頂門の一針
ようちゃん、おすすめ記事。↓
ハノイのバイクはサーカス
━━━━━━━━━━━━渡邉 由喜
ハノイでバイクでのヘルメット着用が義務化されたのはいつだっただろうか。まだ寒かった頃だと思うが、その時は夏になったら間違いなくヘルメット着用率は激減すると予想したが、それは見事にはずれた。毎日40℃を超す灼熱地獄の中で、まだ9割以上の着用率がある。これは凄いことだ。
しかし一方で、子供も赤ん坊も着用という当初のルールは変更され、ヘルメットの重さで影響を受ける子供はその限りでなくなった途端、子供でヘルメットを被っているのは1割に満たない感じだ。その子供の定義については、人により色々違うので、もう気にしないことにした。
ヘルメットを被るようになったので少しは安全についての意識が出てきたかと思うとこれについてはやはりまだまだ無理のようだ。私は普段、運転手付きの車に乗っているが(本当は自分で運転したいが、そっちの方が高くつくので諦めている)先日は本当に驚いた。変形五差路の交差点を直進しようとしたら、右の細い道からバイクが出てきた。
バイクは私と一緒に直進するのだなと踏んでいたら、うちの車が急ブレーキをかける。バイクはその目の前を横切った。間一髪のタイミングでそれをやり過ごし、そのまま交差点に入ると、信号無視のバイクが左から右へ。これまた急ブレーキでタイミングをずらし衝突回避する。
よくある光景、ではある。ハノイでは一日何度も「あわや」という緊張感を味わうから、この程度には慣れっこになっているのだが、この日はそれにしても非常に危ういタイミングだった。うちのベテラン運転手も
珍しく焦ったようだ。
交差点を抜けたと思ったら次に、左カーブから目の前に逆走してくるバイク。あまりに堂々とやって来るので拍子抜けがした。これは避けるのはそんなに難しくはなかったが、あまりに唐突な現れ方に思わず笑ってしまった。運転手も苦笑している。
わずか10秒もない間に3つも危機を迎える。しかもどれもかなり難易度ならぬ危険度の高いチャンスである。交通状況は相変わらず無法地帯ということか。バイクは庶民の足、生活に欠かせないものなのであまり目くじらを立てたくはないが、仮に私の家族がバイクに乗っていることを考えると怖くなる。家族総出でバイクに5人乗りという光景も微笑ましいものではあるが、これが自分の家族、大切な人と思うと、それだけでは済まない。
この日は乳児を前に抱えた母親がバイクに乗るのを見た。それだけでも緊張するのに、彼女は携帯電話で話していた。ツワモノ過ぎる。私がこんな所で喉を嗄らして叫んでみたところで蛙のツラにナンとやらであるのは承知だが、この日最後に見た家族連れは極め付き。危険度の問題ではない。全てを包括して考えて「あぁベトナム」だ。家族連れと思える3人乗りのバイク。夫が運転し、妻が乳児を抱えて後ろに乗っている。我が目を疑うが間違いなく妻は胸をはだけており、そこに食らい付く乳児。このバイク、他に比べてスピードを出していたから急いでいたのだと想像は出来るが、それにしても、である。(「ハノイ喜怒哀楽74 )
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誇るべき日本人らしさ
━━━━━━━━━━加瀬 英明
新年に、後輩の見合いをとりもった。
大任を終えて安堵しながら、ホテルの回廊を歩いていたら、日本人にとって日常性から縁遠いインテリアがひろがっていたので、ふと外国にいるような錯覚にとらわれた。
まるで、翻訳劇の舞台装置のようだった。私は『福翁自伝』の一節を、思い出した。福沢諭吉は幕末に遣米使節団の下僚として、アメリカに渡った。その後、竹内下野守を正使とする三使節が率いる遣欧使節団の「一番下席」の団員として、ヨーロッパを訪れた。
