人口減少社会はチャンスである。(大日本セキュリティ) | 日本のお姉さん

人口減少社会はチャンスである。(大日本セキュリティ)

ようちゃん、おすすめ記事。↓

▼人口減少社会はチャンスである。(大日本セキュリティ)
朝鮮系の官房機密費使い込み政治家が、日本の人口減少により経済が縮小し、競争力が減少する。だから、「移民を1000万人受け入れなければならない。」と言っていますが、当方はなぜ、人口減少という「日本人が豊かになるチャンス」をみすみす潰し、混乱を招こうするのか理解できません。所詮、愛人との手切れ金として官房機密費2億円を引き出し、住〇会に渡している馬鹿政治家の主張です。やっぱり、こういう事をして平気な顔をしているのは彼のルーツがなせる業でしょうか?

さて、当方は人口減少して何が悪い?と考える人間です。もちろん、人口が減少すれば、GDPが縮小するのはやむを得ない事でしょう。しかし、うまくやれば、人口が減った分、一人一人は豊かになるチャンスがあるともいえます。一人あたりの生産性を上げれば済む話なのです。そうすれば、個人の所得は上がります。21世紀はものすごい勢いで技術革新が進み、あらゆる産業で「省人化」による生産性の向上が起こるでしょう。この生産性向上を受け入れる事ができるのは、「人口減少社会」だけです。中国やインドのような人口の多い国で、「省人化」による生産性向上をやろうとすると、職を無くした国民による暴動が起きてしまうでしょう。どうして、政治家は「人口減少社会」を受け入れ、個人所得増大のチャンスと捉えないのでしょうか?もちろん、「人口減少社会」は黙っていたら経済は縮小(シュリンク)していくだけです。だからこそ、政治家は音頭を取って、「省人化」によって増えた利益を従業員に還元するような仕組みを作ればよいのです。「省人化」の為の設備投資が必要なら、従業員の所得アップを条件に融資をする制度を作っても良いと思います。本当は「人口減少社会」が21世紀の勝ち組なはずです。
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ようちゃんの意見。↓
人口が少ない北欧の900万人しか無いスェーデンを見習いたい。ノキアから先端技術産業も情報も、又木工家具からインテリアまで、今は世界で引っ張りだこの人気商品を販売していて、環境も良くて福祉も行き届いてるし国防をしっかりしてる。
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▼秋葉原の惨劇と兵隊の使い捨て (外交と安全保障をクロフネ・・)

今月8日午後、東京・秋葉原で無差別殺人事件が発生、7人もの尊い命が奪われるという悲しい事態となってしまった。どうしてここまで犠牲者が増えてしまったのかということと、なぜ日本社会からあのような犯罪者が生まれてしまったのかという二点について述べたい。現場に居合わせたわけではないから軽率なことは言えないが、日本の安全保障という点から見ると、まず現場にかけつけた警察官は現状を把握し、次にトラックではねて3人もの犠牲者を出した脅威の源を第一に排除すべきではなかっただろうか。

具体的には、犯人の太ももあたりを狙って発砲し、相手の動きを封じることはできなかったのかと思う。(犯人が激しく動いて結果的に射殺してしまってもやむをえない。市民の安全が第一である)だがそうはならず、警官に追いかけられた犯人は8人もの人を刺し2人が死亡したという。

結局、警官が銃を構えて「発砲するぞ」と警告すると、犯人は武器を捨てて投降した。どうしてもっと早く銃を使えなかったのだろうか。愛知県長久手町で起こった人質立てこもり事件で、警官(SAT隊員)1人が撃たれて殉職、もう1人が重傷を負った事件のときにも思ったのだが、憲法九条の非武装平和原理主義が人を殺した瞬間だと言えよう。

何かの事件で警官が発砲すると、事件そっちのけで「警官が発砲したことについて、警察庁は何も問題は無かったと釈明しました」と、まるで犯人より警察の方が悪いかのように報道するのが日本マスコミの特徴であるが、社民党や九条ネットのような政治団体、それに大半のマスコミや”人権団体”など左翼勢力が崇拝する憲法九条原理主義が、警察による日本社会の安全保障に必要な発砲まで躊躇させ、凶悪な犯人のダガーナイフによって何の罪も無い市民が次々と命を落とす結果となったのである。

