台湾の声 ・ 皇室伝統を蔑(ないがし)ろにする宮内官僚を糾す (斎藤吉久) | 日本のお姉さん

台湾の声 ・ 皇室伝統を蔑(ないがし)ろにする宮内官僚を糾す (斎藤吉久)

【ニュース】空回りの台中週末チャーター便

7月4日から「両岸直行週末チャーター便」と「中国人観光客の台湾観光開放」がスタートするが、台湾メディアの報道によると、当日予定されている台湾へ向かう六百数十人の中国人団体観光客はすべて中国籍の航空会社に搭乗し、台湾籍の航空会社が利用されないことがわかった。

国民党・馬英九政権は、台湾国内7ヶ所の空港(台北桃園、台北松山、高雄、台中、花蓮、台東、澎湖馬公)を開放して、台湾と中国の航空会社が協力して中国人観光客を乗せて各地の空港へ分散させて、観光振興をはかる計画だった。

ところが、中国側は自国の旅行客の経済的利益を確保するために、中国人団体観光客をすべて中国の航空会社を利用させ、しかも中国籍の航空会社の乗り入れ先が台北郊外の桃園国際空港と台北市内の松山空港だけとしたため、その他の空港は中国人観光客の直行ルートとならなかった。

台湾の航空会社は7月4日に10便のチャーター便が予定されているが、乗客は台湾人観光客と中国進出台湾企業関係者となり、当初の主要目的であった中国人観光客が利用しないため、中国→台湾の復路が空席多数のまま飛ばざるを得ない可能性が高い。このため、6月30日には南京―台東で予定されていた台湾籍航空会社のチャーター便中止が発表されるなど、早くも台湾側に利益が少ない期待はずれの状況が発生し、地方からは馬英九政権への不満が高まっている。

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【日本の巨人】後藤新平・その強烈な個性 (外交評論家 加瀬 英明)

【6月25日「加瀬英明のコラム」メールマガジン】より転載

いま、日本が活力を失いつつあることが、憂えられている。
幕末から明治にかけた日本は、力が漲っていた。だからこそ、西洋の帝国主義が猖獗をきわめていた時に、日本だけがアジア・アフリカ諸民族のなかで、見事に近代化を成し遂げて、短時間のうちに白人が制覇した世界で、一流国に伍することができた。

あのころの日本は司馬遼太郎の『坂の上の雲』に描かれているように、綺羅星のように多くの人材によって恵まれていた。後藤新平といえば、11歳で明治元年を迎え、昭和4(1929)年に没したが、大きな夢と行動力に溢れながら、明治から大正を駆け抜けた、型破りの巨人だった。

近代日本の鉄道、医療、郵便、電気事業の基礎をつくったほかに、台湾の経営に優れた手腕を発揮して、李登輝前総統をはじめとして、今日でも多くの台湾人から慕われている。首相として嘱望されながら、強烈な個性の持ち主だったために群れることがなかったから、首相の座につけなかった。

後藤は原敬首相に懇請され、はじめ固辞したが、大正9(1920)年から東京市長をつとめて、敏腕を振るった。市長在任中の大正11年に、『江戸の自治制』を題する優れた研究書を著している。江戸は世界における大都市であり、武士を除いて70万人の町民を擁していたのに、司法、警察を含めて僅か300人あまりの役人で治めていた。2番目の都市だった大坂も同じことだった。このようなことは、日本以外の国では考えることもできなかった。

後藤は市民が「自治精神を鼓吹」したから、「少人数役人を以て之(これ)を処理して猶綽(なおしゃく)然(ぜん)余裕(が)有」ったと述べている。そして、「幕政の特色たりしは儀礼を以て社会を秩序せること是也(これなり)」と、結論づけている。マナーによって、支えられていたのだ。

後藤は明治に入ってから近代化によって、「精神的に(略)其(その)蹂躙する所と爲(な)りたるより、(略)之(これ)が爲め一方に旧都市の栄光土(ど)泥(でい)に委(い)し、都風破れ、自治的旧慣亦(また)多く廃されて地を払ふに庶し」と説いて、江戸の良風が破壊されたことを慨嘆している。

江戸時代の日本人は庶民にいたるまで、礼儀正しかった。世界のどの国よりも、徳性が高かった。いったい、日本の力はどこにあるのだろうか。近代化に取り組んで日が浅かったのに、日清、日露戦争に勝って世界を驚かせたのも、その後の日本の発展をもたらしたのも、日本国民が蓄積した徳──マナーの力によった。

