縄文塾通信
ようちゃん、おすすめ記事。↓縄文塾通信
★ 植樹トラスト・プラン (1)
━━━━━━━━━━━━ 中村 忠之
★ 農村の現状を直視しよう
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高度成長期に農村より労働力が大挙して都市部に流出して以来、農業生産及び生活環境の激変によって、日本の悲惨な農村事情が表面化し、且つ破綻して以来、一向に改善されぬまま奈落の底に沈んで久しい。加えて昨今世界的な食糧危機という新しい側面が浮上することで、違った意味において日本農業の有り様が問われることになった。いまさら農水省の「コメ最優先政策」という歪な施策の問題点を取り上げるつもりはないが、私たちは結果としての農村の現状を冷静な目で凝視していかねがならない。
干拓事業による農地造成によってコメ増産に着手したと思ったら、一転減反政策によって振回される篤農家たち。かくして農民の出稼ぎから離農、それに老齢化や過疎化に拍車がかかっていったのである。国土庁の報告によれば、1960年から98年までの38年間に、過疎地域で消滅した集落が全国で1712か所にのぼり、しかも今後2200の集落が限界集落を経て消滅の可能性があるという。とくに作業効率の悪い棚田や、ガスや灯油の普及で手入れが行われなくなり、荒廃していった里山などを抱える中山間地は、かつての日本の風物詩としての役割を閉じようとしている。
悲しいことにいまや日本の農村は、無人地帯が拡がり、まさに荒れ地となり果てんとしている。弥生に発する「コメ文化」は、もはや名のみの存在でしかない。たしかに棚田保護を叫ぶボランテイア達の尽力で、い
くつかの棚田が保護され復活してはいるが、水田の一割におよぶという辺鄙な場所の棚田にまで、すべて援助の手を差し延べることは不可能であろう。実のところ現在の農家は、すでにそれらを保全する意思も能力も消え果ててしまっている。しかも世界的食糧危機が取り上げる中で、疲弊した老齢層主体の農業環境を放置したまま、いまだに一般からの農業参入に対して有形無形のバリアを張り、減反制度の撤廃を渋りしながら、新規指針もままならない国の農業施策を見ると、まさに「百年河清を待つ」感がある。ここではそうした事情に対して、いささか違った視点で新しい農村の未来図を提示してみたい。それは荒廃した放置田・休作田、それに棚田・里山の活用による復活ドラマのシナリオである。
★ 「植樹トラスト・プラン」
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ここで提示する「植樹トラスト」運動の真意は、あらたにスタートさせてほしい新林野庁の役割として、森林レンジャー・森林ボランティアを教育・育成して、正しい森林保護に活躍してもらうことを前提に、そうした活動の具体化の一環として「植樹トラスト・プラン」を提示したい。この素案は、もちろんイギリスのナショナル・トラス
ト(the National Trust)である。ナショナル・トラストは、イギリスで1895年に3人の篤志家が「自然と史跡の保存」を目的で設立した民間団体である。「自然のものは国民全体の共有財産であり、国民全体の意志でそれを保存しよう」というのが主旨で、一般の人たちからの寄付を募り、集まった資金を信託して自然と史跡の保護を行ってきたものである。
日本においてはかつて、北海道の自然を守ろうという「知床100平方メートル運動」とか、ゴルフ場反対のために立ち木オーナーを募集するという「立ち木トラスト」などがわずかに知られているが、いずれも一過性運動であって、残念ながらナショナル・トラストに匹敵する永続的で効果のある運動定着のきざしすら見られない。それは日本におけるこうした運動が、恒久的な運動としていくだけの理念と計画性に欠けるからである。全国的な運動としていく場合、最大公約数的共通項として、一貫したコンセプトとそれを継続していく忍耐力と優れた仕組みこそ不可欠なのである。
ウエールズの出身で、日本に帰化して長野県の黒姫山山麓に住み、自らを「ケルト系日本人」と呼んでいるC・W・ニコルは、「確かにカヴァー率だけは70%と大きい日本の森林は、稚拙極まりない農林行政や住民の無理解もあって、貴重な資産原生林はわずか2%程度という惨状を呈している」 と指摘し、加えて
「日本はこれだけ美しい国立公園や広い森林を持ちながら、──カナダで4000人、アメリカ9000人、イギリスでも1000人の森林レンジャーがいるというのに──林野庁の役人でさえ実地に出ることがほとんどなく、デスクワークを本業と思い込んでいる人たちばかりで、なんと実際に森の中で活躍する森林レンジャーは100名にも満たない」と日本の信じられない現状を憂えている。農業に加えて林業の悲惨な問題も大きいが、それは又別の機会に論及したい。
