『台湾の声』連載】日本よ、こんな中国とつきあえるか(11) | 日本のお姉さん

『台湾の声』連載】日本よ、こんな中国とつきあえるか(11)

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『台湾の声』連載】日本よ、こんな中国とつきあえるか(11)
第2章 台湾から見た日本および日本人  
     争いを避けたがる日本人に平和は守れない

3、孫文と辛亥革命に対する日本人の大いなる誤解
●台湾と中国がともに評価する孫文
中国の歴史教科書には一つの大きな特色がある。学生に中国史を教える側面はあるものの、必ず時の政権の宣伝媒体として使われ、時の権力者にとって都合の悪い歴史はすべて排除され、政治的理念に違いがある人物は徹底的に悪者にされる。日本の教科書でも、残念なことにマルクス主義に基づく歴史観による記述は少なくないが、中国の教科書は日本の比ではない。中国の教科書に歴史の真実を見出すことはほとんど不可能と言ってよく、時の権力者が自国民を洗脳するためのツールと成り果てている。それは歴史に限らず、国語や算数などの教科書にも及んでいる。

その点で、台湾の歴史教科書のあり方も中国とよく似ている。戦後、蒋介石が台湾を占領して以来、教科書は中華民国政府による政治宣伝のツールとして使われてきた。面白いのはとくに近代史において、台湾と中国の歴史教科書はまるで正反対のことを教えていることだ。そのいい例が蒋介石についてである。台湾では蒋介石は「民族救星」すなわち中華民族の救世主と謳われ、毛沢東、周恩来、朱徳といった中国の指導者は悪魔のように描写されている。人物評価はまったく一八〇度違うのである。
 
ところが、台湾と中国でたった一人、評価がほぼ一致している人物がいる。それが孫文である。台湾において孫文は「国父」として崇められている。中国もまた孫文を高く評価しているのである。そのせいだけでもないようだが、日本でも孫文は、清朝を倒した革命家で、「大アジア主義」を唱えた人物とされ、その評価は決して低くないようだ。
孫文は、台湾では中華民国のシンボルとして神話的人物となっている。その誕生日である一一月一二日は「国父誕辰記念日」として、また、亡くなった三月一二日は「植樹節」と命名され、孫文の遺志を継ぐという意味で記念の植樹をする日となっていて、それぞれ祝日とされている。

実は、蒋介石が孫文をこのような地位に置いたのには理由があった。それは、蒋介石政権にとって、孫文の正統な後継者は袁世凱でも毛沢東でもなく、蒋介石であるという主張を貫く必要があったからである。革命であれ世襲であれ、どのような政権であっても大義名分、すなわち正統性の根拠を必要とし、それがなければ民衆の支持は得られないのである。しかし、このような事象に目を奪われていては歴史の真実は見えてこない。日本はまだ客観性を保っているところもあるが、先にも述べたように台湾や中国における歴史とは時の権力者が自国民を洗脳するために作る歴史なのである。

 たとえば、孔子の評価である。毛沢東は一九七〇年の文化大革命で「批林批孔」を打ち出し、林彪と並んで孔子批判を大々的に展開した。ところが、それからまだ五〇年も経っていない一九九〇年代後半には恐竜と鳥をつなぐとされる化石を「孔子鳥」と名づけたり、二〇〇四年には政府主催で孔子生誕二五五五年をお祝いしているのである。それゆえ、孫文や辛亥革命にしても、時の権力者による恣意的評価は免れず、そのまま歴史事実として信じることはできないのである。