日本は資源のない国だ。日本の資源は徳であった。徳こそ資源だった。ところが、いま私たちはこの唯一つの資源を食い潰すようになって、力を萎えさせている。

後藤は今日の岩手県水沢市の貧しい士族の子だった。母の理恵も偉かった。夫に仕え、子に愛情を注ぎながら、厳しく育てた。後藤はいいつけを破ると、母に藁縄で縛られて、物置小屋にほうり込まれたと、回想している。

父母の教育が、明治の逸材を創った。マナーはものごとを、厳しく律することから発する。今日の子どもも、大人もマナーをまったく弁えていないのは、社会から厳しさが失われてしまったからである。後藤は典型的な“井戸塀政治家”だった。後藤邸の跡に、中国大使館がたっている。私はその前を通るごとに、後藤を偲んでいる。(2008・6)

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 斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」vol.38
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1 皇室伝統を蔑(ないがし)ろにする宮内官僚を糾す
皇室の、そして日本の危機である。順徳天皇が「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事をあとにす」と「禁秘抄」(1221年)の冒頭に書かれたように、宮中祭祀こそは天皇第一のお務めである。「国中平らかに安らけく」という私なき天皇の祈りは、古来、連綿と継承されてきた。天皇は政治権力ではなく、祭りの霊力によって、多様なる国民を多様なままに統合し、この国を治めてこられた。天皇の祈りは昔も今も、日本という文明の核心である。しかしいま、文明の根幹に関わる宮中祭祀の伝統が、あろうことか、皇室を守るべき立場の、ほかならぬ宮内官僚たちによって破壊されようとしている。これを危機といわずして何というべきか。

▽「祭祀の調整」を宮内庁発表
今年2月、宮内庁は、天皇・皇后両陛下のご健康問題について発表した。金沢一郎・皇室医務主管は、天皇陛下がガン治療による副作用で、骨に異常を来す可能性があることから新たな療法の確保が必要だ、と述べ、風岡典之・宮内庁次長は、運動療法実施のためご日程のパターンを一部見直す、と補足した。

風岡次長の補足説明は、(1)昭和天皇のご負担軽減の先例に従うこと、(2)宮中三殿の耐震改修が完了し、3月末から宮中三殿での祭祀が再開されるのを機に、ご日程見直しの一環として調整を検討していること、(3)御在位20年を超える来年から、という陛下のお気持ちを尊重すること、の3点であった。翌3月には、両陛下のご負担軽減の観点から、祭祀の態様について所用の調整の検討が進められていることが、風岡、金沢両氏の連名で追加説明された。

 喜寿を迎えようとされている両陛下のご健康は国民の大きな関心事である。だが、なぜ宮内庁は、陛下のご健康問題への配慮と称して、皇室伝統の祭祀に真っ先に手をつけようとするのか。風岡次長は昭和天皇の先例を根拠としている。けれども昭和天皇の晩年期に行われた祭祀の「簡素化」(入江日記)はご健康問題が理由ではなく、御代拝という「調整」をしたのでもなかった。端的にいえば、入江相政侍従長ら側近による祭祀の骨抜き工作の結果であり、したがってこの悪しき先例を何食わぬ顔で踏襲することは、前例を盾にした反対封じであり、あってはならない伝統破壊の正当化にほかならない。

むろんご負担の軽減は必要であろう。宮中三殿で行われる祭祀は大祭・小祭あわせて年間約20件。祭儀は生命力の蘇りであり、受難ではないが、とくに第一の重儀である、11月23日の夜に長時間にわたって行われる新嘗祭から、翌年1月まで、寒さが募る時期に集中的に続く祭祀が、療養中の今上陛下にとって激務であろうことは間違いない。

しかしそれなら、国事行為の臨時代行とは直ちに飛躍しないまでも、法的根拠や伝統的裏づけがあるわけでもない御公務のお出ましを削減し、あるいは御名代として皇太子殿下を立てるという方法がなぜ検討されないのか。皇室第一のお務めである祭祀が最初の標的にされなければならない謂われはない。大祭の親祭、小祭の親拝がご負担だとするなら、大祭なら皇族または掌典長に祭典を執行させ、小祭ならば皇族または侍従に拝礼させるという慣例がある。なぜ、ことさらご健康への配慮を公言し、「調整」する必要があるのか。

