尖閣は日本領!の歴史的傍証
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▼▽ 帝国電網省 ▽▼ by 竹下義朗さん
☆ 尖閣は日本領!の歴史的傍証 ―――――――――――― 2008/06/27
「尖閣諸島」(「尖閣群島」とも呼ぶ)は「沖縄県石垣市登野城」という、れっきとした地籍をもっています。魚釣島(釣魚台)・北小島・南小島・久場島(黄尾礁)・大正島(赤尾礁)の5島と、沖北岩・沖南岩・飛瀬の3岩礁で構成され沖縄の南西・台湾の北東に位置し、石垣島から北に約170Kmの海上にある無人島群です。
諸島最大の魚釣島でさえ面積は3.6平方Kmしかなく、高さ383mの峻険な丘を抱えています。このような無人島群である尖閣諸島の領有権を、現在、日本・台湾・支那の三国で争っているのです。では、なぜ日本のみならず、支那や台湾までもが領有権を主張しているのか?
その前に、日本が尖閣諸島を領有するに至った経緯について触れてみたいと思います。明治12(1879)年、日本政府は琉球王国改め琉球藩を廃止し、沖縄県としました。その後、日本政府は明治18(1885)年以来、数回にわたって沖縄県当局を通じ尖閣諸島を実地調査し、
無人島であること、清国を含むどの国にも所属している証跡がないことを慎重に確認した上で、明治28(1895)年1月14日の閣議で沖縄県への編入を決定し、正式に「日本の領土」となったのです。この、日本領有の根拠としているのは、国際法でいうところの「無主地の先占occupation」の原則です。
「無主地の先占原則」
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ある国は、「無主地=どの国にも属さない地域」がある場合、一方的な措置によってこれを自国の領土とすることができる。
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つまり平たくいうと、ある土地に、誰も住んでおらず、しかも誰の所有でもなかった場合、一番最初に見つけた人のものになる、ということなのです。ちなみに先占の具体例として、フランスによるタヒチやニューカレドニア=ヌーベルカレドニー)などの太平洋島嶼の領有が挙げられます。
このように、「先占」で日本が獲得した尖閣諸島ですが、戦後もかなり経った昭和46(1971)年、突如として台湾・支那両国から領有権が主張され始めたのです。ーーーでは、何故、それまでひと言も「領有権」を口にしていなかった台湾・支那両国が、急に領有権を主張し始めたのでしょうか?昭和43(1968)年、国連・アジア極東経済委員会(以下、ECAFEと略)が、一つの報告書を発表しました。タイトルは『支那・東支那海と朝鮮海峡の海底地層と石油展望』。
前年から、東支那海の海底資源を調査していたECAFEがまとめた報告書には、「沖縄諸島と台湾、日本の間の大陸棚の縁や、黄海・渤海には石油埋蔵の可能性が高い」とし、尖閣諸島の海域にも大規模な海底油田・天然ガス田があると考えられたのです。つまり「絶海の無人島」で交通の便も悪い辺境の島が、一夜にして「宝島」となった訳です。ーーーそしてこの発表後、台湾・支那が相次いで領有権を主張し始めたのは前述の通りです。
こう見てみると、「お宝=石油・天然ガス」に目が眩んでの領有権主張とみても当然といえば当然でしょう。とはいっても、果たして本当に「お宝」目当ての領有権主張なのでしょうか?
それとも尖閣諸島は日本の領土ではなく、台湾あるいは支那の領土なのか?
