日中戦争の問題点を検証する2
幕府はますます不穏な風が吹く京都に強力な軍隊を常駐させ治安の安定を図ることにした。
京都所司代の上に京都守護職をおくことにしたのである。
この役に白羽の矢がたったのが会津藩主・松平肥後守容保(かたもり)である。
将軍後見職・一橋慶喜と政事総裁職・松平春嶽は松平容保を口説きにかかった。
会津松平家24万石は、2代将軍徳川秀忠の庶子・保科正之を藩祖とし、越前松平家などと
並んで、徳川御三家に次ぐいわゆる御家門として高い家柄であった。
ついに松平春嶽は自分に向けられたこの「貧乏くじ」を固辞する容保に押し付けた。
大勢の藩兵の京都駐留に掛かる莫大な費用もさることながら、攘夷派の矢面に立つことは
会津藩にとっても病気がちな容保にとってもさけて通りたい。
ところが会津藩には藩祖・保科正之が定めた「土津(はにつ)公家訓」というのがある。土津公
とは藩祖正之のことを指すのだが、この家訓はまさに会津藩の憲法というべきものである。
『将軍に忠勤を尽くせ。我が藩は他所の藩とは違うのだ。もし将軍に異心を懐く者があれば
それは私の子孫ではない。家臣たちもそのような者に従ってはならない。…』
家訓の第1条が藩の継続や繁栄よりも、ひたすら将軍への忠誠を説いている。
実は保科正之は2代将軍・秀忠と秀忠の乳母の侍女・お静との間にできた子である。
恐妻家で知られる秀忠はお静の妊娠を知り、お静を武田信玄の次女・見性院に預ける。
元和3年に武田氏ゆかりの高遠藩主・保科正光が預かり、正光の子として養育された。
お江与の死後、やっと父子は対面し、3代家光は正之を重用し、会津23万石の大名に取り立てた。
保科正之が徳川幕府に忠誠を誓う由縁である。
純情な容保はこの家訓に従ってまさに命がけで京都守護職に就いたのである。
28歳の容保は正四位下に任ぜられ、家臣1千人を率いて黒谷の金戒光明寺に入った。
孝明天皇は容保に会うと、たちまち気に入ってしまった。
公家たちの裏切りに孤独感にさいなまれていた天皇は、嘘をつかない4歳年下の容保にまるで
甘える弟のようになんでも相談する。
文久2年からは日本全国で攘夷の嵐がふきあれた。
その源は長州藩である。
もともと長州藩は徳川幕府に怨念を持っていた。
それは関が原の戦いで西軍の総大将となった毛利輝元へ家康の側近から毛利家の所領は安泰との
約束を得ていた。
ところが戦後家康は一転して輝元の戦争責任を問い、約束を反故にして毛利家を120万石
から周防・長門2国36万石に減封処分した。
この恨みは歴代の藩主に受け継がれ、「倒幕」が常に藩の目標である。
だからどんな些細なことにでも幕府の不利になることには大賛成で、天皇が脚光を浴びると
さっそく「勤皇攘夷」を掲げて政局にしようとしたのである。
そのためには手段を選ばない。
初めは開国論者の長井雅楽(ながいうた)の「航海遠略策」を幕府や朝廷に説いていたが、
藩内の攘夷派から反対の声があがると、長井を藩の奸臣として切腹を命じた。
そして文久2年7月に藩論を「攘夷」に取りまとめたのは、表向きは周布政之助(すふまさのすけ)、
桂小五郎や久坂玄瑞、高杉晋作などであるが、真の推進者は誰あろう、藩主・毛利敬親(たかちか)・
元徳(もとのり)親子なのである。
幕府が弱体化したとみるや、一気に「倒幕」を目指して京都の公家たちをおだてあげ、「攘夷」を
吹き込むため、三条家の若き当主・実美(さねとみ)を洗脳し、三条家の支配家をも攘夷派に引き込んだ。
文久2年12月には高杉晋作、久坂玄瑞、井上馨、伊藤博文、福原乙之進、山尾庸三らが
品川の御殿山に建設中のイギリス公使館に忍び込み放火し、逃走した。
御殿山というのは2代将軍・秀忠の時まで将軍が参勤交代で江戸に出てきた大名を迎えて
いた地である。3代・家光から廃止され、庶民の花見の場所となっていた。
黒船来航で江戸湾に台場を築いた時にこの地を削って船で運んだ。
幕府は外国と条約を締結したので外国公使館を警備に便利なこの地にまとめて建てようと
工事を進めていた。
フランス、オランダ公使館は未完成だが、イギリス公使館はほとんど完成していた。
江戸で初めての西洋館であり、日本人大工たちの苦心の作である。
それがすべて灰となり、幕府の威信も失墜した。
放火犯は逃亡したが、そのうちの3人・井上馨・伊藤博文・山尾庸三は5月にはなんと焼き討ち
したイギリスに留学しているのだから驚く。
日本の初代総理大臣は放火犯で殺人犯なのだ。井上馨は初代の外務大臣であり、山尾庸三は
初代法制局長官である。
伊藤博文・山尾庸三は帰国後の文久2年12月、江戸で国学者・塙忠宝(はなわただとみ)と
加藤甲次郎を暗殺している。
塙次郎は盲目の学者として有名な塙保己一の息子で、父と同じく国学者だった。
塙は老中・安藤信正の命で、「幕府が外国人を遇した例」を調査していたのだが、「廃帝の
典故」について調査していると間違えて噂が立ち、2人は事の真相も確かめずに貴重な学者を
暗殺した。
翌朝、いわば犯行声明書というべき捨て札がたてられたが、それによると塙次郎の暗殺理由は
「恐れ多くも、いわゆる旧記を取り調べ候段、大逆の至りなり。これにより昨夜三番町に於て、
天誅を加えるものなり」
たしかに塙次郎は幕府の御用学者ではあるが、天皇の故事を調べ始めようとしたにすぎないのだ。
しかも国学者暗殺は、長州藩内で伊藤自らが志願していた。
伊藤はさらに翌年の1月には高槻藩士・宇野東桜の斬殺に加担している。宇野が幕府の密偵
だからという理由で殺しているが、究明もせずにいきなり斬っているから、ほんとに密偵
だったかどうかはよくわからない。
斬奸趣意書には「同志を裏切ったための処刑」とあった。死体は切り刻まれた。
さらに付け加えれば長州藩の開国派の長井雅楽の暗殺未遂や将軍家茂の暗殺未遂もある。
長州の攘夷派は高杉晋作や久坂玄瑞らが「御盾組(みたてぐみ)」という結社をつくり伊藤
博文も遅れてこれに参加、他藩の脱藩者も入れて、テロリスト集団はなりふり構わず要人暗殺を行った。
それを黙認していたのが桂小五郎と藩主・毛利敬親である。
公家たちが長州に引きずられていった背景には自分が「殺されたくない」というおびえ もあったのだ。
文久3年2月、将軍家茂は上洛する。将軍の上洛は229年ぶりである。
呼びつけた朝廷は将軍に攘夷の約束をさせるのが目的だった。
だが長州藩はそれだけではなく、将軍の権威を落すこと、それを見て諸大名を離反させ、 倒幕の仲間に引き込むことが狙いである。
そこで長州藩の世継ぎ・毛利元徳は上下・加茂神社と天皇家の菩提寺・泉涌寺への御幸を計画した。
将軍をはじめ諸大名もこれに供奉するのである。
多くの見物衆は将軍が天皇やつき従う公家たちに頭を下げるのを眼の前にする。
改めて天皇の方が将軍より上なのだと認識せざるをえない。
毛利元徳はこの成功に味を占めて将軍・家茂の滞在を伸ばさせ、さらに4月に岩清水八幡宮へ
の御幸を計画した。
岩清水八幡宮は歴代の武家の棟梁が戦勝祈願をしてきたところである。
元徳はここで天皇が将軍に社前で攘夷の節刀を賜うことをもくろんだ。
『神前で立てた誓いをやぶれまい…それになにか失敗すればおもしろいが…』
この企てに気づいたのは将軍後見職の一橋慶喜である。
