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人物探訪: 山下奉文、使命に殉じた将軍
[シンガポール攻略の英雄は、使命に忠実にその後の
悲運の人生を生き抜いた.]
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■1.ヨーロッパのアジア支配を全面的に崩壊させる一撃■
大東亜戦争が始まった昭和16(1941)年12月8日、マレー
半島北端に上陸した日本軍は、抵抗するイギリス軍を蹴散らし
ながら、2ヶ月足らずで1100キロを進撃し、翌昭和17
(1942)年2月15日、ついに英国の東洋支配の根拠地であるシ
ンガポールを攻略した。「大航海時代以来の、ヨーロッパのア
ジア支配を全面的に崩壊させる一撃であった」と評されている。
[1,p20]
英国の歴史家クリストファー・ソーンは著書『太平洋戦争と
は何だったのか』の中で、日本の勝利を眼前にしたインド人将
校や外交官の言葉を紹介している。
日本軍の勝利はアジア人の志気を大いに高めた。武器が
イギリス人の手から日本人とインド人の手に移るとともに、
英知もまたわれわれの手に移った。とくに日本人がイギリ
ス人よりもずっと折り目正しい聡明な態度をとりはじめた
ので、アジア人全体が、イギリス人を低級な人種のように
思い始めた。
ソーンは、イギリス植民地支配の失墜の最大の原因が、「白
人」が面目を失い、打ちのめされたことである、としている。
■2.束の間の成功■
大東亜戦争開戦時の日本はオランダ領東インド(インドネシ
ア)の石油を確保して、自存自衛の体制を確立することを目指
したが、それに立ちはだかっていたのが、イギリス東洋艦隊の
根拠地・シンガポール要塞であった。
海に面した南側は重砲群とトーチカ群に守られ、また北側の
マレー半島は1100キロにおよぶジャングルとゴム林が広が
り、大小250本の河川が流れて、天然の防壁をなしていた。
日本軍は戦車と自転車装備の歩兵部隊に、航空兵力、工兵部
隊による渡河支援、自動車による兵員・物資輸送、舟艇による
海上からの側背攻撃を組み合わせて、この天然の防壁を突破し
たのである。
日本軍の大胆かつ細心の作戦を指導したのが、山下奉文(と
もゆき)陸軍中将だった。山下中将はこの成功によって国民的
英雄になったが、それも束の間の事だった。以後、次々と悲運
が襲ってきた。
■3.「イエスかノウか」■
2月14日、英軍から降伏交渉をしたいとの軍使を迎えた夜
のことを山下は次のように記している。
いよいよ英国軍の降伏となったのですが、実はその前の
晩、恥ずかしい話だが、わたしはもう嬉しさで一杯で寝れ
なかったくらいだった。むかし評判であった乃木大将とス
テッセルの会見の場面を、夜中に何度も思い出したりした。
そして、乃木将軍のように敵将をいたわり、慰めてやろう
と、ひそかに考えていました。軍人として、一生の間にこ
の日をもった自分は、何という幸せ者だろうと、私は涙が
出るほど嬉しかった。[1,p65]
ところが、山下の思惑は見事に外れてしまった。敵将パーシ
バル中将は約束した時間に遅れてきたうえ、緊張のためか落ち
着きがなく、キョロキョロしている。
イギリス側は、日本側が示した12条の一つ一つに対して、
少しでも条件を緩和しようと粘る。日英双方の通訳も拙くて、
なかなか要領を得ない。なぜ潔く降伏しないのか、と山下は苛
立った。腹立ちのあまり怒鳴るような調子で、通訳に対して、
イエスかノウか結論だけを聞けばよろしい、と言った。
しかし、「イエスかノウか」という言葉は痛烈に、イギリス
側の耳朶に響き、交渉は一転して妥結した。
わたしは通訳の言葉に対して、イエスかノウか、結論だ
け聞けばいい、という意味を、その時通訳にいったので、
決して、パーシバル中将にいったのではなかったのです。
ところが、わたしが直接パーシバル中将に、イエスかノウ
か返答を詰め寄ったように新聞、ラジオで宣伝されてしまっ
た。
前夜来、わたしは、精一杯の温情をもって、美しい会見
にしようと思っていたのに、そんな気持は無惨にこわされ、
その上、勝利に思い上がった傲慢な態度であったごとく宣
伝されてしまったことが、今でも私は寝ざめの悪い思いで
いるのです。[1,p67]