結論からいえば、尖閣諸島はやはり正真正銘「日本の領土」です。そしてそれを証明するものは、はからずも領有権を主張している台湾・支那側にあったのです。中華民国59(1970=昭和45)年、台湾で発行された『国民中学地理科教科書』の初版所載の「琉球群島地形図」には、日本と台湾の国境線が、台湾と尖閣・八重山諸島の中間に引かれており、島嶼名も「尖閣群島」と日本名で記載されていたのです。
台湾「国民中学地理科教科書(初版1970)」所載「琉球群島地形図」
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同地図の拡大図(台湾と尖閣・八重山諸島の中間が国境線)
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ところがその翌年、中華民国60(1971=昭和46)年に発行された同教科書=改訂版)では、国境線が台湾・尖閣諸島と八重山諸島の間に引き直され、「尖閣諸島」の島嶼名も「釣魚台列嶼(ちょうぎょだいれっしょ)」と書き改められたのです。
台湾「国民中学地理科教科書(改訂版1971)」所載「琉球群島地形図」
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(国境線の変更と「釣魚台列嶼」の島嶼名に注目)
つまり、台湾「国民中学地理科教科書」を例にとれば、少なくとも1970年までは、台湾は尖閣諸島を「日本の領土」であると認めていたわけで、翌1971年、台湾が尖閣諸島の領有権を主張したのに伴って、国境線と島嶼名が変更されたと考えられる訳です。
では、もう一つの当事者・支那の場合はどうかということですが、
1958(昭和33)年、北京の地図出版社から発行された「世界地図集」所載の「日本図」の場合も、「尖閣諸島」は台湾同様に「尖閣群島」と日本名で記載され、国境線も台湾と尖閣・八重山諸島の中間線に引かれていたのです。
北京・地図出版社発行「世界地図集(1958)」所載「日本図」
http://
(台湾と尖閣・八重山諸島の中間が国境線)
つまり、台湾・支那両国共に、当初=ECAFEによる報告書発表以前は尖閣諸島を「日本の領土」と認識していた訳で、両国による領有権主張は、やはり「お宝」目当てと考えざるを得ないのです。
さて、ECAFEによる報告書によって一躍「宝島」として脚光を浴び、日台支三国の係争地となった尖閣諸島ですが、本当に報告書にあるような「宝島」=有望な海底油田があるのでしょうか?
日本側の調査報告では1095億バレル≒150億トン)、支那側の1980年代初頭の推計では700~1600億バレルとされています。
しかし、米国CIA(中央情報局)の試算では390億バレル(1977年推計)、旧ソ連の地質学者に至っては75~112億バレル(1974年推計)とし、最新の科学調査では僅か32億バレル程度ともいわれています。
蓋を開けてみれば、埋蔵量は案外大したものではないのかも知れません。
ーーーとはいうものの、海底油田の有無が問題なのではありません。
尖閣諸島はあくまでも「日本の領土」なのです。「お宝」に目が眩んだ台湾・支那両国、特に近年、周辺海域に海軍艦艇や海洋調査船を頻繁に繰り出している支那への警戒は怠るべきではありません。
かつて、南支那海の南沙諸島(スプラトリー諸島)において、フィリピンが主権を主張する小島を、警戒の隙を突いて支那海軍が奪取したことがありました。いや、もっと身近な例では「竹島」があります。その意味でも日本は、「日本の領土」である尖閣諸島の領有権を、台湾や支那に気兼ねすることなく、より強く主張すべきです。と同時に、容易に占領=奪取されることがないよう、より一層防衛に努めるべきといえます。
┌──────────「尖閣諸島」関連年表
1879(明治12)年 琉球処分(日本政府、琉球藩を廃止し沖縄県を設置)
1884(明治17)年 この頃より、福岡県の事業家・古賀辰四郎氏、尖閣諸島で漁業等に従事
1885(明治18)年 日本政府、沖縄県当局を通じ数次にわたる尖閣諸島実地調査