加茂神社御幸で懲りていた慶喜は4月11日に決定しても何も言わず、前日になって家茂が
風邪を引いて高熱が出たので行けないと言い出した。
そして後見職の慶喜が代わりに同行したのだが、岩清水八幡宮の麓につくと急に腹痛で下痢が
止まらないので、山上の祈願所の「豊蔵坊」で徹夜の祈願はとてもできないので麓の寺院で
静養しますと、さっさと逃げてしまった。
裏を書かれた元徳はいよいよ秘策を発表する。
それは大和行幸である。初代天皇である神武天皇陵に参拝し、さらに春日大社に参詣して
そのまま天皇は東征、つまり江戸に向かって倒幕の戦いに出るのだ。
その際天皇や公家たちが京都に帰りたい心を起こさせないように御所に火を放って焼く予定なのだという。
その日を8月13日に決定した。
計画の立案者は久留米の水天宮の宮司で脱藩者・真木和泉(まきいずみ)である。
真木和泉は若いときから水戸学に心酔して江戸に出て水戸藩の知己を得た。
孝明天皇の即位に際しては拝観するため上洛し、三条実万、東坊城聡長、野宮定功ら公卿、
小林良典ら堂上諸大夫の知遇面識を得た。
彼は「王政復古」を唱え、長州藩主・毛利敬親父子に謁見して攘夷親征、討幕を説いた。
畿内5カ国の土地と人民を朝廷に返還させ、都を大坂に移す。
そして天皇の軍に応じて幕府軍が攘夷を決行する。戦奉行は関白が勤めるという。
これに賛同した公家たち、三条実美、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)らは長州藩のいいなりである。
姉小路公知(あねがこうじきんとも)もその一味であったが、文久3年5月20日に何者かによって暗殺されている。
国事参政の職についていた公知は廟議を終えて、午後10時ころ禁裏御築地内の東北角・猿が辻という場所で、3人組の男たちに斬殺された。
暗殺者の正体は知れなかったが、現場には姉小路卿が下手人から奪い取った刀と、下駄が一足残されており、その刀の銘からどうやら薩摩者が関係していると噂された。
しかし、暗殺指令は長州から出ているというのは暗黙の了解であった。
公知は文久2年10月、右近衛権少将となり、幕府への攘夷督促の副使として、正使・三条実美とともに江戸に向かい、軍艦奉行の勝海舟と共に江戸湾岸の視察などを行った。
勝は安政6年に咸臨丸でアメリカのサンフランシスコに航海した経験を持つ。
この時、外国の軍艦や大砲の性能の良さに驚嘆し、乗組員を養成するため日本海軍の基礎ともいうべき神戸海軍操練所を設立している。
折り紙つきの開国派である勝に案内されて話を聞くうちに公知はしだいに攘夷について 疑問を持ち始めた。
坂本竜馬も勝を暗殺するため乗り込んで、逆に勝の弟子になったくらいだから勝のスケールの
大きさに多くの若者が惹かれて開国派になっていった。
公家たちの中には海を見たこともない者も多く、ましてや軍艦は絵でしか知らない。
孝明天皇はじめ公家たちは外国の軍艦をやっつけられるものをつくれ、と簡単に言う。
しかし、造船の技術や航海術の習得など一朝一夕にできるものではない。
「鎖国のため外国と戦争せよ」と簡単に命令するが、実行したら敗北は明らかである。
敗北したら天皇も公家もなくなることに彼らは気がつかない。
長州藩は5月11日午前2時、ついに「攘夷決行」に踏み切った。
関門海峡を通過しようとしたアメリカ商船「ペンブローク号」に対して、イギリスから買った藩の木造軍艦「庚申丸(こうしんまる)」「癸亥丸(きがいまる)」の2艦から猛烈な砲撃をくわえた。
ところがこの攻撃は12発の砲弾を撃ちながらマストに軽微な損傷を与えただけである。
国際法を知らぬとはいえ、武装していない商船を不意打ちに攻撃するのは卑怯である。
さらに5月23日にはフランス艦キャンシャン号を砲撃。この時も敵船は軽い被害である。
26日にはオランダ艦メデューサ号を砲撃した。
朝7時、陸から戦争開始の警報2発発砲。この時はイギリスから買った軍艦壬戌丸(じんじゅつまる)も
加わって3隻で1時間半ほどの戦闘があった。
メデューサ号は22発を船体に受け、1発はエンジン室を直撃。4名が死亡、4名が重傷。
そして艦は逃走する。
これで勝った勝ったと喜んでいると、当然怒った欧米列強は翌月には報復攻撃に出た。
6月1日、アメリカ軍艦・ワイオミング号が亀山砲台を猛撃して破壊した。
亀山砲台には砲首を上下する設備がなく、接近し過ぎると砲撃できない。
ついで、長州藩軍艦・庚申丸・壬戌丸を撃沈し、さらに癸亥丸も撃破し、多大な被害を長州藩に
与えて、意気揚々と引き揚げていった。
さらに4日後には、フランス軍艦タンクレード号とセミラミス号2隻が報復攻撃を開始し、猛烈な砲撃後に陸戦隊を上陸させ、諸砲台を占拠・破壊し、近隣の村落も焼き払って、領内を我が物顏で闊歩して戦利品まで取って引き揚げていった。
なにしろ前田砲台は貧弱なので、撃った弾が敵の軍艦にまで届かない。
相手方からの弾はこちらにしっかり届いて爆発するのだから簡単に撃破され、戦争にならない。
一方的な敗北である。
ところが報復はこれで終わらない。翌年にはイギリス・フランス・アメリカ・オランダの四カ国が連合して、長州藩に攻撃してくるのである。
彼らの意図は攘夷が無駄なことを力ずくで教えることにある。
7月2日、薩摩藩では生麦事件の賠償をめぐって薩英戦争が勃発した。
イギリス艦隊7隻は薩摩藩の汽船3隻(白鳳丸、天佑丸、青鷹丸)を拿捕する。 暴風雨の
なか正午、薩摩藩が陸上砲台80門を用いて先制攻撃を開始。
午後2時イギリス軍が応戦し、20門の最新式のアームストロング砲と80門を使用し、 砲台と同時に鹿児島城北の市街地を砲撃。近代工場を備えた藩の集成館を破壊。薩摩藩側は汽船と全砲台のほか工場生産能力を失った。
イギリス側も旗艦の艦長と副長が戦死、60余人が死傷する損害を出した。
備砲の射程はイギリス軍艦の方が上回っていたが、地の利を得ていた薩摩藩は天候にも助けられ
2週間前に射撃訓練をしていたので命中率が高かった。
しかし薩摩は外国軍と戦う愚を悟り、以後2度と「攘夷」を口にしなくなった。
そして敵であったイギリスと手のひらを返して急接近する。
9月28日から、横浜のイギリス公使館でニールと講和談判がおこなわれ、薩摩藩は2万5000ポンド(6万300余両)を幕府から借用して支払うことで、10月5日和議が成立した。
天皇や攘夷派からの突き上げで苦境に追いこまれた幕府は、外交交渉によっていったん開港した横浜の鎖港を実現しようと、12月に外国奉行池田筑後守を正使とする使節団をヨーロッパに派遣する。
しかし、ヨーロッパ各国が承知する訳もなく、最初の訪問国フランスで失望した。
『…条約御違反相成り候わば、戦争に及ぶべきは必定にこれあり。御国海軍は、たとえば
大海の一滴にて、所詮御勝算はこれあるまじく存じ候。』
フランスの外務大臣から国際法を知らぬ日本が侮辱されただけで軽くあしらわれただけ。
見切りをつけた使節団は翌年(元治元)7月、横浜港に帰国し、幕府から処罰された。
このころの朝廷は完全に長州藩の息のかかった攘夷派の公家たちに牛耳られていた。
長州の意見は三条実美の手によって朝廷の意見となり、天皇の勅命となるのだ。
穏健派の中川宮は薩摩の島津久光を呼んで兵を率いて上洛することを申し入れたが、
