日中戦争の問題点を検証する  | 日本のお姉さん

日中戦争の問題点を検証する 

日中戦争の問題点を検証する 
第109話 天皇の戦争責任  その7 天皇家の復権

 孝明天皇の代になると、世情は外国との通商条約で騒然としていた。
1853年(嘉永6)のアメリカ合衆国のペリー艦隊来航以来、幕府は海防掛をもうけて国防を強化し、この事態にどう対処するべきか、苦悩していた。
未曾有の出来事である。まず正確な情報収集に時間がかかるのは仕方がない。
時の老中首座・阿部正弘は開国について外様大名や有識者や漂流してアメリカで暮らした経験を持つジョン万次郎など、広く人材を登用した。
しかし、幕閣の決定は急を要するのだ。
ただ当時の老中たちの意見はほとんど開国で一致していた。
「戦さになれば負けるので開国はしかたない」消極的な開国から「外国との貿易で幕府の財政再建をする」積極的開国まで意見は分かれたが、隣国の支那大陸でのアヘン戦争の情報をオランダから得ていたから鎖国のために外国との戦争となることだけは避けるべきだという点では一致していた。
そこで1851年(安政元)、ペリーの再来により日米和親条約を締結させることになる。

阿部は長崎海軍伝習所を創設し、旗本・永井尚志を総監に任じ、勝海舟を抜擢した。
開国に反対したのが攘夷を主張する御三家の一つ水戸藩の前藩主・徳川斉昭である。
光圀が編纂した『大日本史』は北畠親房の『神皇正統記』の影響を受けており、後醍醐天皇の南朝を正式な天皇譜としている。これが水戸学として定着していた。
北朝の皇統である孝明天皇を間接的に批判することにもなるのだが、公家たちはそのことには少しも触れない。
斉昭の姉・吉子は関白・鷹司政道に嫁いでいるので、和親条約や外国人についての情報を知らせた。
それが孝明天皇の耳に入ると、赤い血を流す肉を食べる西洋人を赤鬼だと戦慄した。
無責任な噂をもとに書かれた瓦版を信じたのである。
こんな人種が日本に入ってくることは日本が穢れると思ったのだ。
孝明天皇は直情の人である。だから誰がなんと言っても「攘夷」なのだ。
日米和親条約はアメリカの捕鯨船の乗組員に対して食料・薪水給与という人道的行為のためである。
開港も京から遠く離れた函館と下田と長崎であったし、アメリカ人が動ける距離を下田では
7里、函館では5里以内とし、しかも武家・町家に立ち入る事を禁じていたのでしぶしぶ認めた。
しかし異国との通商条約は日本の秩序に変化をもたらすものであり「祖廟に申し訳ない」と

頑なな態度で拒否した。
阿部はこの年御所が炎上したので早速に幕府の御用商人を集めて20万両の拠出を申し渡した。
孝明天皇へ「以前のものより立派な御所を建てます」とご機嫌を取り結んだ。
1846年(弘化3)2月、15歳で即位した孝明天皇は早々に勅令を発布している。
天皇から幕府への勅令というのは実に220年ぶりというものなのだが、内容は「海外防備を厳重にせよ」というお達しであった。
その理由は「鎖国は神武天皇以来の我が国の古法であり、夷狄は神国日本に近づく事すら許されない」というから歴史について無知であることに驚く。
信長・秀吉時代には大阪や堺は海外貿易の拠点であり、京都にも多くの外国人が住んでいたのを
まったく知らない。
いかに儀式・国文学専門といえども、こんな認識では文化人・天皇としてもお粗末である。
公家たちは常日頃は将軍を『関東の代官』といって蔑んでいた。
江戸は野蛮な東夷(あずまえびす)の住むところで、将軍は天皇の命令で関東を取り締まって いるだけなのだ、という認識である。
ところが現実は自分たちの俸禄は幕府から与えられている。だから不満があっても幕府の決定には従ってきた。
そこで公式には将軍のことを「大樹(だいじゅ)」と呼んだ。「頼りになる人」というわけだ。
だから本来は幕府は朝廷には事後報告でよかったのである。
ところが御三家のうちの水戸藩が大反対したので、朝廷も、外様大名の長州藩も開国に反対の
態度を表明し、世論をもあおったのである。
大方の大名たちは幕府の意見に従うつもりである。
幕府を倒そうなどと考えた藩はどこにもない。