1894(明治27)年 7月、日清戦争勃発
1895(明治28)年 1月14日、閣議決定により尖閣諸島を沖縄県の所轄として標杭の設置を決定(=領土への編入)
1895(明治28)年 4月17日 日清講和(下関)条約調印により、清国、台湾・澎湖諸島を日本に割譲(割譲の対象となった島嶼に尖閣諸島は含まれていない)
1895(明治28)年 6月10日 古賀辰四郎氏、野村靖内相宛に「官有地拝借御願」を提出
1896(明治29)年 日本政府、尖閣諸島の内、魚釣島・北小島・南小島・久場島の4島を古賀氏に30年間無料貸与
1918(大正7)年 古賀辰四郎氏死去。子息・善次郎氏、父業を継承し魚釣島・南小島でカツオブシ、海鳥の剥製等の製造を行う
1926(昭和元)年 尖閣諸島の内、4島の古賀氏への無料貸与期限満了(以後、一年契約の有料貸与に切り替える)
1932(昭和07)年 古賀氏、尖閣諸島のうち4島の払い下げを申請。政府、同氏の申請を受け4島を有料で払い下げる(以後、民有地)
1952(昭和27)年 8月、日華平和条約発効
1953(昭和28)年 12月25日、琉球列島アメリカ民政府布告第27号「琉球列島の地理的境界」で施政範囲の緯度・経度を明示=尖閣諸島も米国の施政権下に含まれる
1958(昭和33)年 11月、北京の地図出版社、「世界地図集」発行(尖閣諸を「尖閣群島」と日本名で表記し、日本領として扱っている
1965(昭和40)年 10月、台湾国防研究院・支那地学研究所、「世界地図集第1冊東亜諸国」初版出版(尖閣諸島を「尖閣群島」と日本名で表記し、日本領として扱っている)
1967(昭和42)年 国連・アジア極東経済委員会(ECAFE)、東支那海の海底資源を調査
1968(昭和43)年 8月、琉球政府法務局出入管理庁係官、南小島において台湾人労務者が不法上陸し、同島沖で座礁した船舶の解作業に従事していたのを発見。台湾人労務者、係官の退去要求に応じて離島
1968(昭和43)年 ECAFE、調査報告書『支那・東支那海と朝鮮海峡の海底地層と石油展望』を発表(尖閣諸島一帯に豊富な石油資源が埋蔵されている可能性が高いと指摘)
1969(昭和44)年 5月、石垣市、魚釣島・北小島・南小島・久場島・大正島の5島に地籍表示用の標柱設置(尖閣諸島の地籍は、沖縄県石垣市登野城に属す)
1970(昭和45)年 1月、台湾(中華民国)国定教科書「国民中学地理科教科書第4冊」初版発行(尖閣諸島を「尖閣群島」と日本名で表記し日本領として扱っている)
1970(昭和45)年 7月、琉球政府、琉球列島米民政府の協力で、魚釣島・北小島・南小島・久場島・大正島の5島に領域表示板設置
1971(昭和46)年 4月、台湾、尖閣諸島の領有権を主張
1971(昭和46)年 台湾国定教科書「国民中学地理科教科書第4冊」改訂版発行尖閣諸島を「釣魚台列嶼」と表記し台湾領として扱っている
1971(昭和46)年 6月11日、沖縄返還協定に対して、台湾(中華民国)外交部声明を発表(日本への返還範囲に含まれる尖閣諸島の領有権を主張)
1971(昭和46)年 6月17日、佐藤栄作総理・ニクソン米大統領の間に、沖縄返還協定調印
1971(昭和46)年 12月30日、沖縄返還協定に対して、支那外交部声明を発表(日本への返還範囲に含まれる尖閣諸島の領有権を主張)
1972(昭和47)年 5月15日、沖縄返還協定に基づき、南西諸島全島の施政権が米国から日本に返還(尖閣諸島は、合意議事録に明記された範囲=緯度・経度に含まれている)
1972(昭和47)年 右翼団体「日本青年社」、魚釣島に航路標識(灯台)を設置
1978(昭和53)年 日中平和友好条約調印(日本・支那両国共に、尖閣諸島領有権問題を当面の間棚上げとする事で合意)
1988(昭和63)年 「日本青年社」魚釣島に航路標識法に基づく灯台を設置
1989(平成元)年 9月、海上保安庁、尖閣諸島海域に侵入した台湾漁船を領海外に駆逐
1990(平成02)年 9月29日、日本政府、「日本青年社」設置の魚釣島灯台を航路標識として正式に認定
