1980チベット偵査雑記(3) by リー将軍さん(70才男性)
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体験回想録 ▽▼ by リー将軍さん(70才男性)
☆ 1980チベット偵査雑記(3) 2008/06/16
1950年10月1日、
中華人民共和国建国一周年にパンチェンラマ十世チューキ・ゲルツェンが北京へ次のような書簡を送っている。
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中華人民政府 毛主席 および朱徳人民解放軍総司令官閣下。
両閣下の知性と勇気により 祖国と人民が救われることになりました。正義の軍隊が現われるところ、どこにも喜びに沸いております。中国による変わらぬ御厚誼に対し、パンチェン・ラマの感謝の意ならびに敬意を以下に表します。私は二十年来 君主国チベットの統一のために戦い続けてまいりました。しかし、今だその目的を達せず、不安を抱いております。よって青海省にとどまることとし、両閣下の命が下れば、チベットに帰還する所存です。
両閣下指揮のもと中国北西部が解放され、中央人民政府が設立されたこと、喜びに堪えません。勇気ある正しい者たちは、一層に勇気づけられることでありましょう。民の幸福と平和を予想し、チベットの復興を願い、解放を期待しております。
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この1週間後の10月7日、中国人民解放軍5万(実際は4万程度といわれる)は、張国華指揮のもと、東部国境地帯の金沙江(別称通天河、長江の上流)の3方面より渡河し、昌都・邦達への総攻撃を開始する。
1913年、ダライ・ラマ13世トウプテン・ギャンツオが、清帝国の滅亡の機会をとらえ独立を宣言するが、それは、ネパール王朝の調停のもとチベット領内に駐屯していた清朝軍=満州八旗兵が主)を中国本土へ撤退さすため・・
いわば中国のクビキから脱したという国民向けの宣言みたいなものであった。故にダライ・ラマ13世は、世界各国に大使館をおき外交関係を結ぶこともなく、国際連盟に加盟することもなく、当時の列強との外交関係もなく、一種の鎖国とまではいかないがそれに近い状態を続ける。
国交らしきものがあったは、隣接する英国・ネパール・ブータン・ビルマ・カシミール・パンジャムら、数えるほどしかなかった。
「世界の屋根」ユーラシア大陸の最深部という特別な地形、政治的事象とカルマの混沌、ーーーダライ・ラマ13世は、他の国際社会とは極端に距離をおく孤立主義に進んだ。そしてそれ以前は宗主国清朝に国内治世支援への要求を為せばよかったのが、1913年の独立宣言以降、チベットは徐々に身動きがとれなくなっていたのである。
チベット社会は実質は農奴社会に近い・・・僧院・貴族に借金が返せなくなった農民・牧畜民は、家族ごとその僧院の下僕化する。僧院の土地を、ただその日の食を得るがために耕し、コキ使われるのである。
ーーー自由農民へは、凶作の際に僧院・貴族からの貸付がある。が、
収穫の季節になると、僧侶たちは低地地帯や高原地帯を歩き回って貸金をとり立てる。僧侶たちが来ると、村人らは半円をつくって平伏礼拝する。ラマ教では僧は絶対であり、逆らってはならないからだ。
僧侶たちは納屋の戸を開け、収穫物をとりあげ、馬をとりあげ、放牧してあったヤクや羊も持っていかれる。ーーー農民は、生きるためには僧院・貴族の農奴になるより仕方がなかった。1950年に中共解放軍の侵攻を受けるに際し、チベットは国際連合に救援を求めたが、ーーー国連総会の討論は無期限に延期された。ーーーチベットは「中国国内管轄権」の下にある、との理由からである。
英国はチベットに同情を示した。しかし、それまでのチベットの国際外交無縁の状態を嘆き「残念ながら我国はこの問題に関して介入できない」と逃げた。
ーーーインドも同様であった.
= つづく =
▼▽ 心が元気になる話 ▽▼ by hideおじさん
☆ 南の空の英雄(3)―知られざる日本人の功績
ーーー谷 豊 享年31歳。
大東亜戦争の最中、シンガポールでその短い生涯を終えたと伝わる。ーーー彼がいなかったら、シンガポール攻略も危うかったとも、またマレーの独立も、おそらく難しかったとまで言われている。
幼くしてマレーに移り住み、現地に溶け込むように細々と理髪店を営んでいた谷一家であるが、決して恵まれていたとはいえない。
父の希望もあり、日本の教育を受けようと帰国したが、日本語が少々不得手の豊は苦労したようである。また徴兵検査でも、優男であった為か丙種合格=不合格扱い)となるなど、祖国の役に立ちたいという豊の切なる希望は叶えられなかった。
ーーー日本は彼に優しくはなかった。
しかし「満州事変」が彼の人生を大きく変えることになる。
事変が起こったことでマレーの華僑が排日運動で騒ぎ出し、現地に住む日本人に対して過激な行動を起こし始めたのである。
豊の家も華僑に襲われ、たまたま病気で伏せていた豊の妹は斬首され殺害された。一説によるとその首を曝しものにしたともいう。
ーーーこの事件を日本で聞いた豊は、憤激収まらずマレーへと舞い戻る。その後の彼の行動は一切不明だが、
この後、白人(英国人)や裕福な華僑を狙った強盗が頻発したという。しかし人を殺めることはなく、奪った金品はマレーの貧しい人々に分け与えられ、なかには船の修理まで面倒をみたという。
宗主国イギリス、そして金儲けでマレー人を蔑む華僑に対して、徹底的に戦う豊たちを、マレー人は拍手喝采した。
英国は彼に懸賞金まで掛けてその行方を追ったというが、神出鬼没の彼らは捕まることなく、いつしかマレー人の中で英雄となっていった。が、ある事件をきっかけにタイで捕まったが、誰も彼があの盗賊であることを言わなかった。
ある日、彼の噂を聞きつけやってきた日本人がいた。
陸軍の諜報機関、別名「藤原機関(F機関)」の神本である。彼は豊に、マレー独立を約束し、陸軍への協力を願い出た。
豊が実際に日本陸軍と係った期間はたった2ヶ月といわれているが、その功績は当時でも高く評価され、死して彼は日本の英雄に祭り上げられる。
それが豊の希望であったとは思えないが、マレーの独立を願う彼の思いはその仲間たちに深く刻まれることとなる。戦後の一時期を除いて、戦前否定の教育のなかで「谷 豊」は歴史から消えていった――――。
1996年、マレーシアで豊を題材にした特別テレビ番組が制作された。そのエンディングにはこう流されたという。
「イギリス軍も日本軍も、武器ではマレーシアの心を捉えられなかった。心を捉えたのは、マレーを愛した一人の日本人だった」
何故マレーシアは今でも豊を覚えているのか、その意味を現在の日本人は理解できるだろうか。
「谷 豊」彼はこう呼ばれていた。「ハリマオ」
そう、私たちの年代の永遠のヒーロー「怪傑ハリマオ」とは彼のことである。マレーシア独立の陰に、心からマレーを愛したひとりの日本人がいたことを、―――私たちは忘れてはならない。
= おわり =