公卿たちのなかでも鷹司政道のように「どうせ長崎の出島でオランダや支那と交易しているのだから開国して他の国と貿易をするのもよいではないか」という意見もあった。
1858年(安政5)3月、日米修好通商条約締結の勅許を得るため、阿部に代わって老中首座となった堀田正睦が入洛したとき、鷹司政道は太閤になり、関白には九条尚忠(ひさただ)が着いていた。

堀田は九条尚忠に莫大な賄賂を贈り、アメリカとの通商条約の締結を認めさせた。
もちろん、孝明天皇や女御・九条夙子(あさこ)をはじめ、幕府との橋渡し役の伝奏(てんそう)や
奥の女房などにもこまめに金をばら撒いた。
今までならそれでよかった。関白の意見は天皇も無視できないからだ。
ところが今回は下級の公家たちが、「条約反対」を叫んで88人も集団で宮中に押しかけ、
さらに九条邸にまで押しかけて玄関先でストライキをやった。
この運動の中心人物が表面上は中山忠能(ただやす)だが、実際の首謀者は岩倉具視と大原
重徳(しげとみ)なのである。
中山忠能は羽林家で家禄は200石と位は低いが、娘の慶子(よしこ)が孝明天皇の皇子・
祐宮(さちのみや・のちの明治天皇)を生んでいる。将来は天皇の外戚となる人物なのでこのところ
出世街道を歩んできている。
おまけに開国派であった鷹司政道までが九条尚忠に権力を奪われまいと攘夷に変節したのである。
ついに堀田は孝明天皇との対面で「条約締結は承認できない」ときっぱり言われた。
賄賂に使ったとされる3万両はムダ金になってしまった。
公卿たちの「攘夷」や「開国」は、深い見識があってのことではない。だからすぐに変節する。
さあ、京の街はこの話で持ちきり、この噂は日本全国を駆け巡った。
もともと京都人たちは気位が高く、保守であるから天皇を支持し、「攘夷」である。
すると全国から「攘夷派」の大名や学者や浪人たちがぞくぞく京の町に集まってきた。

公家たちは密かに武家と姻戚関係を持っていたから情報がすぐに武家に伝わるのだ。
たとえば薩摩は近衛家、水戸家は有栖川家、長州藩は鷹司家、正親町三条家と、土佐藩は
三条家とそれぞれ姻戚関係にある。
とにかく天皇と朝廷が注目を浴び、有力藩は京都で屋敷を探して藩邸をかまえた。
もちろん、幕府は参勤交代のときでも西国の大名たちが京都市内を通行することを禁じており、
伏見を通って船で淀川から大阪に出るか、山道を越えて山科から大津、奈良に向かうように決められていた。
それがどっと京都の町に公然となだれ込んできた。それだけ天皇の株が上がったのである。

ところが大老に就任した彦根藩主・井伊直弼は、安政5年6月19日天皇の勅許がないままに
独断で日米修好通商条約締結に踏み切った。
この条約は外国人の裁判権も関税自主権もない不平等条約である。この条約に基づいて新たに
神奈川(横浜)、新潟、神戸が開港することになる。
つづいてオランダ・ロシア・イギリス・フランスと次々に修好通商条約を結んだ。
彼は幕府の権威を取り戻したかったので朝廷の意見を無視した。
そして反幕府派の公家と浪人たちを徹底的に武力で取り締まった。
いわゆる「安政の大獄」である。
やりかたは粗暴だが、無責任な攘夷論を鎮める即効薬であることは間違いない。
案の定、公家たちはおびえておとなしくなった。
しかし、直弼は将軍の跡継ぎ問題に関して紀州の慶福を推していたので、水戸の斉昭の7男の一橋慶喜を推す開明派の幕臣たちまでもことごとく弾圧してしまった。
斉昭は「烈公」とあだ名されるくらい気性が激しいうえに「女好き」で、大奥の女性たちから
嫌われていた。37人の子沢山なのは、目をつけた女性を有無を言わさず手に入れて
関係を
持ったし、女性を見る目つきは常に好色であった。
英明な一橋慶喜が14代将軍につけなかったのは彼の父が嫌われ者であったためである。

