中国とはなにか(2)――国際社会での中国の異質性とは (古森義久) | 日本のお姉さん

中国とはなにか(2)――国際社会での中国の異質性とは (古森義久)

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▼中国とはなにか(2)――国際社会での中国の異質性とは (古森義久)産経新聞ワシントン駐在編集特別委員・論説委員
中国について雑誌『諸君!』7月号に私が書いた論文の続きを紹介します。ドイツでの講演が出発点ですが、今回の紹介部分では国際社会における中国の異質性という点に焦点をしぼっています。
特集 ● 全世界「反中クライマックス」
日本よ、胡錦濤の殺戮にまだ手を貸すのか

・チベット、ウイグルの悲劇は決して他人事ではない。偽りの笑顔の裏側にある野望を直視せよ :櫻井よしこ(ジャーナリスト)

・現地報告EU諸国の「北京五輪ブーイング」鳴りやまず。傍若無人に世界を呑みこむ中国パワー。欧州でもついに「脅威論」の火の手があがった。:古森義久(ジャーナリスト)

中国人の歪んだ“愛国心”は、小心翼々の裏返しだ。中国の真の恐ろしさは軍事力でも経済力でもない。真に警戒すべきはその「弱さ」なのだ。
:鳥居 民(近現代史研究家) 徳川家広(翻訳家)

・レッテル貼りとご都合主義に明け暮れる中国の台湾工作 〈集中連載〉中国・国家情報戦略の変容(2)力関係の変化で、宿敵・国民党への評価すら平気で翻す。かれらの情報工作に原則などない。 :上村幸治(獨協大学教授)

では以下が古森論文の紹介その2です。
中国の外交や経済でのこうした動きを眺めると、この新興の大国はこのまま国際社会にますます深く参入し、国際秩序を現状のまま保持し、発展させる方向へと進んでいくかにもみえる。欧米諸国や日本と共通のルールで、さらにはひょっとしたら共通の価値観で、世界の安定や繁栄、平和の維持に努めていくようにもみえる。少なくとも中国当局は自国のパワーの拡大を「平和的発展」と呼び、国際協調こそ自国の対外的な目標だと言明している。だがその一方、中国の動向には不明な部分も多い。対外戦略の基本的な意図がまずわからない。共産党独裁態勢では、そもそも政策決定のプロセスが不透明である。政策決定の結果さえ秘密にされることが多い。政策決定の帰趨として実際にとられた行動さえも不明である。要するに国家の根幹の超重要な部分に秘密が多いのだ。だから中国がこんご長期にわたり、国際社会の現行の秩序や指針をそのまま受け入れ、それらの堅持に努めるのかどうかは、表面の動きだけではわからない。中国はひょっとしたらいまの国際秩序には不満足なのではないか。総合的な国力が本当に強大となったとき、世界の既存の枠組みを打破して、自国にとってもっと有利で、もっと便利な秩序を築くことを試みるのではないか。中国はそもそも外部世界に接し、その外部世界に進出して、関与を深めていく動きの根幹に、他の主要諸国とは違う異質性があるのではないか。

このへんの疑念や懸念こそが前述のドリフテ教授が指摘したように、欧州各国で「中国をグローバルな脅威とみるか」というような世論調査を実施させる土壌となるのだろう。そして「中国に対して日本とドイツが手を取りあって」という警戒の姿勢をも生むのだろう。中国は国内体制だけをみれば、そもそも民主主義が規範となる欧米、日本などの国際社会の一般とは完全に異質である。共産党の独裁やその結果としての個人の権利の抑圧は、二十一世紀の世界ではとくに条件をつけずに異質と呼んでよいだろう。