一行はパリでも一流のホテルに泊まった。福沢はそのロビーの場面を描いている。「三使節のひとりが便所に行く、家来がボンボリを持ってお供をして、便所の二重の戸をあけ放しにして、殿様が奥の方で日本流に用を達すその間、家来は袴着用、殿様のお腰の物を持って、便所の外の廊下にひらきなおってチャント番をしている。その廊下は旅館中の公道で、男女往来織るがごとくして、便所の内外ガスの光明昼よりも明なり」
明治4年に右大臣だった岩倉具視を大使とする使節団が欧米を巡遊したが、200余日の旅行中、臆することなく日本の作法をもって処した。そのために、アメリカにおいても、ヨーロッパでも行く先々で敬意を払われた。文化人類学者はこのような所作を、「カルチュラル・コンフィデンス」(文化の形を恥じないこと)と呼ぶ。ひとの目を窺う者は、自分を持っていないから見苦しい。
私は園田直(すなお)外相の顧問をつとめた。本人は「直(ちょく)さん」といわれるのを厭がったが、私は親しかったから、特権のようにそう呼んだ。思想的には私が嫌ったハト派だったが、私なりに外相の家庭
教師を気取って手助った。
園田氏は西洋の顕官の前でも、スープを大きな音を立てて、堂々と啜った。柔道、剣道、居合道、合気道を合わせて30段という武道家だったから、カルチュラル・コンフィデンスを備えていた。
日本人は茶であれ、御神酒であれ、啜る。軍歌『父よ、あなたは強かった』が、「泥水すすり草を噛(は)み」とうたっているが、私たちにとっては赤出しであれ、ビシスワーズであれ、飲むものではない。啜るのだ。武道は心と技が合うことによって、成立つ。武道の達人だったから、衒(てら)うことがなかった。音をたてて啜っても、日本人らしかったから見事だった。
直さんは大平内閣の外相もつとめたが、その時に日本においてはじめての先進7ヶ国(G7)サミットが催された。その後、G8になったが、今日でも日本だけが非キリスト教徒で、有色人種の国である。
ホスト国の大平首相を中心に、首脳たちが記念撮影に収まった。私は日本を誇らしく思ったが、いや、私たちが他のアジア諸民族と違って、西洋を模倣することが上手だったからではないかと訝った。
そして、先人たちがなぜ明治維新を行ったのか案じた。維新には、3つの目的があったにちがいない。まず日本の政治的独立を全うし、経済的な独立を守るためだった。3つ目が、文化的な独立を守るためだった。
私たちが西洋を模倣したのは、あくまでも手段であって、西洋に追いつき並ぶためだった。しかし、そうするうちに、手段と目的を混同してしまったのではないか。西洋の猿真似をするようになってから、日本人は日本人らしさを失うようになった。
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講義を全て英語にしよう!?
━━━━━━━━━━━━━━前田 正晶
東京近郊のある公立大学でのことだ。ここではそう主張される教員がかなりの数いるそうで、講義を全部英語にしようかと検討されているとのこと。ここではTOEICが教科として取り入れられており、600点を取れないと進級できない。この準備と勉強に学生たちは大童であるようだ。
戦後間もなくには英語を国語にしようと真剣に考えられていたと子供心に聞いた覚えがあった。正論風というか、進歩的というか知らないが、「国際化」と「グローバリゼーション」対策としても英語教育強化が真顔で取り上げられているのはこの1校だけではないらしい。
悪いことでもないので、真っ向から否定すると分からず屋と非難されそうだ。しかし私は否定論者であり、断固として無用であると主張する。
英語が出来ることは悪くはないが、ごく中学1年程度が普通に読めたり書けたりする程度で、日常生活には十分で、英語での大学の授業が十分解るような次元まで万人に強制する必要はない。確固たる目的がある人だけがそのような授業を受ければよいことだ。
よしんば、大学でとなった場合に、世界の何処から誰を連れてきて、どのように講義をさせるのだろうか?日本人の教員にやらせるというのだろうか?世界各国に、でなければ英語国に、日本の大学に出向いて各専門の分野を講義する先生が沢山余っているのだろうか?