ところが翌年3月3日に水戸浪人たちに井伊直弼が桜田門で暗殺されると一挙に幕府の権力は
地に落ち、再び京都が活況を呈した。
歴史の主役は朝廷と結んだ有力諸藩の活動家にスポットライトを当てたのである。

すると彼らを資金面で支援する豪商たちが現れた。
水戸藩のスポンサーとなったのが新天地・横浜で生糸の輸出で大儲けした中居屋重兵衛である。
横浜開港にむけて商人を公募したが誰も応じない。そこで外国奉行・岩瀬忠震(いわせただなり)と
水野忠徳が三井八郎右衛門と中居重兵衛を口説いて出店させた。
安政6年6月2日に横浜港は正式に開港し、外国人居住地もでき、外国人は日本の生糸が
良質なのに目をつけ、大量に買いあさった。
重兵衛が扱う上州の前橋産はとびきり上等と人気が高く、高値で売れ巨利を得た。
しかし、国内ではたちまち生糸が品薄になり、高値で買えない中小業者の破産が相次いだ。
そこで産地では良質の生糸が増産できるよう改良が進んだ。
中居屋は総合商社で、茶や陶器、各地の特産物などなんでも扱うので会津藩、紀州藩、上田藩、棚倉藩、南部藩など多くの藩が特産品を納めた。
水戸藩との関係は重兵衛が独学で火薬を製造していたころ火薬を納めていたが、水戸藩は特に大砲の製作に熱心であった。
水戸藩の家中に友人もできたが、独自の火薬製造は爆発事故があり廃業した。
そこで伊豆韮山代官・江川太郎左衛門英龍の弟子になり、砲火薬を学んで横浜に出るまでは江戸で火薬商を営んでいた。

重兵衛は基本的に開国派であるが、商人の危険の担保として攘夷派へも朝廷にも請われる
ままに資金を与えた。
もちろん攘夷を掲げる水戸藩士への資金援助は秘密である。
安政の大獄で尊敬していた岩瀬忠震が井伊直弼に蟄居を命ぜられて失脚したことに憤慨して
直弼暗殺の計画を支援した。
万延元年3月、水戸浪士19名が桜田門で井伊直弼を暗殺したが、彦根藩藩医・岡島玄建の
検視で太股から腰に抜ける貫通銃創があったことが報告されている。
これは黒沢忠三郎が襲撃の合図に続いて直弼の籠めがけて短銃を撃ったものが命中し、直弼は
動けなかった。短銃を所持していた者は5名である。
銃の追跡調査をしたところ、重兵衛が水戸浪士に20挺の短銃を与えていたことが判明し、
幕吏の追及が近いことを知り、京大阪に逃げ、さらに江戸に潜伏していたが急死した。

麻疹であったとも毒殺されたともいう。享年41歳。

長州藩を支援したのは下関の荷受問屋の白石正一郎(しらいししょういちろう)。
この人は商売抜きでどっぷり政治にはまり込み、高杉晋作と奇兵隊を創設し、そのスポンサーと
なったため、破産しているほどだ。
薩摩藩の御用達も勤めていたから「勤皇の志士」といわれる人物のほぼ全員がお世話になっている。
そして山口の豪農・吉冨藤兵衛も攘夷派に援助している。