英国側が交渉で粘るつもりなら、とことん粘ればよいのに、
山下の一言に勝手に怯えて、妥結してしまったとすれば、その
程度の敵将を相手にしなければならなかった山下の不運という
ほかはない。
そして堂々たる体躯の山下が敵将を一喝する、という作られ
たシーンは、日本国内に報道され、連戦連勝に湧く国民の歓喜
をいやがうえにも盛り上げたのである。
■4.再び表舞台へ■
この降伏交渉からわずか5ヶ月後、山下はシンガポールから
満洲北部、ソ連との国境近くの牡丹江へと転任になった。任地
に直行するよう、大本営は厳命を下した。山下は帰国して天皇
に戦勝を奏上し、マレー戦についてご進講する事を希望して、
その草稿まで準備していたが、それもムダになった。この処置
に、東條英機首相兼陸相の山下に対する警戒心を見る論者は少
なくない。
確かに陸軍大学校を抜群の成績で卒業し、将来の陸軍大臣と
噂されていた山下が、歴史的なマレー戦勝利を掲げて凱旋帰国
すれば、東條を脅かす存在になったろう。現実に昭和20年1
月、近衛文麿は、天皇に対して、戦争終結のために山下を首相
にすべきと奏上している。
山下は満洲という舞台裏で2年間を過ごし、いつしか国民か
ら忘れられていった。しかし、この間にも山下は対ソビエト戦
の準備を怠らなかった。もともと日本陸軍はソ連を仮想敵国と
して準備してきたもので、米英を敵とすべきではない、という
のが山下の考えであった。マレー作戦自体が、山下の志ではな
かったのである。
山下が再び舞台に姿を現すのは、昭和19(1944)年9月、フィ
リピン第14方面軍司令官に任ずる命令が届いた時である。山
下にしてみれば、南方作戦をやらせるなら、そのままシンガポ
ールか、ジャカルタなりに配置しておけばよいものを、と脈絡
のない人事に憤懣やる方のない思いであったろう。
山下は、満洲からフィリピンに向かう途中、東京に立ち寄り、
天皇による親任式を受けることに強くこだわったという。山下
はかつて226事件で反乱を起こした青年将校たちに深く関わ
り、昭和天皇から遠ざけられている、という風聞があった。こ
のままでは死ねないという思いが強かった。
幸い、今回は拝謁を許され、昭和天皇から「帝国の安危は一
に比島(フィリピン)軍の肩にかかっている」と励まされた。
■5.一蹴された持久戦構想■
しかし、フィリピンで待っていたのは、またも悲劇的な状況
だった。日本軍はフィリピン周辺での制空権も制海権も失って
いた。正面から決戦を挑んでも勝ち目はない。
航空機の攻撃を受けにくいルソン島北部の山間部やジャング
ルに強固な陣地を敷いて、アメリカ軍に持久戦を強要し、兵力
を消耗させる。それによって、台湾、沖縄への侵攻を可能な限
り遅らせる。それが当時のフィリピン方面軍にとって唯一、戦
況に貢献できる作戦だ、と山下は判断した。
実際にこの戦法は、翌年春、栗林忠道中将が硫黄島で採用し、
小さな島ながら36日間も米軍を引き留め、米軍に死傷者2万
6千余の打撃を与えている。[a]
しかし、山下の構想は認められなかった。南方総軍は米軍上
陸の予想されるレイテ島での決戦を命じてきた。山下から見れ
ば、狭隘なレイテ島では持久戦は成り立たず、むざむざ兵と資
材を浪費するだけである。山下は意見具申したが、一蹴されて
しまった。
やむなく、ルソン島から第1師団、第26師団をレイテ島に
送ったが、到着する前にほとんどが米潜水艦と爆撃によって海
中に沈められてしまった。海軍も総力をレイテ沖海戦に注ぎ込
んだが、敗北に終わった。
昭和20(1945)年1月1日、山下奉文率いるフィリピン方面
軍は、マニラを放棄し、ルソン島北部の高地バギオに司令部を
移した。
■6.持久戦■
山下軍司令部は、米軍の攻勢にさらされながら、4月半ばま
でバギオで持ちこたえた。そこからフィリピン方面軍は、じり
じりと北方山中へ後退しながらも、米軍との持久戦を戦った。
日本軍の抵抗は凄まじかった。斜面全体に蛸壺を掘り、迫り
来る米軍に反撃を加え、奪われた陣地を、夜間の切り込みで奪
回する。戦車を道路側面に穴を掘って隠し、米軍の戦車の通過
を待って体当たりするという戦法をとった。
山下は全将兵に対して、玉砕をきびしく禁じ、何があっても
生き残るよう命じた。決戦を避けて、一人でも多くのアメリカ