英語国と言えば、USA、UK、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド等がある。その他にも英語を母国語としない国でも、英語で講義を出来る先生もいるかも知らない。
私は実際に色々な国の訛りを経験したが、それに馴れてどれがどれと言えるようになるのは簡単ではない。それを講義で聴かされれば混乱するだろう。
今の授業がアメリカ人で、次がオーストラリア、次にスペイン語系の国の先生となった場合には、日本の学校の先生方の発音で育ってきた学生が果たしてついていけるのだろうかとの深刻な疑問もある。
冒頭の大学には、大学の先生になるまでに、余程英語で苦労されたコンプレックスを持つ方が多いのかと勘ぐりたくなる。
こんなことを考えて、本当に英語で講義をすることが万人のためになるのか、それだけの数の教員が集められるのか、その辺りも十分検討することも必須ではないか?とあらためて言いたくなった。 以上
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ハノイのバイクはサーカス
━━━━━━━━━━━━渡邉 由喜
ハノイでバイクでのヘルメット着用が義務化されたのはいつだっただろうか。まだ寒かった頃だと思うが、その時は夏になったら間違いなくヘルメット着用率は激減すると予想したが、それは見事にはずれた。毎日40℃を超す灼熱地獄の中で、まだ9割以上の着用率がある。これは凄いことだ。
しかし一方で、子供も赤ん坊も着用という当初のルールは変更され、ヘルメットの重さで影響を受ける子供はその限りでなくなった途端、子供でヘルメットを被っているのは1割に満たない感じだ。その子供の定義については、人により色々違うので、もう気にしないことにした。
ヘルメットを被るようになったので少しは安全についての意識が出てきたかと思うとこれについてはやはりまだまだ無理のようだ。私は普段、運転手付きの車に乗っているが(本当は自分で運転したいが、そっちの方が高くつくので諦めている)先日は本当に驚いた。変形五差路の交差点を直進しようとしたら、右の細い道からバイクが出てきた。
バイクは私と一緒に直進するのだなと踏んでいたら、うちの車が急ブレーキをかける。バイクはその目の前を横切った。間一髪のタイミングでそれをやり過ごし、そのまま交差点に入ると、信号無視のバイクが左から右へ。これまた急ブレーキでタイミングをずらし衝突回避する。
よくある光景、ではある。ハノイでは一日何度も「あわや」という緊張感を味わうから、この程度には慣れっこになっているのだが、この日はそれにしても非常に危ういタイミングだった。うちのベテラン運転手も
珍しく焦ったようだ。
交差点を抜けたと思ったら次に、左カーブから目の前に逆走してくるバイク。あまりに堂々とやって来るので拍子抜けがした。これは避けるのはそんなに難しくはなかったが、あまりに唐突な現れ方に思わず笑ってしまった。運転手も苦笑している。
わずか10秒もない間に3つも危機を迎える。しかもどれもかなり難易度ならぬ危険度の高いチャンスである。交通状況は相変わらず無法地帯ということか。バイクは庶民の足、生活に欠かせないものなのであまり目くじらを立てたくはないが、仮に私の家族がバイクに乗っていることを考えると怖くなる。家族総出でバイクに5人乗りという光景も微笑ましいものではあるが、これが自分の家族、大切な人と思うと、それだけでは済まない。
この日は乳児を前に抱えた母親がバイクに乗るのを見た。それだけでも緊張するのに、彼女は携帯電話で話していた。ツワモノ過ぎる。私がこんな所で喉を嗄らして叫んでみたところで蛙のツラにナンとやらであるのは承知だが、この日最後に見た家族連れは極め付き。危険度の問題ではない。全てを包括して考えて「あぁベトナム」だ。家族連れと思える3人乗りのバイク。夫が運転し、妻が乳児を抱えて後ろに乗っている。我が目を疑うが間違いなく妻は胸をはだけており、そこに食らい付く乳児。このバイク、他に比べてスピードを出していたから急いでいたのだと想像は出来るが、それにしても、である。(「ハノイ喜怒哀楽74 )
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誇るべき日本人らしさ
━━━━━━━━━━加瀬 英明
新年に、後輩の見合いをとりもった。
大任を終えて安堵しながら、ホテルの回廊を歩いていたら、日本人にとって日常性から縁遠いインテリアがひろがっていたので、ふと外国にいるような錯覚にとらわれた。
まるで、翻訳劇の舞台装置のようだった。私は『福翁自伝』の一節を、思い出した。福沢諭吉は幕末に遣米使節団の下僚として、アメリカに渡った。その後、竹内下野守を正使とする三使節が率いる遣欧使節団の「一番下席」の団員として、ヨーロッパを訪れた。