幕府側の会津藩を支援したのが長崎の足立仁十郎である。
会津藩は天保元年から長崎会所を通して清国に朝鮮人参の輸出を始め、以後着実に毎年儲けていた。
「田辺屋」の主人・仁十郎とのつきあいもこれが縁である。
純朴な会津藩の人々がすっかり気に入って、安政の大地震のときには1万両の献金をして500石の武士に取り立てられた。
その恩を一生忘れない人が足立仁十郎である。
文久2年に会津藩主・松平容保が京都守護職を拝命すると、3万両を献金している。
幕府は、京都守護職の役料として5万石を加増し、旅費3万両を貸与したがそんなもんでは足らないのが公家たちとの付き合いである。
仁十郎は松平容保が死んで会津藩が青森の斗南に藩ごと流されても行動を共にした。

江戸・京都・大坂の三都に呉服店と両替店をもつ三井家は当主・三井八郎右衛門高福が京都に住んでいた。
出身地が伊勢松阪なので松阪の領主である紀州徳川家との付き合いから幕府の御用商人として豪商となった。
ところが朝廷に時代の流れが傾くと朝廷と薩摩藩に急接近し、大久保利通を通じて多額の献金をした。
そして幕府が日米通商条約で兵庫(神戸)開港を決め、その築港や道路整備などに90万両が
必要となり、時の勘定奉行・小栗忠順は大阪の鴻池善右衛門、広岡久右衛門、長田作兵衛らと
合同で商社を作るように命じたが、朝廷が天下を取ればムダ金となることを懸念し、断り続けた。
結局、鴻池らは工事半ばで王政復古・幕府崩壊となってしまったため、事業が中止された。

京都の西・東本願寺は多額の献金している。
西本願寺はもともと朝廷とのかかわりが深く、公家たちの貧困時代にも何くれとなく資金
援助をしてきた。
西本願寺は親長州藩である。戦国時代の毛利家の領地は安芸門徒とよばれるほど本願寺の
信者が多かったので、信長との石山戦争で毛利家が本願寺を助けた。
その恩を忘れていないのである。
大坂商人石田敬起の助力で寺の財政を立て直し、時代の風が天皇家に吹いたと見るや、文久3年、
朝廷に1万両の献金をした。
西本願寺は寺侍や僧侶の中で武術に長けた者380名から成る自衛団を持っていた。
その中心人物が松井中務(まついなかつかさ)である。
文久3年、越前の前藩主・松平春嶽が西本願寺境内を宿舎に使用することに賛成したため、
開国論者と見なされ、8月12日に自宅で浪士45人に襲われた。首は三条大橋に晒された。
翌年の禁門の変では御所が戦場となり、孝明天皇は加茂川の東に避難しようとした。
実際は孝明天皇と祐宮は御所に踏みとどまったが、以後のことも考えて慶応元年、中川宮は
荒神口に橋を架けることを西本願寺に命令した。
費用5万両を投じて慶応3年10月に完成した。
『御幸橋(ごこうばし)』と命名されたように天皇が渡る橋という意味である。
1864年(元治元)7月19日の禁門の変では本山の一部分が焼けて再建に金が必要な時である。
それでも勤皇の精神を表すため巨費を惜しまなかった。
さらに西本願寺が頭を痛めていたのが新撰組である。池田屋事件、禁門の変で名を挙げた
新撰組は1865年(慶応元)年3月にそれまでいた壬生の前川邸から引っ越してきて居座った。
これは西本願寺が攘夷派の長州藩に味方しているから近藤勇・土方歳三がわざと嫌がらせで
「新撰組本陣」をおいたのである。
200人の隊士を抱えてなにかにつけて費用がかかるが、それよりも調練で騒がしいので門主も困り果てた。
ついに寺が費用を負担して慶応3年初秋に不動堂村屯所を建設して引越してもらった。