★ 「植樹トラスト・プラン」とは
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さて「植樹トラスト」プランは、全国的に放置されてきた棚田・休耕田を中心にして、間伐すら放棄されたスギ・ヒノキ単一林の蘇生、それに荒廃しきった里山の復活などに適用しようというものである。すなわち各地の林野庁の職員(あるいは退職者)がリーダー兼コーディネーターとなって、そうした遊休農林地の持ち主と森林ボランティア・NPO、それに一般の人たちで構成された植樹ボランティアを結びつけることで、日本の森林活性化をはかろうというものである。勿論「農協」がその役割を担うことも一案だが、いまの農協に果たして可能性が残されているか。
仕組みはいたって簡単で、
1.休耕田や林地提供者
2.樹木の苗木代金と手入れ作業費を負担する「樹木オーナー」
3実際に植樹や手入れを行うボランティア
で構成する。(1)の提供した場所に(2)の提供した樹木を(3)が植樹や手入れを行うという仕組みである。 もちろん(1)が(3)を兼ねることも出来る。植える樹木は(オーナーの希望も入れてだが)ドングリ・クルミ・クリなどの堅果のなる樹木、カキ(柿)・アンズ(杏)・イチジク(無花果)・モモなどの果実のなる落葉広葉樹、それに椎茸栽培のためのクヌギ、それに備長炭のためのウバメガシなどとする。あるいはウメ・サクラなど花見を楽しめるものとか、地元の工房とドッキングして、クワ(桑)・ミツマタ(三椏)・コウゾ(楮)、それにウルシなど「絹・和紙・漆器」の地域振興のため再生産をはかるものであってもよい。
★ 森との共生を願う「植樹トラストプラン」
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スギ・ヒノキの単一林は野生動物の食料を奪い花粉症を蔓延させ、土石流の被害を大きくしてきた。適当な間伐・伐採と同時に、ブナ・ナラ・カシ・ケヤキなどの混成林として復活させることがいま求められている。温暖化現象で異常繁殖する(モウソウダケの)竹林の抑制も急務である。従来棚田・スギ林にしても、野生動物の食料を奪ってきたことで被害を生んできた。最近のクマやイノシシ・シカ・サルなど野生動物による農作物の被害は、こうした共生の仕組みを逸脱したヒトへのしっぺ返しだと知るべきである。その上人間は、彼らの天敵であるオオカミを絶滅させてきたのだ。
さて一方農薬・化学肥料に遺存した農業は、カエル蛙)・タニシ(田螺)・トンボ(蜻蛉)・ドジョウ(泥鰌)それにホタル(蛍)やメダカ(目高)まで失わせてしまった。そうした意味からみても、当然野生動物のエサという視点を織り込んだ植樹トラストは、かつてのヒトと野生動物の共生時代、今様に言えば「ビオトープ」への回帰であり接点の復活という側面も持っている。加えて同案は、「マチとムラの交流」という新しい接点の創成でもある。戦後の農業が失ってきた、神々まで巻き込んだ、「生きとし生けるもの」の集い遊ぶ場、「依り代」なのである。 <以下次回へつづく>
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■1■
「日本古来の社会経験は、将来日本が国際闘争に進出するにはまことに不適当なものであってどうかすると日本に死重の負担を加えるにちがいない」
■2■
他人の領域を冒すとか、ずるく立ち回るとか、そういうことができないほど愛他主義によって支配されてきた国民は、こんにちのような世界
情勢のなかで、戦争と競争の訓練で同時に鍛えられている列国を向こうにまわしたら、とうてい自分の国を保って行くことはできまい」
■3■
「これからの日本は、この現代の世界闘争のなかで成功しようと思ったら、自分の国の国民性にある、最も人好きの悪い、薄情な資質に依存
して行かなければならない。そういう資質を日本は強く大きく発達させる必要があるだろう」
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トラネコ様は、
さて日本も国際社会の一員として世界の指導者的役割にふさわしい働きをするためには、やはり世界が西洋原理で動いている以上、それに呼応していか ざるを得ないでしょう。日本型の不文律社会のよさも認めつつも、西洋型 のロジック武装もこれからの日本には必要でしょう。
しかし不思議に思うのは今の官僚や政治家には、 海外留学や勤務経験のある人がかなりいると思うの ですが、特に外交関係ではあまり留学経験が政治に 生かされているとは思えないのは私だけでしょうか?