1992(平成04)年 支那、「領海法」を制定し「釣魚台=尖閣諸島」の領土編入を一方的に宣言
1996(平成08)年 7月14日、「日本青年社」魚釣島にソーラーシステム灯台を設置
1996(平成08)年 8月、海上保安庁、尖閣諸島海域に侵入した台湾漁船を領海外に駆逐
1998(平成10)年6月24日、尖閣諸島の日本領有に反対する活動家を乗せた香港の抗議船「釣魚台号」等6隻が尖閣諸島海域に侵入。活動家の魚釣島上陸を海上保安庁が実力で阻止
1999(平成11)年 9月5日、「日本青年社」のメンバー3人が、魚釣島に上陸
1999(平成11)年 この年、東支那海の日本側排他的経済水域内で支那海軍艦艇8回31隻・海洋調査船15回25隻が、日本側に通告せずに無断侵入
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―― 余談つれづれ
絶海の無人島で、沖縄本島から行くよりも、むしろ台湾からのほうが近い訳だし、----尖閣諸島の南端は、台湾北部・基隆市から120海里、北端は沖縄県那覇市から230海里----下手に台湾・支那と領有権争いで揉めるぐらいなら、いっそのこと領有権など放棄してしまったほうが・・・といった意見もあるかと思います。しかし、尖閣諸島の内、魚釣島・北小島・南小島・久場島の4島は、埼玉県在住の古賀氏が所有するれっきとした「民有地」。例え、住んでいないとはいっても民有地である以上、国が勝手に「領有権」を放棄するなどということはできないのです。
また、尖閣諸島の領有権を日本が放棄し、支那が領有したとしたら・・・「台湾は神聖なる不可分な固有の領土」「沖縄も我国の潜在的領土」と公言して憚はばか]らない支那の事、隣接する先島諸島=八重山諸島・宮古諸島)、更には沖縄本島までもが支那の直接的脅威に晒されることになるでしょう。そういった観点からも、尖閣諸島の「領有権」を日本は断固として守るべきなのです。= この稿おわり =
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▼▽ 只今、考え中… ▽▼ by RAM さん
☆ 国会について考える(5) ―――――2008/06/27
前回は「一人一律一票」による「クラス会的平等」普通選挙を、不公平ではないのかと疑義を呈しました。この制度は政府を大きくすることも、反対理由に入れました。今回は、何故そうなるのか、そうなればどういう問題が起きるのか、ということについて考えてみたいと思います。先ず前提として、日本は当分「少子高齢社会」が続くことが外せません。このような社会では、リタイアした老人層の比率が高く、候補者が打ち出す選挙公約もそこに照準を定めたものが多くなります。「高福祉」政策です。わたしは病気を抱えており、もうじき老人の仲間入りする年齢でもありますので----それまで生きていられるかどうかは分かりませんが----「高福祉」はありがたいことではありますが、これは必然的に「高負担」を伴います。ところが候補者はこれを言いません。膨大な赤字国債の償還も危うい国家財政で、バランスの悪い年齢別人口構成のこの国が、大幅な増税抜きで「高福祉」を実現できないことは自明の理であるにもかかわらず、宮沢政権から続く「問題先送り」をこれからも、という政策が多いです。
そして、当面の解決策を国家に委ねるとなると、必然的に政府は大きくならざるをえなくなるということです。現行制度のままで、民間ベースだけでの解決は不可能なのと、候補者は「国が面倒見ますよ」と言わなければ当選しにくいからです。「国は膨大な赤字を抱えているから、当面は自分で何とかしてください」と、50年先のことを考えて話す候補者は落選するでしょう――――。ーーーこれではこの国は倒産します。ところが今、現実に国を支えている者や、これから支えなければならない者より、「後は野となれ」的に生きていける者の声のほうが大きければ、どうしても「問題先送り」になるのは人間の本来持っている性向ですし、ここ20年以上そのようにしてきた惰性が、このままではまだ続きます。今の60歳以上の世代の意識調査でも、この問題意識は非常に低いのが実情です。「今日明日の自分の年金はきっちりもらわなければいけないが、50年先の国家財政については考える気がしない」と、多くの人が言っています。ヒューマニストぶる左翼は、この今日明日の福祉だけを言いますが、そのような政策で財政破綻すればどうなるかは、夕張市の例が国家規模になることを想定すれば悲惨さが理解できるでしょう。