だがその従来からの国内体制に象徴される国家としての異質性は中国が経済面での「改革・開放」をとくに一九九二年の鄧小平氏の「南巡講話」以降に本格化させ、二十一世紀に入ってから対外的にも経済成長最重視と対米協調路線を江沢民政権下で推進するにつれ、かなりの程度、薄れてみえてきた。中国も国際社会の枠組みやパラダイムに対しては欧米諸国など現代世界の多数派と共通の基盤の保持に努めていこうとするようにみえてきたのだ。国際社会における異質ではなく均質の印象である。中国から受けるそうした印象は、二十一世紀に入ってから国際的に、じわじわと広まったといえよう。国内体制がいかに国際的規範とは異質であっても、対外行動では他の諸国との均質を保つことは、理論的には可能である。中国の北京オリンピック主催も、その均質の印象の拡大の成果であろう。

ところがいまや中国がグローバルな活動の輪を広げるにつれ、その本来の異質性が対外的にも影を広げ始めたといえそうなのだ。「影」という表現ではおさまらない顕在化した異質性もが国際社会に向けて投射され始めたようでもある。国際的な文脈での中国の異質性というとき、そこには少なくとも二つの側面があるといえよう。一つは中国の国内の異質性が国外に直接はぶつけられないにしても国際社会に痛烈に感知されるという側面である。そしてもう一つは中国の国外での実際の行動が明らかに異質だという側面である。いずれの場合も、中国の異質性の印象が影と光と両様の形で国際社会に広がっていく結果となる。私がドイツのカールスルーエでの会議で感じたのも明らかにそうした影であり、フランクフルト空港で目撃したことも中国という異質国家が自国民に投影する、形を変えながらも同根の影、あるいはごく小さな規模ながらも、より明白なではないか、と感じたのだった。(つづく)
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▼被災地からもどってきて①学者の良心、記者の良心 (福島香織)
■四川大地震現場からきのう戻ってきました。朝の飛行機が、北京の雷雨のせいでとばず、午後の飛行機になったり、今朝になっていきなり6月末に、マンションから出て行け(五輪期間中は別の客に貸す契約をすでにしたので)といわれて、押し問答したりして、地震現場とは種類の違う忙しさにおわれています。
■しかし、今回の大地震は中国にとって世紀の大災害、価値観のひっくりかえる大事件だと思うので、やはりしばらくは地震関連のエントリーを続けていきたいと思います。(もちろん、チベット問題も忘れたわけではありません)

■学者の良心、濱田政則・早稲田大学教授の話 <地震学は被災地に役立つか?>

■被災地現地取材中、日本の地震工学学会次期会長で元土木学会会長の濱田政則・早稲田大学教授にお話をうかがう機会があった。5月28日から6月1日にかけて濱田教授を団長に日本の土木、地震工学、地震学、建築学、地盤など5学会の専門家チームが被災地を訪れ、復旧、復興にむけた技術支援を行いたいと、四川省の専門家らとともに現地を視察、意見・情報交換をして、31日にシンポジウムを開いたのだが、それを取材にいったのだった。
■日本は阪神大震災を経験して以降、復旧・復興、そして防災技術、知見については蓄積がある。それをぜひ現地に提供したい、として、濱田教授らはいちはやく、四川大地震復旧技術支援連絡会議というのを設立した。日本の地震・土木学者が震災直後にこういったアクションを起こすのは初めてだそうだ。

■とりあえず、濱田教授が直接交流のある西南交通大学がカウンターパートになって今回のシンポジウムは行われたが、将来的には、日中の研究者の英知を結集して、四川大地震の復旧に貢献できるような形に発展できないか、中国政府や四川省政府がつくる復興委員会にアドバイザーとして関われないか、と模索中という。

■このとき、濱田教授のことばに考えさせられた。文言どおりではないが、だいたい以下の意味のことをおっしゃった。

「私は、イランの大地震のときも、インドネシアの津波災害のときも、災害発生のほとんどすぐ後に現場にいきました。そして現場を見るたびに心を痛める。人類は何度も大災害を経験してきているのに、どうして被害が防げないのか。いったい研究者は何を研究してきているのか。研究してきたことが、被災者を救うことにつながっていないなら、研究は何のためにあるのか」