と言っておられますが、私も同感です。ただし、海外留学をした からといって、その人間の本質が変わるわけではありません。国内での教育が必要なのではないでしょうか。日本文化は不文律であるため、日本人自身が己自身を説明できないことが一番問題だと思います。ライオンズクラブなどに「ユース・イクスチェンジ」という学生の海外ホームステイ制度があります。あるクラブの人から聞いた話ですが、ニュージーランドのある家庭にホームステイした女子高校生が家人から、
「日本人は仏教徒なのに、なぜ祖先を拝むのか?」と訊かれ、答えられなくて困惑したとのことでした。これに答えられる日本人は何%いるでしょうか?一般庶民だけではなく、これに即答できる外交官・政治家が何人いるでしょうか?日本人が日本人のことを知らない。説明できない。これでは「国際『闘争』社会」に対応できないでしょう。私は、日本の不文律文化は意識して「改造」されなければ、日本は生き残っていけないのではないかと危惧しています。
トラネコ様には、またご意見をお聞かせください。今後ともよろしくお願い申し上げます。
* * * *
中山善照様
ご丁寧な返信メール有難うございました。日本人は世界一お人よし民族だと言うのはまったく同感です。ラフカディ・オ・ハーンの試論もなるほどと思いました。特に3・「・・・この現代の世界闘争のなかで成功しようと思ったら、自分の国の国民性にある、最も人好きの悪い、薄情な資質に依存して行かなければならない。」については、私も縄文塾通信の今週号311にも書きましたが、弱肉強食の国際社会でリーダーシップを発揮し、勝ち抜くためには、国家的エゴイズムを全面に打ち出さなければならないということでしょう。日本人の民族性として、人様に対してずけずけとこちらの都合の良いことばかりを要求したり、対等であるはずの相手を見下したものの言い方などは、礼節や人間性に反した態度であり恥ずべき行為であります。しかし国際社会ではお隣の半島国家や大陸国家のように、それを地で行ってなんら恥すら感じないあつかましさです。
しかしこのあつかましさは程度の差こそあれ、国際外交の常識であり、国連などはまさに世界中の国家エゴのぶつかり合う場であると思います。日本人の美徳である「謙虚さ」はおそらく外交の場では役に立たない精神性でしょう。オ・ハーンは日本人の民族性に欠けている「傲慢さ」を強化しないと国際社会では生き残れないといったのでしょう。日本人が軽蔑する傲慢さやあつかましさ、ふてぶてしさや開き直りの態度さらに狡猾さや要領のよさなどこそ、国際外交、政治の場に必要なのです。
これはあくまで外交官や政治家への要望です。では我々一般国民に必要なものとは、というか現代日本人に欠けているものとは「日本および日本人の歴史から学んだ文化的教養」ではないかと思います。中山様が例に挙げておられる「仏教徒がなぜ先祖をおがむのか?」というのは、まさに日本文化そのものを象徴したものだと思います。
おそらく社会や国語の教師でも、これにキチンと答えられる人は少ないんじゃないでしょうか。これは塾長の中村先生の主張される日本改革のムーブメントの理論的バックボーンである、縄文と弥生のハイブリット民族性を学ぶことから始まるものでしょう。あらゆる異質なものを融合させて、原材料以上の質的性能を作り上げるアレンジメント技術と精神が、よその文化では考えられない異質の宗教同士をも合体させてしまう日本人のハイブリット精神でしょう。
用明天皇が初めて仏教に帰依しましたが、神道のトップである天皇が当時の新興宗教・仏教にも帰依し、しかも両者を敬えと、息子の聖徳太子や後の聖武天皇にその精神を引き継がせる行為は、恐らく一神教文化圏の人にも理解できないでしょうね。
ローマ法王がイスラム教にも帰依し、キリスト教も敬えといったら全世界のカトリック信者は気絶するでしょう。中山様のおっしゃるとおり、日本人自身が日本を良く知る、熟知することが国際社会で活躍する人材の育成の基本でしょうね。今の教育にかけている民族のアイデンティティ学習です。現在の高校のように日本史は自由選択性で世界史は必須など、本末転倒した文部官僚の馬鹿さ加減に呆れてしまいます。長々とすみません、またご意見、ご批判などありましたら宜しくお願い申し上げます。
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■□■ 日本的思想としての「石門心学」