兵をルソン島に貼り付けておくことが、祖国防衛のためにフィ
リピン方面軍がなし得る貢献だった。
物資・食料の輸送もままならず、飢餓に襲われながら、日本
軍は戦った。もはや山下の乗る車もなく、険しい山道を杖をつ
きながら夜陰に紛れて退却した。道路沿いには、マラリアなど
に倒れた兵士や、軍とともに逃れてきた在留邦人たちがうずく
まっていた。
■7.最後の使命■
9月2日、ポツダム宣言を日本政府が受諾してから2週間以
上もたった後、山下は幕僚を連れて、山々に囲まれた町キアン
ガンまで降りてきて、米軍に投降した。シンガポールの南方軍
総司令部から与えられた命令が「停戦」だったことを盾に、無
条件降伏を拒否し、条件付停戦をアメリカ軍に呑ませていた。
翌日、山下はバギオに連行され、降伏調印式に臨んだ。
会場にはマッカーサーの指示で、
かつてシンガポールで降伏した
英軍のパーシバルも参列して
いた。
山下への意図的な侮辱である。
山下はその後、マニラに護送されて、10月9日に戦争犯罪
容疑者として起訴された。フィリピン各地で配下の将兵が起こ
したとされる事件に関する容疑で、山下自身には何の覚えもな
い事ばかりであった。
山下につけられた米人弁護士フランク・リールは、指揮官が
命令もせず、知りもしなかった部下の戦争犯罪について、責任
を問うことは、従来の法理論を覆す悪法になると考えていた。
■8.山下に惹きつけられた米人たち■
リールのアドバイスに従い、山下は積極的な法廷闘争を行っ
た。磨き上げられた拍車付長靴を履き、ありったけの勲章をつ
けて証言台に立った。山下にとっては、一人でも多くの部下を
無事に帰国させ、また祖国の名誉を護るための戦いであった。
降伏調印式や戦犯裁判で屈辱を味わうよりは、ひと思いに自
決してしまった方が、山下個人としては、はるかに楽であった
ろう。しかし、司令官として戦いを収め、一人でも多くの部下
を無事に帰国させることを、山下は自らの最後の使命と考えた
のである。
そんな山下の人柄にリール弁護士は魅せられてしまった。
「私が知る限り、山下を知って、個人的に彼にひきつけられな
かったアメリカ兵は一人もない」
山下の法廷への出入りの警護を受け持っていたケンワーシー
少佐も、リールに対して「法廷がどのようなことを言おうとも、
私は、いつも彼を偉いやつ----本当の紳士だと思っているとい
うことを山下大将に告げてもらいたい」と頼んだという。
山下はその人格で、祖国の名誉を護ったと言える。
■9.「赤ちゃんを大事に立派な日本人になるよう育てゝ欲しい」■
年開けて、昭和21(1946)年1月7日、山下らを収監してい
る既決犯収容所を、フィリピン方面軍のかつての部下たちが訪
れて、草むしりをした。処断されるかつての上官たちの住居の、
せめて周りだけでも見苦しくないようにしたい、という思いで
あった。山下は部下たちに気づき、次のように語ったと伝えら
れている。
閣下が私共の側に歩み寄られて、「ご苦労さん、皆元気
かな」と言葉をかけて下さり、次のことを仰いました。
私は現在米軍の捕虜収容所にいる君達全員が一日も早く
内地へ送還されるのを見届けたいと思っていたが、米軍の
都合はそうは参らぬ様である。君達は恐らく復員したら自
分達が頑張って、焦土と化した日本を復興させるのだと意
気込んでいることゝ思う。そこで私から諸君に言って置き
たいことがある。
それは、君達が内地に上陸した時「お母さんの膝の上で
抱かれてオッパイを飲んでいる赤ちゃんを大事に立派な日
本人になるよう育てゝ欲しい。その赤ちゃんが、きっと将
来日本を復興させてくれると思う。そのこと、しっかりと
頼むよ」と仰言って、かすかな笑みを浮かべてその場を去
られました。[1,p206]
山下は辞世として次の3首を詠んでいる。
野山わけ集むる兵士十余万かへりてなれよ国の柱と
今日もまた大地踏みしめかへりゆく我がつはものの姿たの
もし
待てしばしいさを残して逝きし戦友(とも)あとをしたひて
われもゆきなむ
昭和21(1946)年2月23日午前3時、マンゴーの樹の下に
設けられた絞首台の前に山下は立たされた。黒い袋を頭にかけ
られる際に、「皇室の弥栄(いやさか)を祈り奉る」とつぶや
いた。煌々たるライトの下、山下は13階段を昇っていった。
(文責:伊勢雅臣)