これら新撰組にかかった費用は1万両以上である。

さらに鳥羽・伏見の戦いが始まると、御所の猿が辻に僧俗数百人を警護に出した。
その上戦費4千両を拠出している。
明治の王政復古に際しては2万両の献金、奥羽・越後鎮撫総督派遣に8千両の献金と続き、
さすがの西本願寺もこれ以上の献金はご勘弁願いたいと朝廷に泣きを入れた。
明治政府は明治天皇親征の費用10万両を京阪の富豪25名から集めている。
三井・島田・小野3名で3万両、鴻池は5500両であるから、いかに西本願寺の負担が
大きかったかが知れる。

悲惨なのは東本願寺で、もともと家康のはからいで創建されたことから幕府側であった。

それでも時流に遅れてはならぬと、文久元年、親鸞聖人滅後600年忌をとりおこなうことを
孝明天皇に奏上した。
天皇からは勅使に浄土三部経と香木や経卓などの奉納があった。
その後禁裏において能を開催した時に光勝法主を呼んで陪観させた。以後急速に親交を深めてゆく。
すると翌年、亀山天皇の550年忌をおこなうと朝廷に通知した。
宗祖・親鸞の死後は東山の大谷に娘・覚信尼が親鸞の影像を安置した廟堂が建立されていたが、
亀山天皇より『久遠実成阿弥陀本願寺』(くおんじつじょうあみだほんがんじ) という号を賜る。
つまり亀山天皇は本願寺の名づけの親であるから550年忌を執り行いたいと申し出たのである。
先祖に対して尊崇の念の強い孝明天皇はとても喜び、自ら『亀山院恒仁尊儀』と書し、

久我
建通(こがたけみち)内大臣を勅使として使わした。
安政5年に火災で全焼し、復旧のために財政は逼迫していたからあまりお金をかけずに

朝廷と
親しくなる方策が図に当り、門主以下喜んでいた。
やっとのことで寺も1861年(文久元)に再建した。
文久3年に将軍家茂が上洛したが、経済困窮の幕府の求めに応じて有力信者たちに無心して金をかき集め、1万両献金した。
ところが攘夷急進派浪士は幕府寄りの態度が許せぬと、7月26日、東本願寺の用人・大藤幽叟を暗殺した。
そして孝明天皇の大和行幸と親征を種に献金を迫り、1万両をせしめた。
しかし、禁門の変で長州藩と幕府が戦い、戦闘の後、落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を
放ち逃走、会津勢も長州藩士の隠れているとされた中立売御門付近の家屋を攻撃した。この
2ヵ所から上がった火で京都市街は大火に見舞われ、東本願寺も再び全焼した。
孝明天皇は翌慶応元年、寺の再建を奨励する綸旨と白銀30枚を与えた。
これを見た幕府は東本願寺に再建費用としてとりあえず5万両を贈り、飛騨の材木を2千本押さえて、本格的な再建を幕府が行うことにしたのだが、翌年孝明天皇が死去、慶応3年には幕府が滅んで実行はできなかった。

さて桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、幕府の威権は失墜し、にわかに朝廷のある
京都はテロの嵐が吹き起こり、治安は著しく悪化した。
このことを憂慮した老中・安藤対馬守と久世大和守は孝明天皇の妹・和宮と14代将軍・
家茂の結婚を願い出た。
もちろん天皇も和宮も断ったが、側近の岩倉具視は朝廷の権威を回復し、政治に関与する
ためには「公武合体」しなければならないと天皇を説得し、和宮もしぶしぶ納得した。