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「中山&トラネコ」両論文を読んで~
━━━━━━━━━━━━━━━━━ おおなだ
313号のトラネコさん対中山善照さんの説を興味深く拝見した。上智大名誉教授の渡部昇一郎氏が、「世界に誇れる日本人」のなかで日本独自の思想として石田梅岩の「石門心学」を高く評価しておられる。その際、同心学は教祖も教義をもたないとトラネコさんや中山さんと同じ主旨を述べておられる。小生の小さな知識では石田梅岩は心のあり方を通して商人道を説き、その後、何事もひたむきに向いその事を通じて心を磨くことが人格形成になると一般化され「心学」となった。また、氏は心学が形として現われたのは石門心学だが、心学的考えは以前から自然発生的に日本にあったと思うとも述べられている。そして、氏はこの心学の系統上に松下幸之助を捉えアリストテレス、プラトン、孔子と並ぶ哲人と見て良いとも主張しておられる。名誉教授はご自身の専門以外も博識で、ドイツ、イギリス、アメリカ等で研究や教授職を努められた。従って内外文化を相対化できる立場と能力のある方の発言だけに説得力を持つ。
中山さんの説く「日本人文化は不文律で倫理道徳についても書物に書かたものではなく、また日常生活や礼儀作法と一体となっている」そのものがまさしく「心学」の根っこにある。 以降、中山さんの意に従って文字として体系化されたものを「文律」そうでないものを「不文律」として借用させていただく。昔話で恐縮だが、高校時代の陸上部で可愛くはあったが短足の女子陸上競技者がいた。どうあがいても地区大会には出れない。にも拘わらず一生懸命練習する。聞いてみると少しでも自己ベストを更新したい。そのときの喜びは何にも変えられないし練習を続けていれば何か成長する感じがするという。それだけで練習を繰り返す。教育上の都合だろうが指導する先生も見放すことはない。確かに、成果には直接関係なくこの「一生懸命で何か大事なものを得る」は、特に欧米合理主義で文律することは不可能だろう。
ところで、文明という限りはその核となる思想がある。普通に考えて大きな思想なくしで欧米も認める独立した「日本文明」が存在するとは考え難い。一方、思想は伝道者(文律する人)がいて広がりを得れば後に「偉大」と称される側面がある。キリストも孔子もそうだった。文律するとは宣伝し易くすると考えても良さそうだ。そういえば、各文明の内一国一文明は日本だけである。
従って、トラネコ説を利用させて頂くと、偉大な思想の出現は文律する必要があったか無かったによるとも考えられる。日本にも偉大な思想はあるが文律する必要がなかった。だからといって、不文慣習法の英国憲法と同様その価値を減ずるものではない。もっとも、我々の不文律文化に文律思想が入れば中山さんのいう通うり、この国の学者はしばしば醜態をさらす。国柄を西欧的合理主義の借り物尺度で測るのも一興ではある。しかし、日本の「エライ」人の許せないのは、借り物では測れない部分もあると正直に言えばいいものを、それさえも無理やり借り物尺度に合わせようとして誤る。
実際、戦前マルキストは講座派と労農派に別れ、明治の現実を如何にしたらマルクスの階級闘争史観に押し込めるか不毛の論争を繰り返した。
そういう借り物尺度では測れないと歴史小説を通じて主張したのが司馬遼太郎だろう。日本が真に世界史に登場したのが日露戦争だとすると、以降ほんの百年少々しか経っていない。外が日本発の”偉大な”思想あるいは思想家を発見するのを待つのみである。我々の文化では自分で外に向かって言うのはハシタナイ。幸い日本のサブカルチャーは世界に浸透しつつあり、おかげで欧米では西田幾多郎哲学研究も人気があると聞く。あまり遠くではないだろう。
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━━━━━━━━━━━━ 中村 忠之
★ 農村の現状を直視しよう
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高度成長期に農村より労働力が大挙して都市部に流出して以来、農業生産及び生活環境の激変によって、日本の悲惨な農村事情が表面化し、且つ破綻して以来、一向に改善されぬまま奈落の底に沈んで久しい。加えて昨今世界的な食糧危機という新しい側面が浮上することで、違った意味において日本農業の有り様が問われることになった。いまさら農水省の「コメ最優先政策」という歪な施策の問題点を取り上げるつもりはないが、私たちは結果としての農村の現状を冷静な目で凝視していかねがならない。
