英国士官が命の恩人である日本海軍艦長の墓参り ~敵兵救助という武士道~(アジアの真実)
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▼英国士官が命の恩人である日本海軍艦長の墓参り ~敵兵救助という武士道~(アジアの真実)
◎敵兵救助の“武士道”実践 救助された元英国士官が恩人艦長の墓参で来日へ:産経
敵兵救助した工藤艦長の墓参のため再来日を検討している元英海軍士官のフォールさん 太平洋戦争緒戦のインドネシア沖海戦で艦隊が撃沈されて海上を漂流中、帝国海軍駆逐艦「雷(いかずち)」に救助された元英海軍士官が、救助を指示した艦長の墓参のため7月にも来日する。関係者は「日英間の新たな絆になる。来日実現に向け支援の輪を広げたい」と話している。
来日するのは元英海軍中尉、サムエル・フォール卿(89)。戦後、英国外務省に勤務し、駐スウェーデン大使などを歴任。同時に、英国海軍OBの会合などで、「雷」の工藤俊作艦長(海軍中佐)をたたえる講演を続けてきた。ただ、工藤艦長の消息が分かったときは、すでに艦長が亡くなって数年が経過しており、それ以降も公務員のため来日する機会に恵まれなかった。平成15年、ようやく初来日を果たしたが、日本で工藤艦長の遺族の存在について答えられる関係者はいなかった。
このため、来日時にフォール卿と知り合った元自衛官で作家の恵隆之介さん(54)が、工藤艦長の出身地の山形県などで調査。工藤艦長は妻、かよさんと2人暮らしで昭和54年に77歳で他界、2人の墓が埼玉県川口市内にあることが判明した。また、山形県では工藤艦長のおいが健在で、「雷」の関係者では、存命する士官でただ一人確認できた元航海長の谷川清澄さん(92)=静岡県在住=が戦後も工藤艦長と親交が続いていたことも分かった。
長年探し求めた命の恩人の“所在”が分かったフォール卿は「元気なうちに艦長の墓に参り、関係者に礼を言いたい」と再来日を決意。66年前、自分と戦友らの救助に汗を流してくれた谷川さんとの対面も楽しみにしているという。恵さんは「フォール卿が話さなければ『雷』の英雄的な行動は間違いなく歴史の闇に消えていた」と指摘。「艦長や乗員の行動は日英間の新たな友情の絆となるはず」とし、乗員の慰霊・顕彰碑建立のための事務局「故海軍中佐工藤俊作顕彰会」を立ち上げ、フォール卿の来日と墓前祭の実現に向けた多方面からの協力も呼びかけている。事務局への問い合わせは(電)090・8839・3783。
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以前も少しこの話に触れたことがあったかもしれませんが、今回、フォール卿が念願の工藤艦長の墓参りに来日されるとのことです。4年ほど前は、人生の締めくくりにと工藤艦長の墓を訪ねに来日したにも関わらず、所在がわからず断念したという残念な結果になっていた為、今回、思いを果たせることについて非常に良かったと思います。 フォール卿について、詳しく書かれているBlogがありますので、今回その記事を転載させて頂きます。
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●「天皇陛下万歳 !!! \(o⌒∇⌒o)/ 」さんの【武士道】敵兵イギリス兵422名を救助した日本海軍「雷(いかづち)」 より
天皇皇后両陛下がイギリスを訪問したのは8年前の1998年5月だった。イギリス政府と国民は歓迎の意を表し、天皇陛下はエリザベス女王と馬車に乗ってロンドン市民の歓迎にこたえた。しかし、このパレードには抗議の意味でわざと背を向けた人たちがいた。彼らは、第二次世界大戦中日本の捕虜になり、その時の扱いに抗議し、日本政府に賠償と天皇陛下に謝罪を要求したのだった。 この抗議行動に、イギリス政府は「遺恨が日英関係を支配してはならない」(ブレア首相)と呼び掛けるなど、両陛下及び日本政府に異例の配慮を見せた。(読売新聞)当時、日本の財界はイギリスに積極投資するなど、日英関係は経済面で新たな親密度を見せているときだった。ブレア首相の発言は当然だったかもしれない。 しかし、イギリス国民の感情は二分された。戦時中の捕虜に対する非人道的な扱いを非難し日本政府と天皇に謝罪を要求するものから、個人的に戦争に関わっていない現在の天皇に謝罪を要求することへの疑問、さらには、元捕虜に対する賠償問題は退役軍人にちゃんと年金を払わないイギリス自体の問題だなど、様々な意見が噴出し、両陛下のイギリス訪問が反日運動を起こすきっかけになるのではないかとの不安が巻き起こった。
そんな怪しい空気を一掃するような投稿がロンドンのタイムズ紙に掲載された。 その投稿は、元イギリス海軍士官からのものだった。戦後はスウェーデン大使を務めサーの称号が与えられたサムエル・フォール卿(投稿当時86歳)だった。フォール卿は、大戦中のスラバヤ沖海戦で、日本海軍に撃沈された巡洋艦から海に放り出され漂流中のところを日本海軍「雷(いかづち)」に救助されたのだった。このときの体験をタイムズ紙に投稿し、敵兵救助を決断した日本の武士道を賛美し、その国の元首を温かく迎えようと国民に呼びかけたのだった。(産経新聞)