薩摩はイギリスとの戦争準備でそれどころではない。
長州藩は孝明天皇の大和行幸と親征の計画を着々と進めていた。
倒幕に反対の孝明天皇はいらだっていた。
自分が書いてもいないものが「勅命」として出回り、自分の願う方向とは逆の方へ公家たちは動いていく。
軍事総裁を天皇が務めるなど考えられない。ヤケ酒とともに涙の量も増えた。
1863年(文久3)7月には孝明天皇が容保に「馬揃え」を行うように命じた。
つまり会津藩の軍事力を見せよ、というのである。
予定されていた7月30日は雨だった。
ところが天皇からは「雨天決行」の沙汰があり、容保は雨中にも威厳を保った軍事パレードを行う。
さすがに半日で切り上げたが、後日朝廷から絶賛された。
孝明天皇は再度「馬揃え」を見たいと言う。
8月5日、会津藩、因州鳥取藩、備前岡山藩、米沢藩、阿波徳島藩の5藩が午前11時より、
午後8時まで鉄砲や大砲の発射を含めて大掛かりな調練をおこなった。
公家たちは大砲の音に驚いて途中で逃げ出したり「怖い、怖い」と震えるなど、さんざんの
ていたらくである。
孝明天皇はそれを見てさらにご満悦。
日ごろの鬱憤を晴らして、容保への信頼は深まるばかりである。
この様子を見ていた薩摩の公武合体派の高崎佐太郎は容保に急接近する。
天皇のお気に入りと手を組むべきであると。
薩摩の島津久光と連絡を取り、吉井幸輔とともに会津と組むことを決定。
8月13日、高崎佐太郎は会津藩公用方・秋月悌次郎を訪問し、松平容保に薩会秘密同盟の承諾を得た。
薩摩はイギリスとの負け戦さで幕府や諸藩の反発を買うことを恐れていたので、急遽、容保に味方して藩の安全を図ったのである。
8月13日、土佐脱藩浪士の吉村寅太郎ら攘夷派浪士は大和行幸の先鋒となるべく、攘夷派公卿の前侍従・中山忠光(19)を首魁に担ぎ「天誅組」を結成し京を出発した。
はじめは38人であったが、道中の宿場で「義軍」を募り、500人近くまで増えた。
天皇のお先触れとして堺から大和五条に入った。
淡路島の勤皇家で大地主であった古東領左衛門は先祖代々の全財産を処分し、天誅組の軍資金と
して供出した。
8月17日、幕府天領の五条代官所を襲撃し、代官
j]\g・鈴木源内を殺害し、代官所を焼き払った。
そして桜井寺に本陣を置き五条を天朝直轄地とする旨を宣言する。
ところがここで京都では8月18日の政変が起こり、孝明天皇の行幸は延期されたと古東領左衛門が知らせにきた。しかし中山忠光は計画の続行を指示する。
そこで兵力増強のため十津川に向かう。
南朝を助けた「勤皇」の十津川郷士を味方に引き入れ、兵力を増強した。
気勢を上げた彼らは次に高取藩を狙った。
高取藩は天皇の近習、中山忠光が主将であるからとりあえず、武具・糧食を献上した。
しかし2万5千石の小藩ながら住民の平和な暮らしを破壊する天誅組を断固として許さない。
地元の利を活かしながら敢然と戦った。
9月1日には、朝廷からも天誅組追討を督励する触書が下される。
むろん幕府は紀州藩、津藩、彦根藩、郡山藩に天誅組討伐を命じた。
諸藩が加わると天誅組は中山忠光を長州に逃がし、壊滅状態になった。
8月18日、会津藩と薩摩藩は長州藩と公家の過激派を京都から追放した。
このとき長州藩と手を組んでいた7人の公家たちもともに長州に逃れた。
三条実美・東久世通禧・三条西季知(さんじょうにしすえとも)・四条隆謌(しじょうたかうた)・
壬生基修(みぶもとなが)・錦小路頼徳(にしきのこうじよりのり)・澤宣嘉(さわのぶよし)らである。
そのうち錦小路頼徳は元治元年に病死した。
澤宣嘉は福岡藩の攘夷家の平野忠臣に担がれて但馬国・生野(いくの)で挙兵に参加するが
敗れて再び長州へ舞い戻った。
長州藩の家老や重役はもともと保守である。
何事につけても高位をかさにきてわがままな公家たちはお荷物でしかなかった。
第1次長州征伐であっけなく幕府軍に敗れると攘夷急進派はことごとく処断され、公家たちの引渡しを迫られたので、大宰府に避難させた。つまり追い払ったのである。
公家たちはなじみのいない大宰府行きを嫌がったがしかたなく落ち延びていく。
さらに長州藩の頭痛の種が中山忠光(19歳)である。
大和五条で天誅組総裁に担がれていたのが幕府軍に敗れて長州に逃げてきていた。
「お尋ね者」となった忠光に長府から暗殺者5人が送られた。潜伏先の農家から追い立てられた
病身の忠光はあっけなく圧殺された。享年20歳。
長府藩は萩の本藩に「病死」と届け出た。
朝敵となった長州藩は勢力挽回の策を模索していた。
元治元年6月の池田屋事件では風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮
を幽閉し、一橋慶喜、松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去る計画を立てた。自藩の
ことしか考えない残虐非道なテロリストたちである。
これが新撰組によって阻止されると、7月には禁門の変を起こして御所内で鉄砲を撃ち、
火災を引き起こし、逃げる時に火を放って京都の半分を焼き、罹災世帯は2万7千戸に及び、
何の罪もない住民を苦しめた。
彼らのいったいどこが「尊王」なのか?天皇と公家を利用しただけである。
孝明天皇が長州藩を「絶対に許さぬ」と怒るのは当然である。
日本の歴史に関する多くの書物は、過激派の長州藩士を「尊王攘夷派」と呼ぶのだが、私は
反対である。
そもそも幕府側の人物でも天皇を尊敬しなかった人物はいないのである。
当時の日本人は「一種の日本のお守り」として天皇を尊敬していたのである。
1864年(元治元年)12月16日、奇兵隊を組織して西洋式訓練と兵器を使用した高杉
晋作は下関でクーデターを起こし、攘夷派勢力を結集させた。
長州藩の保守派は追放され、再び攘夷過激派が主流となった。
そこで幕府は第2次長州征伐を宣言するのだが、各藩は戦う意志がなく、のらりくらりと
参加を伸ばしていた。
その間に土佐の坂本竜馬の斡旋で慶応2年1月には薩摩と長州の同盟が成り、一気に倒幕への勢いが増した。
戦争には金が要る。各藩にはその軍資金がないのだ。
やっとのこと慶応2年、6月7日、第2次長州征伐を開始するのだが、薩摩と組んで近代
兵器を手に入れた長州藩にてこずった。
その上将軍家茂が7月20日に大坂城で病没すると、幕府軍の士気は萎え、8月1日の小倉藩の
敗北で事実上の終戦となった。
その後は勝海舟と長州藩主との交渉で停戦となった。
江戸時代は一気に消費経済が発達して何事にも現金決済がすすんだ。
日本国中の藩が借金生活にあえいだ。
殖産政策を成功させて潤った藩は少ない。
借金は江戸や大阪の豪商にしたのだが、薩摩藩の借金は500万両と桁違いである。
8代藩主・島津重豪(しげひで)の豪勢な浪費生活の結果である。
それを「250年払い」という事実上の踏み倒しと、密貿易と砂糖の専売制によって大儲けをし、
幕末には財政は潤沢であった。
薩摩藩はそれまで錦小路と伏見に京屋敷を持っていたが、1862年(文久2)に近衛家の
世話で御所の裏に5800坪という広大な敷地に九棟の建物と多くの土蔵が立ち並ぶ藩邸を設けた。
隣近所は五摂家の屋敷が立ち並び、公家たちも薩摩の経済力に圧倒された。