干拓事業による農地造成によってコメ増産に着手したと思ったら、一転減反政策によって振回される篤農家たち。かくして農民の出稼ぎから離農、それに老齢化や過疎化に拍車がかかっていったのである。国土庁の報告によれば、1960年から98年までの38年間に、過疎地域で消滅した集落が全国で1712か所にのぼり、しかも今後2200の集落が限界集落を経て消滅の可能性があるという。とくに作業効率の悪い棚田や、ガスや灯油の普及で手入れが行われなくなり、荒廃していった里山などを抱える中山間地は、かつての日本の風物詩としての役割を閉じようとしている。
悲しいことにいまや日本の農村は、無人地帯が拡がり、まさに荒れ地となり果てんとしている。弥生に発する「コメ文化」は、もはや名のみの存在でしかない。たしかに棚田保護を叫ぶボランテイア達の尽力で、い
くつかの棚田が保護され復活してはいるが、水田の一割におよぶという辺鄙な場所の棚田にまで、すべて援助の手を差し延べることは不可能であろう。実のところ現在の農家は、すでにそれらを保全する意思も能力も消え果ててしまっている。しかも世界的食糧危機が取り上げる中で、疲弊した老齢層主体の農業環境を放置したまま、いまだに一般からの農業参入に対して有形無形のバリアを張り、減反制度の撤廃を渋りしながら、新規指針もままならない国の農業施策を見ると、まさに「百年河清を待つ」感がある。ここではそうした事情に対して、いささか違った視点で新しい農村の未来図を提示してみたい。それは荒廃した放置田・休作田、それに棚田・里山の活用による復活ドラマのシナリオである。
★ 「植樹トラスト・プラン」
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ここで提示する「植樹トラスト」運動の真意は、あらたにスタートさせてほしい新林野庁の役割として、森林レンジャー・森林ボランティアを教育・育成して、正しい森林保護に活躍してもらうことを前提に、そうした活動の具体化の一環として「植樹トラスト・プラン」を提示したい。この素案は、もちろんイギリスのナショナル・トラス
ト(the National Trust)である。ナショナル・トラストは、イギリスで1895年に3人の篤志家が「自然と史跡の保存」を目的で設立した民間団体である。「自然のものは国民全体の共有財産であり、国民全体の意志でそれを保存しよう」というのが主旨で、一般の人たちからの寄付を募り、集まった資金を信託して自然と史跡の保護を行ってきたものである。
日本においてはかつて、北海道の自然を守ろうという「知床100平方メートル運動」とか、ゴルフ場反対のために立ち木オーナーを募集するという「立ち木トラスト」などがわずかに知られているが、いずれも一過性運動であって、残念ながらナショナル・トラストに匹敵する永続的で効果のある運動定着のきざしすら見られない。それは日本におけるこうした運動が、恒久的な運動としていくだけの理念と計画性に欠けるからである。全国的な運動としていく場合、最大公約数的共通項として、一貫したコンセプトとそれを継続していく忍耐力と優れた仕組みこそ不可欠なのである。
ウエールズの出身で、日本に帰化して長野県の黒姫山山麓に住み、自らを「ケルト系日本人」と呼んでいるC・W・ニコルは、「確かにカヴァー率だけは70%と大きい日本の森林は、稚拙極まりない農林行政や住民の無理解もあって、貴重な資産原生林はわずか2%程度という惨状を呈している」 と指摘し、加えて
「日本はこれだけ美しい国立公園や広い森林を持ちながら、──カナダで4000人、アメリカ9000人、イギリスでも1000人の森林レンジャーがいるというのに──林野庁の役人でさえ実地に出ることがほとんどなく、デスクワークを本業と思い込んでいる人たちばかりで、なんと実際に森の中で活躍する森林レンジャーは100名にも満たない」と日本の信じられない現状を憂えている。農業に加えて林業の悲惨な問題も大きいが、それは又別の機会に論及したい。
★ 「植樹トラスト・プラン」とは