実は、この救助劇は歴史に隠れ続けた。日本海軍の駆逐艦「雷」が救助したイギリス海軍兵はフォール卿だけではないのだ。日本艦隊は英米欄の連合艦隊15艘と戦い11艘を撃沈した。合戦後たまたまそこを通りかかった「雷」の見張りが望遠鏡で遠方に漂流物を確認。その漂流物は敵将兵らしく、その数400以上との報告が艦長にされた。艦長の工藤俊作は、次の瞬間「潜望鏡は見えないか」確認させると、見えないとの返答に救助を命令した。 この海域では敵の潜水艦7艘が撃沈されたばかり、前日には味方の輸送船が攻撃を受けて沈没した危険海域だった。そこを「雷」の乗員220名は、全員敵兵の救助活動を行い、乗組員のほぼ倍の422名を救助したのだった。(「敵兵を救助せよ!」恵隆之介著草思社刊) これは、壮絶な救助行動だったようで、救助活動中は敵も味方もない懸命な活動だったという。救助のため命令に背き海中に飛び込んだ日本兵もいた。「雷」の甲板は救助されたイギリス兵で埋め尽くされ、撃沈された際に流れた重油が体中をまとわるのを日本兵は丁寧にアルコールでふき取り、シャツと半ズボンと運動靴が支給され、熱いミルクと、ビール、ビスケットの接待がなされたという。 その後、イギリス海軍の21人の士官が集められ、工藤艦長が端正な挙手の敬礼をした後流暢な英語でスピーチをし、「諸官は勇敢に戦われた。いまや諸官は日本海軍の名誉あるゲストである」と伝えた。フォール卿はこれは夢ではないかと何度も手をつねったという。(同) フォール卿は、この工藤艦長の功績をアメリカ海軍機関紙に寄稿した(1987年)。またジャカルタで行なわれたジャワ沖海戦50周年記念式典(1992年)でも称え、自分史を刊行した際も「帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と書いている(1996年)。
さらに、2年後の天皇皇后両陛下イギリス訪問時にもタイムズ紙に工藤氏の実名を上げて投稿し、ずっと工藤氏の消息を探し続けたがつかむことができなかった。心臓病を患いながら、3年前に「人生の締めくくりに」と来日し工藤氏の墓参と家族への感謝の気持を伝えたかったようだが、分らず離日した。その際、「敵兵を救助せよ!」著者の恵隆之介氏(元海上自衛隊)に墓と遺族を探してくれるように依頼したようだ。恵氏はその約束を果たし丹念に工藤氏の足跡を辿った。 しかし、この救助劇は工藤氏の夫人にも話されていなかったことで、知る人はまわりにいなかった。たどるうちに「雷」の乗組員のうち2名が存命であることが分り、このときの様子が再現された。
尚、この話は記事中にもある恵隆之介氏が「敵兵を救助せよ!」という書籍で詳細をまとめられているほか、たけしの「奇跡体験アンビリーバボー」というテレビ番組でも過去に取り上げられています。奇跡体験アンビリーバボーより
戦場のラストサムライ
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上記記事中にもあるとおり、フォール卿は、戦後に日本海軍と工藤艦長をたたえる講演活動を精力的に行ってくれています。それは英国での日本理解に少なからず役立っているはずです。フォール卿にはお礼を申し上げたいと思います。 そしてフォール卿がいなければ歴史の闇に消えていたであろう、日本の武士道を体現したこの美談、我々日本人も知っておくべきです。
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日本のお姉さん。↓
古本屋でジャワの戦闘に参加した日本人が
自分史として本を出したらしい本を買って読んだことが
あるのですが、艦長の工藤俊作が敵のイギリス兵を助ける
ように命令を下したので一生懸命に助けたが、自分の船もいつ
攻撃されるか分からない地域での救助だったため、びくびく
しながらの救助だったそうfです。彼らは全員重油でまっくろ
だったので、みんなで拭いてあげたそうだが、甲板に
寝転んでいる衛兵はゴシゴシこすった上に、まだ完全に
重油がとれていない状態だったので日焼けが酷くて、
みんな肌が真っ赤に腫れて痛々しかったそうです。
乗組員の食料であるパンをカゴに入れて配ると、みんなが
ひとつずつ取って、余ったパンは返してきたので、さすが
紳士の国のイギリス人だと思ったそうです。
もし自分だったら、パンが余ればm二つでも三つでも
余分に取るだろうなと思って恥ずかしくなったそうです。
彼らは、途中で出会ったオランダ船に引き渡されたと
本には書いてありました。中には重症を負った人もいて
位の高い人らしく、大勢が心配して周りについていたと
書いてありました。せっかく助かったのに船の上で
力尽きて死んだ人もいたそうです。海の上でも
投げてよこした綱を握ることができず、海の中に
消えていったイギリス兵もいたそうです。オランダ船に
引き渡されたイギリス兵たちは、みんな満面の笑顔で
すごく喜んでいたと書いていました。この時の様子は、
いろんな出来事のひとつとして書かれていて、日本兵たちは
そんなに大変なことをしたとは思ってなかったようですが、
自分たちの飲み水や食べ物をイギリス兵に差し出すのは
結構犠牲が大きい大変なことだったようです。
日本人は、奥ゆかしいから、艦長の工藤俊作も他の日本兵も
そんなに自慢したりしなかったようですね。自分史を書いた
元日本兵も、その時は、艦長が信じられないような命令を
出したので、びっくりしたと書いていました。