問題は、それが自分ではなく、自分の子孫に負わせることになるだけでなく、現状では加速がついているということです。事は国内経済だけの問題ではありません。国際経済の中でも考える必要があります。円が以前ほど強くなくなった現在、日本の国内経済の破綻は宮沢喜一氏(良い時に亡くなりましたね)が思っていたより、もっと早く訪れるでしょう。これを「どげんかする」には、今、これからこの国を支える層に政策を考え、選ぶ力を大きく持ってもらうことが合理的であり、公平でもあると考えます。衆議院は、参議院に対して、現在話題になっている「再議決権(59条)」をはじめ、「予算の承認(60条)」「条約の承認(61条)」及び「内閣総理大臣の指名決議(67条)」において優位を持っていることは現状通りでよいと思います。参議院に、選挙によらない議員が存在すれば、民主主義の原則からいって差がつくのは当然でしょう。但し、ここで、国会について考える中で、最後に大きな提案をしたいと思います。
衆議院には「解散」というシステムがあります。これは現在、「内閣総理大臣の不信任決議(69条)」に対する内閣=行政)側の手段として考えられています。一方、両院は各々の内部で、院内自治という形で、その議員の資格剥奪決議を2/3以上で行うことを定めています。(55条・58条2項)わたしはこれを「国会内自治」というように拡大し、参議院に2/3以上の賛成による「衆議院解散」権を与えたいと考えます。わたしの今までの提案では既に、参議院は選挙によらない政党色の薄いものになっています。一方、衆議院は、政党に対する比例代表制で構成されます。
この、両院の性格の違いは重要なのですが、衆議院の任期中に社会情勢が大きく動いた時に内閣総理大臣が解散を命じない場合、素早い対応がとれない可能性があります。「党利」が国民の利益に優先することが懸念されます。衆議院が、参議院に対して多くの優位性を保つ代わりに、その暴走を防ぐシステム=解散)を、内閣だけでなく参議院にも与えて安全を図る、というのが、この提案の趣旨です。この提案の趣旨の土台には、次回の記事以降で考える、内閣=行政)の新しいあり方と密接に連動するものがあります。= つづく =
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▼▽ 心が元気になる話 ▽▼ by やせ我慢さん
☆ きっかけはメキシコとの不思議な縁 ――2008/06/27
トルコとの友好の始まり「エルトゥールル号」の遭難は、テレビなどでも紹介され、ご存知の方も多いでしょう。もし、まだご存知でなければ、以下のエントリーをご覧下さい。
【日本の良い話】エルトゥールル号の遭難
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このような外国船の遭難に対して、日本が手厚く対応した例は他にもいくつかあります。そんな中の一つに、メキシコの「サン・フランシスコ号の遭難」があります。1609年9月30日、徳川幕府が開かれてしばらくした頃です。千葉の御宿沖でサン・フランシスコ号が遭難した時、近くの漁民が献身的に救助したそうです。当時、大御所として駿河にいた家康も、救助されたメキシコ人に対して寛大な処置をとり、帰国の船まで与えています。
御宿には、この事実を記念して「日墨友好記念碑」が1928年に建立され、メキシコ公使の祝辞が彫られています。