さすがに90万石と加賀藩に次ぐ大藩である。
禁門の変で錦小路の薩摩屋敷は焼失する。
伏見の薩摩藩邸は鳥羽・伏見の戦いで会津藩の大砲隊により放火され焼失した。
それでも「生麦事件」の賠償金2万5000ポンド(6万300余両)を幕府から100年
返済で借り、さらに踏み倒した。
そして薩英戦争で戦争相手のイギリスと仲良くなり、慶応2年6月17日にはイギリス
公使パークスが公式に薩摩藩を訪問するまでになり、近代兵器を買い込んで倒幕の準備を
しっかりやった。
長州藩も借金踏み倒しと密貿易で幕末には潤っていた。
1864年(元治元年)、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四カ国が連合して、
長州藩に攻撃を仕掛けてきた。
8月5日午後4時に始まり、わずか10分間程度で数百発が発射されたという。この連射砲撃で、
砲撃開始後1時間ほどで長州側の主要な砲台はほぼ壊滅状態と化した。この戦果を見て、列国は
陸戦隊を上陸させた。
欧米列強は、賠償金300万ドルという巨額を長州藩に提示したが、高杉は攘夷を命じたのは
幕府であるから賠償請求は幕府に求めよと責任回避をした。
禁門の変では自分たちが撃った弾丸が御所に堕ち、隣の鷹司邸が全焼した。
久坂玄瑞と寺島は鷹司邸のお局口で割腹して死んだ。
19日午前8時、河原町の長州藩邸では留守居役の乃美織江が館に火をかけて退散した。
強風のためみるみる火は町屋に燃え移り、京の半分を焼き尽くした。
外国人と直接交渉を持ったのは漂流した船乗りたちである。
11代家斉のときにロシアから帰国した大黒屋光太夫は日本開国を望むラクスマンがついて
きたので、幕府はラクスマンを追い返し、光太夫を江戸の小石川に住まわせて旗本とし、
ロシア事情を詳細に聞いた。
ジョン万次郎の帰国は1851年(嘉永4年)で、その2年後にペリー艦隊が浦賀に現れたので、
外国奉行は万次郎から聞いたことが真実であることに驚き、真剣にアメリカの実情を聞いて
早速手を打った。
幕府は開明派官僚の人材登用をはかるとともに、品川・長崎に砲台を建設し、長崎に海軍
伝習所を開設、講武所も開設して幕臣たちに洋式砲術を学ばせた。
西洋事情をもっと詳しく知るために蕃所調所(ばんしょしらべしょ)も置いた。
外国に対抗するため1855年(安政2)オランダから木造の軍艦・咸臨丸を購入した。
5年後、
日米修好通商条約批准に渡米する日本初の遣米使節団はアメリカの軍艦ボーハタン号に乗艦
したが、その護衛のため咸臨丸も同行した。
提督には木村摂津守、艦長に勝海舟、士官17名、水夫、従者併せて総勢96名が乗り組んだ。
そのなかにジョン万次郎がいたことは日本側にとっては心強い。
幕府の対応は実践的である。
しかし、庶民の抜擢は例外にすぎない。
幕府の最大の欠陥は長年染み付いた身分制度の枠組みを取り払えないことである。
有能な人材は日本全土に多くいるのだが、藩単位の思考から抜け出せない。
この弱点を薩長に突かれて内部崩壊したのである。
1866年(慶応2)12月25日、孝明天皇が突然崩御する。35歳。在位21年。死因は
疱瘡(ほうそう・天然痘)とされた。
討幕派にとっては実に都合のよいタイミングに天皇は死んだ。
どうしても幕府との協調路線を主張して、長州藩を許さず、第2次長州征伐の勅命を15代
将軍・慶喜に与えた。
しかし、幕府軍は敗れた。
これを見た岩倉ら倒幕派の公家たちは今こそ幕府と手を切る時期だと話し合った。
すでに薩摩と長州の連携も成立して機は熟している。
ここで幕府を倒せば朝廷が実権を握れる世になるのだ。それなのに天皇はいつまでも幕府を
助けようとしている。
そこで8月30日には22人の公家たちが「朝廷主導での諸侯召集・処罰中の公家の赦免・
朝廷政治の改革」を掲げて御所に押しかけた。
首謀者は表向きは中御門経之と大原重徳であるが、実際は洛北岩倉村で謹慎しているはずの
岩倉具視が薩摩藩と示し合わせて筋書きを書いたのである。
失脚している近衛忠煕(ただひろ)を関白につけたいのである。
そのためには近衛を支持する公家たちを復職させたいのだ。
もちろん、天皇の意思決定をサポートしている中川宮と二条関白への不満をさす。
孝明天皇は大原重徳の話には一応耳を傾けたが、朝廷の法を破る者として彼らを処罰した。
中御門経之、大原重徳、正親町三条実愛、の3人に閉門を命じた。以下20人には差し控え
(禁足、面会停止)の処分としている。
列参していない正親町三条実愛は彼らを助けたとの理由で閉門。
山階宮晃(やましなのみやあきら)親王も行為制規にたがえたとして蟄居。
長州藩と手を組んだ公家たちは絶対に許さないという断固たる孝明天皇の意志がある。
朝廷を乱し、御所を戦場とし、火を放って京都の町を焼いた長州藩への憎しみは深い。
二条斉敬と中川宮は責任を取って参内と朝議参加を辞退した。信頼する臣下を失って まさに
天皇は孤立し、孤独に陥った。
頼みに思う人は廷臣にはなく、幕府方の容保や慶喜である。
12月13日、孝明天皇は風邪から発熱し床についた。
天皇は2年前から痔を患っており、外科医・伊良子光順(いらこみつやす)が治療していた。
高熱が続き、主治医・高階経由と息子・経徳、典医・山本隨、伊良子光順の4人は疱瘡と診断。
小児科医で疱瘡の治療の経験豊富な西尾兼道・久野恭を召集して拝診に参加させた。
医師団は15名で、3班に分け、24時間体制で看病した。
医師団のうちの伊良子光順の記録によると病状は順調に回復していると思われていた。
ところが24日の夜に急変し、「九穴より脱血」するという苦しみに襲われ、翌日の午後
11時ころに亡くなった。
そこで孝明天皇に生きていられては困る立場の人物が天皇を暗殺したのだ、と近習たちの間で囁かれた。
天皇が死んで得をする人物、しかも天皇のおそば近くにいて「毒」を盛るチャンスのある人物…?
その推理の結末に常に語られるのが岩倉具視である。
実行犯は妹・堀河紀子か、彼らの息のかかった女官であるとされる。
実際天皇が薬やお茶を飲む時、その世話は高等女官がすべてするから砒素などの毒薬を混入
することは大いに可能である。
また、大正天皇に仕えた「椿の局」こと・梨木止女子(なしのきとめこ)は宮中では孝明天皇は
風呂の湯に毒薬を入れられて、皮膚から罹病して殺害されたというのが定説になっていたという。
お風呂場の仕事は洛北の八瀬大原が代々受け持っており、その中の誰かが湯に毒を入れたのだと、
実行犯を風呂場担当の一般人にしている。
もちろん、一般人が天皇暗殺を謀るはずもなく、暗殺者が八瀬の住人に変装して紛れ込み、
毒を湯船に入れたのである。
ただ、それを黙認しなくてはならない義理が八瀬の住人と頼み人の間にあったのだろう。
それにしても八瀬大原は岩倉村と至近距離である。
孝明天皇の死後岩倉具視は復権して、公家のトップに立ち、一族は栄達する。
岩倉具視よりも長州藩は孝明天皇の死で利益を得る。
孝明天皇に憎まれたままでは復権ができない。
長州藩が刺客を放って刺殺したのだという説が根強いゆえんである。
しかし、天皇には15人の医師団がついており、「刺殺」などの外傷性のものは記録に残る
からまずありえない。
病死か、毒殺か?