●日本に来て初めて知った孫文の実像
では、まず台湾ではどのように孫文を描写してきたかというと、小学校の教科書に登場する孫文の物語は一つの神話から始まる。一八八六(明治一九)年、広東省の農家に生まれた孫文は小さいころ、村の廟に祀ってある仏像の腕を折って、村人に「このように、この仏像は自分の身さえ守れないのに、どうして村人を守れるのか。迷信を打破しよう」と呼びかけたというのである。その後、香港で医師の資格を取った孫文は、マカオで開業する一方、興中会という清朝打倒をめざす革命団体を設立し、この興中会メンバーを中心として一八九五年に広州で蜂起した。この日は三月二九日だったので、現在の台湾の「青年節」はこの広州蜂起を記念して制定された国家の祝日とされている。

この広州蜂起に失敗した孫文は、革命分子として海外に逃亡する。ロンドンで清朝政府に誘拐されて公使館に拘留されるが、香港時代の恩師であったイギリス人に助けられる。彼がこの体験を『倫敦被難記』として発表するや一躍有名になる。孫文はこの後、一九〇五年に東京で中国同盟会を設立、最終的には一九一一年一〇月一〇日の辛亥革命によって清朝政府を倒して革命が成功し、新中国・中華民国の設立にいたった。そこで台湾の教科書は、孫文は中華民国という国を造った父「国父」であると書いているのである。もちろん、このなかには歴史的事実もあればウソも含まれている。日本との関わりは東京で中国同盟会を設立した程度に抑えられ、中国でも似たような記述となっている。

ところが、孫文に対する日本の関与は政府筋や頭山満などの民間人を含め、大きな比重を占めていた。しかし、台湾では孫文と日本との関わりは完全に伏せられていて、私も日本に来て初めて知った次第である。その幅広い交友関係や、中国同盟会そのものが日本人の全面的な支援の下に設立し、宮崎滔天など日本人もメンバーだったことなど、あるいは神戸における「大アジア主義」と題した講演のことなど、みな初めて知ることばかりだった。

台湾で「国父」と崇められている孫文は、今でもすべての学校の教室にその肖像画が掲げられていて、学生は授業が始まる前に必ずこの肖像画に一礼しなければならない。また、政府関係の建物にも必ずその肖像画が掲げられている。陳水扁氏が二度目の総統に就任したその式典では、会場正面に掲げられた中華民国旗(青天白日満地紅旗)の上にも大きな孫文の肖像画が貼り付けて掲げられていた。

ところが、実は台湾と孫文との接点はない。厳密に言えば、孫文は一九〇〇年と一九一三年の二度、台湾に立ち寄って宿泊したことがある。しかし、それ以上の関係はない。なぜ孫文が台湾で崇められているのかといえば、それはまさに国民党がその支配を徹底するため、国民党の創始者、中華民国の創始者として、ありとあらゆるところに孫文の肖像画を掲示して権威づけを謀り、神様のように扱ったからにほかならない。中国において毛沢東の肖像画がありとあらゆるところに掲示されたことと同じである

●日本人が応援した孫文と中国革命
日本には孫文に関する文献がたくさんある。刊行されている文献の内容をすべて信じるわけにはいかないが、関係文献を読んでいくうちに、孫文の実像や辛亥革命の真実が浮かび上がってきた。一方、日本人の孫文像は、その資料や文献の多さに関係なく「辛亥革命を起こした中国の革命家」として位置づけられている。もちろん、孫文は一外国人でしかなく、日本人がその人物像や辛亥革命に詳しくなくても驚くことではない。しかし、孫文という一外国人に、外国の革命である辛亥革命に、日本人が命を懸けて参加してきたという歴史事実に関して、日本人がまったくといっていいほど無関心だったことには驚かされた。

日本で孫文に関する文献を読めば読むほど、日本人は自らの命を惜しまず、名声も富もなげうって、厚い道義心と日本の国家戦略に立って中国の革命に参加し、孫文を応援してきたという事実が鮮明に見えてくる。しかし、日本にはこの事実を記したたくさんの資料や文献があるにもかかわらず、ほとんどの人は無視するか、無関心なのである。あるいは、参加した日本人に対する評価は低いのである。
 