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さて「植樹トラスト」プランは、全国的に放置されてきた棚田・休耕田を中心にして、間伐すら放棄されたスギ・ヒノキ単一林の蘇生、それに荒廃しきった里山の復活などに適用しようというものである。すなわち各地の林野庁の職員(あるいは退職者)がリーダー兼コーディネーターとなって、そうした遊休農林地の持ち主と森林ボランティア・NPO、それに一般の人たちで構成された植樹ボランティアを結びつけることで、日本の森林活性化をはかろうというものである。勿論「農協」がその役割を担うことも一案だが、いまの農協に果たして可能性が残されているか。
仕組みはいたって簡単で、
1.休耕田や林地提供者
2.樹木の苗木代金と手入れ作業費を負担する「樹木オーナー」
3実際に植樹や手入れを行うボランティア
で構成する。(1)の提供した場所に(2)の提供した樹木を(3)が植樹や手入れを行うという仕組みである。 もちろん(1)が(3)を兼ねることも出来る。植える樹木は(オーナーの希望も入れてだが)ドングリ・クルミ・クリなどの堅果のなる樹木、カキ(柿)・アンズ(杏)・イチジク(無花果)・モモなどの果実のなる落葉広葉樹、それに椎茸栽培のためのクヌギ、それに備長炭のためのウバメガシなどとする。あるいはウメ・サクラなど花見を楽しめるものとか、地元の工房とドッキングして、クワ(桑)・ミツマタ(三椏)・コウゾ(楮)、それにウルシなど「絹・和紙・漆器」の地域振興のため再生産をはかるものであってもよい。
★ 森との共生を願う「植樹トラストプラン」
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スギ・ヒノキの単一林は野生動物の食料を奪い花粉症を蔓延させ、土石流の被害を大きくしてきた。適当な間伐・伐採と同時に、ブナ・ナラ・カシ・ケヤキなどの混成林として復活させることがいま求められている。温暖化現象で異常繁殖する(モウソウダケの)竹林の抑制も急務である。従来棚田・スギ林にしても、野生動物の食料を奪ってきたことで被害を生んできた。最近のクマやイノシシ・シカ・サルなど野生動物による農作物の被害は、こうした共生の仕組みを逸脱したヒトへのしっぺ返しだと知るべきである。その上人間は、彼らの天敵であるオオカミを絶滅させてきたのだ。
さて一方農薬・化学肥料に遺存した農業は、カエル蛙)・タニシ(田螺)・トンボ(蜻蛉)・ドジョウ(泥鰌)それにホタル(蛍)やメダカ(目高)まで失わせてしまった。そうした意味からみても、当然野生動物のエサという視点を織り込んだ植樹トラストは、かつてのヒトと野生動物の共生時代、今様に言えば「ビオトープ」への回帰であり接点の復活という側面も持っている。加えて同案は、「マチとムラの交流」という新しい接点の創成でもある。戦後の農業が失ってきた、神々まで巻き込んだ、「生きとし生けるもの」の集い遊ぶ場、「依り代」なのである。 <以下次回へつづく>
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「日本古来の社会経験は、将来日本が国際闘争に進出するにはまことに不適当なものであってどうかすると日本に死重の負担を加えるにちがいない」
■2■
他人の領域を冒すとか、ずるく立ち回るとか、そういうことができないほど愛他主義によって支配されてきた国民は、こんにちのような世界
情勢のなかで、戦争と競争の訓練で同時に鍛えられている列国を向こうにまわしたら、とうてい自分の国を保って行くことはできまい」
■3■
「これからの日本は、この現代の世界闘争のなかで成功しようと思ったら、自分の国の国民性にある、最も人好きの悪い、薄情な資質に依存
して行かなければならない。そういう資質を日本は強く大きく発達させる必要があるだろう」
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トラネコ様は、
さて日本も国際社会の一員として世界の指導者的役割にふさわしい働きをするためには、やはり世界が西洋原理で動いている以上、それに呼応していか ざるを得ないでしょう。日本型の不文律社会のよさも認めつつも、西洋型 のロジック武装もこれからの日本には必要でしょう。
しかし不思議に思うのは今の官僚や政治家には、 海外留学や勤務経験のある人がかなりいると思うの ですが、特に外交関係ではあまり留学経験が政治に 生かされているとは思えないのは私だけでしょうか?