孝明天皇は土葬されたから、その遺骨を取り出して鑑定すれば死因が判明するかもしれない。
もっともその前に陵墓の発掘は宮内庁が許さないだろう。
孝明天皇は死後東山の泉涌寺に「後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしのみささぎ)」.が
山陵奉行の戸田忠至(とだただゆき)によって造営された。
戸田忠至は宇都宮藩の家老であったが文久2年から畿内の天皇陵のすべてを補修し、その
記録「文久山陵図」を幕府と朝廷に提出し、孝明天皇の深い信任を得た。
戸田忠至はこの功績により宇都宮藩から1万石を分与され高徳藩(たかとくはん)を立て
大名
の仲間入りをした。
天皇の葬儀は仏教が定着すると釈迦が火葬であったことに倣って702年、持統天皇がはじめて
火葬にされた。以後は火葬が定着する。
江戸時代の後光明天皇は気性の激しい人で、将軍は家光・家綱の幕府最盛期に当たる。
天皇
の権威が軽んじられると幕府との対抗意識に燃え剣術を習ったほどである。
葬儀はそれまでの火葬をやめ、土葬にした。以後の天皇は昭和天皇まで土葬である。
ところが
表面上は火葬を装った。
というのも土葬するためには広い敷地が必要で、周囲や門の築造など経済的に賄えない。
火葬ということにしておけば石塔を立てておき、作業も簡単に済む。
江戸時代の天皇は月輪陵・後月輪陵に共同墓地のように九重の石塔をシンボルにしてまとまっている。
戸田忠至は孝明天皇の陵を単独で築造することを朝廷に進言したのである。
しかし葬儀は泉涌寺の老僧を招いて仏式である。
ともかく孝明天皇はそれまでの天皇と違い、自分の意思を表明し、それを貫こうとしたこと
だけは間違いない。そしてこの天皇がいなければ明治維新は起こらなかった。
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※みなさんからのご意見をお寄せください。
岡崎けい子のホームページhttp://www12.ocn.ne.jp/~okazaki8/
京都所司代の上に京都守護職をおくことにしたのである。
この役に白羽の矢がたったのが会津藩主・松平肥後守容保(かたもり)である。
将軍後見職・一橋慶喜と政事総裁職・松平春嶽は松平容保を口説きにかかった。
会津松平家24万石は、2代将軍徳川秀忠の庶子・保科正之を藩祖とし、越前松平家などと
並んで、徳川御三家に次ぐいわゆる御家門として高い家柄であった。
ついに松平春嶽は自分に向けられたこの「貧乏くじ」を固辞する容保に押し付けた。
大勢の藩兵の京都駐留に掛かる莫大な費用もさることながら、攘夷派の矢面に立つことは
会津藩にとっても病気がちな容保にとってもさけて通りたい。
ところが会津藩には藩祖・保科正之が定めた「土津(はにつ)公家訓」というのがある。土津公
とは藩祖正之のことを指すのだが、この家訓はまさに会津藩の憲法というべきものである。
『将軍に忠勤を尽くせ。我が藩は他所の藩とは違うのだ。もし将軍に異心を懐く者があれば
それは私の子孫ではない。家臣たちもそのような者に従ってはならない。…』
家訓の第1条が藩の継続や繁栄よりも、ひたすら将軍への忠誠を説いている。
実は保科正之は2代将軍・秀忠と秀忠の乳母の侍女・お静との間にできた子である。
恐妻家で知られる秀忠はお静の妊娠を知り、お静を武田信玄の次女・見性院に預ける。
元和3年に武田氏ゆかりの高遠藩主・保科正光が預かり、正光の子として養育された。
お江与の死後、やっと父子は対面し、3代家光は正之を重用し、会津23万石の大名に取り立てた。
保科正之が徳川幕府に忠誠を誓う由縁である。
純情な容保はこの家訓に従ってまさに命がけで京都守護職に就いたのである。
28歳の容保は正四位下に任ぜられ、家臣1千人を率いて黒谷の金戒光明寺に入った。
孝明天皇は容保に会うと、たちまち気に入ってしまった。
公家たちの裏切りに孤独感にさいなまれていた天皇は、嘘をつかない4歳年下の容保にまるで
甘える弟のようになんでも相談する。
文久2年からは日本全国で攘夷の嵐がふきあれた。
その源は長州藩である。
もともと長州藩は徳川幕府に怨念を持っていた。
それは関が原の戦いで西軍の総大将となった毛利輝元へ家康の側近から毛利家の所領は安泰との
約束を得ていた。
ところが戦後家康は一転して輝元の戦争責任を問い、約束を反故にして毛利家を120万石
から周防・長門2国36万石に減封処分した。
この恨みは歴代の藩主に受け継がれ、「倒幕」が常に藩の目標である。
だからどんな些細なことにでも幕府の不利になることには大賛成で、天皇が脚光を浴びると
さっそく「勤皇攘夷」を掲げて政局にしようとしたのである。
そのためには手段を選ばない。
初めは開国論者の長井雅楽(ながいうた)の「航海遠略策」を幕府や朝廷に説いていたが、
藩内の攘夷派から反対の声があがると、長井を藩の奸臣として切腹を命じた。
そして文久2年7月に藩論を「攘夷」に取りまとめたのは、表向きは周布政之助(すふまさのすけ)、
桂小五郎や久坂玄瑞、高杉晋作などであるが、真の推進者は誰あろう、藩主・毛利敬親(たかちか)・
元徳(もとのり)親子なのである。
幕府が弱体化したとみるや、一気に「倒幕」を目指して京都の公家たちをおだてあげ、「攘夷」を
吹き込むため、三条家の若き当主・実美(さねとみ)を洗脳し、三条家の支配家をも攘夷派に引き込んだ。
文久2年12月には高杉晋作、久坂玄瑞、井上馨、伊藤博文、福原乙之進、山尾庸三らが
品川の御殿山に建設中のイギリス公使館に忍び込み放火し、逃走した。
御殿山というのは2代将軍・秀忠の時まで将軍が参勤交代で江戸に出てきた大名を迎えて
いた地である。3代・家光から廃止され、庶民の花見の場所となっていた。
黒船来航で江戸湾に台場を築いた時にこの地を削って船で運んだ。
幕府は外国と条約を締結したので外国公使館を警備に便利なこの地にまとめて建てようと
工事を進めていた。
フランス、オランダ公使館は未完成だが、イギリス公使館はほとんど完成していた。
江戸で初めての西洋館であり、日本人大工たちの苦心の作である。
それがすべて灰となり、幕府の威信も失墜した。
放火犯は逃亡したが、そのうちの3人・井上馨・伊藤博文・山尾庸三は5月にはなんと焼き討ち
したイギリスに留学しているのだから驚く。
日本の初代総理大臣は放火犯で殺人犯なのだ。井上馨は初代の外務大臣であり、山尾庸三は
初代法制局長官である。
伊藤博文・山尾庸三は帰国後の文久2年12月、江戸で国学者・塙忠宝(はなわただとみ)と
加藤甲次郎を暗殺している。
塙次郎は盲目の学者として有名な塙保己一の息子で、父と同じく国学者だった。
塙は老中・安藤信正の命で、「幕府が外国人を遇した例」を調査していたのだが、「廃帝の
典故」について調査していると間違えて噂が立ち、2人は事の真相も確かめずに貴重な学者を
暗殺した。
翌朝、いわば犯行声明書というべき捨て札がたてられたが、それによると塙次郎の暗殺理由は
「恐れ多くも、いわゆる旧記を取り調べ候段、大逆の至りなり。これにより昨夜三番町に於て、
天誅を加えるものなり」
たしかに塙次郎は幕府の御用学者ではあるが、天皇の故事を調べ始めようとしたにすぎないのだ。
しかも国学者暗殺は、長州藩内で伊藤自らが志願していた。
伊藤はさらに翌年の1月には高槻藩士・宇野東桜の斬殺に加担している。宇野が幕府の密偵
だからという理由で殺しているが、究明もせずにいきなり斬っているから、ほんとに密偵
だったかどうかはよくわからない。
斬奸趣意書には「同志を裏切ったための処刑」とあった。死体は切り刻まれた。
さらに付け加えれば長州藩の開国派の長井雅楽の暗殺未遂や将軍家茂の暗殺未遂もある。
長州の攘夷派は高杉晋作や久坂玄瑞らが「御盾組(みたてぐみ)」という結社をつくり伊藤
博文も遅れてこれに参加、他藩の脱藩者も入れて、テロリスト集団はなりふり構わず要人暗殺を行った。
それを黙認していたのが桂小五郎と藩主・毛利敬親である。
公家たちが長州に引きずられていった背景には自分が「殺されたくない」というおびえ もあったのだ。
文久3年2月、将軍家茂は上洛する。将軍の上洛は229年ぶりである。
呼びつけた朝廷は将軍に攘夷の約束をさせるのが目的だった。