1860年(安政7年・万延元年)11月25日、桂御所において納采の礼を執り行い、結納金として幕府は朝臣一同に1万5千両を贈った。
翌・文久元年9月、和宮は中仙道を通って江戸に向かう。
婚約者・有栖川宮熾仁(ありすがわたるひと)親王を捨て、兄・孝明天皇の譲位を思いとどまらせ、
鬼が棲むという関東へ朝廷の生贄となって嫁いでゆくのである。
まさに日本は1m43センチ、34キロの少女に運命が託されていたのである。
和宮は2万6千人の随行員が朝廷の権威を示すべく50kmに及ぶ豪華な行列をくりひろげたが、何の感激もなく悲しみに耐える旅である。
翌年2月11日、江戸城で同い年の家茂と婚儀を挙げた。17歳の夫婦である。
結婚してみると家茂は聡明で優しく、2人の仲は睦まじかったが、病弱な家茂は4年後に大阪城で病死する。
和宮の嫁入りに公家たちも多く付いて行った。
なにしろ20万両に及ぶ大金が惜しげもなく使われるのだから金の臭いに誘われる。
中山大納言、菊亭中納言、八条三位、今城中将、岩倉具視少将、千草有文少将、富小路中務
大輔(なかつかさおおすけ・宮廷事務のトップ)、小倉侍従長、橋本侍従、北小路極臈(きょく ろう・六位の蔵人のトップ)、大江俊堅ら、公家の中でも殿上人とよばれる高位の公卿がこれだけ供奉したのは皇女が武家に嫁ぐのは有史以来のことなのである。

なかでも最近売り出し中の岩倉具視と千草有文は天皇から『宸翰(しんかん・天皇自筆の文書)』を
預かっていた。
『とりあえずは富国強兵をめざし、十年後までには外国人の渡来を禁じ、ペリー来航の前
の時代に返すよう努力せよ』
幕府は「天皇の意に沿うように努めます」という将軍の誓書を使者に与えた。
将軍の誓書など家康以来のことである。
これを書かせた岩倉具視は内心ほくそえんだ。
『これさえあれば、以後朝廷が主導権を持てるのだ…』
岩倉具視は1825年(文政8)堀河康親の次男として生れた。幼名は周丸(かねまる)。

堀河家は藤原北家の高倉家の庶流で羽林家。180石の貧乏公家である。
そこで14歳の時に岩倉家の養子になった。
岩倉家もほぼ同格の村上源氏の羽林家であり、150石。
そして元服して従五位の下からスタートして朝廷に出仕する。
やがて岩倉家の娘と結婚するが10年余りは貧乏公家暮らしである。
この間、時の権力者・摂政の鷹司政道に近づくため歌道の弟子として入門する。
すでに29歳になっていた具視はやっと運気を掴んだのである。
実の妹の堀河紀子(もとこ)が15歳で孝明天皇の側近に出仕する。
まもなく孝明天皇のお手がつき、紀子は衛門掌侍(えもんのしょうじ)という役職を与えられた。
天皇のご寵愛のおかげで兄・具視は翌年から側近にはべる侍従になる。
さらに天皇の秘書役ともいえる近習まで出世するのだが、具視の弁舌さわやかな発言を孝明天皇が喜んだのである。
貴族というのは自分が思っていることを公式の場では決して明言しないのが常である。

ましてや天皇の耳に政治に関係する事を話すことはタブーである。
方針が変わればたちまち失墜する危険があるからだ。
孝明天皇はよく言えば「純粋無垢」、悪く言えば「単純」なひとだから直言する具視を気に入り、愚痴を聞いてもらってなぐさめてもらう。
そのほとんどが当時は鷹司政道の悪口である。「自分を人形扱いして無視する」ことが不満だというのだが、歴代の天皇はそんなことで怒ったりはしない。
実力者の権威が衰えるのを静かに待つか、ライバルにさりげなくその意を伝えるのだ。

いわゆる「策謀」こそが天皇家の伝統なのだが、孝明天皇はそれができない。
具視は天皇のお気に入りとなって活躍の場を得たが、攘夷派は和宮降下を実現させた彼を佐幕派として排斥しようと朝廷に圧力をかけた。
このため、1862年(文久2)に京都の霊源寺にて出家。霊源寺、西芳寺を移り住み、京都洛北の岩倉村に幽居した。
まあそれでも「ヤモリ」と仇名されたくらいの策謀家だから、薩摩の大久保とはひんぱんに連絡を取っていた。