と言っておられますが、私も同感です。ただし、海外留学をした からといって、その人間の本質が変わるわけではありません。国内での教育が必要なのではないでしょうか。日本文化は不文律であるため、日本人自身が己自身を説明できないことが一番問題だと思います。ライオンズクラブなどに「ユース・イクスチェンジ」という学生の海外ホームステイ制度があります。あるクラブの人から聞いた話ですが、ニュージーランドのある家庭にホームステイした女子高校生が家人から、
「日本人は仏教徒なのに、なぜ祖先を拝むのか?」と訊かれ、答えられなくて困惑したとのことでした。これに答えられる日本人は何%いるでしょうか?一般庶民だけではなく、これに即答できる外交官・政治家が何人いるでしょうか?日本人が日本人のことを知らない。説明できない。これでは「国際『闘争』社会」に対応できないでしょう。私は、日本の不文律文化は意識して「改造」されなければ、日本は生き残っていけないのではないかと危惧しています。
トラネコ様には、またご意見をお聞かせください。今後ともよろしくお願い申し上げます。
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中山善照様
ご丁寧な返信メール有難うございました。日本人は世界一お人よし民族だと言うのはまったく同感です。ラフカディ・オ・ハーンの試論もなるほどと思いました。特に3・「・・・この現代の世界闘争のなかで成功しようと思ったら、自分の国の国民性にある、最も人好きの悪い、薄情な資質に依存して行かなければならない。」については、私も縄文塾通信の今週号311にも書きましたが、弱肉強食の国際社会でリーダーシップを発揮し、勝ち抜くためには、国家的エゴイズムを全面に打ち出さなければならないということでしょう。日本人の民族性として、人様に対してずけずけとこちらの都合の良いことばかりを要求したり、対等であるはずの相手を見下したものの言い方などは、礼節や人間性に反した態度であり恥ずべき行為であります。しかし国際社会ではお隣の半島国家や大陸国家のように、それを地で行ってなんら恥すら感じないあつかましさです。
しかしこのあつかましさは程度の差こそあれ、国際外交の常識であり、国連などはまさに世界中の国家エゴのぶつかり合う場であると思います。日本人の美徳である「謙虚さ」はおそらく外交の場では役に立たない精神性でしょう。オ・ハーンは日本人の民族性に欠けている「傲慢さ」を強化しないと国際社会では生き残れないといったのでしょう。日本人が軽蔑する傲慢さやあつかましさ、ふてぶてしさや開き直りの態度さらに狡猾さや要領のよさなどこそ、国際外交、政治の場に必要なのです。
これはあくまで外交官や政治家への要望です。では我々一般国民に必要なものとは、というか現代日本人に欠けているものとは「日本および日本人の歴史から学んだ文化的教養」ではないかと思います。中山様が例に挙げておられる「仏教徒がなぜ先祖をおがむのか?」というのは、まさに日本文化そのものを象徴したものだと思います。
おそらく社会や国語の教師でも、これにキチンと答えられる人は少ないんじゃないでしょうか。これは塾長の中村先生の主張される日本改革のムーブメントの理論的バックボーンである、縄文と弥生のハイブリット民族性を学ぶことから始まるものでしょう。あらゆる異質なものを融合させて、原材料以上の質的性能を作り上げるアレンジメント技術と精神が、よその文化では考えられない異質の宗教同士をも合体させてしまう日本人のハイブリット精神でしょう。
用明天皇が初めて仏教に帰依しましたが、神道のトップである天皇が当時の新興宗教・仏教にも帰依し、しかも両者を敬えと、息子の聖徳太子や後の聖武天皇にその精神を引き継がせる行為は、恐らく一神教文化圏の人にも理解できないでしょうね。
ローマ法王がイスラム教にも帰依し、キリスト教も敬えといったら全世界のカトリック信者は気絶するでしょう。中山様のおっしゃるとおり、日本人自身が日本を良く知る、熟知することが国際社会で活躍する人材の育成の基本でしょうね。今の教育にかけている民族のアイデンティティ学習です。現在の高校のように日本史は自由選択性で世界史は必須など、本末転倒した文部官僚の馬鹿さ加減に呆れてしまいます。長々とすみません、またご意見、ご批判などありましたら宜しくお願い申し上げます。