だが長州藩はそれだけではなく、将軍の権威を落すこと、それを見て諸大名を離反させ、 倒幕の仲間に引き込むことが狙いである。
そこで長州藩の世継ぎ・毛利元徳は上下・加茂神社と天皇家の菩提寺・泉涌寺への御幸を計画した。
将軍をはじめ諸大名もこれに供奉するのである。
多くの見物衆は将軍が天皇やつき従う公家たちに頭を下げるのを眼の前にする。
改めて天皇の方が将軍より上なのだと認識せざるをえない。
毛利元徳はこの成功に味を占めて将軍・家茂の滞在を伸ばさせ、さらに4月に岩清水八幡宮へ
の御幸を計画した。
岩清水八幡宮は歴代の武家の棟梁が戦勝祈願をしてきたところである。
元徳はここで天皇が将軍に社前で攘夷の節刀を賜うことをもくろんだ。
『神前で立てた誓いをやぶれまい…それになにか失敗すればおもしろいが…』
この企てに気づいたのは将軍後見職の一橋慶喜である。
加茂神社御幸で懲りていた慶喜は4月11日に決定しても何も言わず、前日になって家茂が
風邪を引いて高熱が出たので行けないと言い出した。
そして後見職の慶喜が代わりに同行したのだが、岩清水八幡宮の麓につくと急に腹痛で下痢が
止まらないので、山上の祈願所の「豊蔵坊」で徹夜の祈願はとてもできないので麓の寺院で
静養しますと、さっさと逃げてしまった。
裏を書かれた元徳はいよいよ秘策を発表する。
それは大和行幸である。初代天皇である神武天皇陵に参拝し、さらに春日大社に参詣して
そのまま天皇は東征、つまり江戸に向かって倒幕の戦いに出るのだ。
その際天皇や公家たちが京都に帰りたい心を起こさせないように御所に火を放って焼く予定なのだという。
その日を8月13日に決定した。
計画の立案者は久留米の水天宮の宮司で脱藩者・真木和泉(まきいずみ)である。
真木和泉は若いときから水戸学に心酔して江戸に出て水戸藩の知己を得た。
孝明天皇の即位に際しては拝観するため上洛し、三条実万、東坊城聡長、野宮定功ら公卿、
小林良典ら堂上諸大夫の知遇面識を得た。
彼は「王政復古」を唱え、長州藩主・毛利敬親父子に謁見して攘夷親征、討幕を説いた。
畿内5カ国の土地と人民を朝廷に返還させ、都を大坂に移す。
そして天皇の軍に応じて幕府軍が攘夷を決行する。戦奉行は関白が勤めるという。
これに賛同した公家たち、三条実美、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)らは長州藩のいいなりである。
姉小路公知(あねがこうじきんとも)もその一味であったが、文久3年5月20日に何者かによって暗殺されている。
国事参政の職についていた公知は廟議を終えて、午後10時ころ禁裏御築地内の東北角・猿が辻という場所で、3人組の男たちに斬殺された。
暗殺者の正体は知れなかったが、現場には姉小路卿が下手人から奪い取った刀と、下駄が一足残されており、その刀の銘からどうやら薩摩者が関係していると噂された。
しかし、暗殺指令は長州から出ているというのは暗黙の了解であった。
公知は文久2年10月、右近衛権少将となり、幕府への攘夷督促の副使として、正使・三条実美とともに江戸に向かい、軍艦奉行の勝海舟と共に江戸湾岸の視察などを行った。
勝は安政6年に咸臨丸でアメリカのサンフランシスコに航海した経験を持つ。
この時、外国の軍艦や大砲の性能の良さに驚嘆し、乗組員を養成するため日本海軍の基礎ともいうべき神戸海軍操練所を設立している。
折り紙つきの開国派である勝に案内されて話を聞くうちに公知はしだいに攘夷について 疑問を持ち始めた。
坂本竜馬も勝を暗殺するため乗り込んで、逆に勝の弟子になったくらいだから勝のスケールの
大きさに多くの若者が惹かれて開国派になっていった。
公家たちの中には海を見たこともない者も多く、ましてや軍艦は絵でしか知らない。
孝明天皇はじめ公家たちは外国の軍艦をやっつけられるものをつくれ、と簡単に言う。
しかし、造船の技術や航海術の習得など一朝一夕にできるものではない。
「鎖国のため外国と戦争せよ」と簡単に命令するが、実行したら敗北は明らかである。
敗北したら天皇も公家もなくなることに彼らは気がつかない。
長州藩は5月11日午前2時、ついに「攘夷決行」に踏み切った。
関門海峡を通過しようとしたアメリカ商船「ペンブローク号」に対して、イギリスから買った藩の木造軍艦「庚申丸(こうしんまる)」「癸亥丸(きがいまる)」の2艦から猛烈な砲撃をくわえた。
ところがこの攻撃は12発の砲弾を撃ちながらマストに軽微な損傷を与えただけである。
国際法を知らぬとはいえ、武装していない商船を不意打ちに攻撃するのは卑怯である。
さらに5月23日にはフランス艦キャンシャン号を砲撃。この時も敵船は軽い被害である。
26日にはオランダ艦メデューサ号を砲撃した。
朝7時、陸から戦争開始の警報2発発砲。この時はイギリスから買った軍艦壬戌丸(じんじゅつまる)も
加わって3隻で1時間半ほどの戦闘があった。
メデューサ号は22発を船体に受け、1発はエンジン室を直撃。4名が死亡、4名が重傷。
そして艦は逃走する。
これで勝った勝ったと喜んでいると、当然怒った欧米列強は翌月には報復攻撃に出た。
6月1日、アメリカ軍艦・ワイオミング号が亀山砲台を猛撃して破壊した。
亀山砲台には砲首を上下する設備がなく、接近し過ぎると砲撃できない。
ついで、長州藩軍艦・庚申丸・壬戌丸を撃沈し、さらに癸亥丸も撃破し、多大な被害を長州藩に
与えて、意気揚々と引き揚げていった。
さらに4日後には、フランス軍艦タンクレード号とセミラミス号2隻が報復攻撃を開始し、猛烈な砲撃後に陸戦隊を上陸させ、諸砲台を占拠・破壊し、近隣の村落も焼き払って、領内を我が物顏で闊歩して戦利品まで取って引き揚げていった。
なにしろ前田砲台は貧弱なので、撃った弾が敵の軍艦にまで届かない。
相手方からの弾はこちらにしっかり届いて爆発するのだから簡単に撃破され、戦争にならない。
一方的な敗北である。
ところが報復はこれで終わらない。翌年にはイギリス・フランス・アメリカ・オランダの四カ国が連合して、長州藩に攻撃してくるのである。
彼らの意図は攘夷が無駄なことを力ずくで教えることにある。
7月2日、薩摩藩では生麦事件の賠償をめぐって薩英戦争が勃発した。
イギリス艦隊7隻は薩摩藩の汽船3隻(白鳳丸、天佑丸、青鷹丸)を拿捕する。 暴風雨の
なか正午、薩摩藩が陸上砲台80門を用いて先制攻撃を開始。
午後2時イギリス軍が応戦し、20門の最新式のアームストロング砲と80門を使用し、 砲台と同時に鹿児島城北の市街地を砲撃。近代工場を備えた藩の集成館を破壊。薩摩藩側は汽船と全砲台のほか工場生産能力を失った。
イギリス側も旗艦の艦長と副長が戦死、60余人が死傷する損害を出した。
備砲の射程はイギリス軍艦の方が上回っていたが、地の利を得ていた薩摩藩は天候にも助けられ
2週間前に射撃訓練をしていたので命中率が高かった。
しかし薩摩は外国軍と戦う愚を悟り、以後2度と「攘夷」を口にしなくなった。
そして敵であったイギリスと手のひらを返して急接近する。
9月28日から、横浜のイギリス公使館でニールと講和談判がおこなわれ、薩摩藩は2万5000ポンド(6万300余両)を幕府から借用して支払うことで、10月5日和議が成立した。
天皇や攘夷派からの突き上げで苦境に追いこまれた幕府は、外交交渉によっていったん開港した横浜の鎖港を実現しようと、12月に外国奉行池田筑後守を正使とする使節団をヨーロッパに派遣する。
しかし、ヨーロッパ各国が承知する訳もなく、最初の訪問国フランスで失望した。
『…条約御違反相成り候わば、戦争に及ぶべきは必定にこれあり。御国海軍は、たとえば
大海の一滴にて、所詮御勝算はこれあるまじく存じ候。』
フランスの外務大臣から国際法を知らぬ日本が侮辱されただけで軽くあしらわれただけ。
見切りをつけた使節団は翌年(元治元)7月、横浜港に帰国し、幕府から処罰された。
このころの朝廷は完全に長州藩の息のかかった攘夷派の公家たちに牛耳られていた。
長州の意見は三条実美の手によって朝廷の意見となり、天皇の勅命となるのだ。
穏健派の中川宮は薩摩の島津久光を呼んで兵を率いて上洛することを申し入れたが、
薩摩はイギリスとの戦争準備でそれどころではない。