戦後、憲法九条原理主義者から強い圧力を受けてきたことに同情はするが、「治安の維持には銃の使用は不可欠だ」と国民に勇気を持って説明せず、まずは事勿れで臭いものにフタをしてきた警察側にも問題はある。長野で行われた北京五輪聖火リレーで、警官の目の前で中国人が日本人へ暴力をふるっても警官が見て見ぬ振りをしていた件で、「あの時中国人を取り締まって暴徒化したら警官だけでは押さえ込めないと思った」というコメントを某巨大掲示板か何かで見たが、もしそれが警察の本音だと言うなら、「たいてい暴徒より治安部隊の方が数が少ないものだ。そのために武装しているのだろうが。国民が買ってやったお前達の腰にぶら下がっている”ニューナンブ”は一体なんなんだ、眺めて楽しむ趣味の世界のものか」と言いたい。

ともかく今回の惨劇は、憲法九条原理主義者による非武装平和主義がトラックで3人をなぎ倒しナイフで4人を刺し殺した犯人に全くの無力であり、結果として何の罪も無い多くの人の命を奪う一因となった。非武装平和主義では日本国内の治安さえ守れないし外国の軍隊が攻めてきたら尚更日本は悲惨なことになるということの、誰の目にも見える明らかな証拠となった。

戦後日本の警察も裁判所も法律も、本来の目的である「何の罪もない市民の安全と生活を守り、犯罪の犠牲となることを防ぐこと。犯罪への強力な抑止力となること」など二の次三の次で、犯罪被害者の人権より何より、「まず一番大切なのは犯罪を起こした者の人権であり、犯罪者を更正させることこそ最高に価値あること」なのである。

無辜の市民の命を守り、犯罪を未然に防ぐことこそ最高に価値あることであり、それができればわざわざ犯罪者を更正させる必要も無くなるのに、まったくもって本末転倒と言わざるを得ない。このように看板倒れの”人権派”によって歪められた日本の法治制度・治安維持制度を正常化させねばならない。

次に、どうしてあのような人間が日本社会から生まれてきたのかということについて考えたい。もちろん「秋葉原の無差別殺人犯は加害者ではなく歪んだ日本社会の犠牲者なのであり、彼は無罪だ」とか、「この事件をきっかけに死刑のハードルを下げてはならない」などといった馬鹿げた世迷言を言うつもりは毛頭無い。
だが、イラクやパレスチナで次々と自爆テロリストが生まれてくる背景には宗教のほかに、破綻した社会に明日への希望が見出せないということも大きいと思うが、遅かれ早かれ現在の日本にも似たような人間が出てくるのではないかと考えていた。

今までは日本人の民度の高さ、別の言い方をすれば「人の良さ」がそれを防止する役目を果たしていた。私が戦時中の日本の軍部指導者に腹立たしさを覚えるのは、兵隊を大事にしない使い捨て主義のようなところがあった点だ。

それでも「靖国で会おう」を合言葉に文句一つ言わず戦場へ向かった兵隊さんの話を見聞きすると涙が出そうになるし、アメリカ軍のロバート・アイケルバーガー中将は「日本兵一個大隊を率いて戦いたいものだ」と言ったそうだが、日本人は末端の兵士や下士官クラスでは世界最高レベル(ウラを返せば、兵を使い捨てにするような将官はレベルが低いということか)だったと敵からも認められていたと言えよう。

それは戦後の”日本株式会社”時代になると強い愛社精神を持つ企業戦士へと引き継がれた。彼らの中から過労死するまで働いてしまう人たちも出てくるのだが、戦前同様、企業のリーダー達が彼らとその家族の献身に充分報いたと言えるか甚だ疑問である。

日本国民が北朝鮮のテロリストに拉致・殺害されても、本来ならばそれがわかった時点で日本が一丸となって北朝鮮と戦ってでも、彼らを取り返さなければならなかったのに、与野党の別無くこれまで日本のリーダー達は本当に冷淡で、彼らを見捨てたも同然だった戦時中の軍部のリーダー達も戦後の政界・財界のリーダー達も、”末端兵士”である日本国民の高い忠誠心や自己犠牲に甘えきっていたところがあったと思う。それがいつまでもいつまでも永遠に続くと思って。

福田首相の外交アドバイザーにして防衛大学校長の五百旗頭真氏は、これまで「日本が中国や韓国と話合うときは、まず日本人が犯した過去の過ちについて必ず一度頭を下げてしかるべき」「首相が靖国神社に参拝するなんてもってのほか」「拉致問題などという小さなことで日朝関係を損ねてはならない」などと言ってきたと聞き及んでいるが、国民を使い捨てにし、外国に拉致されても自分達を見捨てるような国家・そして指導者のために自己犠牲を払って協力しようなんて「人の良い国民」がどんどん少なくなっていくのは当たり前のことである。