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■□■ 日本的思想としての「石門心学」
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「中山&トラネコ」両論文を読んで~
━━━━━━━━━━━━━━━━━ おおなだ
313号のトラネコさん対中山善照さんの説を興味深く拝見した。上智大名誉教授の渡部昇一郎氏が、「世界に誇れる日本人」のなかで日本独自の思想として石田梅岩の「石門心学」を高く評価しておられる。その際、同心学は教祖も教義をもたないとトラネコさんや中山さんと同じ主旨を述べておられる。小生の小さな知識では石田梅岩は心のあり方を通して商人道を説き、その後、何事もひたむきに向いその事を通じて心を磨くことが人格形成になると一般化され「心学」となった。また、氏は心学が形として現われたのは石門心学だが、心学的考えは以前から自然発生的に日本にあったと思うとも述べられている。そして、氏はこの心学の系統上に松下幸之助を捉えアリストテレス、プラトン、孔子と並ぶ哲人と見て良いとも主張しておられる。名誉教授はご自身の専門以外も博識で、ドイツ、イギリス、アメリカ等で研究や教授職を努められた。従って内外文化を相対化できる立場と能力のある方の発言だけに説得力を持つ。
中山さんの説く「日本人文化は不文律で倫理道徳についても書物に書かたものではなく、また日常生活や礼儀作法と一体となっている」そのものがまさしく「心学」の根っこにある。 以降、中山さんの意に従って文字として体系化されたものを「文律」そうでないものを「不文律」として借用させていただく。昔話で恐縮だが、高校時代の陸上部で可愛くはあったが短足の女子陸上競技者がいた。どうあがいても地区大会には出れない。にも拘わらず一生懸命練習する。聞いてみると少しでも自己ベストを更新したい。そのときの喜びは何にも変えられないし練習を続けていれば何か成長する感じがするという。それだけで練習を繰り返す。教育上の都合だろうが指導する先生も見放すことはない。確かに、成果には直接関係なくこの「一生懸命で何か大事なものを得る」は、特に欧米合理主義で文律することは不可能だろう。
ところで、文明という限りはその核となる思想がある。普通に考えて大きな思想なくしで欧米も認める独立した「日本文明」が存在するとは考え難い。一方、思想は伝道者(文律する人)がいて広がりを得れば後に「偉大」と称される側面がある。キリストも孔子もそうだった。文律するとは宣伝し易くすると考えても良さそうだ。そういえば、各文明の内一国一文明は日本だけである。
従って、トラネコ説を利用させて頂くと、偉大な思想の出現は文律する必要があったか無かったによるとも考えられる。日本にも偉大な思想はあるが文律する必要がなかった。だからといって、不文慣習法の英国憲法と同様その価値を減ずるものではない。もっとも、我々の不文律文化に文律思想が入れば中山さんのいう通うり、この国の学者はしばしば醜態をさらす。国柄を西欧的合理主義の借り物尺度で測るのも一興ではある。しかし、日本の「エライ」人の許せないのは、借り物では測れない部分もあると正直に言えばいいものを、それさえも無理やり借り物尺度に合わせようとして誤る。
実際、戦前マルキストは講座派と労農派に別れ、明治の現実を如何にしたらマルクスの階級闘争史観に押し込めるか不毛の論争を繰り返した。
そういう借り物尺度では測れないと歴史小説を通じて主張したのが司馬遼太郎だろう。日本が真に世界史に登場したのが日露戦争だとすると、以降ほんの百年少々しか経っていない。外が日本発の”偉大な”思想あるいは思想家を発見するのを待つのみである。我々の文化では自分で外に向かって言うのはハシタナイ。幸い日本のサブカルチャーは世界に浸透しつつあり、おかげで欧米では西田幾多郎哲学研究も人気があると聞く。あまり遠くではないだろう。
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