長州藩は孝明天皇の大和行幸と親征の計画を着々と進めていた。
倒幕に反対の孝明天皇はいらだっていた。
自分が書いてもいないものが「勅命」として出回り、自分の願う方向とは逆の方へ公家たちは動いていく。
軍事総裁を天皇が務めるなど考えられない。ヤケ酒とともに涙の量も増えた。
1863年(文久3)7月には孝明天皇が容保に「馬揃え」を行うように命じた。
つまり会津藩の軍事力を見せよ、というのである。
予定されていた7月30日は雨だった。
ところが天皇からは「雨天決行」の沙汰があり、容保は雨中にも威厳を保った軍事パレードを行う。
さすがに半日で切り上げたが、後日朝廷から絶賛された。
孝明天皇は再度「馬揃え」を見たいと言う。
8月5日、会津藩、因州鳥取藩、備前岡山藩、米沢藩、阿波徳島藩の5藩が午前11時より、
午後8時まで鉄砲や大砲の発射を含めて大掛かりな調練をおこなった。
公家たちは大砲の音に驚いて途中で逃げ出したり「怖い、怖い」と震えるなど、さんざんの
ていたらくである。
孝明天皇はそれを見てさらにご満悦。
日ごろの鬱憤を晴らして、容保への信頼は深まるばかりである。
この様子を見ていた薩摩の公武合体派の高崎佐太郎は容保に急接近する。
天皇のお気に入りと手を組むべきであると。
薩摩の島津久光と連絡を取り、吉井幸輔とともに会津と組むことを決定。
8月13日、高崎佐太郎は会津藩公用方・秋月悌次郎を訪問し、松平容保に薩会秘密同盟の承諾を得た。
薩摩はイギリスとの負け戦さで幕府や諸藩の反発を買うことを恐れていたので、急遽、容保に味方して藩の安全を図ったのである。
8月13日、土佐脱藩浪士の吉村寅太郎ら攘夷派浪士は大和行幸の先鋒となるべく、攘夷派公卿の前侍従・中山忠光(19)を首魁に担ぎ「天誅組」を結成し京を出発した。
はじめは38人であったが、道中の宿場で「義軍」を募り、500人近くまで増えた。
天皇のお先触れとして堺から大和五条に入った。
淡路島の勤皇家で大地主であった古東領左衛門は先祖代々の全財産を処分し、天誅組の軍資金と
して供出した。
8月17日、幕府天領の五条代官所を襲撃し、代官
j]\g・鈴木源内を殺害し、代官所を焼き払った。
そして桜井寺に本陣を置き五条を天朝直轄地とする旨を宣言する。
ところがここで京都では8月18日の政変が起こり、孝明天皇の行幸は延期されたと古東領左衛門が知らせにきた。しかし中山忠光は計画の続行を指示する。
そこで兵力増強のため十津川に向かう。
南朝を助けた「勤皇」の十津川郷士を味方に引き入れ、兵力を増強した。
気勢を上げた彼らは次に高取藩を狙った。
高取藩は天皇の近習、中山忠光が主将であるからとりあえず、武具・糧食を献上した。
しかし2万5千石の小藩ながら住民の平和な暮らしを破壊する天誅組を断固として許さない。
地元の利を活かしながら敢然と戦った。
9月1日には、朝廷からも天誅組追討を督励する触書が下される。
むろん幕府は紀州藩、津藩、彦根藩、郡山藩に天誅組討伐を命じた。
諸藩が加わると天誅組は中山忠光を長州に逃がし、壊滅状態になった。
8月18日、会津藩と薩摩藩は長州藩と公家の過激派を京都から追放した。
このとき長州藩と手を組んでいた7人の公家たちもともに長州に逃れた。
三条実美・東久世通禧・三条西季知(さんじょうにしすえとも)・四条隆謌(しじょうたかうた)・
壬生基修(みぶもとなが)・錦小路頼徳(にしきのこうじよりのり)・澤宣嘉(さわのぶよし)らである。
そのうち錦小路頼徳は元治元年に病死した。
澤宣嘉は福岡藩の攘夷家の平野忠臣に担がれて但馬国・生野(いくの)で挙兵に参加するが
敗れて再び長州へ舞い戻った。
長州藩の家老や重役はもともと保守である。
何事につけても高位をかさにきてわがままな公家たちはお荷物でしかなかった。
第1次長州征伐であっけなく幕府軍に敗れると攘夷急進派はことごとく処断され、公家たちの引渡しを迫られたので、大宰府に避難させた。つまり追い払ったのである。
公家たちはなじみのいない大宰府行きを嫌がったがしかたなく落ち延びていく。
さらに長州藩の頭痛の種が中山忠光(19歳)である。
大和五条で天誅組総裁に担がれていたのが幕府軍に敗れて長州に逃げてきていた。
「お尋ね者」となった忠光に長府から暗殺者5人が送られた。潜伏先の農家から追い立てられた
病身の忠光はあっけなく圧殺された。享年20歳。
長府藩は萩の本藩に「病死」と届け出た。
朝敵となった長州藩は勢力挽回の策を模索していた。
元治元年6月の池田屋事件では風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮
を幽閉し、一橋慶喜、松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去る計画を立てた。自藩の
ことしか考えない残虐非道なテロリストたちである。
これが新撰組によって阻止されると、7月には禁門の変を起こして御所内で鉄砲を撃ち、
火災を引き起こし、逃げる時に火を放って京都の半分を焼き、罹災世帯は2万7千戸に及び、
何の罪もない住民を苦しめた。
彼らのいったいどこが「尊王」なのか?天皇と公家を利用しただけである。
孝明天皇が長州藩を「絶対に許さぬ」と怒るのは当然である。
日本の歴史に関する多くの書物は、過激派の長州藩士を「尊王攘夷派」と呼ぶのだが、私は
反対である。
そもそも幕府側の人物でも天皇を尊敬しなかった人物はいないのである。
当時の日本人は「一種の日本のお守り」として天皇を尊敬していたのである。
1864年(元治元年)12月16日、奇兵隊を組織して西洋式訓練と兵器を使用した高杉
晋作は下関でクーデターを起こし、攘夷派勢力を結集させた。
長州藩の保守派は追放され、再び攘夷過激派が主流となった。
そこで幕府は第2次長州征伐を宣言するのだが、各藩は戦う意志がなく、のらりくらりと
参加を伸ばしていた。
その間に土佐の坂本竜馬の斡旋で慶応2年1月には薩摩と長州の同盟が成り、一気に倒幕への勢いが増した。
戦争には金が要る。各藩にはその軍資金がないのだ。
やっとのこと慶応2年、6月7日、第2次長州征伐を開始するのだが、薩摩と組んで近代
兵器を手に入れた長州藩にてこずった。
その上将軍家茂が7月20日に大坂城で病没すると、幕府軍の士気は萎え、8月1日の小倉藩の
敗北で事実上の終戦となった。
その後は勝海舟と長州藩主との交渉で停戦となった。
江戸時代は一気に消費経済が発達して何事にも現金決済がすすんだ。
日本国中の藩が借金生活にあえいだ。
殖産政策を成功させて潤った藩は少ない。
借金は江戸や大阪の豪商にしたのだが、薩摩藩の借金は500万両と桁違いである。
8代藩主・島津重豪(しげひで)の豪勢な浪費生活の結果である。
それを「250年払い」という事実上の踏み倒しと、密貿易と砂糖の専売制によって大儲けをし、
幕末には財政は潤沢であった。
薩摩藩はそれまで錦小路と伏見に京屋敷を持っていたが、1862年(文久2)に近衛家の
世話で御所の裏に5800坪という広大な敷地に九棟の建物と多くの土蔵が立ち並ぶ藩邸を設けた。
隣近所は五摂家の屋敷が立ち並び、公家たちも薩摩の経済力に圧倒された。
さすがに90万石と加賀藩に次ぐ大藩である。
禁門の変で錦小路の薩摩屋敷は焼失する。
伏見の薩摩藩邸は鳥羽・伏見の戦いで会津藩の大砲隊により放火され焼失した。
それでも「生麦事件」の賠償金2万5000ポンド(6万300余両)を幕府から100年
返済で借り、さらに踏み倒した。
そして薩英戦争で戦争相手のイギリスと仲良くなり、慶応2年6月17日にはイギリス
公使パークスが公式に薩摩藩を訪問するまでになり、近代兵器を買い込んで倒幕の準備を
しっかりやった。
長州藩も借金踏み倒しと密貿易で幕末には潤っていた。
1864年(元治元年)、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四カ国が連合して、
長州藩に攻撃を仕掛けてきた。
8月5日午後4時に始まり、わずか10分間程度で数百発が発射されたという。この連射砲撃で、
砲撃開始後1時間ほどで長州側の主要な砲台はほぼ壊滅状態と化した。この戦果を見て、列国は
陸戦隊を上陸させた。