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2 話題「皇室の権威から生まれた紙幣」
▽伊勢で流通した「山田羽書」
日本で最古の紙幣を発行したのは、皇室の祖神・天照大神をまつる伊勢神宮に奉仕する神職(御師、おし)たちだといわれます。しかし、なぜ神宮の神職が紙幣を発行するに至ったのでしょうか。

皇学館理事長などの要職を務めた櫻井勝之進氏の『伊勢神宮』によると、神宮に幣帛(へいはく。捧げもの)をお供えできるのは本来、天皇お一人に限られていました。そのため「紙幣禁断の社」といわれ、神領の寄進や祈祷、金品の献進は、願主が直接、神前に捧げることはできませんでした。そのため主として権禰宜(ごんねぎ)とよばれる位の神職たちが、大神の神徳を仰ぎ、神威を蒙りたいと願う人々の志を大神の御前に取り次いだのです。これが「口入(くちいれ)神主」で、一面では御祈祷師すなわち御師でもありました。御師たちの活動によって伊勢の信仰は全国の各階層に広がり、御師と檀家の関係は家や村ごとに、代々、受け継がれ、強固なものとなりました。

日銀調査局の妹尾守雄氏の研究などによると、伊勢の信仰が全国的に盛んになり、神宮への参拝も飛躍的に増えたことから、中世末期、伊勢国は山城、近江と並んで、商業が発達した経済的な先進地となっていました。伊勢の神領は内宮領、外宮領とも、歴史的に守護不入の地で、徴税、政務、警察権を行使する自治組織がありました。それぞれに支配の実権を握っていたのは御師たちで、安土桃山時代末期になると、御師たちが秤量銀貨の釣り銭替はりに発行した、「山田羽書(はがき)」と呼ばれるお札が伊勢山田地方で流通していました。

▽藩札の原型になる
当時の銀貨は一定の額面を持たず、そのつど重さを量って使われました。そのため端数の調整には、必要な目方分をけずって使用する「切遣い」という習慣がありました。ところが、元和年間(17世紀初頭)に幕府がこの切遣いを禁止したことから、「羽書」は端数処理の手段として俄然、引く手あまたとなり、やがて一定の額面を持つようになったといわれます。

現存する最古の「山田羽書」は慶長15年(1610)頃に発行された預かり手形の「丁銀伍分札」で、短冊形、厚手の和紙の上部に大黒天が描かれ、中央に「丁銀」の文字、金額、下部に兌換文言、最下段に発行者の「山田大路長右」の銘が記入してあります。山田羽書は伊勢の信仰、すなわち皇室に対する崇敬の念に支えられて社会的信用が高く、そのため公的な性格を持って流通し、のちに藩札の原型ともなりました。近代の貨幣制度にも劣らないほど発行制度が完備し、日本最古の紙幣ながら幕府公認のもと江戸末期まで継続的に発行され、近代紙幣とのつながりも認められるといわれます。

▽GHQが追放した忠臣の肖像
お札にはしばしば肖像が描かれています。目的は二つあり、一つは偽造防止。人の顔は少しでも印刷がずれていると違和感が生じ、真贋の判別がつきやすいため。二つめは人々に親近感を持ってもらうためで、これまで日本のお札に描かれた人物は18人。最初の本格的肖像は神功皇后でした。君主制の国ではしばしば国王や女王、元国王の肖像が紙幣に描かれていますが、唯一の例外は日本で、御真影を用いることはあまりにも畏れ多いと考えられたのでした。

敗戦後、連合国軍総司令部(GHQ)は過酷な占領政策を強行しましたが、それは紙幣発行にも及びました。政府は明治以来、認められてきた日本武尊(やまとたけるのみこと)など古代の忠臣たちの肖像を紙幣の図案に採用してきたのですが、GHQはこれらを「軍国主義的」として「追放」したのです。

参考文献=曽我部静雄『紙幣発達史』(印刷庁、1951)、朝日新聞社編『日本の紙幣』(アサヒ写真ブック、1959年)、櫻井勝之進『伊勢神宮』(学生社、1969年)、妹尾守雄『山田羽書の事歴』(日本銀行調査局、1970年)、植村峻『紙幣肖像の歴史』(東京美術選書、1989年)、植村峻『お札の文化史』(NTT出版、1994年)など