官僚は自らの失政の結果としての膨大な政府の借金を国民への増税で返済しようとし、財界のリーダー達も法人税を安くし従業員の社会保険料を負担したくないがために、日本企業の国際競争力強化の美名のもと、年金の基礎部分を国民へ課す税金でまかなうことを主張し、消費税増税に賛成している。

(私は麻生太郎という政治家を尊敬しているが、「年金を全額税方式にすれば、保険料負担をしなくて良い分、企業は従業員の給与をあげるだろう」というお考えには、いささか論理の飛躍があるように思われる。 特に日本の経営者の内部留保極大化主義を見ると)これも”将官”による”末端兵士”・国民の使い捨てである。

福田首相の外交アドバイザーに代表される、低レベル指導者が政財界の要職についているから、もともと高信頼社会であった日本の低信頼社会化が起こる。自分の利害しか眼中に無い人間が増えてくる。こうして良くも悪くも日本人がお人よしでは無くなってくると、希望の見えない破綻した生活に追い込まれた者の中から、自暴自棄になってあのような凄惨な事件を起こす者も出てくるだろう。決して正当化はしないが。 それではどうしたら良いか。次回へつづく
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▼ 朝日新聞の幹部が暴力 (訳わからん、このシャバは)
捏造やでっち上げ、そして誹謗・中傷などの言葉の暴力は認めるが腕力での暴力は絶対、認めないとする朝日新聞がなんと結果的に腕力の暴力まで認めていることが発覚しました。3日午後11時20分ごろ、東京中央区の銀座でタクシーの乗車が禁止されている区域において勝手に乗り込み、男性運転手(60)が断ったところ、突然腹を立て、車の外に引きずり出し、一方的に運転手の顔を数回殴りつけ、怪我を負わせました。警視庁築地署は15日までに、傷害の「現行犯」で、横浜市青葉区すみよし台、朝日新聞東京本社のグループ戦略本部長補佐、平井隆昭容疑者(56)を逮捕したそうです。

暴行を働いたとされる平井隆昭容疑者は酒に酔っていたと言うことですがお客だというおごりと府民などが取り決めた規則も守らない上、挙句に自分の思い通りに行かないと言って一方的に相手を殴り倒した今回の事件は、平常より暴言、バッシングはいいが暴力はいけないとする朝日新聞に勤める社員のやることではありません。しかし平井容疑者は「もみ合いになったが、殴っていない」と開き直りの供述しているそうですが現行犯で逮捕され、怪我をさせた証拠もあることから、この嘘はみえみえです。 俺を誰だと思っている。俺様が。お前らごとき。天下の朝日新聞。このような考えが根底にあるのでしょう。

朝日新聞広報部は今回のドライバー暴行事件に対して「重く受け止め、厳正に対処」との談話を発表したそうです。いつもささいな事件でもマスコミは猛烈なバッシングを繰り広げ、一方的にすべてを悪と決め付けた記事や、また、逆に社会の責任に転化し犯人をかばったりすることでお祭り騒ぎのように報道をしています。そして公正な立場を忘れ、その犯罪を糾弾し企業や犯人をさらし者のように血祭りに上げています。そして最後には事件の検証もしない曖昧にしマスコミで言う「クビを取る」と言う、つまり経営陣を退任させるまで持っていこうとしています。そしてその事件の熱が冷めれば次のターゲットを捜し求めるのがマスコミです。

今回の事件は間違いなく「現行犯」で逮捕された事件ですがしっかりした報道がされるのでしょうか。あれだけ暴力はいけない、ましてや防御すら認めないような朝日新聞の報道姿勢をみるにつけメディアとしての社会的責任を真っ当できるのか甚だ疑問です。昔からメディアが暴力を生み出す事があると言われます。今回は「襟を正さなければいけないその社員が暴力をふるい、名もなき人に怪我を負わせた事件は決して小さなことではありません。いくら飲んでいたとは言え、「はがゆさ」「いらいら」に耐えるのは、共同社会に生きる住人としての使命です。今回の事件は言うなれば警察官が泥棒をしたのと同じことだと言っていい。
朝日新聞は単純に「運が悪かった」と思っているのでしょうか。時が経てば国民はすぐに忘れると思っているのでしょうか。メディアとそこに勤める社員の社会的責任が問われる事件だと考えます。近年、学校の先生が教育者としてあるまじき犯罪を犯したりしています。いつもの通り、長いすを持ち出し共同謝罪会見です。

非暴力を訴える朝日新聞、今回はその朝日新聞の社員が暴力をふるい怪我をさせた事件。たかが暴力、しかし今回の事件は朝日新聞に勤める社員の暴力だ。いつものように専売特許のように他人を批判する立場でありながらメディアの道義的責任として朝日新聞代表者の謝罪会見はないのでしょうか。