欧米列強は、賠償金300万ドルという巨額を長州藩に提示したが、高杉は攘夷を命じたのは
幕府であるから賠償請求は幕府に求めよと責任回避をした。
禁門の変では自分たちが撃った弾丸が御所に堕ち、隣の鷹司邸が全焼した。
久坂玄瑞と寺島は鷹司邸のお局口で割腹して死んだ。
19日午前8時、河原町の長州藩邸では留守居役の乃美織江が館に火をかけて退散した。
強風のためみるみる火は町屋に燃え移り、京の半分を焼き尽くした。
外国人と直接交渉を持ったのは漂流した船乗りたちである。
11代家斉のときにロシアから帰国した大黒屋光太夫は日本開国を望むラクスマンがついて
きたので、幕府はラクスマンを追い返し、光太夫を江戸の小石川に住まわせて旗本とし、
ロシア事情を詳細に聞いた。
ジョン万次郎の帰国は1851年(嘉永4年)で、その2年後にペリー艦隊が浦賀に現れたので、
外国奉行は万次郎から聞いたことが真実であることに驚き、真剣にアメリカの実情を聞いて
早速手を打った。
幕府は開明派官僚の人材登用をはかるとともに、品川・長崎に砲台を建設し、長崎に海軍
伝習所を開設、講武所も開設して幕臣たちに洋式砲術を学ばせた。
西洋事情をもっと詳しく知るために蕃所調所(ばんしょしらべしょ)も置いた。
外国に対抗するため1855年(安政2)オランダから木造の軍艦・咸臨丸を購入した。
5年後、
日米修好通商条約批准に渡米する日本初の遣米使節団はアメリカの軍艦ボーハタン号に乗艦
したが、その護衛のため咸臨丸も同行した。
提督には木村摂津守、艦長に勝海舟、士官17名、水夫、従者併せて総勢96名が乗り組んだ。
そのなかにジョン万次郎がいたことは日本側にとっては心強い。
幕府の対応は実践的である。
しかし、庶民の抜擢は例外にすぎない。
幕府の最大の欠陥は長年染み付いた身分制度の枠組みを取り払えないことである。
有能な人材は日本全土に多くいるのだが、藩単位の思考から抜け出せない。
この弱点を薩長に突かれて内部崩壊したのである。
1866年(慶応2)12月25日、孝明天皇が突然崩御する。35歳。在位21年。死因は
疱瘡(ほうそう・天然痘)とされた。
討幕派にとっては実に都合のよいタイミングに天皇は死んだ。
どうしても幕府との協調路線を主張して、長州藩を許さず、第2次長州征伐の勅命を15代
将軍・慶喜に与えた。
しかし、幕府軍は敗れた。
これを見た岩倉ら倒幕派の公家たちは今こそ幕府と手を切る時期だと話し合った。
すでに薩摩と長州の連携も成立して機は熟している。
ここで幕府を倒せば朝廷が実権を握れる世になるのだ。それなのに天皇はいつまでも幕府を
助けようとしている。
そこで8月30日には22人の公家たちが「朝廷主導での諸侯召集・処罰中の公家の赦免・
朝廷政治の改革」を掲げて御所に押しかけた。
首謀者は表向きは中御門経之と大原重徳であるが、実際は洛北岩倉村で謹慎しているはずの
岩倉具視が薩摩藩と示し合わせて筋書きを書いたのである。
失脚している近衛忠煕(ただひろ)を関白につけたいのである。
そのためには近衛を支持する公家たちを復職させたいのだ。
もちろん、天皇の意思決定をサポートしている中川宮と二条関白への不満をさす。
孝明天皇は大原重徳の話には一応耳を傾けたが、朝廷の法を破る者として彼らを処罰した。
中御門経之、大原重徳、正親町三条実愛、の3人に閉門を命じた。以下20人には差し控え
(禁足、面会停止)の処分としている。
列参していない正親町三条実愛は彼らを助けたとの理由で閉門。
山階宮晃(やましなのみやあきら)親王も行為制規にたがえたとして蟄居。
長州藩と手を組んだ公家たちは絶対に許さないという断固たる孝明天皇の意志がある。
朝廷を乱し、御所を戦場とし、火を放って京都の町を焼いた長州藩への憎しみは深い。
二条斉敬と中川宮は責任を取って参内と朝議参加を辞退した。信頼する臣下を失って まさに
天皇は孤立し、孤独に陥った。
頼みに思う人は廷臣にはなく、幕府方の容保や慶喜である。
12月13日、孝明天皇は風邪から発熱し床についた。
天皇は2年前から痔を患っており、外科医・伊良子光順(いらこみつやす)が治療していた。
高熱が続き、主治医・高階経由と息子・経徳、典医・山本隨、伊良子光順の4人は疱瘡と診断。
小児科医で疱瘡の治療の経験豊富な西尾兼道・久野恭を召集して拝診に参加させた。
医師団は15名で、3班に分け、24時間体制で看病した。
医師団のうちの伊良子光順の記録によると病状は順調に回復していると思われていた。
ところが24日の夜に急変し、「九穴より脱血」するという苦しみに襲われ、翌日の午後
11時ころに亡くなった。
そこで孝明天皇に生きていられては困る立場の人物が天皇を暗殺したのだ、と近習たちの間で囁かれた。
天皇が死んで得をする人物、しかも天皇のおそば近くにいて「毒」を盛るチャンスのある人物…?
その推理の結末に常に語られるのが岩倉具視である。
実行犯は妹・堀河紀子か、彼らの息のかかった女官であるとされる。
実際天皇が薬やお茶を飲む時、その世話は高等女官がすべてするから砒素などの毒薬を混入
することは大いに可能である。
また、大正天皇に仕えた「椿の局」こと・梨木止女子(なしのきとめこ)は宮中では孝明天皇は
風呂の湯に毒薬を入れられて、皮膚から罹病して殺害されたというのが定説になっていたという。
お風呂場の仕事は洛北の八瀬大原が代々受け持っており、その中の誰かが湯に毒を入れたのだと、
実行犯を風呂場担当の一般人にしている。
もちろん、一般人が天皇暗殺を謀るはずもなく、暗殺者が八瀬の住人に変装して紛れ込み、
毒を湯船に入れたのである。
ただ、それを黙認しなくてはならない義理が八瀬の住人と頼み人の間にあったのだろう。
それにしても八瀬大原は岩倉村と至近距離である。
孝明天皇の死後岩倉具視は復権して、公家のトップに立ち、一族は栄達する。
岩倉具視よりも長州藩は孝明天皇の死で利益を得る。
孝明天皇に憎まれたままでは復権ができない。
長州藩が刺客を放って刺殺したのだという説が根強いゆえんである。
しかし、天皇には15人の医師団がついており、「刺殺」などの外傷性のものは記録に残る
からまずありえない。
病死か、毒殺か?
孝明天皇は土葬されたから、その遺骨を取り出して鑑定すれば死因が判明するかもしれない。
もっともその前に陵墓の発掘は宮内庁が許さないだろう。
孝明天皇は死後東山の泉涌寺に「後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしのみささぎ)」.が
山陵奉行の戸田忠至(とだただゆき)によって造営された。
戸田忠至は宇都宮藩の家老であったが文久2年から畿内の天皇陵のすべてを補修し、その
記録「文久山陵図」を幕府と朝廷に提出し、孝明天皇の深い信任を得た。
戸田忠至はこの功績により宇都宮藩から1万石を分与され高徳藩(たかとくはん)を立て
大名
の仲間入りをした。
天皇の葬儀は仏教が定着すると釈迦が火葬であったことに倣って702年、持統天皇がはじめて
火葬にされた。以後は火葬が定着する。
江戸時代の後光明天皇は気性の激しい人で、将軍は家光・家綱の幕府最盛期に当たる。
天皇
の権威が軽んじられると幕府との対抗意識に燃え剣術を習ったほどである。
葬儀はそれまでの火葬をやめ、土葬にした。以後の天皇は昭和天皇まで土葬である。
ところが
表面上は火葬を装った。
というのも土葬するためには広い敷地が必要で、周囲や門の築造など経済的に賄えない。
火葬ということにしておけば石塔を立てておき、作業も簡単に済む。
江戸時代の天皇は月輪陵・後月輪陵に共同墓地のように九重の石塔をシンボルにしてまとまっている。
戸田忠至は孝明天皇の陵を単独で築造することを朝廷に進言したのである。
しかし葬儀は泉涌寺の老僧を招いて仏式である。
ともかく孝明天皇はそれまでの天皇と違い、自分の意思を表明し、それを貫こうとしたこと
だけは間違いない。そしてこの天皇がいなければ明治維新は起こらなかった。
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◎日中戦争の問題点を検証する
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