孫文は日本に住み、それなりに有名だったようだ。孫文は広州蜂起に失敗し、清国が下関条約で台湾を日本に割譲した一八九五(明治二八)年に初めて日本へ立ち寄る。その後、亡命生活を含めて十数回も来日しており、その滞在は十数年にも及び、生涯のほぼ三分の一を日本で過ごしたことになる。

この孫文に資金を援助し、いろいろ影響力のある人物を紹介し、辛亥革命を支援した宮崎滔天、あるいは、孫文とともに恵州蜂起に身を投じるも捕まって処刑された山田良政、その弟の純三郎。それ以外にも、玄洋社の頭山満、黒龍会の内田良平、それに連なる萱野長知、のちに首相となる犬養毅、大隈重信、そして最初から最後まで資金援助を惜しまなかった映画草創期に活躍した実業家の梅屋庄吉など、孫文と交友した日本人は少なくない。一説には三〇〇人ともいわれている。

●辛亥革命を成功させたのは日本および日本人だった
ところで、台湾の教科書のみならず、日本でも中国でも、孫文はマカオで興中会という革命団体を創設したといわれている。しかし、実際の興中会とは一つの幇であり、幇とはヤクザのような組織をいう。あえて意味づけすれば、同業者・同郷者などの相互扶助を目的とした団結力の強い組織ということになる。孫文はこの興中会の創設者ではなく、もともとあった興中会という幇に加盟したことが明らかになっている。

実際、彼が創設したのは東京でつくった中国同盟会だけで、それも留学生や日本人を取り込んでいて、このなかには宮崎滔天も入っていた。当時の東京には中国人留学生の団体が二〇も三〇もあり、国を思うという大義名分はあっても、実際はお互いに足を引っ張ったり誹謗したり対立をくり返していた。とくに、立憲君主制を主張する梁啓超の団体と共和制を主張する孫文を中心とする団体は絶えず対立していた。その点では、孫文は有力なリーダーの一人であり、革命派のシンボルとしてもてはやされていたことは事実である。

しかし、孫文はほとんど革命に参加したことはなく、実際は日本人が計画して自ら参加し、資金まで調達していたのである。つまり、孫文は資金もなく、行動力もさほどではなく、日本からの物資や人的な支援なくして孫文の革命運動は成り立たなかったのである。この日本人のサムライ精神があったからこそ清朝を倒すことができたのである。孫文が果たした役割は、せいぜい宣伝に携わった程度というのが公平な見方であろう。

事実、一九一一年一〇月一〇日に一一回目の革命である武昌蜂起による辛亥革命が成功したとき、孫文は参加していなかった。アメリカにいて革命の成功を知らなかったのである。そこで、日本人同志が彼に早く帰れと連絡したにもかかわらず、孫文はそれから一カ月も腰を上げず、一二月の末になってようやく上海に到着するという体たらくだった。このような孫文の当事者意識に欠けた責任感のない行動については、台湾でも中国でもまったく触れられていない。

また、孫文自ら述べているように「中国人は砂のような民族」である。つまり、団結力、結束力がない民族なのである。とすれば、この「砂のような民族」だけで果たして革命は成功していただろうか? 私から見れば、この「砂のような民族」のなかに、日本人という道義心に厚く国家観のしっかりした支援者がいたから、成功したのではないかと思われるのである。日本人の存在はまさにセメントのような役割を果たしたと言ってよい。中国の砂と日本のセメントをかきまぜてはじめて建国できたのではないか、と私には思われるのである。中国革命は決して中国人だけでできたのではない。

もちろん、中国人になりきって革命に挺身した日本人も少なくなかったが、日本は自国の国益のために中国革命を支援したという面も見逃すべきではない。当時、日本には「北の脅威」があった。日本はロシアの南下をいかに食い止めるかについて腐心していた。そこで、ロシアの防波堤とならない清朝を倒し、共和制国家を造ってロシアの南下を食い止めるという防衛構想があったのである。しかし、だからと言って日本人志士たちが存在していた意義は決してなくなるものでも、薄まるものでもないのである。

