるので、今後も必要に応じて適宜、エントリしていきたいと思います。
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ようちゃんの意見。↓
★実は、山崎氏は小泉元首相の首相補佐官当時、中国の政府機関の一員でもあったのです
山崎氏は首相補佐官の重職にあった昨年5月、中国の政府機関であり、中央政府・地方政府の政策立案に携わる中国第2のシンクタンク、上海社会科学研究院の客員研究員に就任しています。事務所によると、「現在はもう辞めており、報酬はもらっていない」とのことですが、一時は日本政府と中国政府の両方に所属していたことになります。
また、山崎氏は韓国の国立慶尚大学校の客員教授でもありますから、日本に敵基地攻撃能力を持ってほしくない中国、韓国の気持ちは痛いほど分かるのでしょうね。あと いろいろ 普通の人なら 耐えられないような ご経験 があるとのこと。
それでも 生き残っておられると いうことは、それだけも 政治家の かがみ??