一行はパリでも一流のホテルに泊まった。福沢はそのロビーの場面を描いている。「三使節のひとりが便所に行く、家来がボンボリを持ってお供をして、便所の二重の戸をあけ放しにして、殿様が奥の方で日本流に用を達すその間、家来は袴着用、殿様のお腰の物を持って、便所の外の廊下にひらきなおってチャント番をしている。その廊下は旅館中の公道で、男女往来織るがごとくして、便所の内外ガスの光明昼よりも明なり」
明治4年に右大臣だった岩倉具視を大使とする使節団が欧米を巡遊したが、200余日の旅行中、臆することなく日本の作法をもって処した。そのために、アメリカにおいても、ヨーロッパでも行く先々で敬意を払われた。文化人類学者はこのような所作を、「カルチュラル・コンフィデンス」(文化の形を恥じないこと)と呼ぶ。ひとの目を窺う者は、自分を持っていないから見苦しい。
私は園田直(すなお)外相の顧問をつとめた。本人は「直(ちょく)さん」といわれるのを厭がったが、私は親しかったから、特権のようにそう呼んだ。思想的には私が嫌ったハト派だったが、私なりに外相の家庭
教師を気取って手助った。
園田氏は西洋の顕官の前でも、スープを大きな音を立てて、堂々と啜った。柔道、剣道、居合道、合気道を合わせて30段という武道家だったから、カルチュラル・コンフィデンスを備えていた。
日本人は茶であれ、御神酒であれ、啜る。軍歌『父よ、あなたは強かった』が、「泥水すすり草を噛(は)み」とうたっているが、私たちにとっては赤出しであれ、ビシスワーズであれ、飲むものではない。啜るのだ。武道は心と技が合うことによって、成立つ。武道の達人だったから、衒(てら)うことがなかった。音をたてて啜っても、日本人らしかったから見事だった。
直さんは大平内閣の外相もつとめたが、その時に日本においてはじめての先進7ヶ国(G7)サミットが催された。その後、G8になったが、今日でも日本だけが非キリスト教徒で、有色人種の国である。
ホスト国の大平首相を中心に、首脳たちが記念撮影に収まった。私は日本を誇らしく思ったが、いや、私たちが他のアジア諸民族と違って、西洋を模倣することが上手だったからではないかと訝った。
そして、先人たちがなぜ明治維新を行ったのか案じた。維新には、3つの目的があったにちがいない。まず日本の政治的独立を全うし、経済的な独立を守るためだった。3つ目が、文化的な独立を守るためだった。
私たちが西洋を模倣したのは、あくまでも手段であって、西洋に追いつき並ぶためだった。しかし、そうするうちに、手段と目的を混同してしまったのではないか。西洋の猿真似をするようになってから、日本人は日本人らしさを失うようになった。
━━━━━━━━━━━━━━
講義を全て英語にしよう!?
━━━━━━━━━━━━━━前田 正晶
東京近郊のある公立大学でのことだ。ここではそう主張される教員がかなりの数いるそうで、講義を全部英語にしようかと検討されているとのこと。ここではTOEICが教科として取り入れられており、600点を取れないと進級できない。この準備と勉強に学生たちは大童であるようだ。
戦後間もなくには英語を国語にしようと真剣に考えられていたと子供心に聞いた覚えがあった。正論風というか、進歩的というか知らないが、「国際化」と「グローバリゼーション」対策としても英語教育強化が真顔で取り上げられているのはこの1校だけではないらしい。
悪いことでもないので、真っ向から否定すると分からず屋と非難されそうだ。しかし私は否定論者であり、断固として無用であると主張する。
英語が出来ることは悪くはないが、ごく中学1年程度が普通に読めたり書けたりする程度で、日常生活には十分で、英語での大学の授業が十分解るような次元まで万人に強制する必要はない。確固たる目的がある人だけがそのような授業を受ければよいことだ。
よしんば、大学でとなった場合に、世界の何処から誰を連れてきて、どのように講義をさせるのだろうか?日本人の教員にやらせるというのだろうか?世界各国に、でなければ英語国に、日本の大学に出向いて各専門の分野を講義する先生が沢山余っているのだろうか?
英語国と言えば、USA、UK、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド等がある。その他にも英語を母国語としない国でも、英語で講義を出来る先生もいるかも知らない。
私は実際に色々な国の訛りを経験したが、それに馴れてどれがどれと言えるようになるのは簡単ではない。それを講義で聴かされれば混乱するだろう。
今の授業がアメリカ人で、次がオーストラリア、次にスペイン語系の国の先生となった場合には、日本の学校の先生方の発音で育ってきた学生が果たしてついていけるのだろうかとの深刻な疑問もある。
冒頭の大学には、大学の先生になるまでに、余程英語で苦労されたコンプレックスを持つ方が多いのかと勘ぐりたくなる。
こんなことを考えて、本当に英語で講義をすることが万人のためになるのか、それだけの数の教員が集められるのか、その辺りも十分検討することも必須ではないか?とあらためて言いたくなった。 以上
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