しかし残念なのは、先述したように、このように日本人の力なくして成功しなかった中国革命を、孫文が成功させた革命だと思い込み、日本人が大きく関与していたことを大方の日本人が忘れてしまっていることである。日本人は、外国の革命に参加して政府を倒し、命を懸けて新しい国造りに貢献したという晴れやかな歴史を持っている。誇るべき歴史といってもよい。

実は、日本の生命線である現在の台湾の独立建国運動にも日本人が参加している。時代背景は異なるものの、道義心に厚く国家観のしっかりした日本人はやはりセメントの役割を果たし、台湾人を束ねて団結させている。日本人参加者のほとんどは中国革命の歴史を知っている。しかし、だから台湾の独立建国運動に参画しているわけではない。大方の日本人が孫文も辛亥革命も知らなくなっているにもかかわらず、彼らが日本の歴史と日本の道義を忘れていないということを伝えたいのである。

また、台湾の独立建国運動に参加している日本人有志は、中国(中華人民共和国)が台湾を併呑しようとしていることをよく知っており、台湾が併呑されたら日本の安全が脅かされることもよくよく理解している。当時のロシアと現在の中国は、日本にとってはまさに同じ脅威なのである。しかし、この脅威を脅威として感じているのはまだ台湾独立を支援する日本人有志くらいで、悲しいかな、日本政府も大方の日本人も気づいていないのが現状なのである。

中国革命に寄与した日本人を忘れる日本人であれば、これも致し方ないのかもしれないが、台湾人にとっては命に代えても守らなければならない祖国台湾なのである。いまだ目覚めぬ日本人には、誇るべき歴史を思い出して欲しいと願うのみである。
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■ 国際派日本人の情報ファイル■
一人ひとりの国民を記憶される両陛下
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天皇皇后両陛下は毎日のように多くの国民や外国からの賓客
とお会いになるが、どのような御姿勢で人びととお会いになっ
ているか、を窺わせるエピソードがある。

 平成9(1997)年、ブラジルをご訪問されたときの事である。
当時の式部官長・渡辺充氏とご旅行の打ち合わせをされていた
時、陛下は約20年前の昭和53(1978)年にブラジルをご訪問
された時のことについてこう言われた。

 サンパウロの郊外にある日系の農家を訪ねることになっ
ていたが、日程の都合で行かれなくなって非常に気の毒な
ことをした。その人はまだ存命だろうか。

 確かその人はタナベさんという名前で、鶏を飼っている
人だった。

 渡辺氏が驚いて、一所懸命に当時の記録を探してみたが、ご
訪問されなかった所の記録まではなかなか出てこない。結局、
サンパウロの総領事館でいろいろ調べて貰った結果、確かにタ
ナベさんという養鶏家を訪ねられることになっていたことが分
かった。残念ながら、タナベ夫妻はもう亡くなっていたが、そ
のお子さんがおられるということで、両陛下はサンパウロでお
会いになった。

 皇后陛下についても、次のようなエピソードがある。平成6
(1994)年に両陛下は硫黄島を訪問されたが、その前に、大阪の
ある大きな製薬会社の社長が、別件で赤坂御所に招かれて「自
分の兄は硫黄島で戦死しました」と話していた。

 5年後の平成11(1999)年、オーストリア国大統領主催のレ
セプションで、両陛下が東京のホテルに行かれた時、その社長
も招かれていて、皇后陛下に挨拶をしようとした。

 皇后陛下に「私は大阪の、、、」と申し上げたら、皇后陛下
は顔をじっとご覧になって「あっ、あの硫黄島の」と仰った。
社長の感激はひとしおのものであった、という。

 一人一人の国民の安寧を気遣われているからこそ、このよう
な記憶をお持ちなのであろう。