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メキシコとの縁は、それだけではありませんでした。1874年、金星が太陽面を通過するという天文現象があった時、日本はその観測地に適した一つだったので、いくつかの国が観測を希望しました。アメリカとフランスは、すでに修好条約を結んでいたので、長崎と神戸に観測所を建てました。ところが、メキシコとは条約はおろか国交すら無い時で、本来なら門前払いされても不思議ではありませんでした。しかし、明治政府はメキシコの熱意に対し、外国人の居住すら認められていなかった横浜に観測所を建てる許可を出したのです。メキシコの観測隊もこの対応に感激し、観測に日本人実習生を受け入れると申し出てくれたそうです。当日は、長崎・神戸は曇り、横浜だけが快晴だったとか。横浜には、「金星日面通過観測100周年記念碑」が今も残っています。
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御宿での、サン・フランシスコ号の遭難から279年、横浜での金星観測から14年が経った1888年。日本が欧米諸国との対等条約を結ぶ為にどうしてもアジア以外の国との対等条約の実績を欲していた時、最初の条約国となったのがメキシコでした。過去の縁が役立ったのか、あるいは単にメキシコの思惑だけだったのか私には分かりませんが、このメキシコの決断が、欧米列強との対等条約の足がかりになったのは確かです。
それは、日本が植民地という対象ではなく、少なくとも同等程度に扱われる国となった最初の一歩です。そのお礼として、日本は1898年、永田町の土地を在外公館用としてメキシコに提供しました。現在も、永田町に一戸建て大使館を持つのはメキシコだけです。
欧米列強との対等条約へ一歩を踏み出したものの、それからもいろいろな障害がありました。ロシア皇太子を切りつけるという大津事件が起きたのは1891年。大国ロシアの報復を日本中が恐れ、政府首脳も犯人津田三蔵の死刑を求める中で、かろうじて司法の独立を保つという形にできたことが、欧米から法治主義として評価されるということもありました。
※ちなみに、幕末に日本に滞在した英国人アーネスト・サトウは、彼らに危害を加えようとした日本人の切腹に立ち会っています。ちゃんと処刑したという確認を求められたからですが、本人はとても嫌な気持だったそうです。西洋式の裁判も無く切腹ですから、野蛮だと思ったのでしょう。
なんとか諸問題を乗り切った明治政府は、外相陸奥宗光の元、1894年、日清戦争直前に日英通商航海条約の調印に成功します。初めて列強と対等な条約を結べたのです。これは、英国がロシアの南下政策に対して打った対抗策の一つといわれていますが、ちょっと腑に落ちません。ーーーなぜなら、条約は日清戦争の前に結ばれていて、当時は日本が勝つと思う人は少なかったはずだからです。まして、南下するロシアをくい止めるなど、まったく期待できなかったでしょう。
いずれにせよ、その後列強との対等条約締結が進み、日露戦争に勝利した6年後の1911年、米国との条約改正を達成し、約50年続いた不平等条約時代を終わらせることができました。長い年月、そして日本人の犠牲者、対立する意見へのテロなどを経て、日本人の手で欧米列強と対等に話せる場所まで這い上がったのです。不思議な縁もあり、また国際情勢も味方したのかもしれません。しかし、ノルマントン号事件をきっかけにした、対等条約を勝ち取るという国民的な意識と運動が大きな力になったのは、間違いないでしょう。
翻って現在の日本を眺めると、13歳の少女が誘拐監禁され、他にも数十名から100名以上の拉致が言われているのに、人々の関心は薄れ、北朝鮮と友好だとか援助だとか言い出す議員までいるのです。彼らに対して、大きな批難が沸き起こっているとは聞きません。いろいろな面で縛り付けられた日本が、国として当然の権利を行使するには、明治の先人に習って、もう一度、対等な立場を勝ち取るしかないのではないかと思います。先人から学ぶべきは「日本人を守るのは、日本人しかいない」という事です。ーーーそんな大事な事を忘れた日本人や政治家が多くないでしょうか。= おわり =