■「研究者は災害発生後、調査と称して現場にいって、壊れた家屋の写真をぱちぱちとって、帰って論文を書く。しかし、それを被災者の人たちはどういう思いでみるか。そんな調査や研究で被災地を救えない。だから、今回私は、研究者らに、くだらない調査より先に、技術者として被災地を救うことをやろう、とよびかけた」。で、四川大地震復旧技術支援連絡会議の設立、というわけだ。

■濱田教授のおっしゃったことは、研究者、技術者の良心に問いかける言葉だったと思う。今回の四川大地震は世紀の大災害の現場、地震学者らにとっては、最高の研究材料であり、学者なら誰もが調査に飛んでいきたい、というのが本音だろう。しかし、研究とは何のための研究か。論文を書いて学者としての名を高めるのが研究の目的なのか、そのあたりを考えねばならない、ということだ。

■そして、同じことが、記者にも言える。何十年かに一度の現場、被災地に一番のりしたい。雑誌の見開き頁をかざる、あるいは新聞の一面をかざる衝撃的な世紀の写真を撮ったり、ルポを書きたい。というのは記者として、当たり前の欲望だろう。だが、何のための報道か、ということを改めて問えば、災害報道ほど目的がはっきりしているものはない。人の命を救うこと、被災者の助けになること、だ。この目的にかなわない災害報道はあってはならない。たとえば、救助の妨げになる報道など。

阪神大震災のとき。取材ヘリの音が、瓦礫の下の助けを呼ぶ声をかき消す問題があった。取材にいって「何をしにきた」「取材よりボランティアしろ」と怒鳴られた経験は私だけではないだろう。地震の恐怖を子供に繰り返し言わせて泣かせるインタビュアーだとかの問題もあった。阪神大震災の数年後、ふと気づくと何人かの知っている記者が記者家業をやめていた。その理由に、命を救う手助けもせずに、救われない命の取材をしなければならなかったことへの自責を言う人もいた。

■阪神大震災のとき私は大阪本社文化部所属で、地震発生当初の興奮状態の取材より、その後のマンション復興のプロセスや、孤独死の問題、心のケアの問題など長期的な定点観測取材の時期が長かった。だから当初、「何しにきた」と胸ぐらをつかんで怒っていた被災者も、あとになると、記者の取材の訪問をむしろ心待ちにするようになって、結構なかよくなった。みんな、時間がたつと、メディアが関心を失い、あまり報道されなくなって、世間から置き去りにされることを恐れるようになって、「あんたは、いつまでも来てくれる」などといってもらった。だから、私はやめた記者のように震災取材が心の傷にならなかったのだと思う。

■きょう、阪神大震災遺児らのケアハウス「神戸レインボーハウス」の岡崎祐吉さんから連絡をいただいて、私が記事で紹介した成都医学院の陳孜さんと震災遺児(といってももう大学生くらいにはなっているが)と、陳さんのところでケアを受けている子供たちが交流できないか模索している、ということであった。陳さんとすでに連絡を取り合っているそうで、7月にはそういう交流が可能になるかもしれない、という。「成都にレインボーハウスをつくりたい」ともいう。

■この話をきいて、7月か、取材したいけれど、ほとんどの日本メディアは現場から撤収しているだろうなあ、すでにメディアの関心は五輪にうつってしまって被災地のニュースはバリューが低下しているだろうなあ、と思う自分がいた。日本で発生した震災と違い、所詮外国でおきたよその国のできごとであり、日本の読者も忘れるのは早いだろう。でも、本当はそこにはまだ、傷の癒えぬ人があり、瓦礫の街がのこっている。

■濱田教授らが、学者や技術者の良心に従い、目的が調査や研究ではなく、被災地を救うことだ、と思ってアクションを起こした。なら、私も記者としての良心に従うべきだろう。外国の災害の長期的な復興の話など、ニュース価値としては低いし、派手な記事にはならないかもしれないが、記事を書くことが目的なのではなくて、記事によって少しでも被災地の助けになることが目的なのだ、という災害報道の基本に立ち返って、今後も被災地の状況をフォローしていきたい、とがらにもなく殊勝なことを思ったのだった。